ここが神の住まい。
佐賀めぐみ教会 海東強 伝道師 イザヤ書57章19節(旧1156頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) アメリカの西部開拓時代。一人のならず者の男が聖書を開きながら、主イエスの信仰に篤い男性に語り掛けます。 「聖書を読んだことがあるか?俺は一度読んだ。8歳の時だ。俺の父はウイスキーの飲みすぎで死んだ。母親はある日、駅で「この本を読みなさい」と聖書をくれた。母親は列車のチケットを買いに行くといった。俺は母親の言うとおりにした。一生懸命聖書を駅のベンチに座り端から端まで読んだ。読み終わるまでに3日間かかった。母親は帰ってこなかった。家族とはそれっきりだ」 先日、アメリカの聖書学者であり映画研究家のアデル・ラインハルツが綴った「ハリウッド映画と聖書」という本を読んで知った一本の西部劇があります。2007年の『3時10分、決断のとき』という作品です。鑑賞し強い衝撃を受けました。今日の聖書箇所が語るメッセージに関わりがあるので、少し触れさせていただきたいと思います。 19世紀。南北戦争が終わったばかりで、まだまだ無法者がはびこるアメリカのアリゾナ州で、強盗と殺人を繰り返した、伝説の早打ちの名手でもある凶悪犯ウェイドが逮捕されます。一方で、体が不自由ながら小さい牧場を経営する敬虔なキリスト者のエヴァンスは、牧場を維持する金を稼ぐため、悪党ウェイドを護送する一員として旅をします。悪党ウェイドは旧約聖書の箴言をはじめ、聖書の一説を引用しながら人々の心を掴み信用させます。 手っ取り早く、人のものを奪えば簡単に金は稼げるのに、なぜそうしないか?悪党ウェイドが、エヴァンスに尋ねます。「俺は神に背を向けず生きる。この生き方を子どもたちにも伝えるためだ」といいます。「俺を逃がせば、約束の二倍の報酬を現金で渡すぞ」と悪党ウェイドから買収を持ちかけられても、エヴァンスは応じません。クライマックス、彼らが最後に豪華な宿に宿泊し、そこに置かれていた聖書を開きながら、悪党ウェイドが自らの過去をはじめて語る台詞が冒頭のものです。 幼い頃、自分を捨てた親から渡された唯一の財産が聖書だった悪人。最も信頼していた親に見捨てられ、それ以降誰も信じられず、その信じられない人々が信じる聖書を利用しながら、悪党ウェイドは幼い頃から世の中を一人きり生き抜いてきました。聖書を用いれば善人とみなされ、神の国の住人として受け入れられる手段を彼は知り、利用します。彼に信仰はないはずでした。聖書はただ無常なこの世を渡るための道具でした。 しかし、聖書を、主イエスの教えを生きようとするエヴァンスの姿を通じ、悪党ウェイドの中に変化を与えていきます。映画の最後の最後、過去や生い立ちから切り離された、彼なりの神を前にした悔い改めと、正義が行われることになります。 今日与えられた聖書箇所には、私達が今までたとえ神も希望をも知らなかったとしても、キリストに招かれ、主にあって一つとなることが解かれます。信仰とは何か、赦しとは何か、平和とは何か、神のすまいはどこにあるのか?…など様々な神学的テーマが語られます。主にとらえられ、導かれる人々は、地上の人間における厳しい裏切りや競争の世界にあったとしても、あらゆる壁を越え、隔てを打ち破り、真の平和に向かう人物に変えられていきます。冒頭で語った映画と同様、この聖書箇所はそのことを私達に教えてくれます。ぜひ皆さんと味わっていきたいと思います。 今日の11節には異邦人について書かれます。「あなた方は以前には肉によれば異邦人であり」とあります。この手紙の著者がユダヤ人キリスト者であって、読者が主に異邦人キリスト者であったことを示していると思われます。改めて語る必要はありませんが、この教会にいる私達も異邦人キリスト者の一人です。ユダヤ信仰の中にある限り、ユダヤ人でない異邦人の私達は、決して神の救いに入ることはありませんでした。12節にあるように、私達はこの世の中で希望も持たず、神を知ることなく生きていた…と表現されるのです。 ユダヤ民族以外は神の救いに漏れているという考えがあることで、ユダヤ民族とそれ以外の民族で対立のきっかけは生まれます。私は、今日の箇所でユダヤ教のように、キリストを知らなければ決して人は救いも希望もない…ということを言いたいのではありません。ただ、キリストに招かれ救われ、一つにされた私達にとって、キリストを知らずに生きていた時は、確かに望みも神もなかったと、いえるのではないか?とここから語りたいのです。主イエスへの信仰を告白したのが、たとえ数日前、数年前、数十年前だったとしても、私達は主を信じるまでは、まるでユダヤ教の人たちが自分たちの民族とそれ以外の異邦人としてとらえていた時代と同じ程度の違いがあることを、この箇所は私達に呼び起こしてくれるのです。 ユダヤ教とそれ以外。その垣根を、私達は主イエスを知らなかった時と知ってからの喜びに、率直に省みることができるのです。また14節には「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」とあります。信仰を隔てていたのは、神を信じるか否かだけではなく、イスラエルの民の持つ律法が隔ての明らかな一つであったことを意味します。ここでパウロは律法そのものが廃棄されなければならないこと、律法があるために遠い者と近い者という隔てが生れていたと考えるのです。そこにこそ、敵意があったのでした。だからこそ、14節のはじめにある、キリストはわたしたちの平和であります…というように、キリストの十字架によってユダヤ人も異邦人も、割礼がある人もない人も、律法を持つ人も持たない人も、一つのからだとして神と和解し、平和の福音を告げ知らされることになったのでした。 17節で、キリストがおいでになり、遠くに離れていても、近くにいても、平和の福音を告げ知らせられた…とあります。キリストご自身が伝えてくださらなかったら、私達は福音を知らず、私達は福音をこの地上の現実に生きることはできなかったことでしょう。主イエスによって福音が、隔てを打ち破る平和が教えられなかったら、今も私達は世界の中で異邦人、よそ者としての敵意の中で怒りを抱えて生きていたのかもしれません。しかしもはや、聖なる国の住民として、敵意は砕かれ、共に神に近づく者とされました。そのさらなる証といえる言葉が18節に含まれます。隔てを越えてキリストにより招かれた人々が一つの霊に結ばれます。そして「御父に近づくことができるのです」と書かれます。ここには近づける対象を神とは記しません。御父、お父さんと書かれています。神を父に例えるほどに近い存在として表現し、近づく自由が与えられているのです。 ところで、今日の聖書箇所には教会との言葉は出てきません。しかし主イエスのもとに集められた、この送り先のエフェソの教会での信者に対して、19節から激励のメッセージがあります。有名な「要石はキリスト・イエス」という表現です。教会での説教者を表現するとも思われる使徒や預言者の土台の上に建てられる、信仰を持つ神の家族。その最も下で揺らぐことなく支え、決定的な方向付けをする存在こそ、隅のかしら石、要石なるイエス・キリストなのです。 この要石に支えられ組み合わされた建物は、成長する、と書かれます。もう地上の私達が住むためだけの家とは異なり、主における聖なる神殿は、まさに私達と同じ“からだ”そのもともいえます。つまり教会とは、建物であって、キリストのからだでもあります。 教会における様々なイメージとして最後に書かれるのが、「霊の働きによって神の住まいとなる」との表現です。神の住まいとは、唯一、霊の働きによって、主において実現されるものです。つまり教会とは、主と聖霊の働きにあって、はじめて神の住まわれるところとなる、神が生きておられる存在となることを伝えます。へだたり打ち破られ、二つのものが一つになり、敵意が消えて、真の平和を共に生きる。これは教会堂そのものであることと同様に、私達の内側、私達のからだそのものに求められるものともいえます。 真の平和について…。確かに目に見える紛争や戦争、命を奪い合う対立が止むことこそが平和です。祈り求めないわけではありません。しかし常に私達は地上での気忙しさ、様々なかたちの要求を自分自身に与え、苦しみを重ねます。苦しみを増し加える中で、私達は神の前での罪を知ります。私達はその罪を認めなければなりません。そうあってこそ、私達に平和を教え、そして与えてくださいとの主への祈りが切実になると思えるのです。 本当の平和とは何か?創世記4章に現れる、人類のはじめての殺人とされる、兄カインが神から愛された弟アベルの命を奪う物語。アベルから流れた血は土の中から神に向かって呪いを叫びます。それはまさにカインへの報復への呪いでした。世界の紛争の中に、報復と呪いは充満しています。しかし主イエスが地上に現れ、自ら十字架で流した血をもって私達の罪を贖い、救いをもたらしてくれました。だからこそ私達は今、真の平和への祈りを合わせることができます。しかし弱い私達は常に報復への思いに駆り立てられるようです。 先日、著述家である河野義行さんの本『命ある限り』を読みました。ご存じのように、河野さんは1994年(平成6年)6月に発生した、オウム真理教による、松本サリン事件の被害者です。サリンにより奥様は意識不明の重体に陥り、2008年に60歳で亡くなりました。河野さんは松本サリン事件に際して事件の第一通報者で、河野さん宅に農薬があったことなどから事件への関与が疑われます。地元の長野の地方紙、全国紙を含め、多くのメディアが河野さんを犯人と決め付けます。その後山梨県のオウム真理教施設周辺で不審物が発見され、1995年3月20日の地下鉄サリン事件により、松本サリン事件もオウムの犯行と明らかになり、河野さんへの疑いは解消されます。 河野さんについて知りたいと思った最大の原因は、河野さんが許しの中に生きるためでした。河野さんは松本サリン事件で、サリンを噴霧した車を制作したとして懲役十年の刑期を満了した、オウム信者Fさんと2006年に出会います。Fさんはオウムの後継団体アレフの信者として謝罪のために河野さん宅を訪れます。河野さんの奥さんが重篤な後遺症を患う中で、謝罪をするFさんは、ただただいたたまれない様子だったといいます。当時について河野さんは「私がすることは、妻の回復を願うことだけだった。彼のやったことに対して恨みはなかった。第一彼は刑期を務めてきているのだ。社会的制裁を彼はすでに受けている」と振り返ります。 Fさんはテロ計画はもとよりサリンの噴霧車とは知らず、溶接の作業に手伝ったことだけで、懲役十年を刑に処されます。 河野さんにすれば、Fさんのそれはまったく推定有罪に縛られた自分の苦しみでした。Fさんは受刑中に、植木の選定作業を覚えたといい、河野さんは「それならうちの庭の剪定もやってよ」とお願いします。Fさんは河野さんの家を訪れる庭師となり、家族とも交流を持ち、河野さんと釣りに共に行く友人となります。その後、Fさんのオウムをめぐる信仰から脱却していったといいます。 なぜ河野さんは、妻が死の時まで後遺症に苦しませ、それまでの日常生活を奪ったオウム真理教の一人Fさんを許せたのでしょうか?河野さんはこう語ります。「社会、メディアが私に期待しているのは教祖麻原に対する血を吐く恨みの言葉なのだろう。しかし私も家族もこんなにひどい思いをした上に、さらに事件の首謀者を恨み続けて、人生を無駄はしたくない。人を恨むことは限りある自分の人生をつまらなくしてしまう。さらにその行為はとてもエネルギーがいることだ。それだけのエネルギーを使うなら、妻の介護も含め、もっと別なより有意義なことに使いたい。それが私の本音なのである。」 河野さんが信仰を持つからこそ、恨みの空しさを語り、未来へのエネルギーに変えていこうとできるのでしょうか?決して信仰によるものだけではないのかもしれません。また信仰なくしては険しい地上での道を生きられないオウムの人々への共感があったからこそ、河野さんはこういった許しへの境地に至れたのかもしれません。逆に河野さんのような生き方をしたいと、河野さんを偶像化するような人々も現れるのかもしれませんが、河野さんはそれを避けるように奥様の死去の後は長野から鹿児島に移住し、今年74歳。釣り三昧の悠々自適な生活をされます。 私は決して河野さんを偶像化しようとはしません。河野さんがどのような信仰心を持つかも知りません。ただ私達キリスト者は河野さんの中にキリストの教えが生きていることに気づきます。カルトとして暴走する教団の中、考えることを止め、信仰ではなく組織の掟に従ってしまったFさんら有名・無名の信徒たち。松本サリン事件における第一通報者の河野さんを最も逮捕に近い容疑者として推定有罪として報道したマスコミ。そしてその報道を信じた私達国民一人ひとり。全員が予想もつかない事件の中で、疑心暗鬼に内なる闇を膨らませ、正義とは何か?見失っていきます。私達は常に大きな組織の力、時代の流れに揺さぶられます。その無力さを、河野さんは当事者の一人として、痛みと共に最も実感した一人でした。人一倍、人間の無力と罪に向き合わされた方でした。だからこそ、巨大な力の暴走に抗えずまきこまれたFさんらを許すにいたったのではないでしょうか。 私達は2000年前、主イエスを十字架につけてしまった、見過ごしてしまった私達の罪を知っています。そして復活して天に上り、私達を今、迎えてくれている主イエスの尽きることのない御国に生きることを信じています。 私達は罪を知っています。だからこそ呪いや恨みを叫ぶことより、罪を贖ってくれた主イエスの赦しを、希望を生きようとします。赦してこそ、私達は初めて本当の平和を祈り求めることができるのかもしれません。その祈りの場こそ、神が住み、霊の働きが充満する、キリストのからだであるこの教会であります。また同時に、ここで霊を注がれ、神が住むのは私達一人ひとりの内側であるともいえるのではないでしょうか。神が住むのは、建物にすぎない教会堂ではありません。神を信じる私達が集うこの場所であってこそ、はじめて神の住む教会は成り立ちます。 気づいていても、気づいていなくても、主に導かれて、霊を注がれ生きる人たち。その一人が河野さんかもしれません。私達はそのような人たちを通じ、隔たりを壊して、二つを一つにする存在の源、主イエスの偉大さに改めて気づかされます。これは大きな幸いであります。なぜなら、私達は迷っても、流されそうになっても立ち返る存在を、場所を与えられているからです。これからも皆さんと共に、隔たりを、敵意を越える、私達の中にたてる教会を共に生きたいと願います。 それでは祈ります。