イエス·キリスト。
ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(新342頁) 前置き 今日の本文であるガラテヤの信徒への手紙は、宗教改革で有名な人物である「マーティン・ルーサー」がローマ書と共に最も愛した聖書として知られています。中世カトリック教会は、イエスへの信仰と共に人の善行も救いのための必要条件であると理解していましたが、そのような中世カトリックの救い認識に反発したマーティン・ルーサーが「ひとえに主イエスの十字架の貢献のみによる救い」を強調するローマ書とガラテヤ書から大きい霊感を得たからです。私たちが属している日本キリスト教会は長老派の教会であり、長老派の教会は「イエスによってのみ救いを得ることができる」という教えを何よりも重要に思います。「唯一イエス·キリストのお赦し」だけが、人間に真の救いを与える、たった一つの鍵だからです。今日はガラテヤの信徒への手紙1章を通して、イエスおひとりだけによる真の救いについて話してみたいと思います。 1.人間の罪と義認 「義認」という神学用語を聞いたことがありますか? 文字通りに「義(正しい)と認められる。」という意味です。もっと詳しく言えば「神から遣わされた唯一の救い主イエス·キリストのお赦しによって義と認められる。」という言葉です。この「義認」には前提がありますが、それは、この義認の対象となる人間という存在は、生まれつき正しくない存在ということです。旧約聖書の偉大な王ダビデは、詩編51編を通してこう語りました。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51:7) 古代中国の思想家「荀子」は人間は悪の本性を持って生まれるという「性悪説」を主張しました。詳細な意味は少し違うかもしれませんが、旧約聖書も「人間は生まれつき罪人である」と述べています。生まれたばかりの赤ちゃんは何の悪いことも犯してないはずなのに、なぜ聖書はすべての人が生まれつき、正しくないと語るのでしょうか? その理由について日本キリスト教会大信仰問答は、このように説明しています。「問44:どうして、人間はこのようなもの(罪による悲惨な存在)になってしまったのでしょうか。答:始祖アダムが罪に堕ちた結果、その裔であるすべての人間も真の自由を失い、その全人格が神のかたちを全く損ない、破れたすがたにおいて残されているだけです。」 すべての人が罪を持って生まれた理由は、アダムという初めの人(人間を代表する)の原罪の影響下にあるからということです。その罪の影響が子孫である全人類に残され、罪に束縛された悲惨な状態になっているということです。生まれたばかりの赤ん坊は、泣きながら自分の意思を表すと言われます。しかし、それはコミュニケーションというよりもイライラすることに近いです。つまり、怒っているということです。保育園に入った子供たちは、些細なことで友達と喧嘩し始めます。「いじめ」という言葉があるほど、幼い生徒たちが友達をいじめることもあります。村八分、部落民といった根深い社会問題も、偏見によって他人を蔑視しやすくなる人間の罪の本性に由来します。つまり、人間は基本的に罪と悪を持って生まれるのです。聖書はその理由を最初の人であるアダムの原罪の影響から示しているのです。アダムの堕落によって、神にいただいた、人間の善と正しさが歪んでしまったということです。 だから、聖書は力強く語ります。「生まれつき罪を持っている人間は、決して自らの手で神の基準を満たすことができない。」人間は、絶対に自分の力で自分の救いを成し遂げることができません。人間はみんな生まれつき罪と悪を持っているからです。 2.おひとりイエスによってのみ。 使徒パウロは、このような生まれつき、罪を持っている人間が、自らの力だけでは、決して救いを得られないことを力強く主張しました。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12) そして、これが初代教会時代の正統的な福音の教えでした。「人間は罪を持っているので、自分だけでは義とされることができず、自らを救うこともできない。ひとえに神が遣わされた救い主、イエス·キリストのお赦しによってのみ、人間は義と認められ、救いを得ることができる。」このように、ただイエス·キリストによってのみ、人間は罪赦され、神の救いを得ることができると証しする聖書の一つが、今日私たちが学ぶガラテヤ書なのです。冒頭に申し上げた、義認の教えは、これです。「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」ところで、使徒パウロは、なぜ、このガラテヤ書を書き残したのでしょうか? それは、その当時のガラテヤ地域に「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」という福音の基礎を否定する人々がいたからです。 イエスの時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人のコミュニティがありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教という区別がなかったため、キリスト者たちも会堂で集会を催すことがあったようです。その時、イスラエルから来たユダヤ主義者たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したと思われます。そのようなユダヤ主義者たち、あるいは意図的に近寄ってきたユダヤ主義者たちが、初代教会の信徒たちの福音への理解を歪曲させたようです。例えば「皆さんはただイエス·キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法をご覧ください。行いを大事にしていませんか? イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わなければ、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストだけによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行も加えて救われるべきだと偽りの教えを伝えたのです。そして意外とそんな偽りの教えを真剣に受け止め、イエスだけによる救いを信じない人が多く生じたようです。 3.行いではなくキリストによって。 そのため、パウロは今日、本文の言葉を通して、そのような偽りによる福音の歪曲を警告したのです。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7-9) 私たちは、キリストの十字架での尊い血潮によって、永遠の贖いの恵みをいただき、救われました。キリストは私たちの罪を赦してくださり、父なる神はそのすべてをご計画くださり、聖霊なる神はキリストの救いの力を私たちの中に働かせてくださったのです。私たちの救いは三位一体なる神の協力による恵みです。救いは神のものであるため、どんな良い行いを果たしても、人間は自分の行為によって救いを得ることが出来ません。私たちの宗教的な行い、例えば、祈り、言葉の黙想、献金などの宗教行為が私たちを救うわけではありません。おひとりイエス·キリストが、私たちを救いの道へと導いてくださるという信仰。つまり、主イエスへの信仰を通してのみ、私たちは救いを得ることができるのです。誰かが私たちにキリスト以外の何かで救いを得ることができると誘惑するなら、私たちは絶対にその誘惑にそそのかされてはなりません。 締め括り 今日の本文の御言葉が、私たちに強調しているのは、「イエス・キリストの救いの唯一性です。」世の中には、イエス以外の他のものから救いを探そうとする試みがあまりにも多いです。世の中の数多くの異端やカルト宗教は、その試みから生まれる場合が多いです。時には、政治がそのような試みをすることもあります。日本の場合、日本帝国時代に天皇を神とし、アジア全体の救い主が日本帝国であるという名目で戦争を引き起こすこともありました。当時の日本の教会はそのような政府に屈し、自分だけでなく、植民地の教会にも神社参拝を強要してしまいました。植民地教会の中にも、自ら神社参拝に加担する者がおり、多くのキリスト者が主イエスの救いを裏切ってしまったのです。現在、私たちの生活の中にも、イエス以外の何かから平和と満足を探そうとする試みがあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはなりません。真の救いは、ひとえにイエス·キリストによってのみ、私たちに与えられるものです。キリスト者である私たちは、その事実を絶対に忘れてはなりません。使徒言行録で使徒ペトロが言ったこの言葉が思い起こされます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録 4:12)