イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが公生涯を始められた時、イスラエルは霊的な無秩序の時代を過ごしていました。ローマ帝国の行政的な支配とユダヤ教の宗教的な儀式はありましたが、現実は弱肉強食の社会で、正義が守られず、不義がはびこる霊的な無秩序の時代だったのです。そんな無秩序の時代に来られた主イエスはご自身が直接民に仕え、愛されることによって、倒れた霊的な秩序を立て直してくださいました。「神と隣人を愛しなさい。」という律法の御言葉が、その秩序の根源となるのです。主イエスは十字架での死を覚悟されてまで、この秩序を回復させるために闘われたのです。そのイエスの御心は主の体であるこんにちの教会にも継承され、主イエスにならった生き方を要求しています。 1.皆に嫌われた徴税人マタイ 貧しいイスラエルの人々を助けてくださるために旅路に就かれたイエスは、ガリラヤ湖のある地域に着かれました。その時、一人の男がイエスの目につきました。「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14) イエスに声かけられた男は徴税人のレビという人でした。新約聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイがいますが、このレビは誰でしょうか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9) マタイによる福音書によると、このレビという人が使徒マタイであることが分かります。主はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちに加え、徴税人のマタイをもご自分の弟子に呼ばれるためにその町に行かれたわけです。ところで、このレビつまりマタイは、なぜそこにいたのでしょうか? ガリラヤの漁師から税金を取り立てるためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争のために莫大な予算が必要でした。そのため、ローマの総督たちは植民地の権力者から前払いで税金を取り上げました。その代わりに彼らに徴税権を与えたのです。それはイスラエルにおいても同様でした。先に話しましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が破れていたので、ローマ帝国に強制的に税金を払わせられた権力者たちは、ローマからの徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが納めた税金より、さらに高い税金を貧しい人々から取り立てたわけです。旧約聖書が強調していた隣人愛が完全に破れていたのです。今日の本文に出てくるイスラエルの徴税人は、そのような権力者のもとで働いていました。彼らは割当量を達成するため、同胞から重い税金を納め、イスラエルお人々は彼らをローマ帝国のため、同胞を苦しめる売国奴のように考えました。だから、当時のイスラエル人は、この徴税人を遊女や泥棒のように「地の人」つまり、神の民ではない者と見なしていたのです。 2.マタイを訪れてくださったイエス。 ところで、マタイは徴税人の仕事に懐疑を抱いていたようです。主がマタイに声かけられた時、ただちに従ってきたからです。当時の徴税人は熱心に徴税すれば、同胞に疎外され、いい加減に徴税すれば、権力者にいじめられる立場でした。けれども、お金を横取りすることができ、豊かになりやすい仕事だったのです。しかし、徴税人マタイはそんなに幸せではなかったようです。明治時代に、こんな出来事がありました。、明治23年に制定された教育勅語が東京第一高等中学校で朗読された時、全員は腰を低めて最敬礼をしました。しかし、教師だった内村鑑三は最敬礼をせずに頭を下げるだけでした。彼はキリスト者だったので、神格化した天皇に最敬礼しなかったわけです。(不敬事件)しかし、当時の官憲は、それによってキリスト教全体を疑うことになりました。そのため、日本の教会は国と民族から疎外されないために自ら慎み、国に協力し、結局は屈してしまいました。国と民族からの疎外が恐ろしかったからです。マタイは民族からの疎外と権力者からの要求の間でさまよい続ける孤独な人でした。 イエスは、そんな彼をあたりかまわず招かれました。「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」民族からの疎外と権力者の要求の間でさまよっていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主に従いはじめました。14節で「従う」のギリシャ語「アコルルデオ」は、「後についていく」という物理的な意味だけではありません。「共にある」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が一つになった言葉です。つまり、「イエス・キリストの道あるいは方向に共に歩むこと」という、より深い意味の言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力者の要求の間で迷っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道に招いてくださいました。当時、一番嫌われる存在、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人と呼ばれていたマタイに、天から来られた神の子イエスがお手を差し伸べてくださったのです。そして、皆に嫌われる彼をご自分の民として受け入れてくださいました。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事をもてなしました。主は決して善良な人や貧しい人たちだけを救われる方ではありません。罪人、裏切り者、不正な者、売春する者、盗人など、どんなに悪人だといっても、彼らが神に真心をこめた悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、喜んで受け入れてくださいます。そして、彼らと同席され、共にいてくださいます。イエスが同席して一緒に食事をしてくださるというのは、相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように認めてくださるという意味です。これは、イエスによって、私たちに示された御父の暖かい御旨なのです。ところで、このように罪人を招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者だったのです。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、権力もある者たちが、罪人と一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自らが「天の民」であり、神を知っていると高ぶっていました。しかし、彼らは真の神であるイエスを目の前にしても、主を見知ることが出来なかったのです。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らにご自分が来られた理由を明らかに教えてくださいました。「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスの価値観は、罪人への裁きではありません。主は罪人を裁きから救ってくださるために来られたのです。罪人への救いこそが本当のイエスの価値観です。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人でも、真の悔い改めと信仰さえあれば、主は誰でもお赦しくださり、お招きくださる方です。むしろ、今日、登場した宗教指導者たちのように、神を知ると言いながらも、自分の信仰的なこだわりに閉じこもって、他人をやたらに判断する者こそ、イエスに裁かれるでしょう。私たちが追い求めるべき価値観は何でしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、傲慢と判断の宗教指導者たちの価値観。神は私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、どっちを選ぶだろうかと見下ろしておられるでしょう。 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の歩みを見下ろしておられます。終わりの日、御前に立つ時、神は私たち人生について、ことごとくお問い掛けになるでしょう。だからこそ、私たちの生き方はイエスに従うべきです。イエスこそ、父なる神に認められる唯一の正しい人だからです。そして、主イエスの生き方こそ、私たちの価値観になるべきです。イエスは愛によって、罪人を赦してくださいました。主の体である私たち、志免教会もお互いに赦しあい、隣人を差別せず、主イエスの愛にならっていくべきではないでしょうか。

永遠の命を語る。

詩編14編1~7節(旧844頁) ヨハネによる福音書17章1~5節(新202頁) 前置き 永遠の命とは何でしょうか? 私たちは永遠の命という言葉を耳にするとき、死なずに長く生きることだと考えがちです。永遠に生きるって、いかに素晴らしいことでしょう。愛する家族との別れもなく、焦りもなく、何事においても楽天的でゆったりと世の中を眺め、死への恐れもないでしょう。しかし、現実、人間には長くても100年前後という限られた時間が与えられています。だから、老いていくのが悲しく、死を恐れることになるのでしょう。そのような人間の思い煩いに対して、聖書は永遠の命を語るから、とても魅力的でしょう。そんな理由のため、キリスト者になった人もいるはずです。しかし、聖書が語る永遠の命は、そう簡単なものではありません。聖書においての永遠の概念は、ただ長い時間を意味しないからです。今日は聖書が語る永遠の命について考えてみましょう。 1.「永遠の命と天国」 永遠の命といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天国」のような来世のことではないかと思います。死後、主の救いによって永遠の命を得ていくところが、天国という概念で、すでにキリスト者の世界観に深くすえてあります。そういう意味として、多くのキリスト者は天国に行くために信仰生活をしているのかもしれません。それだけでなく、イスラムや仏教系の宗教にも天国(極楽)の概念があり、世の中のほとんどの宗教が、このような来世観から自由ではないかもしれません。あらゆる宗教を問わず、人間が天国あるいは極楽に行くことを希望するのは、人間に永遠への本能的な憧れがあるからです。永遠でない自分が絶対者の助けによって、永遠を手に入れ、死を乗り越えることを追求するからです。この世の肉体が死んでも、来世の天国では死を経験せずに永遠に生きるだろうと思うからです。だから、人間にとって「永遠の命」そして「天国」は人生最大の目標であるかもしれません。 2.永遠の命とは何か? しかし、私たちは「永遠の命」の意味より「天国」の幸せの方にもっと関心を持っているかもしれません。永遠の命という言葉も漢字語に基づいて、終わりなく生きることと誤解しているかもしれません。 しかし、永遠の命を追求しつつ生きるだけに、私たちは「永遠の命」の意味についてはっきり分かる必要があります。以前にも話したことがありますが、「永遠」の哲学的な意味は時間に限っていません。西洋哲学で、無限の時間を意味する言葉は「永遠」ではなく「不滅」です。むしろ永遠は時間性と無時間性と両方の概念を含める抽象的な言葉です。つまり、永遠は時間の長さだけでなく、その内容と質の問題でもあるのです。何年前、筑紫野教会の水曜祈祷会の奨励の時、永遠の主について話しましたが、祈祷会後に帰宅する直前、ある方にこう言われました。「先生、永遠に生きることはとても嬉しいことですが、永遠に生きると退屈ではないでしょうか?」その方は永遠を時間の概念として理解されたわけです。永遠が時間の長さの概念だけではなく、内容と質の概念も含めているのなら、私たちは永遠についてどのように理解すべきでしょうか? 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:2-3) 神が主イエスを救い主として、この世に遣わされた理由は、神の永遠の命を主を通して、この世の罪人に与えてくださるためでした。つまり、神の永遠の命を、この世の罪人が受けることが「救い」なのです。ところが、永遠の命を「天国で長く生きること」と誤解する場合が多いので、「永遠の命がすなわち天国」という誤解が生まれたのです。しかし、イエスは「永遠の命がすなわち天国」と言われたことがありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることだ。」と言われたのです。これは、永遠の命と天国の概念を説明する大事な鍵です。 まず、ヘブライ語とギリシャ語の聖書に記してある永遠の命の原文について考えてみましょう。日本語で「永遠の命」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ゾーエ・アイオニオス」です。「ゾーエ」は生命を、「アイオニオス」は「時代の」を意味します。このギリシャ語の表現はヘブライ語を訳したもので、ヘブライ語では「ハイム•アド•オラム」です。「ハイム」は「生命」、「アド」は「~に至る」、「オラム」は「時代」を意味します。 つまり「永遠の命」の本来の意味は「時代に至る生命」なのです。時代に至る生命とは一体どういう意味でしょうか? ヘブライ語の「オラム」つまり「時代」は、「共通点を持った一定の期間」を表す言葉です。例えば、高校時代は身分が高校生である期間を意味します。今、皆さんは高校生ではありませんが、一時は共通して「高校時代」を過ごされました。ところで、皆さんのほとんどが「高校時代」を過ごされた時は「昭和時代」でもありました。ですから、皆さんは「高校時代」を過ごしながら「昭和時代」も過ごされたのです。私も「高校時代」を過ごしました。「高校時代」を過ごしたのは皆さんと同じです。しかし、私の「高校時代」は「平成時代」でした。「高校時代」を過ごしたのは、皆さんと私の共通点ですが、皆さんは昭和時代、私は平成時代であったのが違いです。つまり、聖書が語る時代とは「ある特徴で区分できる一定の期間」を意味し、重なる場合も重ならない場合もあるのです。再び、聖書における「時代」について考えてみましょう。主なる神は世界を創造され、主が秩序と平和にあってすべてを治められる「主が王である時代」、別の言葉では「生命の時代」を始められました。「主が王である時代」は永遠です。主なる神の支配は永遠に続くからです。人間はその主に創造され、「主が王である時代」に属し、絶えず主の生命をいただいて幸せに生きていく祝福された存在でした。 しかし、人間は蛇(悪魔)の誘惑に妥協し、神との約束を破って逆らい、堕落してしまいました。その結果、「主が王である時代」に属していた人間は、「人間が王である時代」、別の言葉では「死の時代」に移ってしまいました。そのように人間が王になった結果、世界は神の摂理から離れ、欲望による無秩序と破壊の歴史を書いていくことになってしまいました。その罪の代価として、人間は死の支配に入ってしまったのです。これを通して、「時代に至る生命」つまり「永遠の命」について説明することができます。ここで「時代」とは、「主が王である時代」を意味するといえます。主なる神が意図された最初の時代だからです。「人間によって生まれた人間が王である時代」は、歪んでしまい、腐敗した偽りの時代です。主なる神は変わりなく「主が王である時代」におられ、人間は依然として「人間が王である時代」を生きています。この二つの時代の隔たりは、人間の力で絶対に崩せない巨大な壁です。しかし、神は、この二つの時代の壁を崩してつなげる道をお許しになりました。その道がすなわち「救い主」イエス•キリストなのです。 永遠の命のヘブライ語が「時代に至る生命」である理由はまさにこのためです。「人間が王である時代」を生きる私たちが唯一の真の神「主が王である時代」をキリストを通じて知ることになり、そのキリストを知る(信じる)ことで神の時代とつながるようになったからです。 3.永遠の命 – 神と共に生きる人生。 永遠の命は時間的に長く生きることだけを意味するものではありません。重要なのは「人間が王である時代」に生まれ、生きている私たちが、主イエス•キリストによって「主が王である時代」の存在に気づき、主イエスによって、その時代に至ることができるようになったということです。聖書はこれを「真の生命」と言うのです。したがって、私たちは「人間が王である時代」に生きる存在ながらも、キリストによって「主が王である時代」に属する存在として生きるのです。 聖書はこれを「救い」と定義します。そして、死後天国に行くことは「人間が王である時代」を離れて「主が王である時代」に完全に入ることであり、この世の終わりの日、キリストの再臨と共に「主が王である時代」は、この地上にも完全に成し遂げられ、その時に私たちも復活するでしょう。これが聖書が語る永遠の命と天国、そして救いの意味なのです。今日、旧約聖書の詩編14章2節と5節は、それぞれこのように語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(2)「神は従う人々の群れにいます。」(5)天(神が王である時代)におられる主なる神が、地上(人間が王である時代)にいる民をお探しになり、共におられること、これこそが人にに与えられた真の永遠の命なのです。 締め括り ですので、私たちの永遠の命は、すでに始まっています。私たちはキリストによって、すでに「主が王である時代」を知り、その中に生きているからです。というわけで、主イエスはこう言われました。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 天国すなわち神の国は死後にだけあるものではありません。主なる神に出会い、その民として生きている今も、私たちはすでに永遠の命のある人生、天国のある人生を生きているのです。そして、私たちが主に呼ばれる日、私たちは人間が王であるこの時代を離れ、主なる神が王である真の永遠の命に入るでしょう。そして、再臨の日、キリストによってこの地に真の主が王である時代、新天新地が成し遂げられるでしょう。私たちキリスト者は永遠の命という意味について、このような理解を持って生きるべきです。

聖晩餐の意味

ヨハネによる福音書6章47~58節(新176頁) 前置き 日本キリスト教会は、月に一度聖餐式を行います。毎月行われる儀式であるため、私たちは聖餐式の重要性を見過ごしがちかもしれません。しかし、聖餐は主イエスご自身が弟子たちに命じられ、代々の教会が堅く守ってきた最も重要な教会の儀式の一つです。そのため、洗礼とともに聖餐式もキリスト教会を代表する聖礼殿と呼ばれます。今日は、この聖餐式の意味について考えてみたいと思います。月に一度習慣的に行う宗教儀式ではなく、私たちの信仰を成長させる、主の大事なご命令としての聖餐の意味を改めて確認する時間でありますように願います。 1.聖餐の本質は食事である。 まず、私たちが知っておくべきことは、聖晩餐は文字通りに「晩餐」ということです。晩餐の辞書的な意味は「ごちそうの出る夕食。客を招いてもてなす夕食。」です。つまり、聖晩餐は、主イエスが弟子たちにおもてなしくださった夕方の食事だったのです。私たちの聖餐式は昼頃に行われていますが、それでも教会は固有名詞のように聖晩餐という表現を使います。今日、私たちが行う聖餐式の原型はイエスと弟子たちの「最後の晩餐」に由来します。イエスは、ローマ兵隊に逮捕され、十字架で亡くなられる前、弟子たちと一緒に夕食を分かち合われました。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちにこう言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音26:26‐28)、最初の聖餐式は宗教的な儀式ではありませんでした。イエスと弟子たちの夕食、十字架で亡くなられる前の最後の食事だったのです。 私たちは毎日食事をします。時々一人で食事する時もありますが、基本的に家族、友人、知り合いのような身近な人とする場合が多いです。つまり、関係を結んだ相手と食事するのが一般的です。知らない人と親しく食事することはないでしょう。したがって、食事は関係を結んでいる者たちが共にする行為です。私たちの聖餐は、主イエスを中心に密接に結びついた者たちが共に行う霊的な食事です。教会のために死に復活され、頭になってくださった主イエスの御恵みと聖霊の御導きによって、キリストの体を意味するパン、血を意味する杯を分かち合い、共に主が与えてくださった晩餐を交わす霊的な食事なのです。食事によって力と健康を得て生きていくように、この聖餐を通して、私たちはイエスの恵みと救いの御業を憶え、力をいただき、信仰生活を続けていくのです。互いに関係を結んだ、家族や知り合いが共に食事するように、私たちはこの聖餐を通して主イエスとの関係、教会の兄弟姉妹との関係、神との関係を再確認しつつ生きるのです。人が飲み食いしなければ生きることが出来ないように、私たちは主がくださった、この聖晩餐を飲み食いして、キリスト者としての自覚を確かめつつ生きていくのです。だから聖餐は宗教儀式を超える頭なる主と体なる教会の聖なる食事なのです。 2.聖徒の交わり、聖餐。 そういう意味として、聖なる食事である聖餐は聖徒の交わりだとも言えるでしょう。私たちはほぼ毎週、使徒信条を唱えます。ところで、使徒信条にはこんな表現があります。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」イエスを信じ、教会に出席しはじめると、人々は一番最初に「使徒信条」に接し、自然に覚えるようになります。しかし、その意味について深く考えずに、他の信徒たちが覚えているから自分も覚えようとする場合が多いです。特に「聖徒の交わり」という表現を何気なく唱えていますが、これは果たしてどういう意味でしょうか? 日本語の「聖徒の交わり」はラテン語のCOMMUNIO SANCTORUMを訳した表現です。COMMUNIOは「互いに一つになって何かを分かち合うこと」という意味で「交わり」と訳しています。SANCTORUMは「聖なる者たち」という意味で「聖徒」と訳しています。罪人は自ら聖なる者になることができない存在です。罪人が聖なる者になるためには、聖なるキリストの贖いによってのみ可能です。したがって、COMMUNIO SANCTORUMは、「主イエスのよって清められた者たちが互いに一つになって分かち合いながら生きる共同体」のことでしょう。「交わり」という言葉のため、茶話会や食事会を思い起こしやすいですが、本当の意味は、聖霊のお導きの中で主イエスを中心に一つとなり、教会共同体を成していくこと、つまり教会形成のことなのです。 だから、聖徒の交わりを最も明らかに表すのは、この「聖餐」なのです。教会の頭なるキリストを中心とし、聖霊の導きによってパンと杯を分かち合う時、私たちは教会を形成する兄弟姉妹と共に一つなる共同体という関係を堅めます。お茶を飲んだり、楽しく会話したりすることが聖徒の交わりではなく、キリストの恵みと聖霊の導きによって一つの教会を建てていくことこそが、本当の意味の「聖徒の交わり」なのです。そして、それを行動で告白するのが聖餐です。したがって、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、主イエスが教会の頭であることを行動によって告白する公の信仰告白です。また、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、自分と一緒にパンと杯にあずかる兄弟と姉妹がキリストにあって一つの主の体なる教会であることを行動によって告白する公の告白です。だから、ただの宗教儀式だから、習慣的に聖餐を飲み食いするというわけではありません。聖餐の時に私たちみんなが主イエスの民であることを再確認します。教会員みんなが主の一つの体であることを再確認します。使徒信条を口さきだけで告白するのではなく、目に見える聖晩餐という行動によって証明するのです。 3。聖餐を通して主の永遠の命を憶える。 食べる行為は、主なる神が人間に与えてくださった祝福です。初めに天地を創造された神は、エデンの園のすべての果実を人間の食糧としてくださいました。また、出エジプト記の時代にはマナとウズラを食料としてくださいました。神の幕屋の内部にも、供えのパンという食物が置かれていました。イエスは5000人以上にパンと魚をくださいました。弟子たちに聖晩餐をくださいました。復活してはガリラヤの水辺でペトロに焼いた魚をくださいました。食べる行為は貪欲と関わりやすいので、悪いイメージで描写される場合が多いですが、食べないと生きていけないので、非常に基本的な人間の行為なのです。むしろ神は食べる行為によって、主なる神の栄光のために元気に生きていくように、良い行為として食べる行為をくださいました。食べる行為は、食物から養分を得て命を延ばすことです。食前に「イタダキマス」と言うことも、この食物から養分を得て自分の命にすることへの感謝の意味だと言われます。それと意味は多少違うでしょうが、私たちもイエスの肉と血とを意味する「パンと杯」にあずかり、主にいただいた永遠の生命を憶え、ふさわしい生き方を誓って生きるようになります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ福音6:54-57) 主イエスはヨハネによる福音書6章を通して、主ご自身が制定してくださる聖餐の意味について、あらかじめ教えてくださいました。主の言われたご自分の肉と血についての教えは、後、聖餐式となり、それが使徒たちと代々の教会の歩みと共に今まで続いてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒を飲み食いする時、私たちは主イエスと一つになって主の体なる教会として、主の生命をいただいて生きていきます。父なる神がイエス•キリストを愛されるように、主の体なる私たちも父なる神に愛されるようになるのです。そして父なる神がイエス•キリストを死から復活させてくださったように、主の体なる私たち教会も、父なる神に死に勝つ生命をいただいて生きていくのです。聖晩餐を通じて私たちは主イエスの体であることを確証されます。そして、私たちはその確証にあって、主の永遠の命を豊かにいただいて生きるでしょう。 締め括り 聖餐は、キリスト教会において毎月行われる、馴染み深い聖礼殿です。しかし、その意味は決して軽くありません。私たちがこの聖餐によってキリストと一つになっていること、そして、兄弟姉妹とも主にあって一つになっていることをを告白し、また証明されるからです。つまり、聖餐式はキリストの体という私たち教会のアイデンティティを公に告白する証明の場なのです。したがって毎月行う馴染んだ儀式ではありますが、その意味を心に留めて生きるべきです。私たちは心で主の体となったことを信じ、口でそれを告白し、聖餐の行為によってそれを証します。この聖餐を大切にし、感謝しながら生きる私たちであることを願います。