使徒信条(1)‐父なる神を信じる

詩編89編27〜30節 (旧927頁) ヨハネによる福音書20章17節 (新209頁) 前置き 信仰者は「神を信じ仰ぐ者」です。他宗教者も「誰かを信じる」という心で宗教生活をしているでしょうが、キリスト教の「信仰」はそれとは少し異なります。他宗教の信仰が「自分自身が信じるという意志を決めて誰かを信じる。」ことであれば、キリスト教の信仰は「御父の計画、御子の救い、聖霊の働きによって、人に信仰が与えられ、その三位一体のお導きによって神を信じる。」ということになります。つまり、他宗教とキリスト教の信仰の違いは「その信仰の主体が誰なのか?」にあります。言うまでもなく、キリスト教における信仰の主体は三位一体なる神です。「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であるとは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3) 私たちはあたかも自分が教会に来て、自分の意志で神を信じるようになったと考えがちですが、聖書は明らかに信仰は、聖霊(神)によって私たちに与えられたと語っています。そして、教会は歴史的に、その神への信仰について非常に大事に考えてきました。そのように、各地の古代の教会が神への共通した信仰を告白し、それが整えられつつ生まれたのが「信仰告白」なのです。今日はその信仰告白の中でも最も有名で一般的な信条である「使徒信条」について話してみましょう。 1. 使徒信条に関する知識 私たちは、ほぼ毎週の礼拝の時に「使徒信条」によって信仰を告白します。使徒信条は、私たちの信仰の対象についての告白なので、非常に重要な教会の伝統だと言えます。ところで、教会のもう一つの伝統である「主の祈り」は、新約聖書にも記されており、イエスご自身が教えてくださった祈りなので、当たり前に大事に扱うべきでしょうが、使徒信条は聖書にも記されてもいないのに、なぜ、私たちは使徒信条を大事に告白しているのでしょうか? その理由は「イエスに直接教えられた使徒たちの信仰を継承した告白」だからです。イエスが12弟子を召し出された理由は、主の福音を、この世に宣べ伝え、主の教会を建てていく指導者を養われるためでした。使徒信条と書いてあるので、使徒たちが自分で作ったという説もありますが、現代の学者たちは、そんな可能性は低いと推測しています。でも、こういう伝説的な物語が伝わっていますので、聞いてみましょう。「ある日、各地で情熱に伝道していたイエスの弟子たち(12使徒)が一ヶ所に集まった。使徒たちは、教会が信じ、伝えるべき神はどのような方なのか、互いに語り合った。その時、12使徒が神について一言ずつ告白して語り、それらを集めると立派な信仰告白が出来た。それで、人々は、それを使徒たちが告白したと言い、使徒信条と呼ばれるようになった。」 本当に素晴らしい物語だと思いますが、実際に使徒信条は、このように作られたわけではありません。初代教会当時には、数多くのカルトや異端が生まれましたが、彼らの偽った教えを拒否し、使徒から継承した三位一体なる神への正しい信仰を共有し、公に告白するために使徒信条が生まれたのです。使徒信条は、主イエスが使徒たちに教えてくださった、聖書の御言葉に基づいて書かれ、古代の教会によって公に認められたものです。キリスト教では使徒信条の他にも、いくつかの信条があります。信条とは、ラテン語の「私は信じる」を意味するCREDOという言葉に由来し、自分が誰を信じるのかを人前で公に告白する信念を意味します。したがって、私たちは使徒信条を通して、イエスご自身に教えられ、その意志を受け継いだ使徒の信仰を継承し、その信仰の対象である三位一体なる神への信仰を公に告白するのです。使徒信条の他にも、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を始め、カルケドン信条、アタナシウス信条、エフェソ信条、その他に多くの信条があり、三位一体またはイエスの神聖を告白します。そして、近くには日本キリスト教会の信仰告白もあります。私たちは主に召される終わりの日まで、使徒信条によって、私たちが誰を信じているのかを告白します。今まで習慣的に使徒信条を唱えてきたなら、これからは、その意味を吟味しつつ自分の信仰として告白していきたいと思います。 2. 全能な創造主 使徒信条はまず、全能の創造主なる神について告白します。「わたしは天地の造り全能の父なる神を信じます。」聖書の一番最初の言葉に当たる創世記1章1節には、こう書いてあります。「初めに、神は天地を創造された。」聖書の一番最初の言葉に創造についての内容が出てくる理由は、この世界の根源と支配権について説明するためです。この世の学問は、世界が偶然の宇宙的な爆発(ビッグバン)によって作られたと主張します。宇宙も、太陽も、月も、星も、地球も、動物も、植物も、人間までも、偶然の宇宙的な出来事によって生まれたということです。そのため、この世は万物の霊長である人間が世界の支配者だと大げさに言います。人間は自力でこの世界を開拓し支配する存在だと言うのです。しかし、聖書ははっきり語ります。「神こそがこの世界の主である」この世のすべてのものの源は神であり、その神こそ全能な方であり、この世界の統治者であると言うのです。創造は、ただ作って放っておくことを意味するものではありません。無から有を創り上げることから始め、無秩序に秩序を与えて被造物が生きられるように治めること、この世の救いと裁きの権能を持った絶対者が、この世界を導くこと。それがまさに創造の持つ意味なのです。したがって、創造主という言葉は唯一無二の絶対者という意味でもあります。 全能という言葉は文字的には「全てが可能である」という意味になりますが、神の全能については、すべてが可能であるという意味とは違います。実は神にもできないことがあります。例えば、神はご自分の力を超える被造物を創ることができません。神は嘘をつくことができません。神は悔い改めない悪人を救うことができません。神は罪を犯すことができません。神はまた別の神を求めることができません。等々、神の全能は、私たちが考える「何でも秩序を無視して全てが可能である。」という意味ではありません。それでは、神の全能とはどういう意味でしょうか? それは主なる神ご自身が造られた創造の秩序に逆らわない範囲で、主がご計画なさった、すべての善い計画を差支えなく、成し遂げていかれるという意味です。力ある者が自分の力をコントロールすることこそ真の力なのです。神は創造の時にご自分が造られた世界の秩序を尊重し、その中で被造物を導き、何よりも創世記で約束された罪人の救いを、主イエス·キリストを通して、間違いなく成し遂げていかれるでしょう。主なる神が、ご計画なさった善い計画を必ず成し遂げていかれること、その計画の中にある私たちの救い、罪人の救い、この世の救いは、全能なる神の御業によって必ず成就するでしょう。私たちはこの全能なる神を主として信じます。 3. 父なる神 使徒信条は、この「全能なる創造主」が私たちの父であると語ります。父の一般的なイメージは、私たちを生んだ存在、養う存在、守る存在と言えるでしょう。しかし、すべての人がそう思うわけではないでしょう。誰かには立派な父がいるかもしれませんが、別の誰かにとっては、父は家庭を破壊する存在であるかもしれません。また、誰かにとっては、あまりにも早く亡くなってしまい、親しく感じられないかもしれません。また、誰かにとっては、父が一生の重荷のような存在であるかもしれません。しかし、聖書が語る父なる神という存在は、造り、守り、導き、救いの主体となる完全で善良なイメージの方です。だから、私たちは父なる神に肉体の父のイメージを投影してはなりません。この完全で善良な父なる神は、被造物と徹底的に区別される存在です。神には罪も、弱さも、足りなさもありません。このような欠点のない神が欠点だらけの人間の父になるというのはありえないことです。 しかし、新約聖書のヨハネによる福音書は、こう述べています。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(ヨハネ福音20:17) この父なる神は、もともと私たちの実の父ではありません。もちろん、私たちに命を与え、生まれさせてくださった方は、確かに神ですが、罪によって神を父と呼べないのが、みじめな人間のありさまです。しかし、この父なる神の独り子であるイエス·キリストが私たちを呼び出され、ご自分の命を身代金とし、私たちを神の子に変えてくださいました。だから、父なる神は、「イエスの父である神」を意味する言葉です。しかし、私たちはイエスの償いによって、私たちもイエスのように、神を父だと呼ぶことができるようになりました。ヘブライ語の旧約聖書には父という単語が1200回余り出てきます。しかし、神を父として描いたケースは、たった15回しかありません。イエスは、その神を私たちの父であると宣言してくださいました。私たちと徹底的に区別された全能の造り主、父なる神、その神がキリストによって私たちの父になってくださったのです。 締め括り 私たちは、この全能の創造主、父なる神を信じています。これは聖書の御言葉に基づいた変わらない真理です。人には、この世に自分一人だけ残されたかように感じられる時があります。家族がおり、友達がいるにもかかわらず、根源的な孤独を感じるということです。しかし、その度に私たちは自分を創造して生まれさせてくださった父なる神がおられることを憶え、自分は一人ではないという信仰で生きていくべきです。詩編には、このような言葉があります。「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩と。わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える。」(詩篇89:27-30) この言葉はダビデ王にくださった主からの言葉ですが、今の新約教会にも有効な言葉だと思います。私たちはこの父なる神を信じています。使徒信条は、この父なる神が私たちの父であると告白しているのです。

混乱の時

ヨシュア記1章6〜8節 (旧340頁) ヨハネによる福音書14章26節〜27節 (新197頁) 前置き 私たちの人生が毎日幸せと喜びであれば最も良いでしょうが、事実、この世での人生には喜びよりは悲しみの方が多いかもしれません。人々の一般的な人生を考えてみると、物心つく頃は祖父母が亡くなります。結婚して子供が育ち、いよいよ大人になったなと思ったら親が亡くなります。その間に知人や友人が先に亡くなる場合もあり、不幸な場合は、まだ若い両親や配偶者、子供が先に亡くなることもあります。そして、最終的には自分も亡くなることになります。悲しみの基準を死にした理由は、人生の最も悲しい経験が身近な人の死だと思うからです。そして一生をかけて、その死の間に数多くの辛いことがクモの巣のように絡み合っているからです。大変で辛い出来事の間にほんの少しの喜び(結婚、出生、成功など)がありますが、もしかしたら、人生の多くの部分は悲しみと苦しみに占められているかもしれません。そんな私たち人間は必然的に混乱と苦しみを経験しながら生きていきます。 1. 混乱の中を生きる人生 「全世界の上位1%の金持ちの財産が、残りの99%より2倍多い」というタイトルの記事を読んだことがあります。「少なくとも17億人の労働者が物価が賃金を超える地域に住んでおり、全世界の人口1割に近い約8億2千万人は飢餓の状態である。」という文章が特に記憶に残ります。この記事は世界の経済的な不条理を告発する記事でした。また、2022年に起きたウクライナ・ロシア戦争は、100万人以上の死者が出ました。イスラエルとイスラム諸国の紛争も数十年にわたって続いてきています。これらの戦争により、今でも大勢の命が失われつつあります。比較的に平和な日本に住んでいる私たちは、ニュースを通じてこのような悲惨な事実に接してはいますが、その悲惨さを直接に経験するわけではないので、気の毒だと一言を言うだけで終わるのがほとんどです。この世界は私たちの思い以上に混乱であるのです。私たちに直接的な被害はありませんが、明らかに世界は混乱の中にあるのです。 飢餓や戦争の混乱の中にいる人々よりは増しかもしれませんが、私たちにも混乱の時があります。家族が重病にかかったり、近所の人が事故に遭ったり、友人が苦境に立たされたり、自分自身にも思わぬ不幸がやってきたりするなど、私たちも日常において混乱を経験し、心配事を抱えることがあり得るでしょう。人生の代表的な幸せの一つである結婚も、今後どうすれば家族を無事に守れるだろうかとの新しい悩みが生まれ、子供が生まれるのは嬉しいが、子供の健康、将来などへの新しい心配が生まれます。信仰においても同じです。初めて主に出会って信仰者となった時は、この上なく幸せだったんですが、その後、信仰への悩み、教会維持への悩み、牧師の不在への悩み、予算への悩み、数多くの悩みに囲まれて生きるようになるでしょう。私たちの人生の一歩一歩が、このように悩みと心配という混乱に満たされていくのです。イエスの時代も同様だったと思います。祖国イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、イスラエルのあちこちで反乱が起こりました。しかし、指導者たちは民の安定より、自分の富と権勢と名誉にもっと関心を持っていました。こんな時代にイエスの弟子たちも辛かったでしょう。社会は混乱であり、すべてを捨てて主に従ったのに、主イエスはまもなくご自分が十字架で亡くなると言われ、何一つ平和で安定したもののない思い煩いの多い人生だったでしょう。 2. 主が与える平和。 しかし、このような混乱の世界を生きる弟子たちに主イエスは言われました。「弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音14章26~27節) ヨハネによる福音書14章は、イエスの遺言のような言葉です。13章で弟子たちと最後の晩餐を分かち合われたイエスは、弟子たち全員の足を洗ってくださいました。裏切者のユダは、このイエスを売るために食事の席を離れました。イエスはまもなくローマの兵隊に逮捕され、苦しみを受けて亡くなられるでしょう。先日からご自分が死ぬことになると言われたイエスの普段と違う行動に弟子たちは尋常でない雰囲気を感じ、さらに不安になったでしょう。もしかしたら、その夜はイエスと弟子たちが出会って以来、最も混乱した時間だったかもしれません。しかし、イエスは決然と言われました。「父から助け主なる聖霊が来られる。あの方があなたたちの人生を導いてくださる。だから、あなたたちは心を騒がせ怯えるな。わたしの平和を与える。わたしの平和は、この世の平和のように揺らぎやすいものではない。」 世界は混乱に満ちています。また、私たちの人生にも混乱があります。しかし、主は言われます。「世の中にはない真の平和をあなたに与える。だから不安に囲まれずに、聖霊の導きにあって、わたしに信頼して生きなさい。」罪によって乱れたこの世は不完全による混乱の世界です。こんな世界において、お金でも、権力でも、名誉でも真の平和を買うことはできません。自ら、自分が平和だとマインドコントロールしても、本当の平和にはなりません。だから、この世が言う平和、自分が作る平和は、偽りの平和なのです。しかし、主が与えてくださる平和は違います。真の平和の持ち主である主がくださる平和、混乱と不安があっても、その中でさえ輝く平和、主なる神が生きておられる限り、絶対に変わらない完全な平和です。その平和はイエスの約束によって私たちに与えられる保証された平和です。不完全な世界を生きる私たちは、しばしば混乱と苦しみと不安を経験しやすい存在です。その度、思い煩いに囲まれて悩むが、それでも混乱と苦しみと不安は簡単に立ち去りません。しかし、私たちは主の約束を信じなければなりません。まだ、起きていない未来の心配をやめて、平和の主が約束された真の平和を思い起こさなければなりません。 3. 主の御言葉を基準にする。 そんな人生を生きるためには、御言葉を私たちの人生の基準にしなければなりません。今日の旧約本文をお読みします。「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨホスア1:6∼8)長い間エジプトの奴隷だったイスラエルは、モーセを用いられた主なる神のお導きにより、無事に脱出しました。しかし、彼らの不信心のため、すぐに乳と蜜の流れるカナンの地に入ることはできず、40年間荒れ野をさまようことになりました。モーセは40年間、彼らの指導者としてイスラエルの民と苦楽を共にしました。そして、ついに主なる神の許可をいただき、イスラエルはカナンに入ることになります。しかし、主は指導者モーセをカナンに入る直前に召されました。そして、その代わりにヨシュアをイスラエルの新しい指導者として立ててくださいました。40 年間、モーセの指導を受けてきたヨシュアとイスラエルは驚き混乱していたでしょう。一寸先も見えない真っ暗な状況に非常に戸惑っていたはずです。 今日の本文は、そんなイスラエル民族にくださった主なる神の御言葉です。それは3つに約めて考えることが出来ます。一、強く雄々しくあれ。 二、神の約束に信頼せよ。 三、神の御言葉に従って生きよ。モーセという柱のような指導者が亡くなったにもかかわらず、彼らには変わりなく主なる神が共に歩んでおられるので、その主のお導きに信頼して混乱に陥らずに、たくましく生きていけということでした。そして、この言葉は現在を生きるキリスト者にも大きな意味を示していると思います。どうせ、私たちが生きる、この世は罪によって歪んでいる世界です。主イエスが再臨され、終わりの日が来て、新しい世界にならない限り、人間は、仕方なく、この罪だらけの世を生きていかなければなりません。というのは、混乱と苦しみと悲しみは、世界が終わるまで常に人類を追いかけてくるということです。重要なのは、この混乱と苦しみと悲しみの世界を生きる私たちを、主なる神が選び救われ、今でも私たちと共に歩んでおられるということです。こんな私たちに向かって主は「強く雄々しくあれ。 神の約束に信頼せよ。神の御言葉に従って生きよ。」と語っておられるのです。世の混乱は依然として存在しますが、私たちにはその混乱した世を支配しておられる唯一の神が休まずたゆまず共におられます。それこそが私たちにとって人生の基準になるのです。移り変わりのない主、揺るがな主、永遠に共におられる主、その主なる神の御言葉こそが私たちの人生の基準であるのです。 締め括り 私は2012年に伝道師として働きはじめて以来、一瞬も気楽だったことがありません。いや、もしかしたら回心した瞬間から、未信者なら、しなくても構わない、心配と悩みを抱えて生きてきたかもしれません。しかし、心の中には根源的な平和があります。その理由は混乱したこの人生は短いものであり、そして、この人生の道をいつも共に歩んでくださる主との時間は永遠であることを知っているからです。どんなに難しいことが迫ってきても、戸惑うより主を拠り所とし「強く雄々しくおり、主の約束に信頼し、その方の御言葉に従って生きる」私たちであることを願います。混乱の中でも主なる神は変わらずに私たちと共におられるます。そして、私たちを応援してくださいます。私たちが主に信頼して生き、人生の終わりの日に主の御前に立つ時、主なる神は混乱の中でも忍耐しつつ生きてきた私たちに「よくやった。 私の子よ。」と褒めてくださるでしょう。そんな主の御言葉を基準にして混乱の世を克服して生きていきたいです。そのような志免教会でありますよう祈り願います。

イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが公生涯を始められた時、イスラエルは霊的な無秩序の時代を過ごしていました。ローマ帝国の行政的な支配とユダヤ教の宗教的な儀式はありましたが、現実は弱肉強食の社会で、正義が守られず、不義がはびこる霊的な無秩序の時代だったのです。そんな無秩序の時代に来られた主イエスはご自身が直接民に仕え、愛されることによって、倒れた霊的な秩序を立て直してくださいました。「神と隣人を愛しなさい。」という律法の御言葉が、その秩序の根源となるのです。主イエスは十字架での死を覚悟されてまで、この秩序を回復させるために闘われたのです。そのイエスの御心は主の体であるこんにちの教会にも継承され、主イエスにならった生き方を要求しています。 1.皆に嫌われた徴税人マタイ 貧しいイスラエルの人々を助けてくださるために旅路に就かれたイエスは、ガリラヤ湖のある地域に着かれました。その時、一人の男がイエスの目につきました。「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14) イエスに声かけられた男は徴税人のレビという人でした。新約聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイがいますが、このレビは誰でしょうか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9) マタイによる福音書によると、このレビという人が使徒マタイであることが分かります。主はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちに加え、徴税人のマタイをもご自分の弟子に呼ばれるためにその町に行かれたわけです。ところで、このレビつまりマタイは、なぜそこにいたのでしょうか? ガリラヤの漁師から税金を取り立てるためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争のために莫大な予算が必要でした。そのため、ローマの総督たちは植民地の権力者から前払いで税金を取り上げました。その代わりに彼らに徴税権を与えたのです。それはイスラエルにおいても同様でした。先に話しましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が破れていたので、ローマ帝国に強制的に税金を払わせられた権力者たちは、ローマからの徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが納めた税金より、さらに高い税金を貧しい人々から取り立てたわけです。旧約聖書が強調していた隣人愛が完全に破れていたのです。今日の本文に出てくるイスラエルの徴税人は、そのような権力者のもとで働いていました。彼らは割当量を達成するため、同胞から重い税金を納め、イスラエルお人々は彼らをローマ帝国のため、同胞を苦しめる売国奴のように考えました。だから、当時のイスラエル人は、この徴税人を遊女や泥棒のように「地の人」つまり、神の民ではない者と見なしていたのです。 2.マタイを訪れてくださったイエス。 ところで、マタイは徴税人の仕事に懐疑を抱いていたようです。主がマタイに声かけられた時、ただちに従ってきたからです。当時の徴税人は熱心に徴税すれば、同胞に疎外され、いい加減に徴税すれば、権力者にいじめられる立場でした。けれども、お金を横取りすることができ、豊かになりやすい仕事だったのです。しかし、徴税人マタイはそんなに幸せではなかったようです。明治時代に、こんな出来事がありました。、明治23年に制定された教育勅語が東京第一高等中学校で朗読された時、全員は腰を低めて最敬礼をしました。しかし、教師だった内村鑑三は最敬礼をせずに頭を下げるだけでした。彼はキリスト者だったので、神格化した天皇に最敬礼しなかったわけです。(不敬事件)しかし、当時の官憲は、それによってキリスト教全体を疑うことになりました。そのため、日本の教会は国と民族から疎外されないために自ら慎み、国に協力し、結局は屈してしまいました。国と民族からの疎外が恐ろしかったからです。マタイは民族からの疎外と権力者からの要求の間でさまよい続ける孤独な人でした。 イエスは、そんな彼をあたりかまわず招かれました。「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」民族からの疎外と権力者の要求の間でさまよっていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主に従いはじめました。14節で「従う」のギリシャ語「アコルルデオ」は、「後についていく」という物理的な意味だけではありません。「共にある」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が一つになった言葉です。つまり、「イエス・キリストの道あるいは方向に共に歩むこと」という、より深い意味の言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力者の要求の間で迷っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道に招いてくださいました。当時、一番嫌われる存在、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人と呼ばれていたマタイに、天から来られた神の子イエスがお手を差し伸べてくださったのです。そして、皆に嫌われる彼をご自分の民として受け入れてくださいました。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事をもてなしました。主は決して善良な人や貧しい人たちだけを救われる方ではありません。罪人、裏切り者、不正な者、売春する者、盗人など、どんなに悪人だといっても、彼らが神に真心をこめた悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、喜んで受け入れてくださいます。そして、彼らと同席され、共にいてくださいます。イエスが同席して一緒に食事をしてくださるというのは、相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように認めてくださるという意味です。これは、イエスによって、私たちに示された御父の暖かい御旨なのです。ところで、このように罪人を招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者だったのです。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、権力もある者たちが、罪人と一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自らが「天の民」であり、神を知っていると高ぶっていました。しかし、彼らは真の神であるイエスを目の前にしても、主を見知ることが出来なかったのです。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らにご自分が来られた理由を明らかに教えてくださいました。「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスの価値観は、罪人への裁きではありません。主は罪人を裁きから救ってくださるために来られたのです。罪人への救いこそが本当のイエスの価値観です。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人でも、真の悔い改めと信仰さえあれば、主は誰でもお赦しくださり、お招きくださる方です。むしろ、今日、登場した宗教指導者たちのように、神を知ると言いながらも、自分の信仰的なこだわりに閉じこもって、他人をやたらに判断する者こそ、イエスに裁かれるでしょう。私たちが追い求めるべき価値観は何でしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、傲慢と判断の宗教指導者たちの価値観。神は私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、どっちを選ぶだろうかと見下ろしておられるでしょう。 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の歩みを見下ろしておられます。終わりの日、御前に立つ時、神は私たち人生について、ことごとくお問い掛けになるでしょう。だからこそ、私たちの生き方はイエスに従うべきです。イエスこそ、父なる神に認められる唯一の正しい人だからです。そして、主イエスの生き方こそ、私たちの価値観になるべきです。イエスは愛によって、罪人を赦してくださいました。主の体である私たち、志免教会もお互いに赦しあい、隣人を差別せず、主イエスの愛にならっていくべきではないでしょうか。

永遠の命を語る。

詩編14編1~7節(旧844頁) ヨハネによる福音書17章1~5節(新202頁) 前置き 永遠の命とは何でしょうか? 私たちは永遠の命という言葉を耳にするとき、死なずに長く生きることだと考えがちです。永遠に生きるって、いかに素晴らしいことでしょう。愛する家族との別れもなく、焦りもなく、何事においても楽天的でゆったりと世の中を眺め、死への恐れもないでしょう。しかし、現実、人間には長くても100年前後という限られた時間が与えられています。だから、老いていくのが悲しく、死を恐れることになるのでしょう。そのような人間の思い煩いに対して、聖書は永遠の命を語るから、とても魅力的でしょう。そんな理由のため、キリスト者になった人もいるはずです。しかし、聖書が語る永遠の命は、そう簡単なものではありません。聖書においての永遠の概念は、ただ長い時間を意味しないからです。今日は聖書が語る永遠の命について考えてみましょう。 1.「永遠の命と天国」 永遠の命といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天国」のような来世のことではないかと思います。死後、主の救いによって永遠の命を得ていくところが、天国という概念で、すでにキリスト者の世界観に深くすえてあります。そういう意味として、多くのキリスト者は天国に行くために信仰生活をしているのかもしれません。それだけでなく、イスラムや仏教系の宗教にも天国(極楽)の概念があり、世の中のほとんどの宗教が、このような来世観から自由ではないかもしれません。あらゆる宗教を問わず、人間が天国あるいは極楽に行くことを希望するのは、人間に永遠への本能的な憧れがあるからです。永遠でない自分が絶対者の助けによって、永遠を手に入れ、死を乗り越えることを追求するからです。この世の肉体が死んでも、来世の天国では死を経験せずに永遠に生きるだろうと思うからです。だから、人間にとって「永遠の命」そして「天国」は人生最大の目標であるかもしれません。 2.永遠の命とは何か? しかし、私たちは「永遠の命」の意味より「天国」の幸せの方にもっと関心を持っているかもしれません。永遠の命という言葉も漢字語に基づいて、終わりなく生きることと誤解しているかもしれません。 しかし、永遠の命を追求しつつ生きるだけに、私たちは「永遠の命」の意味についてはっきり分かる必要があります。以前にも話したことがありますが、「永遠」の哲学的な意味は時間に限っていません。西洋哲学で、無限の時間を意味する言葉は「永遠」ではなく「不滅」です。むしろ永遠は時間性と無時間性と両方の概念を含める抽象的な言葉です。つまり、永遠は時間の長さだけでなく、その内容と質の問題でもあるのです。何年前、筑紫野教会の水曜祈祷会の奨励の時、永遠の主について話しましたが、祈祷会後に帰宅する直前、ある方にこう言われました。「先生、永遠に生きることはとても嬉しいことですが、永遠に生きると退屈ではないでしょうか?」その方は永遠を時間の概念として理解されたわけです。永遠が時間の長さの概念だけではなく、内容と質の概念も含めているのなら、私たちは永遠についてどのように理解すべきでしょうか? 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:2-3) 神が主イエスを救い主として、この世に遣わされた理由は、神の永遠の命を主を通して、この世の罪人に与えてくださるためでした。つまり、神の永遠の命を、この世の罪人が受けることが「救い」なのです。ところが、永遠の命を「天国で長く生きること」と誤解する場合が多いので、「永遠の命がすなわち天国」という誤解が生まれたのです。しかし、イエスは「永遠の命がすなわち天国」と言われたことがありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることだ。」と言われたのです。これは、永遠の命と天国の概念を説明する大事な鍵です。 まず、ヘブライ語とギリシャ語の聖書に記してある永遠の命の原文について考えてみましょう。日本語で「永遠の命」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ゾーエ・アイオニオス」です。「ゾーエ」は生命を、「アイオニオス」は「時代の」を意味します。このギリシャ語の表現はヘブライ語を訳したもので、ヘブライ語では「ハイム•アド•オラム」です。「ハイム」は「生命」、「アド」は「~に至る」、「オラム」は「時代」を意味します。 つまり「永遠の命」の本来の意味は「時代に至る生命」なのです。時代に至る生命とは一体どういう意味でしょうか? ヘブライ語の「オラム」つまり「時代」は、「共通点を持った一定の期間」を表す言葉です。例えば、高校時代は身分が高校生である期間を意味します。今、皆さんは高校生ではありませんが、一時は共通して「高校時代」を過ごされました。ところで、皆さんのほとんどが「高校時代」を過ごされた時は「昭和時代」でもありました。ですから、皆さんは「高校時代」を過ごしながら「昭和時代」も過ごされたのです。私も「高校時代」を過ごしました。「高校時代」を過ごしたのは皆さんと同じです。しかし、私の「高校時代」は「平成時代」でした。「高校時代」を過ごしたのは、皆さんと私の共通点ですが、皆さんは昭和時代、私は平成時代であったのが違いです。つまり、聖書が語る時代とは「ある特徴で区分できる一定の期間」を意味し、重なる場合も重ならない場合もあるのです。再び、聖書における「時代」について考えてみましょう。主なる神は世界を創造され、主が秩序と平和にあってすべてを治められる「主が王である時代」、別の言葉では「生命の時代」を始められました。「主が王である時代」は永遠です。主なる神の支配は永遠に続くからです。人間はその主に創造され、「主が王である時代」に属し、絶えず主の生命をいただいて幸せに生きていく祝福された存在でした。 しかし、人間は蛇(悪魔)の誘惑に妥協し、神との約束を破って逆らい、堕落してしまいました。その結果、「主が王である時代」に属していた人間は、「人間が王である時代」、別の言葉では「死の時代」に移ってしまいました。そのように人間が王になった結果、世界は神の摂理から離れ、欲望による無秩序と破壊の歴史を書いていくことになってしまいました。その罪の代価として、人間は死の支配に入ってしまったのです。これを通して、「時代に至る生命」つまり「永遠の命」について説明することができます。ここで「時代」とは、「主が王である時代」を意味するといえます。主なる神が意図された最初の時代だからです。「人間によって生まれた人間が王である時代」は、歪んでしまい、腐敗した偽りの時代です。主なる神は変わりなく「主が王である時代」におられ、人間は依然として「人間が王である時代」を生きています。この二つの時代の隔たりは、人間の力で絶対に崩せない巨大な壁です。しかし、神は、この二つの時代の壁を崩してつなげる道をお許しになりました。その道がすなわち「救い主」イエス•キリストなのです。 永遠の命のヘブライ語が「時代に至る生命」である理由はまさにこのためです。「人間が王である時代」を生きる私たちが唯一の真の神「主が王である時代」をキリストを通じて知ることになり、そのキリストを知る(信じる)ことで神の時代とつながるようになったからです。 3.永遠の命 – 神と共に生きる人生。 永遠の命は時間的に長く生きることだけを意味するものではありません。重要なのは「人間が王である時代」に生まれ、生きている私たちが、主イエス•キリストによって「主が王である時代」の存在に気づき、主イエスによって、その時代に至ることができるようになったということです。聖書はこれを「真の生命」と言うのです。したがって、私たちは「人間が王である時代」に生きる存在ながらも、キリストによって「主が王である時代」に属する存在として生きるのです。 聖書はこれを「救い」と定義します。そして、死後天国に行くことは「人間が王である時代」を離れて「主が王である時代」に完全に入ることであり、この世の終わりの日、キリストの再臨と共に「主が王である時代」は、この地上にも完全に成し遂げられ、その時に私たちも復活するでしょう。これが聖書が語る永遠の命と天国、そして救いの意味なのです。今日、旧約聖書の詩編14章2節と5節は、それぞれこのように語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(2)「神は従う人々の群れにいます。」(5)天(神が王である時代)におられる主なる神が、地上(人間が王である時代)にいる民をお探しになり、共におられること、これこそが人にに与えられた真の永遠の命なのです。 締め括り ですので、私たちの永遠の命は、すでに始まっています。私たちはキリストによって、すでに「主が王である時代」を知り、その中に生きているからです。というわけで、主イエスはこう言われました。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 天国すなわち神の国は死後にだけあるものではありません。主なる神に出会い、その民として生きている今も、私たちはすでに永遠の命のある人生、天国のある人生を生きているのです。そして、私たちが主に呼ばれる日、私たちは人間が王であるこの時代を離れ、主なる神が王である真の永遠の命に入るでしょう。そして、再臨の日、キリストによってこの地に真の主が王である時代、新天新地が成し遂げられるでしょう。私たちキリスト者は永遠の命という意味について、このような理解を持って生きるべきです。

聖晩餐の意味

ヨハネによる福音書6章47~58節(新176頁) 前置き 日本キリスト教会は、月に一度聖餐式を行います。毎月行われる儀式であるため、私たちは聖餐式の重要性を見過ごしがちかもしれません。しかし、聖餐は主イエスご自身が弟子たちに命じられ、代々の教会が堅く守ってきた最も重要な教会の儀式の一つです。そのため、洗礼とともに聖餐式もキリスト教会を代表する聖礼殿と呼ばれます。今日は、この聖餐式の意味について考えてみたいと思います。月に一度習慣的に行う宗教儀式ではなく、私たちの信仰を成長させる、主の大事なご命令としての聖餐の意味を改めて確認する時間でありますように願います。 1.聖餐の本質は食事である。 まず、私たちが知っておくべきことは、聖晩餐は文字通りに「晩餐」ということです。晩餐の辞書的な意味は「ごちそうの出る夕食。客を招いてもてなす夕食。」です。つまり、聖晩餐は、主イエスが弟子たちにおもてなしくださった夕方の食事だったのです。私たちの聖餐式は昼頃に行われていますが、それでも教会は固有名詞のように聖晩餐という表現を使います。今日、私たちが行う聖餐式の原型はイエスと弟子たちの「最後の晩餐」に由来します。イエスは、ローマ兵隊に逮捕され、十字架で亡くなられる前、弟子たちと一緒に夕食を分かち合われました。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちにこう言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音26:26‐28)、最初の聖餐式は宗教的な儀式ではありませんでした。イエスと弟子たちの夕食、十字架で亡くなられる前の最後の食事だったのです。 私たちは毎日食事をします。時々一人で食事する時もありますが、基本的に家族、友人、知り合いのような身近な人とする場合が多いです。つまり、関係を結んだ相手と食事するのが一般的です。知らない人と親しく食事することはないでしょう。したがって、食事は関係を結んでいる者たちが共にする行為です。私たちの聖餐は、主イエスを中心に密接に結びついた者たちが共に行う霊的な食事です。教会のために死に復活され、頭になってくださった主イエスの御恵みと聖霊の御導きによって、キリストの体を意味するパン、血を意味する杯を分かち合い、共に主が与えてくださった晩餐を交わす霊的な食事なのです。食事によって力と健康を得て生きていくように、この聖餐を通して、私たちはイエスの恵みと救いの御業を憶え、力をいただき、信仰生活を続けていくのです。互いに関係を結んだ、家族や知り合いが共に食事するように、私たちはこの聖餐を通して主イエスとの関係、教会の兄弟姉妹との関係、神との関係を再確認しつつ生きるのです。人が飲み食いしなければ生きることが出来ないように、私たちは主がくださった、この聖晩餐を飲み食いして、キリスト者としての自覚を確かめつつ生きていくのです。だから聖餐は宗教儀式を超える頭なる主と体なる教会の聖なる食事なのです。 2.聖徒の交わり、聖餐。 そういう意味として、聖なる食事である聖餐は聖徒の交わりだとも言えるでしょう。私たちはほぼ毎週、使徒信条を唱えます。ところで、使徒信条にはこんな表現があります。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」イエスを信じ、教会に出席しはじめると、人々は一番最初に「使徒信条」に接し、自然に覚えるようになります。しかし、その意味について深く考えずに、他の信徒たちが覚えているから自分も覚えようとする場合が多いです。特に「聖徒の交わり」という表現を何気なく唱えていますが、これは果たしてどういう意味でしょうか? 日本語の「聖徒の交わり」はラテン語のCOMMUNIO SANCTORUMを訳した表現です。COMMUNIOは「互いに一つになって何かを分かち合うこと」という意味で「交わり」と訳しています。SANCTORUMは「聖なる者たち」という意味で「聖徒」と訳しています。罪人は自ら聖なる者になることができない存在です。罪人が聖なる者になるためには、聖なるキリストの贖いによってのみ可能です。したがって、COMMUNIO SANCTORUMは、「主イエスのよって清められた者たちが互いに一つになって分かち合いながら生きる共同体」のことでしょう。「交わり」という言葉のため、茶話会や食事会を思い起こしやすいですが、本当の意味は、聖霊のお導きの中で主イエスを中心に一つとなり、教会共同体を成していくこと、つまり教会形成のことなのです。 だから、聖徒の交わりを最も明らかに表すのは、この「聖餐」なのです。教会の頭なるキリストを中心とし、聖霊の導きによってパンと杯を分かち合う時、私たちは教会を形成する兄弟姉妹と共に一つなる共同体という関係を堅めます。お茶を飲んだり、楽しく会話したりすることが聖徒の交わりではなく、キリストの恵みと聖霊の導きによって一つの教会を建てていくことこそが、本当の意味の「聖徒の交わり」なのです。そして、それを行動で告白するのが聖餐です。したがって、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、主イエスが教会の頭であることを行動によって告白する公の信仰告白です。また、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、自分と一緒にパンと杯にあずかる兄弟と姉妹がキリストにあって一つの主の体なる教会であることを行動によって告白する公の告白です。だから、ただの宗教儀式だから、習慣的に聖餐を飲み食いするというわけではありません。聖餐の時に私たちみんなが主イエスの民であることを再確認します。教会員みんなが主の一つの体であることを再確認します。使徒信条を口さきだけで告白するのではなく、目に見える聖晩餐という行動によって証明するのです。 3。聖餐を通して主の永遠の命を憶える。 食べる行為は、主なる神が人間に与えてくださった祝福です。初めに天地を創造された神は、エデンの園のすべての果実を人間の食糧としてくださいました。また、出エジプト記の時代にはマナとウズラを食料としてくださいました。神の幕屋の内部にも、供えのパンという食物が置かれていました。イエスは5000人以上にパンと魚をくださいました。弟子たちに聖晩餐をくださいました。復活してはガリラヤの水辺でペトロに焼いた魚をくださいました。食べる行為は貪欲と関わりやすいので、悪いイメージで描写される場合が多いですが、食べないと生きていけないので、非常に基本的な人間の行為なのです。むしろ神は食べる行為によって、主なる神の栄光のために元気に生きていくように、良い行為として食べる行為をくださいました。食べる行為は、食物から養分を得て命を延ばすことです。食前に「イタダキマス」と言うことも、この食物から養分を得て自分の命にすることへの感謝の意味だと言われます。それと意味は多少違うでしょうが、私たちもイエスの肉と血とを意味する「パンと杯」にあずかり、主にいただいた永遠の生命を憶え、ふさわしい生き方を誓って生きるようになります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ福音6:54-57) 主イエスはヨハネによる福音書6章を通して、主ご自身が制定してくださる聖餐の意味について、あらかじめ教えてくださいました。主の言われたご自分の肉と血についての教えは、後、聖餐式となり、それが使徒たちと代々の教会の歩みと共に今まで続いてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒を飲み食いする時、私たちは主イエスと一つになって主の体なる教会として、主の生命をいただいて生きていきます。父なる神がイエス•キリストを愛されるように、主の体なる私たちも父なる神に愛されるようになるのです。そして父なる神がイエス•キリストを死から復活させてくださったように、主の体なる私たち教会も、父なる神に死に勝つ生命をいただいて生きていくのです。聖晩餐を通じて私たちは主イエスの体であることを確証されます。そして、私たちはその確証にあって、主の永遠の命を豊かにいただいて生きるでしょう。 締め括り 聖餐は、キリスト教会において毎月行われる、馴染み深い聖礼殿です。しかし、その意味は決して軽くありません。私たちがこの聖餐によってキリストと一つになっていること、そして、兄弟姉妹とも主にあって一つになっていることをを告白し、また証明されるからです。つまり、聖餐式はキリストの体という私たち教会のアイデンティティを公に告白する証明の場なのです。したがって毎月行う馴染んだ儀式ではありますが、その意味を心に留めて生きるべきです。私たちは心で主の体となったことを信じ、口でそれを告白し、聖餐の行為によってそれを証します。この聖餐を大切にし、感謝しながら生きる私たちであることを願います。