わたしはブドウの木である。

ヨハネによる福音書15章1~17節(新354頁) 1.私は··· である。 新約聖書のヨハネによる福音書には、イエス・キリストの7つの自己宣言があります。それらは「私は···である」という表現を基本にします。ヨハネによる福音書でイエスは6章から15章にかけて「①私は命のパンである。(6:35) ②私は世の光である。(8:12) ③私は羊の門である。(10:7,9) ④私は良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は復活であり、命である。(11:25) ⑥私は道であり、真理であり、命である。(14:6) ⑦私はまことのブドウの木である。(15:1,5)」と宣言されました。ここで「私は···である」という表現の意味について考えてみたいと思います。私たちは自分という存在を定義する時、「私は誰である。」と言います。「私は日本人だ。私は会社員だ。私はキリスト者だ。」などで自分という存在を表します。「私は···である」という表現によって、自分を知らなかった人々が知るようになり、自分自身も自らへのアイデンティティを確立するようになるのです。ですから、自分が誰なのかを言うことは「自分」という存在を明らかにする、とても重要な意味を持ちます。旧約聖書の創世記3章で、主なる神はエジプト帝国の奴隷だったイスラエル民族を、神が示してくださる乳と蜜の流れる土地に導かれるために指導者をお選びになりました。彼がモーセでした。モーセが初めて神に出会い「あなたはどなたですか?(あなたの名は何ですか。)」と問うた時、主は言われました。「私はある。私はあるという者だ。」主なる神もご自身を紹介される時、「私は···である。」と言われたのです。 ところで、私たち人間が言う「私は···である」と神が言われる「私は···である」には大きな違いがあります。私たちは家族の影響や社会での地位(位置)によって「私は···である」と成り立たせられてきました。しかし、神は、この世の、どんな存在からも影響を受けることなく、自らを「私は···である」と定義されたのです。私たちの名前は家族につけてもらい、私たちの地位は日本という社会の中で成り立ってきました。しかし、神は誰からの助けも影響もなく、自らご自分の存在をお定めになったのです。「私はある。 私はあるという者だ。」という多少文法に合わないような表現は、意訳すると「私は私自身である。あるいは、私は自ら存在する者である」と言えます。これはヘブライ語では「エフエ・アシェル・エフエ」ギリシャ語では「エゴ·エイミー」を翻訳した表現です。神は自らご自身のことを定義された方です。他者の影響を決して受けておられない方です。神がご自身のことを自ら定義されるということは、神が世の中のすべてのものが出来る前からおられた存在という意味です。つまり、神は創り主であるという意味です。また、神がご自身のことを自ら定義されたということは、他者の影響なしで自ら判断される方、つまり、審判者であるということです。神が言われた「私は···である」とは、神こそが全ての上に立っておられる「絶対者である」ということを明らかに示す神的な宣言なのです。 だから神が「私は···である」と言われたのは「創り主、審判者、絶対者」であるという意味になるのです。今日の本文で、イエス・キリストは、この「私は···である。」という意味のギリシャ語「エゴ·エイミー」を用いて「私は(まことのブドウの木)である」と言われたのです。主イエスがご自身のことを神として定義されたということです。先ほど申し上げましたが、イエスはヨハネによる福音書で、7回ご自分について宣言されました。神であるイエスが「私は···である」つまり「エゴ·エイミー」と宣言されたのです。 ①私は神、生命のパンである。(6:35) ②私は神、世の光である。(8:12) ③私は神、羊の門である。(10:7,9) ④私は神、良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は神、復活であり、生命である。(11:25) ⑥私は神、道であり、真理であり、生命である。(14:6) ⑦私は神、まことのブドウの木である。(15:1,5)」ですので、私たちはこの7つの宣言の言葉を通じて、イエス·キリストがすなわち神であり、創り主であり、審判者であり、絶対者であり、また、私たちを愛して救ってくださる救い主であることが分かるようになるのです。 2.ブドウの木であるイエス。 そのイエスが、今日の本文で私たちに言われます。「私はまことのブドウの木である。」聖書においてブドウとは豊かさと神の祝福の象徴としてよく用いられる重要な果物です。そのため、新旧約聖書を問わず、さまざまな箇所で、ブドウが言及されたりします。ブドウの木は神に選ばれた民の象徴(ホセア10)、ブドウ畑はイスラエルを象徴する比喩(詩篇80)としてよく使われます。旧約聖書では、乳と蜜の流れる祝福の地をブドウに比喩する場合もあります。また、ブドウは実際にイスラエルの経済において、とても重要な資源でした。当時のブドウ農業は、新鮮な食糧を提供し、ブドウ酒を作る食材を生産し、人々には鉄分と必須ミネラルの供給する重要な農作物だったのです。というわけで、ブドウの木は代々栽培され、大事な財産としての割合を占めていたのです。それだけに、ブドウは神の祝福と密接な関りのある果物だったのです。そして、今日の本文は、この世に遣わされたメシア•イエスこそ、そのブドウに例えられる祝福の源であることを証しているのです。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ福音15:5) 先ほど「私は···である」という自己宣言で自らを神として示されたイエスは、また、ご自身をブドウの木であるとも言われました。神の祝福と恵みの象徴であるブドウの根源であるブドウの木を通じて、イエスが神の祝福と恵みをもたらす祝福の源であることを示されたわけです。そして、そのブドウの木であるイエスに従う主の民は、主にあって実を結ぶブドウの木の枝のような存在であることをも教えてくださったのです。ですが、今日の本文には、恐ろしい言葉もあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音15:2) もし、イエスというブドウの木につながったにも関わらず、実を結ばないならば、農夫である父なる神によって取り除かれるという話です。ということで、私たちはこのようにも考えうると思います。「実を結ばないと、自分の救いは取り消されるだろうか?」結論を言えば、そのような恐れでこの言葉を理解する必要はないということです。木につながっている枝が実を結へないのは「土地の養分が少ないか、木そのものに病気があるか、枝がつながっていないか」の中のどちらかです。父なる神が農夫であり、木はイエス·キリストであるなら、最も理想的な農場の姿ではないでしょうか? それなら実を結ばずにはいられないでしょう。枝が木につながっているならば、自然に実を結ぶようになるということです。 実を結ばないというのは、ブドウの木である「キリスト」につながっていないため、つまり主を信じておらず、御言葉に聞き従わないと言えるでしょう。主イエスを自分の希望とし、信頼して生きるならば、必ず主は実を結ばせてくださるでしょう。それでは、実とはどういうものなのでしょうか? それについては、ガラテヤ書の5章22-23節を通して探ってみることができます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」私たちは、主の民として生きながら聖霊のお導きによって「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を教わっていきます。この9つの実については次の機会に詳しく話してみたいと思います。その中でも今日の本文は「愛」をとても大切な「実」として話しています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音15:8,9,12)「私は•••である。」という言葉をもって、神であるご自分を証言されたイエスは、自らをブドウの木と示し、主の民が、そのブドウの木につながっている枝だと言われました。「私は自ら存在する者だ」という言葉で世のすべての被造物とご自身を区別された神ですが、イエス•キリストの「私はブドウの木である」という言葉によって、神はすべての被造物と区別されながらも、主の民と一つになって実を結ばせてくださる愛の神であることを教えてくださったのです。 締め括り 私たちは、今日の言葉を通じて、イエス·キリストが私たちにとって、どんなお方であるかを、もう一度学ぶことができます。イエスは、被造物と区別される、偉大な神でおられますが、遠くにおられる方ではなく、私たちとつながっている方であるということです。主イエスはブドウの木、主の民である教会は、ブドウの木の枝、そしてブドウの木を耕してくださる方は父なる神、実を結ばせてくださるは聖霊なる神です。このように、三位一体なる神が、イエス·キリストという仲保者を通して、常に教会と共におられながら、教会を見守っておられるということを今日の言葉を通じて憶えたいと思います。だから聖書はイエス·キリストを私たち教会の頭であると語っているのです。被造物があえて近づくことのできない絶対者である神ですが、イエス·キリストを通して、私たちと近くおられる主になってくださいました。朽ちた枝のような罪人であった私たちが、キリストによってまことのブドウの木の元気な枝になったのです。実を結ぶことができない弱い私たちがキリストによって実を鈴なりに結ぶことができるようになったのです。主イエスは神ですが、私たちの主であり、私たちを導いていかれる方です。私たちの頭であり、聖霊によって私たちに実を結ばせてくださるイエス·キリスト。今日の言葉を通じて、主の愛を憶えて生きる私たちでありますよう祈ります。

ここが神の住まい。

佐賀めぐみ教会 海東強 伝道師 イザヤ書57章19節(旧1156頁)  エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) アメリカの西部開拓時代。一人のならず者の男が聖書を開きながら、主イエスの信仰に篤い男性に語り掛けます。 「聖書を読んだことがあるか?俺は一度読んだ。8歳の時だ。俺の父はウイスキーの飲みすぎで死んだ。母親はある日、駅で「この本を読みなさい」と聖書をくれた。母親は列車のチケットを買いに行くといった。俺は母親の言うとおりにした。一生懸命聖書を駅のベンチに座り端から端まで読んだ。読み終わるまでに3日間かかった。母親は帰ってこなかった。家族とはそれっきりだ」 先日、アメリカの聖書学者であり映画研究家のアデル・ラインハルツが綴った「ハリウッド映画と聖書」という本を読んで知った一本の西部劇があります。2007年の『3時10分、決断のとき』という作品です。鑑賞し強い衝撃を受けました。今日の聖書箇所が語るメッセージに関わりがあるので、少し触れさせていただきたいと思います。 19世紀。南北戦争が終わったばかりで、まだまだ無法者がはびこるアメリカのアリゾナ州で、強盗と殺人を繰り返した、伝説の早打ちの名手でもある凶悪犯ウェイドが逮捕されます。一方で、体が不自由ながら小さい牧場を経営する敬虔なキリスト者のエヴァンスは、牧場を維持する金を稼ぐため、悪党ウェイドを護送する一員として旅をします。悪党ウェイドは旧約聖書の箴言をはじめ、聖書の一説を引用しながら人々の心を掴み信用させます。 手っ取り早く、人のものを奪えば簡単に金は稼げるのに、なぜそうしないか?悪党ウェイドが、エヴァンスに尋ねます。「俺は神に背を向けず生きる。この生き方を子どもたちにも伝えるためだ」といいます。「俺を逃がせば、約束の二倍の報酬を現金で渡すぞ」と悪党ウェイドから買収を持ちかけられても、エヴァンスは応じません。クライマックス、彼らが最後に豪華な宿に宿泊し、そこに置かれていた聖書を開きながら、悪党ウェイドが自らの過去をはじめて語る台詞が冒頭のものです。 幼い頃、自分を捨てた親から渡された唯一の財産が聖書だった悪人。最も信頼していた親に見捨てられ、それ以降誰も信じられず、その信じられない人々が信じる聖書を利用しながら、悪党ウェイドは幼い頃から世の中を一人きり生き抜いてきました。聖書を用いれば善人とみなされ、神の国の住人として受け入れられる手段を彼は知り、利用します。彼に信仰はないはずでした。聖書はただ無常なこの世を渡るための道具でした。 しかし、聖書を、主イエスの教えを生きようとするエヴァンスの姿を通じ、悪党ウェイドの中に変化を与えていきます。映画の最後の最後、過去や生い立ちから切り離された、彼なりの神を前にした悔い改めと、正義が行われることになります。 今日与えられた聖書箇所には、私達が今までたとえ神も希望をも知らなかったとしても、キリストに招かれ、主にあって一つとなることが解かれます。信仰とは何か、赦しとは何か、平和とは何か、神のすまいはどこにあるのか?…など様々な神学的テーマが語られます。主にとらえられ、導かれる人々は、地上の人間における厳しい裏切りや競争の世界にあったとしても、あらゆる壁を越え、隔てを打ち破り、真の平和に向かう人物に変えられていきます。冒頭で語った映画と同様、この聖書箇所はそのことを私達に教えてくれます。ぜひ皆さんと味わっていきたいと思います。 今日の11節には異邦人について書かれます。「あなた方は以前には肉によれば異邦人であり」とあります。この手紙の著者がユダヤ人キリスト者であって、読者が主に異邦人キリスト者であったことを示していると思われます。改めて語る必要はありませんが、この教会にいる私達も異邦人キリスト者の一人です。ユダヤ信仰の中にある限り、ユダヤ人でない異邦人の私達は、決して神の救いに入ることはありませんでした。12節にあるように、私達はこの世の中で希望も持たず、神を知ることなく生きていた…と表現されるのです。 ユダヤ民族以外は神の救いに漏れているという考えがあることで、ユダヤ民族とそれ以外の民族で対立のきっかけは生まれます。私は、今日の箇所でユダヤ教のように、キリストを知らなければ決して人は救いも希望もない…ということを言いたいのではありません。ただ、キリストに招かれ救われ、一つにされた私達にとって、キリストを知らずに生きていた時は、確かに望みも神もなかったと、いえるのではないか?とここから語りたいのです。主イエスへの信仰を告白したのが、たとえ数日前、数年前、数十年前だったとしても、私達は主を信じるまでは、まるでユダヤ教の人たちが自分たちの民族とそれ以外の異邦人としてとらえていた時代と同じ程度の違いがあることを、この箇所は私達に呼び起こしてくれるのです。 ユダヤ教とそれ以外。その垣根を、私達は主イエスを知らなかった時と知ってからの喜びに、率直に省みることができるのです。また14節には「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」とあります。信仰を隔てていたのは、神を信じるか否かだけではなく、イスラエルの民の持つ律法が隔ての明らかな一つであったことを意味します。ここでパウロは律法そのものが廃棄されなければならないこと、律法があるために遠い者と近い者という隔てが生れていたと考えるのです。そこにこそ、敵意があったのでした。だからこそ、14節のはじめにある、キリストはわたしたちの平和であります…というように、キリストの十字架によってユダヤ人も異邦人も、割礼がある人もない人も、律法を持つ人も持たない人も、一つのからだとして神と和解し、平和の福音を告げ知らされることになったのでした。 17節で、キリストがおいでになり、遠くに離れていても、近くにいても、平和の福音を告げ知らせられた…とあります。キリストご自身が伝えてくださらなかったら、私達は福音を知らず、私達は福音をこの地上の現実に生きることはできなかったことでしょう。主イエスによって福音が、隔てを打ち破る平和が教えられなかったら、今も私達は世界の中で異邦人、よそ者としての敵意の中で怒りを抱えて生きていたのかもしれません。しかしもはや、聖なる国の住民として、敵意は砕かれ、共に神に近づく者とされました。そのさらなる証といえる言葉が18節に含まれます。隔てを越えてキリストにより招かれた人々が一つの霊に結ばれます。そして「御父に近づくことができるのです」と書かれます。ここには近づける対象を神とは記しません。御父、お父さんと書かれています。神を父に例えるほどに近い存在として表現し、近づく自由が与えられているのです。 ところで、今日の聖書箇所には教会との言葉は出てきません。しかし主イエスのもとに集められた、この送り先のエフェソの教会での信者に対して、19節から激励のメッセージがあります。有名な「要石はキリスト・イエス」という表現です。教会での説教者を表現するとも思われる使徒や預言者の土台の上に建てられる、信仰を持つ神の家族。その最も下で揺らぐことなく支え、決定的な方向付けをする存在こそ、隅のかしら石、要石なるイエス・キリストなのです。 この要石に支えられ組み合わされた建物は、成長する、と書かれます。もう地上の私達が住むためだけの家とは異なり、主における聖なる神殿は、まさに私達と同じ“からだ”そのもともいえます。つまり教会とは、建物であって、キリストのからだでもあります。 教会における様々なイメージとして最後に書かれるのが、「霊の働きによって神の住まいとなる」との表現です。神の住まいとは、唯一、霊の働きによって、主において実現されるものです。つまり教会とは、主と聖霊の働きにあって、はじめて神の住まわれるところとなる、神が生きておられる存在となることを伝えます。へだたり打ち破られ、二つのものが一つになり、敵意が消えて、真の平和を共に生きる。これは教会堂そのものであることと同様に、私達の内側、私達のからだそのものに求められるものともいえます。 真の平和について…。確かに目に見える紛争や戦争、命を奪い合う対立が止むことこそが平和です。祈り求めないわけではありません。しかし常に私達は地上での気忙しさ、様々なかたちの要求を自分自身に与え、苦しみを重ねます。苦しみを増し加える中で、私達は神の前での罪を知ります。私達はその罪を認めなければなりません。そうあってこそ、私達に平和を教え、そして与えてくださいとの主への祈りが切実になると思えるのです。 本当の平和とは何か?創世記4章に現れる、人類のはじめての殺人とされる、兄カインが神から愛された弟アベルの命を奪う物語。アベルから流れた血は土の中から神に向かって呪いを叫びます。それはまさにカインへの報復への呪いでした。世界の紛争の中に、報復と呪いは充満しています。しかし主イエスが地上に現れ、自ら十字架で流した血をもって私達の罪を贖い、救いをもたらしてくれました。だからこそ私達は今、真の平和への祈りを合わせることができます。しかし弱い私達は常に報復への思いに駆り立てられるようです。 先日、著述家である河野義行さんの本『命ある限り』を読みました。ご存じのように、河野さんは1994年(平成6年)6月に発生した、オウム真理教による、松本サリン事件の被害者です。サリンにより奥様は意識不明の重体に陥り、2008年に60歳で亡くなりました。河野さんは松本サリン事件に際して事件の第一通報者で、河野さん宅に農薬があったことなどから事件への関与が疑われます。地元の長野の地方紙、全国紙を含め、多くのメディアが河野さんを犯人と決め付けます。その後山梨県のオウム真理教施設周辺で不審物が発見され、1995年3月20日の地下鉄サリン事件により、松本サリン事件もオウムの犯行と明らかになり、河野さんへの疑いは解消されます。 河野さんについて知りたいと思った最大の原因は、河野さんが許しの中に生きるためでした。河野さんは松本サリン事件で、サリンを噴霧した車を制作したとして懲役十年の刑期を満了した、オウム信者Fさんと2006年に出会います。Fさんはオウムの後継団体アレフの信者として謝罪のために河野さん宅を訪れます。河野さんの奥さんが重篤な後遺症を患う中で、謝罪をするFさんは、ただただいたたまれない様子だったといいます。当時について河野さんは「私がすることは、妻の回復を願うことだけだった。彼のやったことに対して恨みはなかった。第一彼は刑期を務めてきているのだ。社会的制裁を彼はすでに受けている」と振り返ります。 Fさんはテロ計画はもとよりサリンの噴霧車とは知らず、溶接の作業に手伝ったことだけで、懲役十年を刑に処されます。 河野さんにすれば、Fさんのそれはまったく推定有罪に縛られた自分の苦しみでした。Fさんは受刑中に、植木の選定作業を覚えたといい、河野さんは「それならうちの庭の剪定もやってよ」とお願いします。Fさんは河野さんの家を訪れる庭師となり、家族とも交流を持ち、河野さんと釣りに共に行く友人となります。その後、Fさんのオウムをめぐる信仰から脱却していったといいます。 なぜ河野さんは、妻が死の時まで後遺症に苦しませ、それまでの日常生活を奪ったオウム真理教の一人Fさんを許せたのでしょうか?河野さんはこう語ります。「社会、メディアが私に期待しているのは教祖麻原に対する血を吐く恨みの言葉なのだろう。しかし私も家族もこんなにひどい思いをした上に、さらに事件の首謀者を恨み続けて、人生を無駄はしたくない。人を恨むことは限りある自分の人生をつまらなくしてしまう。さらにその行為はとてもエネルギーがいることだ。それだけのエネルギーを使うなら、妻の介護も含め、もっと別なより有意義なことに使いたい。それが私の本音なのである。」 河野さんが信仰を持つからこそ、恨みの空しさを語り、未来へのエネルギーに変えていこうとできるのでしょうか?決して信仰によるものだけではないのかもしれません。また信仰なくしては険しい地上での道を生きられないオウムの人々への共感があったからこそ、河野さんはこういった許しへの境地に至れたのかもしれません。逆に河野さんのような生き方をしたいと、河野さんを偶像化するような人々も現れるのかもしれませんが、河野さんはそれを避けるように奥様の死去の後は長野から鹿児島に移住し、今年74歳。釣り三昧の悠々自適な生活をされます。 私は決して河野さんを偶像化しようとはしません。河野さんがどのような信仰心を持つかも知りません。ただ私達キリスト者は河野さんの中にキリストの教えが生きていることに気づきます。カルトとして暴走する教団の中、考えることを止め、信仰ではなく組織の掟に従ってしまったFさんら有名・無名の信徒たち。松本サリン事件における第一通報者の河野さんを最も逮捕に近い容疑者として推定有罪として報道したマスコミ。そしてその報道を信じた私達国民一人ひとり。全員が予想もつかない事件の中で、疑心暗鬼に内なる闇を膨らませ、正義とは何か?見失っていきます。私達は常に大きな組織の力、時代の流れに揺さぶられます。その無力さを、河野さんは当事者の一人として、痛みと共に最も実感した一人でした。人一倍、人間の無力と罪に向き合わされた方でした。だからこそ、巨大な力の暴走に抗えずまきこまれたFさんらを許すにいたったのではないでしょうか。 私達は2000年前、主イエスを十字架につけてしまった、見過ごしてしまった私達の罪を知っています。そして復活して天に上り、私達を今、迎えてくれている主イエスの尽きることのない御国に生きることを信じています。 私達は罪を知っています。だからこそ呪いや恨みを叫ぶことより、罪を贖ってくれた主イエスの赦しを、希望を生きようとします。赦してこそ、私達は初めて本当の平和を祈り求めることができるのかもしれません。その祈りの場こそ、神が住み、霊の働きが充満する、キリストのからだであるこの教会であります。また同時に、ここで霊を注がれ、神が住むのは私達一人ひとりの内側であるともいえるのではないでしょうか。神が住むのは、建物にすぎない教会堂ではありません。神を信じる私達が集うこの場所であってこそ、はじめて神の住む教会は成り立ちます。 気づいていても、気づいていなくても、主に導かれて、霊を注がれ生きる人たち。その一人が河野さんかもしれません。私達はそのような人たちを通じ、隔たりを壊して、二つを一つにする存在の源、主イエスの偉大さに改めて気づかされます。これは大きな幸いであります。なぜなら、私達は迷っても、流されそうになっても立ち返る存在を、場所を与えられているからです。これからも皆さんと共に、隔たりを、敵意を越える、私達の中にたてる教会を共に生きたいと願います。 それでは祈ります。

安息日の神学

申命記5章12~15節(旧289頁)  ルカによる福音書6章6~11節(新112頁) 前置き 現代イスラエルの安息日は金曜日の日暮れから土曜日の日暮れまでとなっています。安息日には国家機関だけでなく、スーパー、レストランなどの営利目的のお店までも休止します。その理由は旧約聖書の十戒に安息日を堅く守れとの戒めがあるからです。それと違って新約の教会は日曜日である主日に礼拝を守ります。そして、その原型は旧約の安息日にあります。イエス・キリストの復活によって、その意味はけっこう変わったのですが、主を記念する日という意味としては、安息日と主日の共通点は明らかです。今日は安息とは何か、そして、今の私たちにとって安息日と似ている主日とはどういう何かについて考えてみたいと思います。 1.古代中東においての安息の意味 旧約聖書には安息日についての記録が30ヶ所以上もあります。その中で最も有名な箇所は出エジプト記の十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出20:8) 」だと思います。律法は安息日にどんな形の労働もせず、休めと命じます。それを犯すものは人だろうが、家畜だろうが、必ず死ぬと厳しく警告しています。それでは、安息日、特に旧約時代の安息には、どんな意味があるのでしょうか?聖書のどこを読んでも、安息日を厳守しなければならない理由は、はっきり記されていません。ただ「主が聖別されたから」のように、手短に記されているだけです。しかし、明らかに大事な理由があるから、主なる神が十戒の一つとして命じられたでしょう。そこで、旧約聖書ではなく、その時代の他の資料から、安息の意味を探ってみて、聖書においての安息の意味も考えてみたいと思います。古代イスラエルの周辺にはいくつかの文明がありました。特にメソポタミア文明が有名でした。メソポタミア文明の神話にも、創世記のような人間創造の説話がありますが、エヌマエリシュ(その時、高い所に)という文献に記されていました。 それによると、安息は神々の中で、一番偉大な神だけが楽しめる誉でした。大昔、人間を創造した創造神と彼に敵対する混沌神がいました。ある日、混沌神は他の神々に敵対して、世界を滅ぼそうとしました。創造神は混沌神の計画を見抜き、彼と戦いました。壮絶な戦いのすえ、創造神は混沌神を倒し、勝利を勝ち取りました。そして、創造神は勝利者として、安息を楽しみました。メソポタミア神話の安息は人間のためではなく、創造神と下の神々のためのものでした。神だけのものなので、人間が安息を楽しむのはあり得いことでした。人間はひたすら神々のために苦労する奴隷だったのです。そもそも、メソポタミア神話の創造神が人間を造った理由は、自分と下の神々の安息のためにこき使うためでした。古代の中東世界においての人間の存在理由は神の道具に過ぎなかったのです。神々の顕現と呼ばれる王族や貴族でない限り、人間はただ使い捨てられる惨めな存在だったのです。十戒が記された時代の安息という概念は人間のものではありませんでした。そして、それは古代世界の共通的な安息についての認識だったのです。 2.旧約の安息。 現代を生きる私たちの認識にあって、人間が奴隷として造られたというのはとんでもない話でしょう。しかし、人間の命が今のように尊重されるのは、わずか数十年前からの話です。たった100年前までも、世界のあちこちに奴隷制があり、第二次世界大戦時も人間の命は軽視されていました。戦争を引き起こした帝国主義の根源には他民族を奴隷にしようとする暴力的なイデオロギーが潜んでいたからです。ましてや、数戦年も前の古代世界では言うまでもない話でしょう。人間の命が極めて軽く扱われたのが十戒が記された時代の現実だったのです。しかし、主なる神の創造においての人間の存在理由はメソポタミアの神話とは根本から違いました。メソポタミア神話が語る人間創造の理由は、神々の奴隷にするためでしたが、イスラエルの神が人間を造られた理由は、人間を神の子供とし、真の安息をくださるためでした。主なる神が創世記1章の混沌と闇を打ち破られ、乱れた初めの世界に秩序をくださった理由は、ご自分の被造物のためでした。神はその秩序の中で、混沌への勝利の安息を人間と被造物にお与えくださったのです。だから、詩編は歌います。「神に僅かに劣る者として人を造り、なお、栄光と威光を冠として、頂かせ。(詩編8:6)」 安息とは、混沌から秩序をもたらされた主なる神の賜物です。そして、神はこの賜物を被造物の頭である人間にくださったのです。とういう訳で、主なる神の安息を記念する安息日は神が主人公であり、また、主によって真の自由をいただいた人間が第二の主人公であるのです。「あなたは、かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして、あなたを導き出された事を思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである.(申命記5:15) 」エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルは何年以上も、何の安息もないまま、死と労苦の下苦しんできました。しかし、神はご自分の御業によって、エジプトを滅ぼされ、死の象徴である、紅海を分け、ご自分の民を渡らせ、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったのです。荒れ野の暑い昼は雲の柱で、寒い夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、神の山で十戒を通して安息日を与えてくださったのです。エジプトの奴隷だったイスラエルが主の民として安息を楽しむようになったのです。休日である安息日はエジプトの奴隷であったイスラエルに自由人としての勝利の安息を与える日でした。 3.安息についての主イエスの教え。 今日の新約本文、ルカによる福音書6章にも、安息日の話が出てきます。神の律法を教える会堂で、ある手の萎えた人がイエスに癒される物語です。その時、律法を教える律法学者たちと律法に徹底して従うファリサイ派の人々が、訴える口実を見つけるために、イエスのお働きに注目していました。聖書において手や腕は力の象徴として使われる傾向があります。手の萎えた人は最小限の生活を支える力もない弱い者で、ユダヤ人の宗教指導者たちの中に囲まれています。ユダヤ人たちは、誰一人も彼に興味がないように見えます。彼らは、もっぱら主に反対するために、その働きに注目しているだけです。これが律法を取り扱うユダヤのエリートたちの安息日の状態でした。彼らには主の御心に適う憐れみなどありませんでした。主イエスは、そんな中で手の萎えた人を癒してくださったわけです。主は力のない人に力を、病んでいる人に癒しを与えてくださいました。今まで、話した内容をまとめてみると、今日のルカによる福音書の出来事の意味がはっきり分かるようになります。主イエスは安息日に病んでいる人を癒し、弱い者を助けてくださいました。主が安息日を犯すように見えるまで、彼らを助けてくださった理由は、律法と安息日の意味を誤解し、自由と秩序でなく、束縛と混沌の社会をもたらしていたユダヤ人の社会に、創造の秩序を通して自由と解放を与えてくださった主なる神の御心と、神がくださった安息日の真の意味を再び教えてくださるためでした。 安息日は被造物のために真の自由と解放をくださった主なる神を記念する日であり、主の創造の摂理を思い起こさせる日でした。ということで、イエスは安息日なのに病人を癒してくださったわけです。そして、その安息を完成してくださるために、十字架で死んでくださったのです。それにも関わらず、主なる神の御心に気づくことが出来なかったユダヤ人たちは、安息日の意味を知ろうともせず、最後まで愚かであったのです。いかに悲劇的なことでしょうか。自由と解放の安息日に彼らは規律というまた違う束縛に人々を追い込んでいるとは。安息日は、ただ宗教的な規律のための日ではありません。混沌を秩序に変える癒しの日なのです。そして、この秩序にあって、人間が人間らしく生きることが出来るようにする恵みの日なのです。こんにちのキリスト教会では、ユダヤ教の安息日は守っていません。主イエスによって律法は更新されたからです。しかし、その安息日の意味を受け継ぐ主日があります。主なる神は創造を通して、人間と被造物に安息と秩序をくださいました。それを思い起こさせるのが安息日でした。そして、主イエス・キリストの復活によって、その安息を完成されました。そのイエスを記念する日が、今、私たちが守る主日なのです。そういうわけで、安息日を受け継いだ主日はただの休日でなく、神からの解放と安息、愛と贖いを祝う恵みの日として、感謝し、礼拝すべきなのです。 締め括り 時々、年に1,2度くらい、主日に家族や親戚、友達との用があって礼拝を休ませてもらいたいと願われることがあります。牧師としては、できる限り、主日礼拝を守っていただきたいと思いますが、家族、親戚、友達との時間を礼拝のように大事にしてくださいと言いながら承諾します。今日の説教でお話ししました理由のためです。主なる神が自由と解放のためにくださった安息の日、キリストによって私たちにも与えられた聖なる日、自分のためではなく、愛する人々ために、隣の人々のために、その日を過していただいたらと思って行かせるのです。旧約聖書で安息日を犯す者が殺された理由は、主なる神が残酷な方だからではありません。その日を自分の悪い欲望のためにみだりに扱おうとしたからです。隣人を助けるために、家族を大事にするために、働くのは安息日の意味に当てはまる大事なことだと思います。そのような心を持って主日を過ごしたいと思います。そこに安息日の神学は生き生きとよみがえってくるのではないでしょうか。