権威に対する教会のあり方。

申命記16章18~20節 (旧307頁) ローマの信徒への手紙13章1~7節(新292頁) 1.権威とは何か? 今日の本文の権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を訳した表現です。「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の権力、権威」として使われています。この世には創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。主が創り主の権威、すなわち主の「エクスシア」をもって世界を造られ、また被造物への支配のために、人間にも「エクスシア」を与えてくださったのです。なぜなら、神はご自分の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階にあって保たれることを望んでおられたからです。ですので、「権威」というのは、創り主なる神から生まれた一種の被造物だと理解しても問題ないでしょう。要すると「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をご統治なさるためになければならない道具なのです。「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)イエス・キリストは十字架で死に復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威(エクスシア)をご自身に与えてくださったと言われました。創り主なる神は、終末が到来するまで、ご自分による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の統治の道具です。したがって、私たちは権威について、最初から神のものであるという認識を持つべきです。 だから、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文を取り上げるべきです。初めに世界を創造された主は人間に、こう命じられました。「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28) 主は人間が栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。主は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは人間への神の「祝福」だったのです。ただし、人間はその権威を身勝手に振るってはなりません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることを望まれただけで、その権威によって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するためにくださったわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのためのものになってはならず、支配者の権威を通して被支配者も祝福を得る、みんなのための神の祝福にならなければなりません。支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が一緒に栄えていくように権威を使うことです。聖書が示す望ましい支配者のあり方はそのような姿なのです。 2.権威(支配者)への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者がどのようなやり方で世界を支配しているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を振るうっているか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒体として権威を用いているか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。私たちをご支配なさる方は、ひとえに三位一体なる神だけであり、とりわけ、直接、神から権威を授けられたイエス・キリストこそが、私たちの真の支配者、主であるのです。ならば、支配者への私たちの服従も、その根本は神とキリストへの服従から始まるべきなのです。もし、支配者が自分の野望や権力ではなく、主なる神の御心にかなう支配、すなわち世界の平和、人類の共栄のために権威を扱うならば、私たちは彼らの権威に積極的な協力と応援をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の権力だけのために権威を勝手に振るうならば、私たちは、真の主であるキリストのご意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければなりません。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が主から与えられた、その権威を正しく用いる時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するものです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用するならば、私たちは服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はどこまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない主なる神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、私たちは、支配者の武力と暴力に屈してはなりません。ただ支配者によって神の権威が正しく示される時のみ、私たちは彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を担ってこの世を生きているのです。無条件的な国家権力への盲従は正しくありません。いつも「私たちの真の支配者は、主イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。ある国の国民という認識に先だって、御国の民という信仰を先にとるべきです。ひたすら服従の対象は主なる神だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 邪悪な権威の時代20世紀 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日広島にリトルボーイ、また8月9日長崎にはファットマンといった核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の命が消えてしまいました。毎年 8月になると、日本では終戦(敗戦)と、戦争犠牲者のための記念式を催します。アメリカには多くの犠牲者を避ける選択肢があったにもかかわらず、支配者の誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時のアメリカの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかにアメリカの過ちです。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、戦場に追い立ててしまいました。中国では日本軍の暴挙により、1000万人以上の人々が死に、自国民の中にも(内、植民地民も)神風特攻隊や徴用兵として死んだ人が数え切れません。ただし、当時の植民地民は日本人と分類され、詳細な人数は不明です。沖縄の無実な民間人数万が日本軍によって自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。日本全体で、戦争による日本人の犠牲者が約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。 20世紀は悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、人々を死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目で、為政者の論理を正義としました。アメリカの支配者たちは、自国の軍事力を見せつけるために、日本に核兵器を落としました。日本もアメリカも、自分の支配者を支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」といったご命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝を強行し、軍部に協力しました。植民地の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち教会は邪悪な支配者のために、すでに一度主を裏切った存在です。これから絶対に忘れてはならない私たちの悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するのでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる主のみ旨に従い、主なる神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、主なる神の民です。そのアイデンティティーを決して忘れてはなりません。 締め括り 「ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」申命記16章20節には、主なる神の民が追い求めるべき生き方が書いてあります。これは、支配者たちにも適用すべき生き方だと思います。志免教会の兄弟姉妹の皆さんと日本の教会の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正しい政治を貫く支配者が、特にキリスト者の支配者たちが立ち上がることを祈ります。支配者の権威はひとえに主なる神から与えられるものです。支配者は、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時にはじめて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができるのです。私たちは、この世に属している存在ではありません。御国に属している神の民です。したがって、歪んでいる世界のために正しい怒りを発し、主に祈りつつ投票などの政治的な行いに参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような思いを持って支配者と権威者のために祈り、生きていく私たちでありますように祈ります。