詩編139編1~10節 / ルカ福音書19章1~10節 はじめに ルカによる福音書19章に記されたザアカイのお話は、聖書の中でも大変よく知られたものです。日曜学校の小さな子供たちも、喜んで聞いてくれるお話しです。 といっても、聖書は、譬えるなら海のような書物です。浅瀬もあって幼子もそこで遊ぶことができますが、また広大無限な広さ深さもあって、知恵ある大人も極めつくすことのできません。ですから、今日の箇所も何度読んでも新しい発見があります。 今朝は、「あなたを探し求めている神」という主題で、改めてザアカイのお話しから神様のみ旨を聞いて参りたいと思います。 ザアカイという人物 さて、ザアカイという人物については、まず2節で「徴税人の頭で金持ちであった」と紹介されています。その彼が、理由ははっきりと書いてありませんが、3節、「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。けれども彼は「背が低かったので、群集に遮られて」しまいます。ところが、彼はそんなことで挫けません。4節、彼は「先回り」して群集を出し抜き、してやったとばかり木に登ります。7節には、人々はこんな彼を毛嫌いして、「罪深い男」と言いあっていました。ところが、9節、主イエスは「この人もアブラハムの子」だとお呼びになったというのです。 アブラハムとはユダヤ民族のご先祖の名前です。旧約聖書創世記12章に記されるように、神様は人類の中からこのアブラハムを特別に選び、その歩みを通して、「すべての民は、あなたによって祝福される。あなたは祝福の基である」と約束されました。従って、「アブラハムの子」とは、単に民族としてのダヤ人というだけではなく、人類の祝福のために特別に選ばれ、神様の祝福を周りの方々に持ち運ぶ人のことです。 ところが、その彼がやがて「罪深い男」と呼ばれるようになっていきました。それは、彼が徴税人であったということと関係があります。徴税人が罪深いと言われると、今日、税務関係の方々はお困りになるでしょうが、現在の税務署員とこの当時の徴税人とは、まったく違っていました。その間の事情はこうです。 当時、ユダヤの国はかのローマ帝国によって支配されていました。ローマは、当然、支配した国々や民族から税金を取り立てました。しかし、「支配の天才」と呼ばれたローマは、税金問題が被占領地域の不安定化に繋がることをよく承知していました。そこで、ユダヤ人にはある程度の自治権を認めるふりをして、背後から統率する支配方法をとりました。王様もユダヤ人から立てました。そして税金も、ユダヤ人自身が徴収するようにさせました。すると、人々の憎しみの感情は自然とその背後にいる当のローマ人そのものよりも、彼らの手先として働く目の前の徴税人のような同胞に向けられるようになります。 しかも、徴税人が事のほか憎まれた理由がまだありました。それは彼らの税金の集め方からきます。徴税人は、ローマから割り当てられたある一定額を納めさえすれば、後は自分たちの腕次第。ローマ権力を後ろ盾にいくらでも人々からお金を巻き上げることができたのです。ザアカイが金持ちであったというのは、まさに人々の憎しみを代償として、しかもあまりほめられない手段で成りあがった地位ということでした。 ザアカイの歪み それにしても、なぜザアカイは敵国ローマの手先となってまで、お金に執着したのでしょうか。ある人たちは、ザアカイが「背が低かった」と肉体に関することがわざわざ書いてあるところに、何らかの暗示を読み取ります。彼の生来もっている劣等感、コンプレックスを予想するのです。確かにコンプレックスが心理的に反転して人間の諸活動のエネルギーとなるというのは事実でしょう。しかし、それがなぜザアカイを徴税人としたかまではわかりません。そこで、あえて行間を読むと、こうなります。 実は、ザアカイという名前は、正義や純粋と関連した言葉です。私たちでいうと、正さんとか清さんとか純さんという名前となるでしょう。どのような名前も両親やその社会の人間観を反映しています。きっと、ザアカイという名前も、神様の子供として、信仰深く清く正しく純真な人間に育ってほしいとの願いでつけられたものであったでしょう。しかし、清く正しく純真な心を持って生き続けることは難しいのです。特に、子ども時代はともかく、成人するころには、この世の醜さや矛盾を、だれもが嫌というほど知るようになります。実際、当時のユダヤの民は、神様の民と言われながら、現実には外国に支配されて大変惨めな生活を強いられていました。どこに神様さまがおられるのか、と人々は問うたにちがいありません。では、苦しい中、せめて神様の民同士は互いに助け合い、慰めあっていたかというと、これがそうでもありませんでした。この国では少数の貴族と大商人が土地の大部分を所有し、残りは貧しい民衆で占められていました。 当時、「雨は災い」という言葉があったそうです。なぜなら、雨が降ると土地が潤い、豊作になります。すると人々の生活が楽になる。それだと貴族や商人たちは困るのです。かえって雨も降らず不作だと、商人たちはわずかの収穫物を倉庫に隠し、人々がもっと飢えたころあいを見計らって高値で売りに出す、すると儲かるのです。人間が人間に対して狼となるような、そういう弱肉強食の厳しい時代と社会の中で、このザアカイも育ったのです。 どこに神様がおられるのか、どこに神様の民の愛があるのか、まじめに神様さまを信じ、同胞のために生きようとすれば、自分一人だけ損ばかりする世の中です。一層のこと、ローマの手先となっても、被害者から加害者へ、搾取されるものから搾取するものになった方が良い、そう彼は思ったのではあいでしょうか。以前、久留米出身のIT長者が話題になりました。彼はマスコミにこう言い放ちました。「世の中には2種類の人間しかいない。勝ち組と負け組。どうせならだれもが勝ち組になって、お金持ちになりたいだろう」と、そううそぶいたのです。世の中には、彼のように人生や社会の問題を非常に単純化し、弱肉強食の競争原理をそのまま人間の本能や社会の発展に合致するものとして受け入れ、世の中の流れにうまく棹差しながら生きる人たちがいるのです。ザアカイも、確かにその一人でした。 心の空虚さ ただ問題は、それでザアカイは本当に満足したかということです。彼はお金持ちとなりましたが、決して幸福ではありませんでした。お金も権力も手に入れたザアカイも、一方で自分が無くしたものに気付くだけの正直さはありました。それは、自分が本来そのように創られた神様の子どもとしての歩みであり、神様の祝福を人々にもたらすという、もう一つの人生でした。 人間はただ生存していれば良いという存在ではないのです。美味しいものが食べられ、他の人よりもお金も権力もある勝ち組になれば満ち足りる、というような単純な存在ではないのです。命の根源にある神様の祝福を感謝し、神の子どもとしての使命を果たさないと、すべては空しいのです。 もちろんザアカイは、神様の祝福などはどうでもよい、と思って生きてきたのです。でも、そうは思っても、心の底にポッカリと空いているその空虚さを無視することはできませんでした。 心の空虚さ 17世紀フランスの数学者、物理学者であり、キリスト教思想家であったブレーズ・スカルという人は、人間の心の奥底につきまとう不思議な空虚さについて、とても面白いことを言っています。いわく、人間の心には大きな穴が空いている。その穴を埋めるために、人は色々なものを追い求めて、埋めようとする。この世の栄光、お金、異性、そして権力・・。しかし、そのようなものでは心の穴は埋めることができない。なぜなら、その穴は神様様の形をしているのだから。神様様以外の何ものをもってしても、人間の心にぽっかりと空いた穴を埋めることは出来ない、と。 みなさまは、ジクソーパズルをご存知でしょう。私も、小さな頃、1000ピースのジクソーパズルに挑戦したことがあります。何日もかかって999ピースを完成させました。ところが、肝心の最後の1ピースが見つからないのです。そのときのことを思い起こすのです。999まで埋め尽くしたのだから、一つくらい欠けていても完成と同じではないか、と自分に言い聞かせても、納得いかないのです。むしろ、逆なのです。最後の一つが欠けているから、せっかく苦労して完成させた他の999ピースが、かえって不完全で醜く見えて、どうしようもないのです。 私がその経験から学んだことはこうです。人間の心理、人間存在の不思議さは、実は自分が今現在もっているものをすべてを集めた総量によってではなく、むしろそれによって全体が統合され調和していくような、究極的なある一つの何かによって、決定されていくということです。主イエスの言葉でいうと、「なくてならないものは多くはない。いや、むしろ一つである」ということです。ですから、その肝心要となる究極的な一つのものがなければ、その他どんなに多くのものをもっていても、人間は決して満足しないのです。 アウグスティヌスという古代教会の有名な先生が、「神様、あなたは私たちをあなたご自身に向けてお造りになりました。それゆえ、私たちはあなたのもとに憩うまでは安きをえません」と祈られましたが、正にこれが、ザアカイの空虚で平安のない状態だったと思うのです。 ただ、その彼が本当に幸いであったのは、主イエスのことを聞いたことです。同じ徴税人仲間のマタイという人がお弟子となったことも、心引かれたでしょう。こうして、3節、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」のです。直訳すると、「イエスがどんな人か見ることを切に求めた」となります。何とかしてイエスに会いたい、なぜなのか自分でもはっきりとはわからないのだけれども、しかし心の底から沸き起こる「内的な促し」があって、苦しいほどにキリストを「切に求め」るのです。 決心 そのザアカイの決心は、相当なものでした。3節に、「群集にさえぎられた」とありますが、これは群集が嫌われ者ザアカイに意地悪をして妨害した、と読めます。それでも、ザアカイはくじけませんでした。 聖書には、ザアカイをはじめとして、いろいろな困難や妨害を乗り越えてキリストに出会う人たちのお話しが出てきます。礼拝一つ守るためにも色んな差し障りがあります。家族の反対、仕事上の問題、自分の中で疑い、迷いも起こるでしょう。しかし主イエスはおっしゃいました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見出す。門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえる」。だれでも真剣に求めるなら、与えられ、見出し、道は開かれて行くのです。何か本当のものを求めたいと思っても、人々の目を気にしたり、世間に縛られて身動きできない人はたくさんいます。こうして、今日の決意が明日になり、明日があさってになり、一生を終える時に後悔して苦しむ人もいます。その中で、ザアカイは自分の心の促しに正直に、思いきって一歩を踏み出すことのできた勇気ある人でした。 救いの逆転 しかし、次の5節以下に記されていることは驚きです。というのも、木に登ったザアカイに、何と主イエスの方から彼に声をおかけになった、とあるからです。つまり、ここまでは心の中の空しさに突き動かされる形で、ザアカイが必死になってイエス様を求めていたという話でした。ところが、ここで話しが急に転回して、神様こそがご自分の独り子イエス・キリストにおいて、ザアカイを探し求めておられた、という風に変わっていくのです。 そして、ここにキリスト教信仰の大事な点があります。私たちが神様を求め見いだす前に、実は私たちを探し求める神様のお働きがあって、それが私たちを本当の意味で神様に向かわせ、神様のところに救い、立ち帰らせていくのです。 世間では、宗教信仰とは私たちが神様に近づくために、心を入れ替えたり、熱心に修行もしたりして、神様に相応しいあれこれの諸条件を満たしたら、神様がやっと重い腰をあげて、私たちに恵みを与えてくださる、そう考えられています。しかし、よくお考えください。それならばまるで商取引です。私は、しばしば「自動販売機の神様」という言い方をします。自動販売機とは、こちらが始めに100円をさし出すと、それに少しプラス・アルファした分のご利益が返ってくるものです。もし、それと同様に、こちらがこれだけのことをしたから、神様がそれに見合う祝福を与えてくださるというのなら、それはまさに人間と神様との商取引ではありませんか。かつて日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれましたが、宗教まで経済的な交換様式にしてはいけないのです。 聖書の信仰は、ギヴ・アンド・テイクではないのです。神様は天の高みにいて、高く上ることの出きる立派な人だけを迎えて、恵みをたれるというような神様ではないのです。10節をご覧ください。キリストはおっしゃっています。人の子、これはキリストのことですが、人の子は失われたものを探して救うために来たのである、と。クリスマスの時、神様の子主イエスがまずはじめに身を低くして、罪人たちの悲惨な世界においでくださいました。そして、このザアカイを探し求めてくださったのです。 神様の信実 5節の「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」という主イエスのお言葉は、大変興味深い言い方です。ザアカイのこれまでの人生は、コンプレックスにしろ、何にしろ、ともかく人を押しのけ、人よりも高いところに上ろうとした人生でした。キリストにお会いするためにも、自分の才覚で高いところに上らねばならないと思っていたのです。しかし、今や、主イエスは言われるのです。「急いで、降りてきなさい」。急いで、とは時間概念というよりは、回心を迫る言葉です。あなたの今までのモノの考え方や歩み方とはきっぱりと手を切りなさい、ということです。逆に言うと、あなたはもう無理して高いところに上る生き方はしなくてよい、むしろ地面に足をつけて、ありのままのあなたでいて良いのだ、そのありのままのあなたと、私は出会うのだと主イエスはおっしゃっているのです。 しかも、その時、主イエスはザアカイの名前を読んで、そうおっしゃったと言われています。名前を呼ぶ、それは何でもないことのようですが、人格的な関係を表します。もう少し言うと、愛の関係を表します。考えてみると、人々はザアカイを憎んでいましたから、彼の名前を呼ばずに、「あの罪深い男」、「あの汚れた奴」、「あんな奴」、という風に言っていたのです。しかし、主イエスはザアカイの名を呼ばれるのです。これを言い換えると、主イエスはザアカイを、みんなが見るように強欲で罪深い守銭奴としては見ておられなかったということです。むしろ、ザアカイの本来の姿、神様によって創造され、人々への祝福の担い手として歩むべき神様の子としての本来の姿を、ずっと見続けておられたということです。 こうして、「あなたの家に泊まることにしている」、とおっしゃったのです。この言葉も、実は神様御自身の先行的なみ業を表します。神様がそうするようにあらかじめ決めている、これは神様のみ心なのだ、というニュアンスの言葉です。人々はこれを非難して、主イエスが罪人の仲間となったといいましたが、主イエスはザアカイを神様の子として迎え入れられたのです。 神様の信仰 この一連の主イエスとザアカイの出来事を、一言で言い直すと、主イエスがザアカイの本来の姿、神様様から創造された神様の子としてのザアカイをどんなに信じつづけていてくださったか、ということに尽きます。ザアカイがどれほど神様の民としての道を踏み外し、落ちるところまで落ちても、そして他の人々はそのようなザアカイをやれ駄目な奴とか罪深い男だとか言って断罪し、批判し、背を向けたとしても、主イエスだけはザアカイの本来の姿をじっと心に持ち続けながら、彼を信じ続け、神様の子としての歩みへと導くことをおやめにならなかったのです。この神様の独り子イエス・キリストにおけるザアカイを信じ抜く揺るがぬ信仰と、そのためにザアカイに対して変わることなく注がれる愛の真実こそが、キリスト教の救いなのです。 今、「神様の、キリストにおけるザアカイへの信仰」と申しました。これは不思議な言い方かもしれません。信仰と言ったら、私たち人間が神様様やイエス様に持つ信仰と思っています。もちろん、それは間違ってはいませんが、しかしその私たち人間の持つ信仰に先立って、実は神様がキリストにあって、私たちに対する信仰をお持ちになっているのです。 新約聖書の中でキリスト教信仰について語られる時、しばしば「キリストへの信仰」、「キリストを信じる信仰」という風に訳されます。これは、ガラテヤ書やローマ書のような、福音の核心を語る重要な箇所で用いられている言い方ですが、原文を直訳すると、「キリストの信仰」となります。この言葉を、宗教改革者ルター以来、伝統的に私たちは「キリストの」という属格(所有格)を、目的格的属格と理解して、信仰とはキリストに対する私たち人間がもつ信仰ということで、私たちが「キリストを信じること」私たちの「キリストへの信仰」という風に訳してきました。しかし、このような翻訳では、聖書がいうところの「信仰」の全体を捉えきれないのではないかと思われるのです。 そこで、実は一番新しい聖書の翻訳である『聖書協会共同訳』では、ルター以来500年に渡ってそうなされてきた「キリストを信じる私たちの信仰」という翻訳から、「キリストの信仰」という風に訳するようになりました。キリストの信仰、あるいは、信仰という言葉は真実という意味ですから、「キリストの真実」「キリストが私たちに示し続ける神のご真実」と翻訳するようになったのです。これは画期的な翻訳と言われますが、しかし本来のキリストの救いの原点に立ち戻ったような翻訳なのです。 実際、たとえば、「神様の愛」と聖書が言う時、それは第一義的に「神様が私たちを愛する愛」という風に捉えますでしょう。その神様の愛をいただいているから、私たちも神様様を愛することができるのです。同様に、信仰もまずはキリストが私たちを信じていてくださるという、キリストの私たちに対する信仰と真実をいただくゆえに、私たちもまた神様様やキリストに対する信仰や真実を持つことができるようになるのです。 私たちが信仰を得たのも、まさに私たちが信じる前に、キリストにおいて神様が私たちを信じて、どこまでも真実を尽くしてくださったからです。私たちはキリストにおいて神様から信じられているのです。たとえ今、私自身、あるいは、人々が私をどのように見ていようと、キリストだけは私を神様の子として信じ抜いてくださるのです。それに感動しない人はいるでしょうか。その感動が、キリスト教信仰の中心にあるのです。そして、この感動には今まで味わったことがない喜びが付きまといました。ザアカイは、もちろんこれまで色々な喜びを経験しました。うまいこと人をだまし、たんまりと税金をむしり取ってお金がたまっていく喜び。ローマ政府の権力を傘にして特別待遇を受ける喜び。人々を出し抜いて優越感に浸る喜び。しかし、神様の信実に包まれ、神様と隣人と共に歩む喜びだけは知りませんでした。ザアカイは、生まれて初めて、命の喜びに満たされたのでした。 今日この家に救いが来た 最後に、今日、救いがこの家にやってきた、という言葉に注目して終わります。ルカ福音書やその続巻とも言うべき使徒言行録では、特に家ごとの救いということが強調されています。これは、心に残る神様の救いの出来事です。一人の人がキリストと出会い、救われる、それは決してその人一人の救いにとどまらないのです。家全体の救いがそこに始まっているのだ、といわれるのです。 この礼拝にも、家族から切り離されるように一人でお見えの方もおられるでしょう。自分の残してきたその家族を思いながら、時にはその救いをあきらめる思いにも捕らえられることがおありでしょう。しかし、主イエスは、「あなたは救われたが、あなたの家族は救いにはほど遠い」とおっしゃったのではないのです。そうではなく、「あなたの救いと共に、今日、あなたの家に救いが訪れた」、と宣言してくださったのです。それは、キリストの救いと共に、私にだけでなく、私たちの家族にも救いが訪れたという宣言です。私の家族が、神様の大きな命の祝福に包まれていくのです。 ですから、私たちはたとえ今は信仰をもたない家族のことでも喜びを失わない。希望を失わない。そして、どんな時でも、家族にも与えられているこのキリストにおける神様の祝福を担いながら家族と共に生きていくのです。願わくは、神様の救いが目に見える形でも家族の中に現れていくように、祈り、仕えていくのです。それが、神様の子どもたち、神様の祝福を担う者たちの歩みなのです。 主イエス・キリストの父なる神様 私たちは、罪のゆえに、あなたのことも、隣人のことも後回しにして、自分一人の幸福だけを追い求めながらも、心に平安を得ることができず、常に迷い、魂のさすらいを続けているような者たちです。しかし、そのような私たちを憐れみ、あなたはあなたの独り子、イエス・キリストをクリスマスの時に、この世に遣わしてくださいました。そして、救い主キリストにおいて私たち一人一人を探し求め、神様の子どもたちとして回復してくださいますことを、心より感謝申し上げます。 失われた神様の子どもたちを探し求めるあなたの驚くべき愛と恵みのみ業は、今も続けられています。私たちの周りにも、あなたのことを知らず、まるでかつてのザアカイのように世の中の流れに掉さし、あなたから離れ、隣人も失って、自己中心的な歩みをしておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのような方々が、主イエス・キリストにおいて、まことの神様であるあなたと出会い、まことの悔い改めと、新しい命の歩みを始めて行けるように、お導きください。願わくは、先に救われた私たちが、キリストにおけるあなたの驚くべき愛と恵みの救いに共に与る者たちとして、その方達の命の道しるべとなり、証し人となって、神様の驚くべき大きな祝福へと立ち帰ることができるように、お仕えすることができるようにお導きください。 尽きせぬ感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。