さまよい人
※イメージ説明:『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ? 作者 ポール・ゴーギャン 製作年 1897年 – 1898年 イザヤ41章8〜16節(旧1126頁) ヘブライ人への手紙11章8〜10節(新415頁) 前置き 人間は、どこから来てどこへ行くのでしょうか? 誰も初めと終わりを知らないままこの世に生まれます。私たち皆が親のもとに生まれたので、私たちの初めは親、さらには先祖にあると言えるかもしれません。しかし、実際、私たちの両親や先祖も、自分がどこから来てどこに行くのかを知らずに生きてきたと思います。ただ生まれ、この世を生きていくことが人間に与えられた一般的な人生の理由ではないでしょうか? そのため、私たち人間は生まれつき、さまよい人として生きる存在であるかもしれません。フランスの有名な画家であるポール·ゴーギャンは1898年「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という最後の作品を完成した後、自殺をくわだてました。自殺は失敗しましたが、彼は結局1903年に病気で死んでしまいます。彼は自分の人生を振り返り、自分がどこから来てどこに行くのか、答えを出すことができませんでした。フランシス·シェーファーという神学者は、ゴーギャンは結局「来たところも、何者かも、行く先も分からずに死んだ。」と自分の著書を通して解釈しました。ゴーギャンだけでなく、大勢の人々が自分の起源と行き先を知りません。本当に人間は一生さまよいの中で苦しみ、短い人生を終える悲惨な存在であるかもしれません。 1。さまよい人として生まれる人間。 自分がどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのかに対する質問は、人間を一生苦しめる宿題です。多くの人々が成功のため、富のため、名誉のために自分の人生を熱心に生きていきますが、成功と富と名誉を達成したとしても、自分が何者であり、なぜ生きているのかという最も重要な謎の答えを得ることはできません。結局、成功も富も名誉も、私たちに根本的な正解を知らせるのはできないからです。そんな理由で、人々は宗教を持つようになります。しかし、宗教を持ったとしても、人間、特に自分の存在理由について明確な説明を教えてもらうことが出来ないので、宗教があるにもかかわらず人生の最後の瞬間が近づいてくると恐怖に震えるようになる人が多いです。たとえば、日本人の精神に莫大な影響を及ぼした仏教でさえ、己の業報に従って輪廻を重ねると教えます。しかし、人間の起源と意味については、明確に説明しません。日本の民族宗教である神道も八百万の神々が助けてくれると語りますが、人がどこから来て、どこへ行き、自分が何者なのかについては明快に説明しません。自分はこのまま消えてしまうのか? 自分は何者なのか? この原始的で根本的で限りのないような質問は、人間をみすぼらしくします。そんな世の中に向かって、主なる神のみ言葉、聖書の言葉はこう語ります。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1) 聖書は、すべてのものの初めについて明確に語ります。「この世界は主なる神によって造られた。」聖書は、宇宙の起源を知っているのです。そして、その初めを許された神こそ、すべての人間に命を与えてくださり「自分」という存在の根源になってくださる創り主であることを証しているのです。旧約聖書のイザヤ書には、こう書いてあります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6) また、新約聖書ヨハネの黙示録はこう述べています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13) このように聖書は、この世の初めと終わりが「主なる神」から生まれたと明確に証しています。私たち人間は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」絶えず自らの存在理由について悩み煩います。しかし、聖書は明らかに 「あなたは主なる神から来た。あなたは主なる神の子供として生まれた。したがって、あなたは主なる神に帰らなければならない。」と教えます。キリスト者である私たちは、人生においての数多くの悩みと苦しみ、心配のため、神に祈ります。しかし、神の民である私たちは、自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、自分がどこに行くのかを心配しません。最も根源的な疑問が、すでに解決されたので、比較的に小さい悩みのために祈るだけです。もしかしたら、私たちの今の心配は根源的な問題が解決された存在の小さい悩みにすぎないのかもしれません。 2.主なる神との出会い – 全能者との同行。 伝道が難しい時代となりました。路傍伝道をしようとしても警察にあらかじめ申し出しなければなりません。学校の前での伝道も法律的な問題になる時代です。ポストに伝道チラシを入れたり、地域新聞の小さな広告を載せたりする程度が、現代日本においてできる最善の伝道方法であるかもしれません。しかし、私たちの最も大事な伝道は、ただ、人を教会堂に連れてくることではありません。もちろん、人を集める伝道も無くてはなりません。誰も来ないなら、教会は消滅してしまうからです。しかし、教会の伝道の最も重要な理由は、人類の共通の質問「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」に対する正解を宣べ伝えることではないでしょうか? 自分がどこから来たのかも分からずに迷っている人に「あなたは、あなたの主である神から来たのです。」自分の存在理由が分からずに悲しんでいる人に「あなたは主なる神の大切な子供です。」自分がどこに行けばいいのか分からずに恐れている人に「あなたは主なる神に帰らなければなりません。」と正解を教えることこそ、真の伝道ではないでしょうか? 単に「この世では幸あれ、あの世では冥福あれ」という現世と来世の安らぎのための宗教的な口車ではなく、人間の根源的な恐れと不安を乗り切らせてくださる「全能者」の存在を伝えることこそ、私たちが行うべき真の伝道ではないでしょうか? 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブライ11:8-10)神に出会い、将来への不安があるにもかかわらず、主に寄りかかって、行き先も知らずに進んでいったアブラハムのように、真の全能者である神に出会う時はじめて、人は人生の意味を悟り、主に寄りかかって自分の進むべき道へ進んでいくことが出来るのではないでしょうか。神は人間に使命というものを与えてくださいました。それは行き先の知らない人生の道を、ただ心配して生きるのではなく「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創1:28)と言われた、人生の主である神が共におられるのを信じ、心配を捨てて主の民として生きていくことです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10) 「すべての初めであり、すべての意味であり、すべての終わりである全能なる神が、私たちの助けになってくださるから、私たちは主なる神と共に歩んでいく。」それこそが、まさに人生の真の理由ではないでしょうか。 締め括り 神がイエス·キリストをこの世に遣わされた理由は、人生の初めと終わり、人生の意味を知らずにさまよう人々を全能なる神に導いてくださるためです。神を離れて罪の中にさまよっている人間が、このイエスによって自分の罪に気づき、悔い改め、赦され、神のもとに再び立ち返らせてくださるために、主イエスは来られたのです。神は人類への愛をもって今も人々を招いておられます。さまよい人として生まれた私たちは、このイエスによって自分の進むべき道を見つけることになり、この世のすべてを創造された真の主に帰るようになるのです。私たちは主なる神から来て、主なる神の大切な子供として生き、また、主なる神に帰っていくことでしょう。人生最大の謎への答えをすでにいただき、私たちは主なる神と共に人生を生きていくことでしょう。それがキリスト者に与えられた真の祝福と恵みではないでしょうか?