神殿、主の臨在の所。

歴代誌下6章18~21節(旧677頁) エフェソの信徒への手紙2章14~22節(新354頁)  前置き 好きな詩編があります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11) 詩編には美しい信仰の詩が多々あります。その中でも、詩編84編は、信仰者のあり方について考えさせる素晴らしい詩だと思います。「主の庭での一日が、他の所での千日にまさる恵みであり、悪人の天幕で長生きするより、神の家の門番として生きるのがほしい。」この世の財物、名誉、権力より、素朴であっても主の民として主と共に生きたいという信仰の告白なのです。私はその中の「神の家の門番」という表現が好きです。(「門口に立っている」とは原文で門番の意味) たとえ、神の家に入れないとしても、自分は主の近くに生きていきたいという意味ではないでしょうか。ここで神の家について話したいと思います。神の家は聖書によく出てくる幕屋やエルサレムの神殿を意味します。今日は聖書によく出てくる神殿について考えてみたいと思います。 1. 神の家 – 神殿 聖書には神殿という建物がよく出てきます。ソロモン王の前の時代には、幕屋という移動可能なテント形の建物があり、ソロモンの時代からは、聖幕に代わる神殿という固定された建物が建てられました。神殿は、その名称からも分かるように、神のご臨在を意味する非常に象徴的な建物でした。このエルサレムの神殿は、イスラエルのエジプト脱出後、モーセがシナイ山で神にいただいた十戒の石板が入っている掟の箱を置く聖なるところでした。出エジプト記の中盤、シナイ山で主なる神のご命令を受け、移動しながら使用できる幕屋が作られ、それから、何百年の長い時間が経った後、エルサレムに最初の神殿が建てられたのです。ダビデ王の息子であるソロモン王が、この最初の神殿を建てたので、ソロモン神殿とも呼ばれましたが、外部の一部と内部のほぼ全部が、純粋な金で飾られ、神殿の礼拝道具と掟の箱も金箔をかぶせて作ったと言われます。神殿の規模は、長さ約30m、幅約10m、高さ約15mで、そんなに大きくはなかったですが(志免教会堂の4倍くらい)、その華やかさはすごかったと聖書は語ります。最初のエルサレム神殿は、イスラエルがアッシリア、バビロン帝国によって滅ぼされる時まで存在し、その侵略によって破壊されたと言われます。 その70年後、ペルシャ帝国によってイスラエル民族が解放され、エルサレムに帰ってきた時、彼らは第2番目の神殿を建築します。そして、ヘロデ王の時に神殿は増築されたと言われます。しかし、それも西暦70年のローマとユダヤの戦争の時に破壊され、残念なことに今は残っていません。現在、イスラエルの神殿の跡にはイスラム寺院だけが立っており、神殿跡の西側に神殿を支えていた巨大な石壁だけが残り、「嘆きの壁」という名で保存されています。先に申し上げたように、神殿は神の臨在を象徴する建物でした。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代下6:18) 今日の旧約本文のように、この世を創造された神は、世の中の何ものも納められない偉大な方です。そのため、神が神殿という小さな建物に住むのはありえないことです。神が家に住むという概念そのものが古代異邦宗教の認識だったので、神が神殿に住むということは間違いです。つまり主なる神はこの神殿という象徴的な建物を通して、主がご自分の民(当時イスラエル)と常に一緒におられるということを示されたわけです。したがって、私たちは聖書を読みながら神殿を考える時「主が住んでおられるところではなく、主のご臨在の象徴」として理解すべきです。 2.神殿の存在理由 今日の旧約本文、歴代誌下6章は、ソロモン王がエルサレムの神殿を完成した後、落成式を行う場面です。この場面をより意味深く読むためには、前の5章と6章全体を参考にする必要があります。 5章13節と14節にはこんな言葉があります。「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえにと主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」(歴代誌下5:13-14) エルサレム神殿の建築はソロモンの父ダビデ王の晩年の夢でした。エサウの末息子に生まれ、兄たちに負けて羊飼いに生きるようになったダビデでしたが、主はそのダビデを選ばれ、彼をイスラエルの王に立ててくださいました。数多くの危機と逆境の中でも主はダビデを見捨てられず、彼を導いてくださったのです。しかし、ダビデの心にはいつも引っかかることがありました。それは自分は王宮に住んでいるのに、主は数百年前に作られた小さな幕屋におられるということでした。そこで、彼は主のための神殿を建てさせてくださいと主に願いましたが、主はその願いを断られました。(歴代誌上17章) しかし、主は彼の息子であるソロモンによる神殿建築は許可してくださいました。 その後、ソロモンが王になってから、イスラエルは高級な材料を集めてエルサレムのに主なる神の神殿を建て、完成しました。そして、古い聖幕にあった掟の箱を運び、新しい神殿の至聖所に置きました。その時、レビ族の祭司たちは多くの楽器を演奏し、神を賛美しました。その時、主の神殿に雲が満ち、祭司長たちが奉仕を続けられないほどになりました。聖書で雲が持つイメージは、神の栄光と臨在を意味する場合が多いですが、この雲に満ちた神殿によって主なる神の栄光と臨在がイスラエルに与えられたという意味でした。そのように神の栄光と臨在の雲が神殿に満ちた時、ソロモンは主に祈り始めました。その内容が今日の本文である歴代下6章の言葉なのです。この時、ソロモンは大きく二つの祈りを(細かく分けるともっと多くなるが)しました。第一に、神の民のための祈りでした。「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(歴代誌下6:21) 神の民イスラエルの切実な祈りを聞いてくださり、何よりも彼らの悔い改めを聞いて答えてくださいというソロモンの願いでした。 第二に、異邦人のための祈りでした。「更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、大いなる御名、力強い御手、伸ばされた御腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天から耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。」(歴代誌下6:32-33) 異邦人たちも主の神殿に来て祈るなら、憐れんでくださることを祈ります。この落成式の物語を通じて私たちは3つの点を知ることができます。①神殿は天におられる主なる神が、地上のご自分の民といつも共におられることを象徴するご臨在の象徴。②神殿は地上の民が天におられる主なる神に祈り、悔い改め、礼拝するようにする執成しの象徴。③神殿は主なる神の民ではない異邦人も、神を知り、帰ってきて、主の民になれる贖罪の象徴。これらがエルサレムの神殿が持つ主な機能でした。このように、はるかに高い天の神は、地上の罪人たち(イスラエル人、異邦人を問わず)との関係を結んでいかれるために、神殿という象徴的な建物の建設を、この地上に許してくださったのです。 3. 私たちにおいての神殿の意味 ですが、先ほどお話ししたように西暦70年、この神殿という建築物は完全に破壊され、もはや、この地球上に主なる神の神殿は存在しなくなってしまいました。それでは、神殿という建物が無くなった、この時代に、私たちは果たして、どこから神の臨在、執成し、贖罪の象徴である神殿を見つけることが出来ますでしょうか。今日の新約本文は、この時代においての神殿についての大事な手がかりになります。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) イエス・キリストを中心に主の民が一つになる時、その集まりが神のお住まい、つまり、聖なる神殿となると教えているのです。キリストを中心とし、主の民が一つになるというのは、どういう意味なのでしょうか? それは「教会」のことでしょう。したがって、キリストを頭とする教会共同体こそ、主なる神のご臨在のところ、つまり、この時代の神殿であるのです。もちろん、この教会とは、単なる建物のことではないでしょう。 主イエスによって贖われ、主への信仰によって集まり、礼拝し、御言葉を宣べ伝える共同体が、そして、その共同体を成す私たち一人一人が真の意味としての教会であるからです。 締め括り 教会の建物を教会そのものだと誤解する人々も、世の中にはいます。しかし、教会堂はただの建物に過ぎず、教会そのものだとは言えません。教会はキリストを頭として一つとなったキリスト者の共同体だからです。ですから、教会堂を教会そのものだと誤解してはなりません。神殿は神のご臨在、執成し、贖罪を象徴する旧約の存在です。そして、主イエスが十字架で死に、復活してからは、主なる神の臨在、執成し、贖罪は、イエス・キリストによってのみ、この世に伝えられるようになりました。したがって、神の真の神殿のかなめ石は主イエスであり、その方を頭とする教会共同体こそが、この時代の神殿になるのです。だから私たち志免教会も主イエスによって、この時代の神殿となるのです。 私たちと共におられるキリストの恵みによって、主なる神はご臨在なさり、キリストの執成しによって、私たちは、主なる神と交わり、キリストの贖いによって、私たちは赦されるのです。この時代の神殿は、まさに主の教会である私たちです。このような神殿への知識を持ち、主の神殿となる教会として歩んでいきたいと思います。