偶像崇拝
コヘレトの言葉3章11節(旧1037頁) 使徒言行録1章12~26節(新213頁) 前置き 最近、水曜祈祷会では小信仰問答の学び会と使徒言行録の読み会を隔週にしています。小信仰問答は十戒のうち第一戒「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」を学び、使徒言行録は第1章を読んで、その内容について話しました。ところで、偶然にも十戒の第1戒と使徒言行録の第1章には、偶像崇拝について考えさせられる部分があります。今日は、その中で使徒言行録第1章12節から26節の言葉を通じて、いくつかの教訓を学び、特に現代を生きる私たちにおいて偶像崇拝とはどういうものかについて考えてみたいと思います。 1. 教会は主の御言葉によって建てられていく。 復活された主イエスは、地上に40日にわたって主の人々とおられ、神の国について教え、昇天後に聖霊なる神を遣わさしてくださると約束されました。主はその約束を最後に、オリーブ山から御父のところに昇られました。その後、弟子たちは、ある部屋に集まって祈り、イエスが約束してくださった聖霊を待ちました。聖霊の臨在前のある日、ペトロが兄弟姉妹の中に立ってこう言いました。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをした、あのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。詩編にはこう書いてあります。その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。また、その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」(使徒行伝1:16、20、詩篇69:25、109:8引用) その内容はイエスを背反したイスカリオテのユダについての話でした。結論を言えば、12弟子の一人だったユダがイエスを裏切った後、自殺し、弟子の数が11人になっているので、新しい一人を選ばなければならないとのことでした。使徒ペトロはイエスの一番弟子と呼ばれるほど、初代教会において影響力のある存在でした。イエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)と言われるほど、ペトロを初代教会の指導者として認めてくださったのです。 (このような理由でカトリック教会はペトロを初代教皇だと思いました。)つまり、ペトロには自他共に認めるイエスの一番弟子という権威があったのです。しかし、今日の本文を読むと、そんな彼であるにも関わらず、自分の権威で勝手に教会のことを決めません。主の御言葉(詩編)の権威に従い、自殺で亡くなったユダに代わる新しい使徒の選出を提案します。それも自分が人を選ぶわけではなく、神にすべてをお委ねするという心構えで、祈りと共に「くじ引き」をします。旧約時代には権力のある一人の思いではなく、主なる神がその御心によって、すべてを導いてくださるという意味で、よく「くじ引き」をしたと言われます。このような「くじ引き」のもう一つの形として、今日の長老教会では個教会の長老、執事を選出する時、あるいは大会や中会の役員を選ぶ時に投票をしたりしています。神の教会は主の御言葉を通じて、聖霊のお導きによって建てられていきます。すべての権威は、ある一人の発言ではなく「神の御言葉」によって立てられます。教会には多数の指導者がいます。時々、牧師や長老といった指導者たちの声がかりで動かれる教会もたまに見かけます。しかし、教会を導いていくのは一人の人間ではなく、主なる神の御言葉です。志免教会も人の思いではなく、主の御言葉によって建てられていく教会であるよう祈ります。 2. 裏切者ユダについて。 次は「裏切者、イスカリオテのユダ」(以下、ユダ)について話しましょう。皆さんもご存知のように、ユダはイエスを裏切って主を反対する者たちに引き渡してしまいました。彼はなぜ、イエスを銀貨30枚で売ってしまったのでしょうか? イエスはユダを憎んだり、差別したりされたことがありません。ペトロを一番弟子と呼ぶとはいえ、ペトロだけを偏愛されたわけでもありません。誰かは必ず初代教会を率いる指導者にならなければならなかったので、主はペトロを適任者と判断され、よく一緒におられるだけでした。牧師や長老だからといって主にさらに愛されるわけでないことと同じように、一番弟子ペトロだと、さらに愛されていたわけではありません。イエスの愛はすべての人々に公平だからです。おそらく、ユダもイエスに愛される弟子だったでしょう。彼が裏切者であることをすでに知っておられたにも関わらず、主は彼をも愛されたでしょう。ユダという人は、政治的なメシアを待ち望んだ、ある意味で、イスラエル民族の独立運動家だったと思われます。ただ、そのやり方が非暴力平和主義ではなかったと思います。イエスが福音伝道を始められた頃、「イエスはダビデの子孫だ。」という噂を聞いたユダは、このイエスこそがローマ帝国からイスラエルを独立させ、昔のダビデ王国の栄光を取り戻す民族のメシアだと思ったのです。 つまり、ユダはイエスという方の活動を誤解し、自分勝手に思ってしまったのです。神に遣わされた、全人類の罪を贖うメシアではなく、自分の民族と国の指導者という狭い思いの中でイスラエルの独立と民族の繁栄だけのためのメシアと考えてしまったのです。そのため、時間が経てば経つほど、イエスの伝道活動が気に入らず、ますます不満が重なっていったでしょう。早く人々を煽り立て、軍隊を集め、兵器を備えてローマとの戦争を準備しなければならないのに、イエスは敵への愛を語り、罪人の救いを語り、神の国を語られるだけでした。結局、彼はイエスという存在からは民族の救いがないと判断し、その結果、イエスを告発して引き渡し、自分はイエスと関係を絶とうと企てたでしょう。最初からユダはイエスを贖い主、救い主、民族と国家、歴史と時代を越え、創り主なる神の御心を成し遂げられる真のメシアとして信じていなかったでしょう。自分の理想であるイスラエルの独立、独立以後の報い、世俗権力者として力を持った自分の未来だけを期待してイエスに近寄ってきたでしょう。そのため、ユダはイエスの歩みが自分の理想と合わないという理由で裏切ってしまったでしょう。私たちは福音書を読む時、このようなユダの姿を愚かだと考えがちです。しかし、私たちはこのユダより純粋だと言い切ることが出来ますでしょうか。 3. 自分という偶像を信じる罪 私たちはイエス・キリストへの信仰のゆえに教会に通っています。だから、キリスト教はキリストを信じる宗教なのです。世の中には数多くの宗教があります。日本人にとって、宗教より文化に近く感じられる神道を始め、大昔から日本人の価値観に影響を及ぼしてきた仏教、日本で生まれ、他国にも伝えられた天理教、創価学会などの宗教もあります。その他にもキリスト教系の異端やカルト宗教、イスラム教みたいななじみのない宗教など、数多くの宗教が日本にあります。日本は信教の自由がある国なので、どんな宗教を持っていても、誰にもそれを非難する資格はないと思います。だから、教会でも他宗教者を偶像崇拝者だと盲目的にののしってはいけないと思います。しかし、人間がなぜ、宗教を持って様々な神々を崇拝するのかについては考える必要があります。旧約聖書にはこんな言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3:11) 神は人間に「永遠を思う心」を与えてくださいました。永遠を思う心とは、簡単に言えば、絶対者を追求する心のことです。そんな人間が罪によって唯一の神から離れてしまい、絶対者への知識は消えたが、絶対者を追求する心は残って、真の神ではない他の存在を信仰するようになったのです。こうした永遠を思う心から宗教は始まりました。 しかし、こうした人々の心は変質し、宗教を自分の欲望、必要、満足のための道具として使うようになりました。多くの人が自分の必要のために神社で祈ったり、お寺で祈ったりします。天理教や創価学会なども立派な教理を持っていますが、信徒一人一人の信仰活動の結局は自分の欲望、必要、満足につながるでしょう。信仰の対象である神々への追求ではなく、その神々を満足させることから来る自分の満足が信仰の理由になるということです。宗教と信仰が自分が仕える神々への崇拝ではなく、その後ろに隠れている「自分自身」に仕えるための道具となったというわけです。結局、信仰も宗教もその裏には「自分自身の満足」という自分自身の欲望を崇拝する状態に至ります。現代社会の本当の偶像崇拝は、他宗教の神々を信じることに限りません。その後ろに潜んでいる自分自身という、また違う神を拝むのが、本当の偶像崇拝なのです。イスカリオテのユダは、自分自身を神とする者でした。イエスという有名なラビを利用して、自分が望んでいた民族の独立とそれについてくる名誉と権力という彼の欲望が、ユダ自身を神のように作ってしまいました。そして、その欲望が叶えなくなると、ユダは自分が「主」と呼んでいたイエスを銀貨30枚で売ってしまったのです。ユダの最も大きな問題は裏切りではありませんでした。自分自身の欲望を神とし、真の神であるイエスを捨ててしまう自己崇拝にありました。 締め括り 皆さんによく話すことがあります。「私たちはなぜイエスを信じ、教会に通っているのか?」です。その理由が「死後、天国に行くために、神に祝福されるために、心の平和のために、幸せになるために」という単純に「自分の000ために」ならば、「ひょっとして私たちも自分の満足のためにイエスを信じているのではないか?」と疑ってみなければならないと思います。キリスト教信仰は自分の満足のための信仰ではありません。キリスト教の主人公は徹底的に三位一体なる神であり、私たちはその方の民として召し出された存在です。自分の欲望ではなく、ひとえに主なる神の御心に聞き従うという純粋な信仰で生きなければ、私たちはいつか神に大きく失望するようになるかもしれません。私たちが神からいただく祝福は、神を満足させてもらうご褒美みたいなものではありません。純粋に自分の造り主である神だけに仕え、神の御心に聞き従って生きる時、自然に与えられる恵みなのです。自分が神の座を奪い取り、神を自分の必要のために利用しようとする姿は、けっしてあってはならない罪なのでしょう。主従関係を確実に理解し、純粋な信仰で神の民として生きることこそがキリスト者のあり方でしょう。神だけに仕える純粋な信仰者として生きるのか? 自分自身に仕える偶像崇拝者として生きるのか? 私たちは常にこの分かれ道に立っています。