主の御声を聞く。

ヨブ記38章1~7節(旧826頁)  マタイによる福音書26章39節(新53頁) 前置き 私たちは、主なる神が私たちとお話しくださる人格的な存在であると信じています。だから、私たちも自分が理解する言葉で、神に祈りをささげるわけではないでしょうか。もし、神が人格的な神でなければ、私たちはまるで人と人が会話するかのように神に祈ることができないでしょう。他宗教のように意味も分からずにお経を読んだり、おまじないのような宗教行為をしたりしたかもしれません。このようにキリスト教は、神と自分という人格と人格の交わりをとても大切にする宗教なのです。しかし、ひとつ疑問が浮かびます。私たちは、主なる神を人格的な存在だと信じ、私たちの言葉で祈りを捧げるのですが、なぜ、主なる神は私たちの耳に聞こえる声で直接お答えくださらないのでしょうか? 私たちはひたすら聖書の言葉、あるいは聖書に基づいた説教を通じてのみ、神が私たちにくださった御言葉を主の御声だと信じて生きています。つまり、主なる神は私たちの耳に聞こえる肉声では言われないということです。それでは、果たして、私たちは聖書や説教以外に主なる神の御声を聞くことができますでしょうか?今日は神の御声(御心、お答え)について考えてみたいと思います。 1.主の御声が聞こえない理由。 聖書を読むと、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブのような人物は、まるで神と対面して話しているかように見えます。例えば、アブラハムは、創世記12章、13章、15章、17章で神と話します。創世記12章から17章までは、1時間も経たないうちに読むことが出来るくらいですので、聖書を読む私たちは、主なる神とアブラハムが頻繁にコミュニケーションしたと受け止めやすいです。しかし、実はそうではありません。聖書学者たちは創世記12章でアブラハムが初めて神に出会った時の年齢を75歳くらいだと予想しました。そして、17章にはアブラハムの年齢が99歳だと記されています。神とアブラハムの4回の会話は、約25年という長い時間の中で行われた珍しい出来事だったのです。つまり、創世記の中心的な人物だったアブラハムでさえ、25年の長い間、神の声をたった4回しか聞けなかったということです。 アブラハムの息子、イサクはどうだったしょうか? 彼はアブラハムよりも神の御声を聞く機会が少なかったのです。創世記25章で妻リベカが双子を身ごもった時、イサクは神に祈り、神は一度イサクに御声を聞かせてくださいました。イサクの息子ヤコブは故郷を離れた時に夢で一度、そして再び故郷に帰る時に主の御使いを通じて一度、間接的に神の御声を聞きます。そして、創世記35章で、やっと直接的に主の御声を聞くことが出来たのです。 このように創世記を代表するアブラハム、イサク、ヤコブのような人物も、主の御声を毎日聴いたたわけではありません。神の一人子イエス・キリストも、この地上におられた時、父なる神のお答えを聞けない場合があったほどです。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ福音26:39) だから、主の御声が聞こえないことに、がっかりしないでください。それは聖書の人物にとっても珍しい経験でした。主の御声は私たち自身の便宜のためのものではありません。主の御声は神の厳重な御心を民に伝えるもの、つまり啓示ともいえるものでしょう。それは主が望まれる時に民に聞かせてくださるものです。民が望むからといって言われ、望まないからといって言わない軽いものではありません。長い祈りにも主の御声が聞こえない場合が多いです。そんな時は主が私たちの祈りを聞いておられるが、最も良いお答えの時を待っておられると理解し、忍耐強く待つ必要があります。 2.ヨブの物語 しかし、それにもかかわらず主の御声(御心、お答)が聞こえてこないことにより、不安になりやすいのが私たち人間の弱さだと思います。特に苦難の時はなおさらです。神が今、自分の苦難に対してどう考えておられるだろうか、自分はこれからどうすれば良いだろうか悩むようになります。そんな時は、主なる神が一日も早く自分が聞ける御声でお答えくださったらと思いがちです。そのような早速の答えを望む私たちに、今日、旧約本文であるヨブ記は、神のお答についてのヒントをくれます。アブラハムの時代、「ヨブ」という信心深い人が「ウツ」というところに住んでいました。彼はアブラハムの親戚でも、子孫でもなかったのですが、主なる神を崇める主の民でした。神は彼をとても愛しておられました。ある日、神が主の使いたちを呼び出されました。ところで、その時、神に逆う者であるサタンも、その集まりに出てきました。神はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。」とヨブの信仰を褒められました。だったら、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。主が彼にたくさんの祝福をくださったから、信じるわけではありませんか。」と言いました。主なる神はヨブの信仰を試みられるためにサタンを用いられ、ヨブに試練を許されました。(最後には二倍報いてくださる。) それによって、豊だったヨブの家は一晩にしてつぶれてしまいました。財産も消えてしまい、病気にかかり、子供たちも亡くなり、妻も離れていきました。彼に残されたのは皮膚病にかかった体だけでした。彼は嘆きました。その時、ヨブの3人の友が彼を訪ねてきました。ここまでがヨブ記3章までの内容で、4章から37章まではヨブと友達との論争が続きます。論争の主な内容は「主は正義の方であり、正しくない者に罰を下される。」「ヨブは罰を受けたから正しくない。」「ヨブは悔い改めなければならない。」という友達の主張と、「自分は罪を犯したことがない。」「主が直接、今の状況について説明してほしい。」というヨブの主張に分かれます。ところで、彼らには共通の過ちがありました。それは主なる神の摂理と経綸を人間である自分の知識において判断しようとしたということでした。「罪を犯したから罰を受けなければならない。」「罪を犯したことがないから罪がない。」のように、人間のみすぼらしい知識に主の御心を合わせようとしたわけです。結局、主なる神が直接現れ、戒めはじめられるのが、まさに今日の旧約本文である38章の言葉なのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ記38:2) そして、神は引き続き言われました。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」(ヨブ記38:4~6) 3. 主の御声(お答)を求める。 主は自分たちのみすぼらしい知識で、神の摂理と経綸を判断し、互いに論争しつづけるヨブと友達に、主の御業は彼らの知識と経験をはるかに超える宇宙的なものであることを教えてくださいます。つまり、人の小さな知識で、主なる神の御声を完全に聞き、理解することはできないということです。ここで、私たちは主の御声またはお答えが聞きにくい理由を推し量ってみることが出来ます。私たちは、ヨブと3人の友達のように非常に小さな存在です。現代という時代的な状況、日本という文化と地域の状況、自分個人の状況に束縛され、一日一日をかろうじて生きる存在なのです。このような私たちが全宇宙を創造し、毎日その宇宙を保たせておられる偉大な神の御心をまともに理解することが出来ますでしょうか? 主なる神の御声が私たちの耳に聞こえてくるでしょうか? もし聞こえるといっても、その意味が分かりますでしょうか? 神はイエス•キリストを通して私たちのところに来てくださったのですが、だからといって神も私たちのように小さな存在になったわけではありません。神は変わらず、この世の創り主、支配者として存在しておられるので、今でもその方の御心と御声を、私たちが完全に理解することはできません。 神が聖書をくださった理由もそのためです。人間が宇宙を支配される主なる神の御旨を知り、理解することができないので、最小限の理解のための道具として聖書という人間の言葉で記された書をくださったわけです。 人生を生きながら、神の御心が理解できない時があまりにも多いです。なぜ、独裁者と戦争を許されるのか? なぜ、無実な者の死を許されるのか? なぜ、日本の教会はこんなに小さく伝道が難しいのか? なぜ、貧しくて弱い人たちがさらに不幸であるのか? なぜ、長年祈ったのに答えがないのか? 私たちの人生において神はどんな意味なのか? さまざまな疑問や疑いが心の中に浮かんできます。しかし、そんな時、今日の本文の言葉を思い起こしたらと思います。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」神は私たちの思いより、はるかに偉大な存在であり、私たちにはその方の御声を完全に聞きとれる耳がないということを私たちは心に留めなければなりません。 しかし、主なる神は(ヨブ記の最後にヨブにしてくださったように)ご自身が望まれる時には、必ず主の民が聞きとれる方式でお答えくださるということを憶えつつ一日一日を信仰によって生きていきたいと思います。 締め括り 主の御声は、必ずしも耳だけで聞けるものではありません。自分の耳にはっきりと聞こえてくる肉声だとも誤解してはなりません。主の御声は主ご自身が望まれる時に聖書の御言葉によって私たちの心の中に聞こえてくる主の御旨だからです。世の人々のすべての声は肉声だけで耳に聞こえてくるわけではありません。母が家族のために食事の支度をする時のまな板の音や父が歌を口ずさんで庭でほうきで掃く音から家族と子供たちのための愛の声が聞こえてきます。赤ちゃんの笑い声、子供たちの跳ね回る遊び声から未来への希望の声が聞こえてきます。愛や希望を口で言わなくても、私たちは、世に響くさまざまな音や声から意味を見つけます。主の御声もそうです。必ずしも、私たちの耳に聞こえてくるのが主の御声ではありません。聖書を通じて分かるようになる人類への主の救いの計画、四季が変わりながら生まれる自然の豊かさにも、この世を愛する神の御声が潜んでいるのです。長い祈り、お答えへの渇望の中で、主の御声が聞こえず、疲れている方がおられるかもしれません。しかし、主が今でも私たちと一緒におられ、今すぐには御声を聴かせてくださいませんが、お答えになる時を待っておられるということを憶えて生きたいと思います。 主の時が来れば、主は必ずご自分の御声を聴かせてくださるでしょう。主の御声、お答えを待ち望みつつ、主に信頼して生きるのは私たちの信仰のあり方ではないでしょうか。