偶像崇拝

コヘレトの言葉3章11節(旧1037頁)  使徒言行録1章12~26節(新213頁) 前置き 最近、水曜祈祷会では小信仰問答の学び会と使徒言行録の読み会を隔週にしています。小信仰問答は十戒のうち第一戒「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」を学び、使徒言行録は第1章を読んで、その内容について話しました。ところで、偶然にも十戒の第1戒と使徒言行録の第1章には、偶像崇拝について考えさせられる部分があります。今日は、その中で使徒言行録第1章12節から26節の言葉を通じて、いくつかの教訓を学び、特に現代を生きる私たちにおいて偶像崇拝とはどういうものかについて考えてみたいと思います。 1. 教会は主の御言葉によって建てられていく。 復活された主イエスは、地上に40日にわたって主の人々とおられ、神の国について教え、昇天後に聖霊なる神を遣わさしてくださると約束されました。主はその約束を最後に、オリーブ山から御父のところに昇られました。その後、弟子たちは、ある部屋に集まって祈り、イエスが約束してくださった聖霊を待ちました。聖霊の臨在前のある日、ペトロが兄弟姉妹の中に立ってこう言いました。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをした、あのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。詩編にはこう書いてあります。その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。また、その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」(使徒行伝1:16、20、詩篇69:25、109:8引用) その内容はイエスを背反したイスカリオテのユダについての話でした。結論を言えば、12弟子の一人だったユダがイエスを裏切った後、自殺し、弟子の数が11人になっているので、新しい一人を選ばなければならないとのことでした。使徒ペトロはイエスの一番弟子と呼ばれるほど、初代教会において影響力のある存在でした。イエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)と言われるほど、ペトロを初代教会の指導者として認めてくださったのです。 (このような理由でカトリック教会はペトロを初代教皇だと思いました。)つまり、ペトロには自他共に認めるイエスの一番弟子という権威があったのです。しかし、今日の本文を読むと、そんな彼であるにも関わらず、自分の権威で勝手に教会のことを決めません。主の御言葉(詩編)の権威に従い、自殺で亡くなったユダに代わる新しい使徒の選出を提案します。それも自分が人を選ぶわけではなく、神にすべてをお委ねするという心構えで、祈りと共に「くじ引き」をします。旧約時代には権力のある一人の思いではなく、主なる神がその御心によって、すべてを導いてくださるという意味で、よく「くじ引き」をしたと言われます。このような「くじ引き」のもう一つの形として、今日の長老教会では個教会の長老、執事を選出する時、あるいは大会や中会の役員を選ぶ時に投票をしたりしています。神の教会は主の御言葉を通じて、聖霊のお導きによって建てられていきます。すべての権威は、ある一人の発言ではなく「神の御言葉」によって立てられます。教会には多数の指導者がいます。時々、牧師や長老といった指導者たちの声がかりで動かれる教会もたまに見かけます。しかし、教会を導いていくのは一人の人間ではなく、主なる神の御言葉です。志免教会も人の思いではなく、主の御言葉によって建てられていく教会であるよう祈ります。 2. 裏切者ユダについて。 次は「裏切者、イスカリオテのユダ」(以下、ユダ)について話しましょう。皆さんもご存知のように、ユダはイエスを裏切って主を反対する者たちに引き渡してしまいました。彼はなぜ、イエスを銀貨30枚で売ってしまったのでしょうか? イエスはユダを憎んだり、差別したりされたことがありません。ペトロを一番弟子と呼ぶとはいえ、ペトロだけを偏愛されたわけでもありません。誰かは必ず初代教会を率いる指導者にならなければならなかったので、主はペトロを適任者と判断され、よく一緒におられるだけでした。牧師や長老だからといって主にさらに愛されるわけでないことと同じように、一番弟子ペトロだと、さらに愛されていたわけではありません。イエスの愛はすべての人々に公平だからです。おそらく、ユダもイエスに愛される弟子だったでしょう。彼が裏切者であることをすでに知っておられたにも関わらず、主は彼をも愛されたでしょう。ユダという人は、政治的なメシアを待ち望んだ、ある意味で、イスラエル民族の独立運動家だったと思われます。ただ、そのやり方が非暴力平和主義ではなかったと思います。イエスが福音伝道を始められた頃、「イエスはダビデの子孫だ。」という噂を聞いたユダは、このイエスこそがローマ帝国からイスラエルを独立させ、昔のダビデ王国の栄光を取り戻す民族のメシアだと思ったのです。 つまり、ユダはイエスという方の活動を誤解し、自分勝手に思ってしまったのです。神に遣わされた、全人類の罪を贖うメシアではなく、自分の民族と国の指導者という狭い思いの中でイスラエルの独立と民族の繁栄だけのためのメシアと考えてしまったのです。そのため、時間が経てば経つほど、イエスの伝道活動が気に入らず、ますます不満が重なっていったでしょう。早く人々を煽り立て、軍隊を集め、兵器を備えてローマとの戦争を準備しなければならないのに、イエスは敵への愛を語り、罪人の救いを語り、神の国を語られるだけでした。結局、彼はイエスという存在からは民族の救いがないと判断し、その結果、イエスを告発して引き渡し、自分はイエスと関係を絶とうと企てたでしょう。最初からユダはイエスを贖い主、救い主、民族と国家、歴史と時代を越え、創り主なる神の御心を成し遂げられる真のメシアとして信じていなかったでしょう。自分の理想であるイスラエルの独立、独立以後の報い、世俗権力者として力を持った自分の未来だけを期待してイエスに近寄ってきたでしょう。そのため、ユダはイエスの歩みが自分の理想と合わないという理由で裏切ってしまったでしょう。私たちは福音書を読む時、このようなユダの姿を愚かだと考えがちです。しかし、私たちはこのユダより純粋だと言い切ることが出来ますでしょうか。 3. 自分という偶像を信じる罪 私たちはイエス・キリストへの信仰のゆえに教会に通っています。だから、キリスト教はキリストを信じる宗教なのです。世の中には数多くの宗教があります。日本人にとって、宗教より文化に近く感じられる神道を始め、大昔から日本人の価値観に影響を及ぼしてきた仏教、日本で生まれ、他国にも伝えられた天理教、創価学会などの宗教もあります。その他にもキリスト教系の異端やカルト宗教、イスラム教みたいななじみのない宗教など、数多くの宗教が日本にあります。日本は信教の自由がある国なので、どんな宗教を持っていても、誰にもそれを非難する資格はないと思います。だから、教会でも他宗教者を偶像崇拝者だと盲目的にののしってはいけないと思います。しかし、人間がなぜ、宗教を持って様々な神々を崇拝するのかについては考える必要があります。旧約聖書にはこんな言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3:11) 神は人間に「永遠を思う心」を与えてくださいました。永遠を思う心とは、簡単に言えば、絶対者を追求する心のことです。そんな人間が罪によって唯一の神から離れてしまい、絶対者への知識は消えたが、絶対者を追求する心は残って、真の神ではない他の存在を信仰するようになったのです。こうした永遠を思う心から宗教は始まりました。 しかし、こうした人々の心は変質し、宗教を自分の欲望、必要、満足のための道具として使うようになりました。多くの人が自分の必要のために神社で祈ったり、お寺で祈ったりします。天理教や創価学会なども立派な教理を持っていますが、信徒一人一人の信仰活動の結局は自分の欲望、必要、満足につながるでしょう。信仰の対象である神々への追求ではなく、その神々を満足させることから来る自分の満足が信仰の理由になるということです。宗教と信仰が自分が仕える神々への崇拝ではなく、その後ろに隠れている「自分自身」に仕えるための道具となったというわけです。結局、信仰も宗教もその裏には「自分自身の満足」という自分自身の欲望を崇拝する状態に至ります。現代社会の本当の偶像崇拝は、他宗教の神々を信じることに限りません。その後ろに潜んでいる自分自身という、また違う神を拝むのが、本当の偶像崇拝なのです。イスカリオテのユダは、自分自身を神とする者でした。イエスという有名なラビを利用して、自分が望んでいた民族の独立とそれについてくる名誉と権力という彼の欲望が、ユダ自身を神のように作ってしまいました。そして、その欲望が叶えなくなると、ユダは自分が「主」と呼んでいたイエスを銀貨30枚で売ってしまったのです。ユダの最も大きな問題は裏切りではありませんでした。自分自身の欲望を神とし、真の神であるイエスを捨ててしまう自己崇拝にありました。 締め括り 皆さんによく話すことがあります。「私たちはなぜイエスを信じ、教会に通っているのか?」です。その理由が「死後、天国に行くために、神に祝福されるために、心の平和のために、幸せになるために」という単純に「自分の000ために」ならば、「ひょっとして私たちも自分の満足のためにイエスを信じているのではないか?」と疑ってみなければならないと思います。キリスト教信仰は自分の満足のための信仰ではありません。キリスト教の主人公は徹底的に三位一体なる神であり、私たちはその方の民として召し出された存在です。自分の欲望ではなく、ひとえに主なる神の御心に聞き従うという純粋な信仰で生きなければ、私たちはいつか神に大きく失望するようになるかもしれません。私たちが神からいただく祝福は、神を満足させてもらうご褒美みたいなものではありません。純粋に自分の造り主である神だけに仕え、神の御心に聞き従って生きる時、自然に与えられる恵みなのです。自分が神の座を奪い取り、神を自分の必要のために利用しようとする姿は、けっしてあってはならない罪なのでしょう。主従関係を確実に理解し、純粋な信仰で神の民として生きることこそがキリスト者のあり方でしょう。神だけに仕える純粋な信仰者として生きるのか? 自分自身に仕える偶像崇拝者として生きるのか? 私たちは常にこの分かれ道に立っています。

律法の行いではなく、信仰による義。

創世記15章6節(旧19頁)  ガラテヤの信徒への手紙2章11~21節(新344頁) 前置き キリスト教の最も中心的な教えは「キリストのみによる救い」ではないかと思います。新旧約をひっくるめて数多くの言葉がありますが、そのすべては「自分の努力では自分の罪が解決できず、たったイエス·キリストによってのみ人の罪を解決することができる。」に帰結されるからです。したがって、キリストとその方の貢献による救いは、いくら繰り返し、強調すると言っても過言ではない最も重要な聖書の真理なのです。6月2日の主日、私はガラテヤ書の1章を通して「イエス·キリストの救い」を説教しました。その内容は「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる」でした。今日は、ガラテヤ書2章の言葉を通じて、当時の教会に悪影響を及ぼした「ユダヤ主義」について学び「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる。」という言葉の意味を、もう一度考えてみたいと思います。 1. ユダヤ主義。 ガラテヤ書の背景について手短に話してみましょう。イエス時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人社会がありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教の区別が薄かったため、キリスト者たちもユダヤ教の会堂で集会を催すことが多かったです。その時、イスラエルから訪問したユダヤ人たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したりしたようです。そのようなユダヤ人の中には、意図的に初代教会に近寄り、信徒たちの福音への理解を歪曲させるユダヤ主義者たちもいたようです。例えば「皆さんはただイエス•キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法を読んでください。行わなければ救いはありません。イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わずに、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストのみによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行をも加えて救われるべきだと偽りの教えを伝える人々がいたのです。ということで、ガラテヤ書は、そのような福音を歪曲するユダヤ主義を警告しているのです。 ところで、なぜ、ユダヤ主義者たちはイエスを信じて得る救いを否定したのでしょうか? 基本的にユダヤ主義はイエスを反対するための思想ではなく、律法の厳守を極端に主張する主義だったのです。旧約の律法を堅く守ることそのものは良いことだと思いますが、ここで言う「律法の厳守」はそんな意味ではありませんでした。旧約聖書の純粋な律法を守るという意味ではなく、その律法を解釈した昔の人々が書き残したユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え、マタイ15:2)を堅く守るという意味でした。つまり、その始まりは旧約聖書の律法解釈にあったのでしょうが、時間が経つにつれてユダヤ民族中心的な解釈が加わり、結局、人が作った偏狭なユダヤ民族むけの言い伝えが律法のように取り扱われたわけでした。ユダヤ人は長い間、その伝統を守ることによって神に義と認められると信じてきたと思われます。なのに、突然現れたイエスという人と彼を主として崇める人々が「ただイエスによってのみ救われる。」と主張していたので、ユダヤ主義者たちは、自分たちの伝統が損なわれると思ったのでしょう。そこから出た反応が「イエスを信じるだけでは物足りない」という主張でした。 2. 初代教会の中のユダヤ主義 それでは、このユダヤ主義の影響はどうだったでしょうか? 今日の新約本文の序盤にはこう書いてあります。「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」(ガラテヤ2:11-13) 私たちの思い以上、ユダヤ主義の影響は教会の中に据えてあったようです。ここでケファは使徒ペトロのアラム語式名前です。つまり、パウロがペトロを非難したわけです。パウロはもともとキリスト者を迫害する過激なユダヤ主義者でした。他方、ペトロは最初からイエスに従った弟子だったのです。一歩遅れて回心した元ユダヤ主義者の「後輩」パウロが、最初からキリスト者だった「先輩」ペトロをとがめたということです。なぜパウロはペトロをとがめたのでしょうか? それは、ペトロからユダヤ主義の痕跡が見えたからです。今日の本文によると、ペトロはヤコブのもとから来た人々(エルサレムのユダヤ人キリスト者たち)がアンティオキア(異邦地域)を訪問した時、異邦人キリスト者との食事の席を避けたと書いてあります。 そして、パウロと一緒に活動していたバルナバのような他のユダヤ人キリスト者だちもペトロと一緒に異邦人キリスト者たちと距離を置いたと書いてあります。ペトロとバルナバと他のユダヤ人キリスト者たちがそう振舞った理由は、律法を装うユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え)が異邦人との交わりを「望ましくない行為」と規定していたからです。『使徒行伝』にはこんな言葉があります。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(10:28) つまり、パウロとペトロが活動していた時期にも「純血ユダヤ人のキリスト者たち」の中には異邦人への偏見と差別を抱いている人がいたということです。ペトロはエルサレムから来た「純血ユダヤ人キリスト者たち」との葛藤を避けるために「異邦人キリスト者たち」との食事を避けたわけです。依然としてユダヤ人キリスト者たちは「昔の人の言い伝え」から完全に自由ではなかったということです。このように初代教会の中にもユダヤ主義の影響が残っていました。その結果、アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちはいかに傷ついたでしょうか。それで、パウロはペトロをとがめたわけです。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(ガラテヤ2:14) 3. 信仰のみによる義 おそらく、ペトロは自分がキリストによって完全に新たになったと思っていたでしょう。初代教会の指導者としての使命感と誇りもあったはずです。それによってアンティオキアという異邦地域に来た時、異邦人キリスト者たちと一緒に食事もし、昔の人の言い伝えという足かせから抜け出して生活したでしょう。しかし、エルサレムからユダヤ人キリスト者たちが来ると彼は恐れ、再び「昔の人の言い伝え」に束縛されてしまいました。このようなペトロの姿を見て、異邦人キリスト者たちは「私たちも純血ユダヤ人キリスト者のようにユダヤ人の伝統を守らなければならないのか?」と誤解し「キリストのみによる救い」に疑いを抱いたかもしれません。パウロはそのようなペトロの行いがもたらす多くのキリスト者の誤解を残念に思い「私たちがたとえユダヤ人だとしても、私たちを新たにするのは律法を歪曲したユダヤの伝統ではなく、ただイエス·キリストの救いのみにかかっている。それは民族と思想を超える。」とペトロに力強く語ったわけです。伝統は大切なものです。しかし、その伝統が神の御心を歪め、妨げるなら、私たちはその伝統を改善していかなければなりません。 日本キリスト教会の中に、他教派を好ましくないと思う方々もいるかもしれません。私が最初日本キリスト教会に来た頃、韓国から多くの宣教師たち(長老派)が来日しました。その時「外国から宣教師を呼ぶのが心配だ」と言われる他中会の方々もいました。「日本人ではない。教派が違う。伝統が損なわれるかもしれない。」などの理由でした。その方々には申し訳ないと思いますが、もしかしたら、そういうのが現代版の「ユダヤ主義、ユダヤの伝統、昔の人の言い伝え」であるかもしれません。日本キリスト教会の歴史と伝統を大切にしたあまり、民族と国とすべての違いを乗り越えたキリストの体なる一つの教会という大命題を忘れられたかもしれません。幸い、九州中会の多くの方々はペトロではなく、パウロのように宣教師たちを受け入れてくださったので、今のようになっていますが、当時はとても辛い気持ちでした。キリストによって義とされたということは、私たちの義において「キリストへの信仰」以外に何も要らないということを意味します。自分がどんな罪を犯した人間だっても、自分がどんな民族、国、背景の出身だっても、主イエスのもとですべてが赦され、新たになるということです。主なる神がイエス・キリストを遣わされた理由はまさにこれです。男であれ、女であれ、裕福であれ、貧乏であれ、どんな壁も崩し、ただイエス·キリストのみの救いによって皆が神の子供として認められるということです。 締め括り パウロは新約本文の結論部にこう語ります。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) 私たちはどんな行いによっても、どんな資格によっても、義と認められることが出来ない罪人です。ひとえにイエス・キリストへの信仰によってのみ義と認められることが出来る不完全な存在です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:16) 創世記のアブラハムが、ただ「信仰」によって義とみなされたことと同じように、私たちはキリストへの信仰によってのみ義と認められるのです。ですから、主への信仰以外に、何によっても他人を判断したり差別したりしないようにしましょう。教派、民族、性別、すべてを越えて、ただ主への信仰だけで一つになっていく私たちであるよう祈ります。

主の御声を聞く。

ヨブ記38章1~7節(旧826頁)  マタイによる福音書26章39節(新53頁) 前置き 私たちは、主なる神が私たちとお話しくださる人格的な存在であると信じています。だから、私たちも自分が理解する言葉で、神に祈りをささげるわけではないでしょうか。もし、神が人格的な神でなければ、私たちはまるで人と人が会話するかのように神に祈ることができないでしょう。他宗教のように意味も分からずにお経を読んだり、おまじないのような宗教行為をしたりしたかもしれません。このようにキリスト教は、神と自分という人格と人格の交わりをとても大切にする宗教なのです。しかし、ひとつ疑問が浮かびます。私たちは、主なる神を人格的な存在だと信じ、私たちの言葉で祈りを捧げるのですが、なぜ、主なる神は私たちの耳に聞こえる声で直接お答えくださらないのでしょうか? 私たちはひたすら聖書の言葉、あるいは聖書に基づいた説教を通じてのみ、神が私たちにくださった御言葉を主の御声だと信じて生きています。つまり、主なる神は私たちの耳に聞こえる肉声では言われないということです。それでは、果たして、私たちは聖書や説教以外に主なる神の御声を聞くことができますでしょうか?今日は神の御声(御心、お答え)について考えてみたいと思います。 1.主の御声が聞こえない理由。 聖書を読むと、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブのような人物は、まるで神と対面して話しているかように見えます。例えば、アブラハムは、創世記12章、13章、15章、17章で神と話します。創世記12章から17章までは、1時間も経たないうちに読むことが出来るくらいですので、聖書を読む私たちは、主なる神とアブラハムが頻繁にコミュニケーションしたと受け止めやすいです。しかし、実はそうではありません。聖書学者たちは創世記12章でアブラハムが初めて神に出会った時の年齢を75歳くらいだと予想しました。そして、17章にはアブラハムの年齢が99歳だと記されています。神とアブラハムの4回の会話は、約25年という長い時間の中で行われた珍しい出来事だったのです。つまり、創世記の中心的な人物だったアブラハムでさえ、25年の長い間、神の声をたった4回しか聞けなかったということです。 アブラハムの息子、イサクはどうだったしょうか? 彼はアブラハムよりも神の御声を聞く機会が少なかったのです。創世記25章で妻リベカが双子を身ごもった時、イサクは神に祈り、神は一度イサクに御声を聞かせてくださいました。イサクの息子ヤコブは故郷を離れた時に夢で一度、そして再び故郷に帰る時に主の御使いを通じて一度、間接的に神の御声を聞きます。そして、創世記35章で、やっと直接的に主の御声を聞くことが出来たのです。 このように創世記を代表するアブラハム、イサク、ヤコブのような人物も、主の御声を毎日聴いたたわけではありません。神の一人子イエス・キリストも、この地上におられた時、父なる神のお答えを聞けない場合があったほどです。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ福音26:39) だから、主の御声が聞こえないことに、がっかりしないでください。それは聖書の人物にとっても珍しい経験でした。主の御声は私たち自身の便宜のためのものではありません。主の御声は神の厳重な御心を民に伝えるもの、つまり啓示ともいえるものでしょう。それは主が望まれる時に民に聞かせてくださるものです。民が望むからといって言われ、望まないからといって言わない軽いものではありません。長い祈りにも主の御声が聞こえない場合が多いです。そんな時は主が私たちの祈りを聞いておられるが、最も良いお答えの時を待っておられると理解し、忍耐強く待つ必要があります。 2.ヨブの物語 しかし、それにもかかわらず主の御声(御心、お答)が聞こえてこないことにより、不安になりやすいのが私たち人間の弱さだと思います。特に苦難の時はなおさらです。神が今、自分の苦難に対してどう考えておられるだろうか、自分はこれからどうすれば良いだろうか悩むようになります。そんな時は、主なる神が一日も早く自分が聞ける御声でお答えくださったらと思いがちです。そのような早速の答えを望む私たちに、今日、旧約本文であるヨブ記は、神のお答についてのヒントをくれます。アブラハムの時代、「ヨブ」という信心深い人が「ウツ」というところに住んでいました。彼はアブラハムの親戚でも、子孫でもなかったのですが、主なる神を崇める主の民でした。神は彼をとても愛しておられました。ある日、神が主の使いたちを呼び出されました。ところで、その時、神に逆う者であるサタンも、その集まりに出てきました。神はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。」とヨブの信仰を褒められました。だったら、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。主が彼にたくさんの祝福をくださったから、信じるわけではありませんか。」と言いました。主なる神はヨブの信仰を試みられるためにサタンを用いられ、ヨブに試練を許されました。(最後には二倍報いてくださる。) それによって、豊だったヨブの家は一晩にしてつぶれてしまいました。財産も消えてしまい、病気にかかり、子供たちも亡くなり、妻も離れていきました。彼に残されたのは皮膚病にかかった体だけでした。彼は嘆きました。その時、ヨブの3人の友が彼を訪ねてきました。ここまでがヨブ記3章までの内容で、4章から37章まではヨブと友達との論争が続きます。論争の主な内容は「主は正義の方であり、正しくない者に罰を下される。」「ヨブは罰を受けたから正しくない。」「ヨブは悔い改めなければならない。」という友達の主張と、「自分は罪を犯したことがない。」「主が直接、今の状況について説明してほしい。」というヨブの主張に分かれます。ところで、彼らには共通の過ちがありました。それは主なる神の摂理と経綸を人間である自分の知識において判断しようとしたということでした。「罪を犯したから罰を受けなければならない。」「罪を犯したことがないから罪がない。」のように、人間のみすぼらしい知識に主の御心を合わせようとしたわけです。結局、主なる神が直接現れ、戒めはじめられるのが、まさに今日の旧約本文である38章の言葉なのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ記38:2) そして、神は引き続き言われました。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」(ヨブ記38:4~6) 3. 主の御声(お答)を求める。 主は自分たちのみすぼらしい知識で、神の摂理と経綸を判断し、互いに論争しつづけるヨブと友達に、主の御業は彼らの知識と経験をはるかに超える宇宙的なものであることを教えてくださいます。つまり、人の小さな知識で、主なる神の御声を完全に聞き、理解することはできないということです。ここで、私たちは主の御声またはお答えが聞きにくい理由を推し量ってみることが出来ます。私たちは、ヨブと3人の友達のように非常に小さな存在です。現代という時代的な状況、日本という文化と地域の状況、自分個人の状況に束縛され、一日一日をかろうじて生きる存在なのです。このような私たちが全宇宙を創造し、毎日その宇宙を保たせておられる偉大な神の御心をまともに理解することが出来ますでしょうか? 主なる神の御声が私たちの耳に聞こえてくるでしょうか? もし聞こえるといっても、その意味が分かりますでしょうか? 神はイエス•キリストを通して私たちのところに来てくださったのですが、だからといって神も私たちのように小さな存在になったわけではありません。神は変わらず、この世の創り主、支配者として存在しておられるので、今でもその方の御心と御声を、私たちが完全に理解することはできません。 神が聖書をくださった理由もそのためです。人間が宇宙を支配される主なる神の御旨を知り、理解することができないので、最小限の理解のための道具として聖書という人間の言葉で記された書をくださったわけです。 人生を生きながら、神の御心が理解できない時があまりにも多いです。なぜ、独裁者と戦争を許されるのか? なぜ、無実な者の死を許されるのか? なぜ、日本の教会はこんなに小さく伝道が難しいのか? なぜ、貧しくて弱い人たちがさらに不幸であるのか? なぜ、長年祈ったのに答えがないのか? 私たちの人生において神はどんな意味なのか? さまざまな疑問や疑いが心の中に浮かんできます。しかし、そんな時、今日の本文の言葉を思い起こしたらと思います。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」神は私たちの思いより、はるかに偉大な存在であり、私たちにはその方の御声を完全に聞きとれる耳がないということを私たちは心に留めなければなりません。 しかし、主なる神は(ヨブ記の最後にヨブにしてくださったように)ご自身が望まれる時には、必ず主の民が聞きとれる方式でお答えくださるということを憶えつつ一日一日を信仰によって生きていきたいと思います。 締め括り 主の御声は、必ずしも耳だけで聞けるものではありません。自分の耳にはっきりと聞こえてくる肉声だとも誤解してはなりません。主の御声は主ご自身が望まれる時に聖書の御言葉によって私たちの心の中に聞こえてくる主の御旨だからです。世の人々のすべての声は肉声だけで耳に聞こえてくるわけではありません。母が家族のために食事の支度をする時のまな板の音や父が歌を口ずさんで庭でほうきで掃く音から家族と子供たちのための愛の声が聞こえてきます。赤ちゃんの笑い声、子供たちの跳ね回る遊び声から未来への希望の声が聞こえてきます。愛や希望を口で言わなくても、私たちは、世に響くさまざまな音や声から意味を見つけます。主の御声もそうです。必ずしも、私たちの耳に聞こえてくるのが主の御声ではありません。聖書を通じて分かるようになる人類への主の救いの計画、四季が変わりながら生まれる自然の豊かさにも、この世を愛する神の御声が潜んでいるのです。長い祈り、お答えへの渇望の中で、主の御声が聞こえず、疲れている方がおられるかもしれません。しかし、主が今でも私たちと一緒におられ、今すぐには御声を聴かせてくださいませんが、お答えになる時を待っておられるということを憶えて生きたいと思います。 主の時が来れば、主は必ずご自分の御声を聴かせてくださるでしょう。主の御声、お答えを待ち望みつつ、主に信頼して生きるのは私たちの信仰のあり方ではないでしょうか。

謙遜と信仰

詩編22編23-29節(旧853頁)  マルコによる福音書7章24-30節(新75頁) 1.シリアのフェニキア人。 今日の本文で、主と出会った女はフェニキア出身のギリシャ人でした。シリア・フェニキア人は、シリア地域のフェニキア民族の人という意味で、イスラエルの北海岸地域にある、とても古い民族でした。(紀元前40世紀にもあったと知られている。)フェニキアはアルファベットで有名ですが、大昔からフェニキア人は地中海を掌握し、貿易を通して令名をはせてきました。そのため、早くから文字、数学、航海術が発達していました。フェニキア文字の影響でギリシャ語も発展し、またそのギリシャ語の影響で、ラテン語、ヨーロッパの諸言語、英語も発展していきました。だけでなく、ヘブライ語やアラビア語も、その影響下にありました。また、フェニキアは軍事的にも強い民族でした。紀元前3世紀から2世紀頃、ローマが本格的に大帝国になる前、ローマの海の向こうにはカルタゴという海洋民族がありました。彼らは地中海の支配権をめぐってローマと雌雄を争いました。西洋史で有名なポエニ戦争が、このカルタゴとローマの戦争です。ここでカルタゴはフェニキア民族に由来した国です。このようにフェニキアは、文化的、経済的、軍事的に非常に由緒ある民族だったのです。 というのは、フェニキア人には文化的、経済的にユダヤ人より優れたというプライドがあったということです。これが当時のシリア・フェニキア人、つまり本文で、主に出会ったティルスの人々(フェニキア人)の認識でした。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(24) しかし、そのような歴史と文化へのプライドのあるフェニキア人の中にも貧しい人々はいました。その貧しい人々の中には、助けを求めてイエスのところに来る人もいたようです。彼らはどんな病気でも治し、どんな悪霊でも追い出し、5000人でも腹一杯食べ物をくださった「奇跡の男」イエスに会うために押し寄せて来ました。今日、登場するシリア・フェニキアの女も、そういう人たちの中の一人だったのです。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(25) 2.イエスの試み。 しかし、イエスを訪ねてきたからといって、皆がイエスに対して真の信仰を持っているとは言えませんでした。ある人は本当の信仰で、ある人は好奇心で、また、ある人は欲望で、各々の意図をもって訪ねてきました。その代表的な人物が12弟子の1人であったイスカリオテのユダではありませんか。彼はイエスを政治的なメシアだと思い、従ったのですが、自分の思い通りにならないのを見て、結局、裏切ってしまいました。ここで一つ考えたいことがあります。私たちは、なぜ、イエスを信じているのでしょうか? 私たちは、なぜキリスト者と名乗り、教会に通っているでしょうか? 主への本当の信仰のためか、それとも、他の理由のためか、私たちの信仰を顧みたいと思います。「わたしに向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)私たちはこの言葉に耳を傾けなければならないと思います。多くの群衆の中でイエスを訪れた女は、果たしてどんな心でイエスのところに来たのでしょうか? 「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」(26) シリア・フェニキアの女の娘は、悪霊に取り付かれていました。新約聖書で「悪霊に取り付かれた。」という言葉には、実際に悪霊に取り付かれたという意味もありますが、「神に逆らう、汚れた世の邪悪な支配のもとで苦しんでいる。」という意味でもあります。おそらく、この女は占い師、医師、宗教家など、多くの人々に娘のために頼んだはずです。しかし、誰ひとり、この世の支配から娘を自由にすることが出来ませんでした。結局、彼らもこの世の支配に属していたからです。ひとえにこの世の悪の支配を退けられる方、世の支配の反対におられる主イエスだけが、その苦しみから女の娘を自由にすることが出来るのです。ユダヤ人も、ギリシャ人も、主イエスによってのみ世の悪の支配から自由になることが出来るのです。ところで、女がイエスに声をかけた時、イエスのお答えは、私たちの予想とは全く違うものでした。「イエスは言われた。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)イエスが女を小犬に比喩されたからです。当時のユダヤ人は自分たちは神の子どもであり、異邦人は「犬」のように扱っていました。滅ぼされるべき存在であるという意味で、非常に侮辱的な言葉だったのです。つまり、イエスがこの異邦の女を侮辱したも同然の状況でした。 先ほど、私はフェニキア民族の由来について話しました。彼らは長い歴史、伝統、優越な文化を持っていました。当時のフェニキア地域はローマ帝国の植民地の一つとなっていましたが、ローマの文化がフェニキア文明から大きく影響を受けたことは否定できない事実でした。また、本文の女は、ギリシャ人と呼ばれました。つまり文化人だったのです。当時のギリシャ人は野蛮人でない人という意味であったため、女の民族的、文化的なプライドは高かったはずです。しかし、主は彼女を「犬のような人間」のように扱われました。数多くの人々がイエスを訪ねましたが、その中に真の信仰を持っている人は何人だったでしょうか。イエスの弟子たちでさえ、不信心の時があるほどでした。つまり、イエスはこの女の信仰を試みられたのです。本当に信仰を持ってきただろうか、それとも他の人々と同じように好奇心や欲望だけできただろうかをお測りになるためだったでしょう。しかし、彼女は驚くべき深さの信仰で、イエスに答えました。「女は答えて言った。主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28) つまり、言い換えれば、こういう意味でしょう。「もし、あなたが私を犬と呼ばれるなら、私は犬のように扱われても良いです。しかし、犬のような私でも、あなただけが私を助けてくださる方であることを信じています。」彼女はまるでこのような返事をするかのように、主に反応したわけです。 3.謙遜と信仰 「そこで、イエスは言われた。それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(29-30)もちろん、イエスは心から彼女を犬だとは思っておられたわけではないでしょう。主は全人類の主であり, その愛は人種を選り分けません。主は彼女の信仰を試そうとされたわけでしょう。そして彼女は見事にその試みを乗り越えました。民族、文化、歴史的な優越感ではなく、イエスというお方と自分自身という一人の人間の間にある、あらゆる妨げを乗り越えて、主との関係のみに集中する、その立派な信心を、シリア・フェニキアの女は証明したのです。そして、その証明の根源は彼女の謙遜にありました。「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩編22:27)今日の旧約本文の27節には「貧しい者」という表現が出てきます。この「貧しい」の原文は「アナブ」というヘブライ語で、解釈次第で「謙遜である」という意味にもなります。つまり、27節は「謙遜な心を持って主を追い求める者は豊かに恵まれる」という意味でしょう。優れた文化と伝統のフェニキア人、しかもギリシャ人と呼ばれていたシリア・フェニキアの女。彼女はみすぼらしい人間の姿で来られた神の神である主イエスを謙遜な心によって見つけたのでした。主は謙遜を通してご自分の姿を表されます。今日の本文は、その点を大事にしているのです。 締め括り 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)今日、本文の原文に照らすと、あの有名な山上の垂訓の、この言葉も再解釈できると思います。つまり、「謙遜な者は幸いである、御国は彼らのものである。」ともいえるでしょう。我々の信仰の基礎は謙遜にあります。「自分ではなく、主の貢献によってのみ救われる。私ではなく、神の力によってのみ祝福が与えられる。」という信仰自体が謙遜に基づくものでしょう。このようにキリスト者の信仰にあって謙遜とは、美徳ではなく、本質なのです。その謙遜を貫いて生きる時、主はますます私たちを祝福してくださるでしょう。我が教会が謙遜に生きていきる主の民でありますように祈ります。

イエス·キリスト。

ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(新342頁) 前置き 今日の本文であるガラテヤの信徒への手紙は、宗教改革で有名な人物である「マーティン・ルーサー」がローマ書と共に最も愛した聖書として知られています。中世カトリック教会は、イエスへの信仰と共に人の善行も救いのための必要条件であると理解していましたが、そのような中世カトリックの救い認識に反発したマーティン・ルーサーが「ひとえに主イエスの十字架の貢献のみによる救い」を強調するローマ書とガラテヤ書から大きい霊感を得たからです。私たちが属している日本キリスト教会は長老派の教会であり、長老派の教会は「イエスによってのみ救いを得ることができる」という教えを何よりも重要に思います。「唯一イエス·キリストのお赦し」だけが、人間に真の救いを与える、たった一つの鍵だからです。今日はガラテヤの信徒への手紙1章を通して、イエスおひとりだけによる真の救いについて話してみたいと思います。 1.人間の罪と義認 「義認」という神学用語を聞いたことがありますか? 文字通りに「義(正しい)と認められる。」という意味です。もっと詳しく言えば「神から遣わされた唯一の救い主イエス·キリストのお赦しによって義と認められる。」という言葉です。この「義認」には前提がありますが、それは、この義認の対象となる人間という存在は、生まれつき正しくない存在ということです。旧約聖書の偉大な王ダビデは、詩編51編を通してこう語りました。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51:7) 古代中国の思想家「荀子」は人間は悪の本性を持って生まれるという「性悪説」を主張しました。詳細な意味は少し違うかもしれませんが、旧約聖書も「人間は生まれつき罪人である」と述べています。生まれたばかりの赤ちゃんは何の悪いことも犯してないはずなのに、なぜ聖書はすべての人が生まれつき、正しくないと語るのでしょうか? その理由について日本キリスト教会大信仰問答は、このように説明しています。「問44:どうして、人間はこのようなもの(罪による悲惨な存在)になってしまったのでしょうか。答:始祖アダムが罪に堕ちた結果、その裔であるすべての人間も真の自由を失い、その全人格が神のかたちを全く損ない、破れたすがたにおいて残されているだけです。」 すべての人が罪を持って生まれた理由は、アダムという初めの人(人間を代表する)の原罪の影響下にあるからということです。その罪の影響が子孫である全人類に残され、罪に束縛された悲惨な状態になっているということです。生まれたばかりの赤ん坊は、泣きながら自分の意思を表すと言われます。しかし、それはコミュニケーションというよりもイライラすることに近いです。つまり、怒っているということです。保育園に入った子供たちは、些細なことで友達と喧嘩し始めます。「いじめ」という言葉があるほど、幼い生徒たちが友達をいじめることもあります。村八分、部落民といった根深い社会問題も、偏見によって他人を蔑視しやすくなる人間の罪の本性に由来します。つまり、人間は基本的に罪と悪を持って生まれるのです。聖書はその理由を最初の人であるアダムの原罪の影響から示しているのです。アダムの堕落によって、神にいただいた、人間の善と正しさが歪んでしまったということです。 だから、聖書は力強く語ります。「生まれつき罪を持っている人間は、決して自らの手で神の基準を満たすことができない。」人間は、絶対に自分の力で自分の救いを成し遂げることができません。人間はみんな生まれつき罪と悪を持っているからです。 2.おひとりイエスによってのみ。 使徒パウロは、このような生まれつき、罪を持っている人間が、自らの力だけでは、決して救いを得られないことを力強く主張しました。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12) そして、これが初代教会時代の正統的な福音の教えでした。「人間は罪を持っているので、自分だけでは義とされることができず、自らを救うこともできない。ひとえに神が遣わされた救い主、イエス·キリストのお赦しによってのみ、人間は義と認められ、救いを得ることができる。」このように、ただイエス·キリストによってのみ、人間は罪赦され、神の救いを得ることができると証しする聖書の一つが、今日私たちが学ぶガラテヤ書なのです。冒頭に申し上げた、義認の教えは、これです。「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」ところで、使徒パウロは、なぜ、このガラテヤ書を書き残したのでしょうか? それは、その当時のガラテヤ地域に「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」という福音の基礎を否定する人々がいたからです。 イエスの時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人のコミュニティがありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教という区別がなかったため、キリスト者たちも会堂で集会を催すことがあったようです。その時、イスラエルから来たユダヤ主義者たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したと思われます。そのようなユダヤ主義者たち、あるいは意図的に近寄ってきたユダヤ主義者たちが、初代教会の信徒たちの福音への理解を歪曲させたようです。例えば「皆さんはただイエス·キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法をご覧ください。行いを大事にしていませんか? イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わなければ、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストだけによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行も加えて救われるべきだと偽りの教えを伝えたのです。そして意外とそんな偽りの教えを真剣に受け止め、イエスだけによる救いを信じない人が多く生じたようです。 3.行いではなくキリストによって。 そのため、パウロは今日、本文の言葉を通して、そのような偽りによる福音の歪曲を警告したのです。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7-9) 私たちは、キリストの十字架での尊い血潮によって、永遠の贖いの恵みをいただき、救われました。キリストは私たちの罪を赦してくださり、父なる神はそのすべてをご計画くださり、聖霊なる神はキリストの救いの力を私たちの中に働かせてくださったのです。私たちの救いは三位一体なる神の協力による恵みです。救いは神のものであるため、どんな良い行いを果たしても、人間は自分の行為によって救いを得ることが出来ません。私たちの宗教的な行い、例えば、祈り、言葉の黙想、献金などの宗教行為が私たちを救うわけではありません。おひとりイエス·キリストが、私たちを救いの道へと導いてくださるという信仰。つまり、主イエスへの信仰を通してのみ、私たちは救いを得ることができるのです。誰かが私たちにキリスト以外の何かで救いを得ることができると誘惑するなら、私たちは絶対にその誘惑にそそのかされてはなりません。 締め括り 今日の本文の御言葉が、私たちに強調しているのは、「イエス・キリストの救いの唯一性です。」世の中には、イエス以外の他のものから救いを探そうとする試みがあまりにも多いです。世の中の数多くの異端やカルト宗教は、その試みから生まれる場合が多いです。時には、政治がそのような試みをすることもあります。日本の場合、日本帝国時代に天皇を神とし、アジア全体の救い主が日本帝国であるという名目で戦争を引き起こすこともありました。当時の日本の教会はそのような政府に屈し、自分だけでなく、植民地の教会にも神社参拝を強要してしまいました。植民地教会の中にも、自ら神社参拝に加担する者がおり、多くのキリスト者が主イエスの救いを裏切ってしまったのです。現在、私たちの生活の中にも、イエス以外の何かから平和と満足を探そうとする試みがあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはなりません。真の救いは、ひとえにイエス·キリストによってのみ、私たちに与えられるものです。キリスト者である私たちは、その事実を絶対に忘れてはなりません。使徒言行録で使徒ペトロが言ったこの言葉が思い起こされます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録 4:12)