神殿、主の臨在の所。

歴代誌下6章18~21節(旧677頁) エフェソの信徒への手紙2章14~22節(新354頁)  前置き 好きな詩編があります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11) 詩編には美しい信仰の詩が多々あります。その中でも、詩編84編は、信仰者のあり方について考えさせる素晴らしい詩だと思います。「主の庭での一日が、他の所での千日にまさる恵みであり、悪人の天幕で長生きするより、神の家の門番として生きるのがほしい。」この世の財物、名誉、権力より、素朴であっても主の民として主と共に生きたいという信仰の告白なのです。私はその中の「神の家の門番」という表現が好きです。(「門口に立っている」とは原文で門番の意味) たとえ、神の家に入れないとしても、自分は主の近くに生きていきたいという意味ではないでしょうか。ここで神の家について話したいと思います。神の家は聖書によく出てくる幕屋やエルサレムの神殿を意味します。今日は聖書によく出てくる神殿について考えてみたいと思います。 1. 神の家 – 神殿 聖書には神殿という建物がよく出てきます。ソロモン王の前の時代には、幕屋という移動可能なテント形の建物があり、ソロモンの時代からは、聖幕に代わる神殿という固定された建物が建てられました。神殿は、その名称からも分かるように、神のご臨在を意味する非常に象徴的な建物でした。このエルサレムの神殿は、イスラエルのエジプト脱出後、モーセがシナイ山で神にいただいた十戒の石板が入っている掟の箱を置く聖なるところでした。出エジプト記の中盤、シナイ山で主なる神のご命令を受け、移動しながら使用できる幕屋が作られ、それから、何百年の長い時間が経った後、エルサレムに最初の神殿が建てられたのです。ダビデ王の息子であるソロモン王が、この最初の神殿を建てたので、ソロモン神殿とも呼ばれましたが、外部の一部と内部のほぼ全部が、純粋な金で飾られ、神殿の礼拝道具と掟の箱も金箔をかぶせて作ったと言われます。神殿の規模は、長さ約30m、幅約10m、高さ約15mで、そんなに大きくはなかったですが(志免教会堂の4倍くらい)、その華やかさはすごかったと聖書は語ります。最初のエルサレム神殿は、イスラエルがアッシリア、バビロン帝国によって滅ぼされる時まで存在し、その侵略によって破壊されたと言われます。 その70年後、ペルシャ帝国によってイスラエル民族が解放され、エルサレムに帰ってきた時、彼らは第2番目の神殿を建築します。そして、ヘロデ王の時に神殿は増築されたと言われます。しかし、それも西暦70年のローマとユダヤの戦争の時に破壊され、残念なことに今は残っていません。現在、イスラエルの神殿の跡にはイスラム寺院だけが立っており、神殿跡の西側に神殿を支えていた巨大な石壁だけが残り、「嘆きの壁」という名で保存されています。先に申し上げたように、神殿は神の臨在を象徴する建物でした。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代下6:18) 今日の旧約本文のように、この世を創造された神は、世の中の何ものも納められない偉大な方です。そのため、神が神殿という小さな建物に住むのはありえないことです。神が家に住むという概念そのものが古代異邦宗教の認識だったので、神が神殿に住むということは間違いです。つまり主なる神はこの神殿という象徴的な建物を通して、主がご自分の民(当時イスラエル)と常に一緒におられるということを示されたわけです。したがって、私たちは聖書を読みながら神殿を考える時「主が住んでおられるところではなく、主のご臨在の象徴」として理解すべきです。 2.神殿の存在理由 今日の旧約本文、歴代誌下6章は、ソロモン王がエルサレムの神殿を完成した後、落成式を行う場面です。この場面をより意味深く読むためには、前の5章と6章全体を参考にする必要があります。 5章13節と14節にはこんな言葉があります。「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえにと主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」(歴代誌下5:13-14) エルサレム神殿の建築はソロモンの父ダビデ王の晩年の夢でした。エサウの末息子に生まれ、兄たちに負けて羊飼いに生きるようになったダビデでしたが、主はそのダビデを選ばれ、彼をイスラエルの王に立ててくださいました。数多くの危機と逆境の中でも主はダビデを見捨てられず、彼を導いてくださったのです。しかし、ダビデの心にはいつも引っかかることがありました。それは自分は王宮に住んでいるのに、主は数百年前に作られた小さな幕屋におられるということでした。そこで、彼は主のための神殿を建てさせてくださいと主に願いましたが、主はその願いを断られました。(歴代誌上17章) しかし、主は彼の息子であるソロモンによる神殿建築は許可してくださいました。 その後、ソロモンが王になってから、イスラエルは高級な材料を集めてエルサレムのに主なる神の神殿を建て、完成しました。そして、古い聖幕にあった掟の箱を運び、新しい神殿の至聖所に置きました。その時、レビ族の祭司たちは多くの楽器を演奏し、神を賛美しました。その時、主の神殿に雲が満ち、祭司長たちが奉仕を続けられないほどになりました。聖書で雲が持つイメージは、神の栄光と臨在を意味する場合が多いですが、この雲に満ちた神殿によって主なる神の栄光と臨在がイスラエルに与えられたという意味でした。そのように神の栄光と臨在の雲が神殿に満ちた時、ソロモンは主に祈り始めました。その内容が今日の本文である歴代下6章の言葉なのです。この時、ソロモンは大きく二つの祈りを(細かく分けるともっと多くなるが)しました。第一に、神の民のための祈りでした。「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(歴代誌下6:21) 神の民イスラエルの切実な祈りを聞いてくださり、何よりも彼らの悔い改めを聞いて答えてくださいというソロモンの願いでした。 第二に、異邦人のための祈りでした。「更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、大いなる御名、力強い御手、伸ばされた御腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天から耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。」(歴代誌下6:32-33) 異邦人たちも主の神殿に来て祈るなら、憐れんでくださることを祈ります。この落成式の物語を通じて私たちは3つの点を知ることができます。①神殿は天におられる主なる神が、地上のご自分の民といつも共におられることを象徴するご臨在の象徴。②神殿は地上の民が天におられる主なる神に祈り、悔い改め、礼拝するようにする執成しの象徴。③神殿は主なる神の民ではない異邦人も、神を知り、帰ってきて、主の民になれる贖罪の象徴。これらがエルサレムの神殿が持つ主な機能でした。このように、はるかに高い天の神は、地上の罪人たち(イスラエル人、異邦人を問わず)との関係を結んでいかれるために、神殿という象徴的な建物の建設を、この地上に許してくださったのです。 3. 私たちにおいての神殿の意味 ですが、先ほどお話ししたように西暦70年、この神殿という建築物は完全に破壊され、もはや、この地球上に主なる神の神殿は存在しなくなってしまいました。それでは、神殿という建物が無くなった、この時代に、私たちは果たして、どこから神の臨在、執成し、贖罪の象徴である神殿を見つけることが出来ますでしょうか。今日の新約本文は、この時代においての神殿についての大事な手がかりになります。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) イエス・キリストを中心に主の民が一つになる時、その集まりが神のお住まい、つまり、聖なる神殿となると教えているのです。キリストを中心とし、主の民が一つになるというのは、どういう意味なのでしょうか? それは「教会」のことでしょう。したがって、キリストを頭とする教会共同体こそ、主なる神のご臨在のところ、つまり、この時代の神殿であるのです。もちろん、この教会とは、単なる建物のことではないでしょう。 主イエスによって贖われ、主への信仰によって集まり、礼拝し、御言葉を宣べ伝える共同体が、そして、その共同体を成す私たち一人一人が真の意味としての教会であるからです。 締め括り 教会の建物を教会そのものだと誤解する人々も、世の中にはいます。しかし、教会堂はただの建物に過ぎず、教会そのものだとは言えません。教会はキリストを頭として一つとなったキリスト者の共同体だからです。ですから、教会堂を教会そのものだと誤解してはなりません。神殿は神のご臨在、執成し、贖罪を象徴する旧約の存在です。そして、主イエスが十字架で死に、復活してからは、主なる神の臨在、執成し、贖罪は、イエス・キリストによってのみ、この世に伝えられるようになりました。したがって、神の真の神殿のかなめ石は主イエスであり、その方を頭とする教会共同体こそが、この時代の神殿になるのです。だから私たち志免教会も主イエスによって、この時代の神殿となるのです。 私たちと共におられるキリストの恵みによって、主なる神はご臨在なさり、キリストの執成しによって、私たちは、主なる神と交わり、キリストの贖いによって、私たちは赦されるのです。この時代の神殿は、まさに主の教会である私たちです。このような神殿への知識を持ち、主の神殿となる教会として歩んでいきたいと思います。

一死覚悟

イザヤ書55章8~9節(旧1153頁) マタイによる福音書16章24~25節(新32頁) 前置き 先日、大分県竹田市にあるカクレキリシタン遺跡に行ってきました。遺跡を訪問する前に竹田キリシタン資料館で案内人の説明を聞かせてもらいましたが、興味深い話がありました。当時、竹田地域(豊後)の領主がキリシタンだったので、他地域のキリシタンより被害が少なかったということでした。領主の配慮で洞窟礼拝堂といくつかの見張り櫓があって、政府の人々が取り締まりに来たら、素早く対応したとのことでした。その理由か、カクサレタキリシタンという表現も何度か聞きました。しかし、領主の保護がなかった地域のキリシタンは、大勢の人々が信仰を守るために殉教しました。カクレキリシタンの物語は、日本のキリスト教にあって欠かせない重要な殉教の歴史です。なぜ、日本の数多くのキリシタンは命をかけてまで、信仰を守ろうとしたのでしょうか? その歴史を通して、私たちが学ぶべきことは何でしょうか? 1.「フィリポ・カイサリアで」 ある日、イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地域に行かれました。そこで主は尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13) すると弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言う人々がいる。」(14)と答えました。 主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15)と聞き返されました。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16) 主は大喜びで、ペトロをほめられました。ペトロが正しい信仰告白をしたからです。しばらくしてイエスは、弟子たちに「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(21)と打ち明けられました。その時、先ほど、正しい信仰告白でほめられたペトロが、主に叫びました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22) ペトロは、主への思いやりで、そんなに言ったのですが、イエスの反応は衝撃的でした。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23)イエスがペトロをまるでサタンでもあるかのように厳しく叱られたからです。 イエスは、そんなに厳しくペトロを叱らる必要がありましたでしょうか? ペトロはイエスへの純粋な思いで心配しただけでしょう。しかし、その後、主イエスが言われた言葉、すなわち今日の新約本文を通じて、なぜイエスがそんなに厳しくペトロを叱られたのかを推し量ることができます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25)(詳しい説明は後で)フィリポ・カイサリア地域は、旧約時代には「バアル・ガド」(ヨシュア11:17,12:7,13:5)と呼ばれました。バアル神崇拝の地域だったのです。また、その後には古代ギリシャの神である「パーン」の神殿があったとも言われます。さらにカイサリアという地名からも分かるように、ローマの皇帝(カエサル)を神格化する意味の場所でもありました。すなわち、フィリポ・カイサリアは唯一の主なる神を否定する偶像と皇帝崇拝にあふれていた「偶像崇拝」の町だったのです。イエスがフィリポ・カイサリア地域で弟子たちに、「わたしを何者だと思うか。」とお尋ねになった理由は、偶像に満ちたこの世にあって、ひとえにイエス·キリストだけが真の神であり、王であり、主であることを今後教会を建てていく弟子たちに確認されるためでした。 2.人の思いと神の御心。 イエスが、罪人の救い主となり、世の真の支配者となられるためには、必須不可欠な前提がありました。それはイエスが十字架にかけられ、人類の贖いと神と世の和解のために死んでくださること、いわば「十字架での犠牲」を成し遂げることでした。真の神であるイエス·キリストが、真の人間としてこの世に受肉された理由も、普通の罪人なら絶対に成し遂げることが出来ない、十字架での犠牲を背負われるためでした。つまり、フィリポ・カイサリアでペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉は、「イエスが必ず十字架での犠牲を成し遂げ、死ななければならない方」になるための前提だったのです。ところが、そんな立派な告白をしたペトロが、しばらく後にイエスへの自分の個人的な思いのため「とんでもないことです。そんなこと(十字架での犠牲)があってはなりません。」と反対したので、前の告白と完全に矛盾になってしまったわけです。ペトロは自分も知らないうちに「この世を救うイエスの十字架での犠牲は決して起きてはならない。」と言ってしまったのです。イエスが怒られた理由は、ペトロの思いが邪悪だったからではありません。主もペトロの思いを知っておられました。しかし、その思いの中に隠されている「イエスが十字架で死んではならない」という思いが、主なる神の御心である「イエスの犠牲によって罪人とこの世を救う。」に逆らうものだったからです。 時々、私たちはこんなに考えるかもしれません。「○○したほうがもっと良いのに、なぜ神は○○されないんだろう。」例えば「神が全日本人の夢に現れてイエスを信じろと一言だけ言われれば、みんなが一晩にしてキリスト者になるはずなのに、なぜ全能の神はそうされないんだろう。」みたいな考えです。全能な神であると聖書も力強く語っているのに、なぜ神は常に、私たちの目に難しい道だけを選ばれるだろうか理解できない時が多いです。しかし、そんな時、私たちは旧約聖書のイザヤ書を憶えなければなりません。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-9) 神がなぜそのように私たちの考えと常識とは違う方法で働かれるのか、私たち人間は、死ぬまで分からないでしょう。しかし、明らかなことは、主なる神には人間の思いをはるかに超える御心があるということ、だから、主なる神の御心が、自分の思いと違うといっても、私たちは、主に信頼して従わなければならないということです。神の御心と人間の思いはまったく違います。時には人間の思いのほうがより効率的で速い道のように見えるかもしれません。しかし、聖書は語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 3. 自分の十字架を背負う闘 – 一死覚悟 信仰の難しいところは、そこにあります。自分の思いがより正しく判断されても、まずは主なる神の御心はどうか聖書から確かめ、その御心と合わないなら、自分の意志をあきらめ、主の御心に従うこと、それが信仰だからです。人間的な見方で、イエスの死を反対したペトロの行動は悪いことではないかもしれません。むしろ、主イエスへの愛の行動でした。しかし、主なる神の見方では、ペトロの行動は神の御心に逆らう悪行でした。主イエスが死ななければ罪人とこの世への救いが成し遂げられず、ここにいる私たちの救いもなかったことになるからです。このような信仰の難しさのため、信仰をあきらめる人も歴史上いたでしょう。だから主イエスは、こんな趣旨で言われたわけです。「あなたの思いという十字架を背負い、わたしにならって自分の思いを捨て、主なる神の御心に聞き従いなさい。」到底理解できない状況、聞き従いたくない時にも、それが主の御心なら信じ従うこと、それがまさに十字架の道であり、信仰の道であるのです。そして聖書は語ります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」主の御心に従うためには、命をかけなければならない時がやってくるかもしれないということです。主の御心への服従のために、命をかける覚悟があるかどうか、聖書は尋ねているのです。 8月ですので、歴史の話しで例をあげたいと思います。1939年、日本帝国は「宗教団体法」を成立し、翌年から日本のプロテスタント教会を統合して政府に協力する教会にしました。その結果、何人かの影響力ある牧師たちの「神社参拝は国家儀礼である。」という主張によって、数多くのキリスト者が妥協し、神社参拝を犯しました。「そうだ。国家儀礼に過ぎない。家族のために、教会のために今は生き残るのが先だ。」死ぬよりは生き残って、後日を約しようと思ったからです。そのためか、日本のプロテスタント教会には目立つ殉教者は見られません。誰かは日本のプロテスタントに殉教者が皆無だと嘆きます。今日の説教題は「一死覚悟」ですが、植民地朝鮮の牧師「チュ·ギチョル」さんの説教題から引用しました。彼は「人間にはただ一度死ぬことが定まっている。(ヘブライ9:27)その一度の死を愛する主のために覚悟する。」という志を立て、拷問の中で死んでいきました。国家儀礼だと思ったら、一度だけ頭を下げたら、老母、妻、二人の息子の家長だった彼は死ななかったでしょう。しかし、カクレキリシタンが「ふみえ」踏まず、命をかけたように、彼は主を裏切らず信仰のために死を選んだのです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(啓示録2:10) 彼は自分の思いではなく、主の御心に聞き従ったのです。 締め括り 私が申し上げたいのは、朝鮮の教会が日本の教会より優れていたということではありません。チュ·ギチョル牧師のような、何人かの朝鮮の殉教者たちは素晴らしかったのですが、その数百倍の朝鮮教会の牧師たちは進んでみそぎばらいをし、宮城遥拝を犯し、チュ·ギチョル牧師は彼らに徹底的に見捨てられたからです。そういう意味として、朝鮮の教会も偶像崇拝の歴史から自由ではありません。しかし、誰かは主の御心を自分の思いより大事にし、自分の命をかけて信仰を守ったのです。それが「一死覚悟」の信仰だったのです。そして、それはカクレキリシタンの信仰でもあったのです。私たちは、なぜ主を信じているのでしょうか? 私たちは果たして自分自身、自分の家族、自分の必要より、主への信仰をさらに大事にし、命をかけてまで守る覚悟をしていますでしょうか? ただ、この志免教会の穏やかな雰囲気、心の安らぎ、あるいは他の理由のために習慣的に教会に通い、信仰生活を続けているのではないでしょうか? いつか自分の思いのために、主への信仰をかるがるに捨ててしまうのではないでしょうか? 何よりも、誰よりも、私たちのために十字架で死んでくださった方への信仰を大切に守り、一死覚悟のあるキリスト者として生きることを願います。歴史の8月、歴史に照らして私たちの信仰を顧み、成長させていきたいと思います。

権威に対する教会のあり方。

申命記16章18~20節 (旧307頁) ローマの信徒への手紙13章1~7節(新292頁) 1.権威とは何か? 今日の本文の権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を訳した表現です。「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の権力、権威」として使われています。この世には創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。主が創り主の権威、すなわち主の「エクスシア」をもって世界を造られ、また被造物への支配のために、人間にも「エクスシア」を与えてくださったのです。なぜなら、神はご自分の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階にあって保たれることを望んでおられたからです。ですので、「権威」というのは、創り主なる神から生まれた一種の被造物だと理解しても問題ないでしょう。要すると「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をご統治なさるためになければならない道具なのです。「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)イエス・キリストは十字架で死に復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威(エクスシア)をご自身に与えてくださったと言われました。創り主なる神は、終末が到来するまで、ご自分による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の統治の道具です。したがって、私たちは権威について、最初から神のものであるという認識を持つべきです。 だから、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文を取り上げるべきです。初めに世界を創造された主は人間に、こう命じられました。「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28) 主は人間が栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。主は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは人間への神の「祝福」だったのです。ただし、人間はその権威を身勝手に振るってはなりません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることを望まれただけで、その権威によって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するためにくださったわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのためのものになってはならず、支配者の権威を通して被支配者も祝福を得る、みんなのための神の祝福にならなければなりません。支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が一緒に栄えていくように権威を使うことです。聖書が示す望ましい支配者のあり方はそのような姿なのです。 2.権威(支配者)への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者がどのようなやり方で世界を支配しているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を振るうっているか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒体として権威を用いているか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。私たちをご支配なさる方は、ひとえに三位一体なる神だけであり、とりわけ、直接、神から権威を授けられたイエス・キリストこそが、私たちの真の支配者、主であるのです。ならば、支配者への私たちの服従も、その根本は神とキリストへの服従から始まるべきなのです。もし、支配者が自分の野望や権力ではなく、主なる神の御心にかなう支配、すなわち世界の平和、人類の共栄のために権威を扱うならば、私たちは彼らの権威に積極的な協力と応援をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の権力だけのために権威を勝手に振るうならば、私たちは、真の主であるキリストのご意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければなりません。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が主から与えられた、その権威を正しく用いる時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するものです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用するならば、私たちは服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はどこまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない主なる神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、私たちは、支配者の武力と暴力に屈してはなりません。ただ支配者によって神の権威が正しく示される時のみ、私たちは彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を担ってこの世を生きているのです。無条件的な国家権力への盲従は正しくありません。いつも「私たちの真の支配者は、主イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。ある国の国民という認識に先だって、御国の民という信仰を先にとるべきです。ひたすら服従の対象は主なる神だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 邪悪な権威の時代20世紀 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日広島にリトルボーイ、また8月9日長崎にはファットマンといった核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の命が消えてしまいました。毎年 8月になると、日本では終戦(敗戦)と、戦争犠牲者のための記念式を催します。アメリカには多くの犠牲者を避ける選択肢があったにもかかわらず、支配者の誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時のアメリカの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかにアメリカの過ちです。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、戦場に追い立ててしまいました。中国では日本軍の暴挙により、1000万人以上の人々が死に、自国民の中にも(内、植民地民も)神風特攻隊や徴用兵として死んだ人が数え切れません。ただし、当時の植民地民は日本人と分類され、詳細な人数は不明です。沖縄の無実な民間人数万が日本軍によって自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。日本全体で、戦争による日本人の犠牲者が約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。 20世紀は悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、人々を死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目で、為政者の論理を正義としました。アメリカの支配者たちは、自国の軍事力を見せつけるために、日本に核兵器を落としました。日本もアメリカも、自分の支配者を支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」といったご命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝を強行し、軍部に協力しました。植民地の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち教会は邪悪な支配者のために、すでに一度主を裏切った存在です。これから絶対に忘れてはならない私たちの悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するのでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる主のみ旨に従い、主なる神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、主なる神の民です。そのアイデンティティーを決して忘れてはなりません。 締め括り 「ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」申命記16章20節には、主なる神の民が追い求めるべき生き方が書いてあります。これは、支配者たちにも適用すべき生き方だと思います。志免教会の兄弟姉妹の皆さんと日本の教会の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正しい政治を貫く支配者が、特にキリスト者の支配者たちが立ち上がることを祈ります。支配者の権威はひとえに主なる神から与えられるものです。支配者は、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時にはじめて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができるのです。私たちは、この世に属している存在ではありません。御国に属している神の民です。したがって、歪んでいる世界のために正しい怒りを発し、主に祈りつつ投票などの政治的な行いに参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような思いを持って支配者と権威者のために祈り、生きていく私たちでありますように祈ります。

さまよい人

※イメージ説明:『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?  作者 ポール・ゴーギャン 製作年 1897年 – 1898年 イザヤ41章8〜16節(旧1126頁)  ヘブライ人への手紙11章8〜10節(新415頁) 前置き 人間は、どこから来てどこへ行くのでしょうか? 誰も初めと終わりを知らないままこの世に生まれます。私たち皆が親のもとに生まれたので、私たちの初めは親、さらには先祖にあると言えるかもしれません。しかし、実際、私たちの両親や先祖も、自分がどこから来てどこに行くのかを知らずに生きてきたと思います。ただ生まれ、この世を生きていくことが人間に与えられた一般的な人生の理由ではないでしょうか? そのため、私たち人間は生まれつき、さまよい人として生きる存在であるかもしれません。フランスの有名な画家であるポール·ゴーギャンは1898年「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という最後の作品を完成した後、自殺をくわだてました。自殺は失敗しましたが、彼は結局1903年に病気で死んでしまいます。彼は自分の人生を振り返り、自分がどこから来てどこに行くのか、答えを出すことができませんでした。フランシス·シェーファーという神学者は、ゴーギャンは結局「来たところも、何者かも、行く先も分からずに死んだ。」と自分の著書を通して解釈しました。ゴーギャンだけでなく、大勢の人々が自分の起源と行き先を知りません。本当に人間は一生さまよいの中で苦しみ、短い人生を終える悲惨な存在であるかもしれません。 1。さまよい人として生まれる人間。 自分がどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのかに対する質問は、人間を一生苦しめる宿題です。多くの人々が成功のため、富のため、名誉のために自分の人生を熱心に生きていきますが、成功と富と名誉を達成したとしても、自分が何者であり、なぜ生きているのかという最も重要な謎の答えを得ることはできません。結局、成功も富も名誉も、私たちに根本的な正解を知らせるのはできないからです。そんな理由で、人々は宗教を持つようになります。しかし、宗教を持ったとしても、人間、特に自分の存在理由について明確な説明を教えてもらうことが出来ないので、宗教があるにもかかわらず人生の最後の瞬間が近づいてくると恐怖に震えるようになる人が多いです。たとえば、日本人の精神に莫大な影響を及ぼした仏教でさえ、己の業報に従って輪廻を重ねると教えます。しかし、人間の起源と意味については、明確に説明しません。日本の民族宗教である神道も八百万の神々が助けてくれると語りますが、人がどこから来て、どこへ行き、自分が何者なのかについては明快に説明しません。自分はこのまま消えてしまうのか? 自分は何者なのか? この原始的で根本的で限りのないような質問は、人間をみすぼらしくします。そんな世の中に向かって、主なる神のみ言葉、聖書の言葉はこう語ります。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1) 聖書は、すべてのものの初めについて明確に語ります。「この世界は主なる神によって造られた。」聖書は、宇宙の起源を知っているのです。そして、その初めを許された神こそ、すべての人間に命を与えてくださり「自分」という存在の根源になってくださる創り主であることを証しているのです。旧約聖書のイザヤ書には、こう書いてあります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6) また、新約聖書ヨハネの黙示録はこう述べています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13) このように聖書は、この世の初めと終わりが「主なる神」から生まれたと明確に証しています。私たち人間は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」絶えず自らの存在理由について悩み煩います。しかし、聖書は明らかに 「あなたは主なる神から来た。あなたは主なる神の子供として生まれた。したがって、あなたは主なる神に帰らなければならない。」と教えます。キリスト者である私たちは、人生においての数多くの悩みと苦しみ、心配のため、神に祈ります。しかし、神の民である私たちは、自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、自分がどこに行くのかを心配しません。最も根源的な疑問が、すでに解決されたので、比較的に小さい悩みのために祈るだけです。もしかしたら、私たちの今の心配は根源的な問題が解決された存在の小さい悩みにすぎないのかもしれません。 2.主なる神との出会い – 全能者との同行。 伝道が難しい時代となりました。路傍伝道をしようとしても警察にあらかじめ申し出しなければなりません。学校の前での伝道も法律的な問題になる時代です。ポストに伝道チラシを入れたり、地域新聞の小さな広告を載せたりする程度が、現代日本においてできる最善の伝道方法であるかもしれません。しかし、私たちの最も大事な伝道は、ただ、人を教会堂に連れてくることではありません。もちろん、人を集める伝道も無くてはなりません。誰も来ないなら、教会は消滅してしまうからです。しかし、教会の伝道の最も重要な理由は、人類の共通の質問「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」に対する正解を宣べ伝えることではないでしょうか? 自分がどこから来たのかも分からずに迷っている人に「あなたは、あなたの主である神から来たのです。」自分の存在理由が分からずに悲しんでいる人に「あなたは主なる神の大切な子供です。」自分がどこに行けばいいのか分からずに恐れている人に「あなたは主なる神に帰らなければなりません。」と正解を教えることこそ、真の伝道ではないでしょうか? 単に「この世では幸あれ、あの世では冥福あれ」という現世と来世の安らぎのための宗教的な口車ではなく、人間の根源的な恐れと不安を乗り切らせてくださる「全能者」の存在を伝えることこそ、私たちが行うべき真の伝道ではないでしょうか? 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブライ11:8-10)神に出会い、将来への不安があるにもかかわらず、主に寄りかかって、行き先も知らずに進んでいったアブラハムのように、真の全能者である神に出会う時はじめて、人は人生の意味を悟り、主に寄りかかって自分の進むべき道へ進んでいくことが出来るのではないでしょうか。神は人間に使命というものを与えてくださいました。それは行き先の知らない人生の道を、ただ心配して生きるのではなく「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創1:28)と言われた、人生の主である神が共におられるのを信じ、心配を捨てて主の民として生きていくことです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10) 「すべての初めであり、すべての意味であり、すべての終わりである全能なる神が、私たちの助けになってくださるから、私たちは主なる神と共に歩んでいく。」それこそが、まさに人生の真の理由ではないでしょうか。 締め括り 神がイエス·キリストをこの世に遣わされた理由は、人生の初めと終わり、人生の意味を知らずにさまよう人々を全能なる神に導いてくださるためです。神を離れて罪の中にさまよっている人間が、このイエスによって自分の罪に気づき、悔い改め、赦され、神のもとに再び立ち返らせてくださるために、主イエスは来られたのです。神は人類への愛をもって今も人々を招いておられます。さまよい人として生まれた私たちは、このイエスによって自分の進むべき道を見つけることになり、この世のすべてを創造された真の主に帰るようになるのです。私たちは主なる神から来て、主なる神の大切な子供として生き、また、主なる神に帰っていくことでしょう。人生最大の謎への答えをすでにいただき、私たちは主なる神と共に人生を生きていくことでしょう。それがキリスト者に与えられた真の祝福と恵みではないでしょうか?