律法の行いではなく、信仰による義。

創世記15章6節(旧19頁)  ガラテヤの信徒への手紙2章11~21節(新344頁) 前置き キリスト教の最も中心的な教えは「キリストのみによる救い」ではないかと思います。新旧約をひっくるめて数多くの言葉がありますが、そのすべては「自分の努力では自分の罪が解決できず、たったイエス·キリストによってのみ人の罪を解決することができる。」に帰結されるからです。したがって、キリストとその方の貢献による救いは、いくら繰り返し、強調すると言っても過言ではない最も重要な聖書の真理なのです。6月2日の主日、私はガラテヤ書の1章を通して「イエス·キリストの救い」を説教しました。その内容は「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる」でした。今日は、ガラテヤ書2章の言葉を通じて、当時の教会に悪影響を及ぼした「ユダヤ主義」について学び「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる。」という言葉の意味を、もう一度考えてみたいと思います。 1. ユダヤ主義。 ガラテヤ書の背景について手短に話してみましょう。イエス時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人社会がありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教の区別が薄かったため、キリスト者たちもユダヤ教の会堂で集会を催すことが多かったです。その時、イスラエルから訪問したユダヤ人たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したりしたようです。そのようなユダヤ人の中には、意図的に初代教会に近寄り、信徒たちの福音への理解を歪曲させるユダヤ主義者たちもいたようです。例えば「皆さんはただイエス•キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法を読んでください。行わなければ救いはありません。イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わずに、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストのみによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行をも加えて救われるべきだと偽りの教えを伝える人々がいたのです。ということで、ガラテヤ書は、そのような福音を歪曲するユダヤ主義を警告しているのです。 ところで、なぜ、ユダヤ主義者たちはイエスを信じて得る救いを否定したのでしょうか? 基本的にユダヤ主義はイエスを反対するための思想ではなく、律法の厳守を極端に主張する主義だったのです。旧約の律法を堅く守ることそのものは良いことだと思いますが、ここで言う「律法の厳守」はそんな意味ではありませんでした。旧約聖書の純粋な律法を守るという意味ではなく、その律法を解釈した昔の人々が書き残したユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え、マタイ15:2)を堅く守るという意味でした。つまり、その始まりは旧約聖書の律法解釈にあったのでしょうが、時間が経つにつれてユダヤ民族中心的な解釈が加わり、結局、人が作った偏狭なユダヤ民族むけの言い伝えが律法のように取り扱われたわけでした。ユダヤ人は長い間、その伝統を守ることによって神に義と認められると信じてきたと思われます。なのに、突然現れたイエスという人と彼を主として崇める人々が「ただイエスによってのみ救われる。」と主張していたので、ユダヤ主義者たちは、自分たちの伝統が損なわれると思ったのでしょう。そこから出た反応が「イエスを信じるだけでは物足りない」という主張でした。 2. 初代教会の中のユダヤ主義 それでは、このユダヤ主義の影響はどうだったでしょうか? 今日の新約本文の序盤にはこう書いてあります。「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」(ガラテヤ2:11-13) 私たちの思い以上、ユダヤ主義の影響は教会の中に据えてあったようです。ここでケファは使徒ペトロのアラム語式名前です。つまり、パウロがペトロを非難したわけです。パウロはもともとキリスト者を迫害する過激なユダヤ主義者でした。他方、ペトロは最初からイエスに従った弟子だったのです。一歩遅れて回心した元ユダヤ主義者の「後輩」パウロが、最初からキリスト者だった「先輩」ペトロをとがめたということです。なぜパウロはペトロをとがめたのでしょうか? それは、ペトロからユダヤ主義の痕跡が見えたからです。今日の本文によると、ペトロはヤコブのもとから来た人々(エルサレムのユダヤ人キリスト者たち)がアンティオキア(異邦地域)を訪問した時、異邦人キリスト者との食事の席を避けたと書いてあります。 そして、パウロと一緒に活動していたバルナバのような他のユダヤ人キリスト者だちもペトロと一緒に異邦人キリスト者たちと距離を置いたと書いてあります。ペトロとバルナバと他のユダヤ人キリスト者たちがそう振舞った理由は、律法を装うユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え)が異邦人との交わりを「望ましくない行為」と規定していたからです。『使徒行伝』にはこんな言葉があります。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(10:28) つまり、パウロとペトロが活動していた時期にも「純血ユダヤ人のキリスト者たち」の中には異邦人への偏見と差別を抱いている人がいたということです。ペトロはエルサレムから来た「純血ユダヤ人キリスト者たち」との葛藤を避けるために「異邦人キリスト者たち」との食事を避けたわけです。依然としてユダヤ人キリスト者たちは「昔の人の言い伝え」から完全に自由ではなかったということです。このように初代教会の中にもユダヤ主義の影響が残っていました。その結果、アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちはいかに傷ついたでしょうか。それで、パウロはペトロをとがめたわけです。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(ガラテヤ2:14) 3. 信仰のみによる義 おそらく、ペトロは自分がキリストによって完全に新たになったと思っていたでしょう。初代教会の指導者としての使命感と誇りもあったはずです。それによってアンティオキアという異邦地域に来た時、異邦人キリスト者たちと一緒に食事もし、昔の人の言い伝えという足かせから抜け出して生活したでしょう。しかし、エルサレムからユダヤ人キリスト者たちが来ると彼は恐れ、再び「昔の人の言い伝え」に束縛されてしまいました。このようなペトロの姿を見て、異邦人キリスト者たちは「私たちも純血ユダヤ人キリスト者のようにユダヤ人の伝統を守らなければならないのか?」と誤解し「キリストのみによる救い」に疑いを抱いたかもしれません。パウロはそのようなペトロの行いがもたらす多くのキリスト者の誤解を残念に思い「私たちがたとえユダヤ人だとしても、私たちを新たにするのは律法を歪曲したユダヤの伝統ではなく、ただイエス·キリストの救いのみにかかっている。それは民族と思想を超える。」とペトロに力強く語ったわけです。伝統は大切なものです。しかし、その伝統が神の御心を歪め、妨げるなら、私たちはその伝統を改善していかなければなりません。 日本キリスト教会の中に、他教派を好ましくないと思う方々もいるかもしれません。私が最初日本キリスト教会に来た頃、韓国から多くの宣教師たち(長老派)が来日しました。その時「外国から宣教師を呼ぶのが心配だ」と言われる他中会の方々もいました。「日本人ではない。教派が違う。伝統が損なわれるかもしれない。」などの理由でした。その方々には申し訳ないと思いますが、もしかしたら、そういうのが現代版の「ユダヤ主義、ユダヤの伝統、昔の人の言い伝え」であるかもしれません。日本キリスト教会の歴史と伝統を大切にしたあまり、民族と国とすべての違いを乗り越えたキリストの体なる一つの教会という大命題を忘れられたかもしれません。幸い、九州中会の多くの方々はペトロではなく、パウロのように宣教師たちを受け入れてくださったので、今のようになっていますが、当時はとても辛い気持ちでした。キリストによって義とされたということは、私たちの義において「キリストへの信仰」以外に何も要らないということを意味します。自分がどんな罪を犯した人間だっても、自分がどんな民族、国、背景の出身だっても、主イエスのもとですべてが赦され、新たになるということです。主なる神がイエス・キリストを遣わされた理由はまさにこれです。男であれ、女であれ、裕福であれ、貧乏であれ、どんな壁も崩し、ただイエス·キリストのみの救いによって皆が神の子供として認められるということです。 締め括り パウロは新約本文の結論部にこう語ります。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) 私たちはどんな行いによっても、どんな資格によっても、義と認められることが出来ない罪人です。ひとえにイエス・キリストへの信仰によってのみ義と認められることが出来る不完全な存在です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:16) 創世記のアブラハムが、ただ「信仰」によって義とみなされたことと同じように、私たちはキリストへの信仰によってのみ義と認められるのです。ですから、主への信仰以外に、何によっても他人を判断したり差別したりしないようにしましょう。教派、民族、性別、すべてを越えて、ただ主への信仰だけで一つになっていく私たちであるよう祈ります。