真の王を待ち望んで。

詩編132編8~12節(旧974頁) / ヨハネの黙示録1章4~8節(新452頁) 前置き 今日からアドベントが始まります。アドベントは、メシア、イエス・キリストのご誕生(初臨)と再びの到来(再臨)を憶える待降節を意味する言葉です。その語源は「到着」を意味するラテン語「アドベントゥス」に由来します。毎年、アドベントになると、私たちは主なる神が、この世の唯一の救い主としてお遣わしくださったイエス·キリストの降臨(到着)を喜びたたえます。罪によって永遠に死ぬしかない罪人たちを憐れんでくださり、ご自分の子供にしてくださるために、父なる神は 独り子イエス·キリストをこの地上に遣わしてくださいました。そんな理由で、イエスは真の神であるにも関わらず、また真の人間になって、この世に到着されたのです。そして、罪に束縛された人間を赦し救ってくださるために、ご自分の命を贖いの献げ物としてささげ、罪人に代わって死んでくださいました。このように人間のために死に、その後、主なる神の力によって復活されたイエスは、父なる神のご計画に従い、教会と世の真の王になられたのです。したがって、アドベントは赤ちゃんイエスを待ち望むとともに、今や私たちの真の王になられ、私たちの救いを完成してくださった再臨の王なるイエスを待ち望む期間でもあります。今年も恵みに満ちたアドベントの期間を過ごし、私たちの王でおられるキリストを憶え、感謝と平和のクリスマスを過ごしたいと思います。 1.最もつらい時に共におられる王。 西暦1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスが治めていた時代、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。ローマ帝国では、キリスト教への誤解が悪意的な噂となり、皇帝をはじめ、多くの人々がキリスト教を嫌い、迫害するようになりました。イエスの弟子である使徒ヨハネは、そのような迫害の中で、牧会していたエフェソ地域から追い出され、パトモスという小さな離島に流刑されることになりました。パトモス島は険しい山地と強制労働のための採石場のある荒れ果てている島でした。福音書に登場するヨハネはまだ若い青年として描かれていますが、この時期のヨハネは、すでに高齢となっており、一日一日が大変で特に信仰の兄弟姉妹との連絡も途絶えてしまった孤独な生活を暮らさなければなりませんでした。そんな絶望に落ちてしまうような、ある日、ヨハネのところに、主なる神の聖霊が臨まれました。そして、その聖霊を通じて主イエス·キリストがヨハネに語り始められました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)教会への世の帝国の迫害、肉体の衰退、同僚たちとの別れ。何の希望も喜びもなく、人生の中で最も絶望的で苦しい一日一日を過ごしていたヨハネに、真の神であるイエス·キリストの御言葉が臨んだわけです。 今年、わたしはキリスト教会の教師になってから13年目を迎えました。その中、今年のように、苦しくて悲しい年はなかったです。体も心も疲れ、この道が本当に自分の道なのかと何度も悩んだ記憶があります。年初から、いつも元気だった義理の父がすい臓がんにかかり、心の病によって関係が崩れた姉妹もいました。志免教会員の中にも病気で苦しんでいる方がおられ、教会から離れた方々もおられます。志免教会は伝道所への変更を計画していますし、中会の規模もどんどん小さくなっており、先輩の牧師たちも高齢によって引退を考慮しています。将来を考えると真っ暗で、一寸先も見えません。毎日毎日が心配で、祈っても心が平和にならない一年でした。ところで、おそらく使徒ヨハネは今年の私よりも、100倍以上、大変で苦しく、絶望の時を過ごしたでしょう。教会の存続が不透明な時代だったからです。しかし、変わらない事実がありました。それはヨハネがどんな状況に置かれていても、主イエス・キリストは常に彼を見守っておられ、彼の人生と共におられることでした。そして、主が王の中の王であることには何の変わりもないということを教えてくださいました。おそらく日本キリスト教会の牧師として生きる限り、今の状況から改善される可能性は低いかもしれません。しかし、最もつらい時にもかかわらず、主イエスが私の王として見守り、助けておられることは変わらないでしょう。 最もつらい時に、私の王であるイエスは私と共におられるでしょう。 2.主なる神がお遣わしになった真の王。 私たちが喜びの中にいても、悲しみの中にいても、変わらない事実。それは主イエス·キリストが私たちの王として共におられるということです。今日のヨハネの黙示録の本文は、イエス·キリストを「地上の王たちの支配者」と語っています。王たちの支配者とは、言い換えると「王の中の王」であり、これは結局、植民地や属州の王を征服し、その上に立っている「皇帝」を意味する言葉です。実は「王たちの支配者、王の中の王」は、当時の中東地域の帝国やローマ帝国などの皇帝を意味する表現として使われたそうです。したがって、王たちの支配者は結局、皇帝、つまり真の王を意味する表現です。私たちは「王」と言われる時、征服して支配する存在を思い浮かびがちです。あるいは、暴力的で権威的な存在を思い出すかもしれません。実際、この世の国々の王たちには、そんな者が多かったのです。しかし、主なる神が私たちにくださった真の王イエスは、暴力と権威ではなく、愛と恵みによって、ご自分の民を治められる方です。以前にもお話ししたと覚えていますが、旧約聖書の創世記にはこんな言葉があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27-28) ここに書いてある「支配する」という言葉は、ややもすると「権力で抑えつけて治める」と理解される可能性があります。しかし、現代の神学者たちは、この言葉を単に「暴力的に支配する」という意味として理解してはならないと言います。むしろ、支配される被造物、民を正しく導き、面倒を見るという意味として理解した方が文脈的に正しいと主張します。そのような意味で、私たちを支配し、導いてくださる真の王イエスは、主の民を正しい道に導き、愛によって面倒を見てくださる方だと理解できるでしょう。世の中の王たちは自分の権力と安らぎのために民を死に追いやります。この世の多くの王、皇帝、指導者たちが自分の権力のために戦争を起こし、何も知らない民を戦争の弾除けに死なせたのです。そして、彼らは言いました 「これは国家と民族(実は支配者の権力)のための意味ある死だ。」しかし、真の王であるイエスは、ご自分の民の命のためにご自分の命を惜しげもなく捧げました。主イエスはこう言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音10:11) 主イエスは「王」の概念を権力のための支配者ではなく、愚かで弱い民を最後まで守る、良い羊飼いのような存在だと言われたのです。主なる神が私たちに主イエスを遣わされ、愛をもって正しい道に導いてくださった理由は、主イエスという真の王を私たちにくださるためでした。 3.私たちの真の王である主イエスが来られる。 クリスマスは、その真の王であるイエスのご到来を喜びながら記念する日であり、アドベントはそのクリスマスまでの4週間、主イエスの「初臨」と「再臨」を憶え、教会が大事に記念する期間です。主イエスは私たちを押さえつけ、思いのままに利用する邪悪な王ではなく、私たちを贖い、愛をもって守ってくださるために来られた良い羊飼いとしての王です。時には、この世での苦しみと悲しみによって全てをあきらめたい時がやって来るかもしれませんが、主イエスはそのような弱い私たちのそばにおられ、私たちが試練を乗り越えて主に従い、真の平和と喜びで生きるように勇気と力をくださる方です。私たちは毎年、このイエスのご到来を憶え、感謝し、アドベントの時期を過ごします。神は、この真の王であるイエスが、永遠に私たちと一緒におられ、助けてくださることを望んでおられます。そのため、神は旧約聖書を通じてご自分が遣わしてくださる真の王の永遠な王位についてこのように言われたのです。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約と、わたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる。」(詩篇132:11-12) 締め括り 試練の連続で、終わりそうになかった今年も、もう12月に入ります。来年も新しい心配事が志免教会を襲ってくるかもしれません。けれども、絶対に忘れてはならないことがあります。それは私たちの王であるイエス・キリストが、私たちを離れられず、いつも一緒におられるという事実です。天の王座を捨てて地の馬小屋に来られたイエス。天の栄光を捨てて、地の貧しさを選ばれたイエス。全世界の真の王であるイエスが貧しい大工の息子としてお生まれになった理由。それはこの地で苦しみ、悲しんでいる数多くの主の民と重荷を担い、慰めてくださるためです。クリスマスまで約4週間。私たちの真の王である主イエスが、私たちと一緒に歩んでおられることを憶え、苦しい時も悲しい時も主に頼りつつ真の平和を祈る12月になることを願います。 主の御誕生を喜びながら、このアドベントの時を過ごしてまいりましょう。

あなたを探し求めている神

詩編139編1~10節 / ルカ福音書19章1~10節 はじめに ルカによる福音書19章に記されたザアカイのお話は、聖書の中でも大変よく知られたものです。日曜学校の小さな子供たちも、喜んで聞いてくれるお話しです。 といっても、聖書は、譬えるなら海のような書物です。浅瀬もあって幼子もそこで遊ぶことができますが、また広大無限な広さ深さもあって、知恵ある大人も極めつくすことのできません。ですから、今日の箇所も何度読んでも新しい発見があります。 今朝は、「あなたを探し求めている神」という主題で、改めてザアカイのお話しから神様のみ旨を聞いて参りたいと思います。 ザアカイという人物 さて、ザアカイという人物については、まず2節で「徴税人の頭で金持ちであった」と紹介されています。その彼が、理由ははっきりと書いてありませんが、3節、「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。けれども彼は「背が低かったので、群集に遮られて」しまいます。ところが、彼はそんなことで挫けません。4節、彼は「先回り」して群集を出し抜き、してやったとばかり木に登ります。7節には、人々はこんな彼を毛嫌いして、「罪深い男」と言いあっていました。ところが、9節、主イエスは「この人もアブラハムの子」だとお呼びになったというのです。 アブラハムとはユダヤ民族のご先祖の名前です。旧約聖書創世記12章に記されるように、神様は人類の中からこのアブラハムを特別に選び、その歩みを通して、「すべての民は、あなたによって祝福される。あなたは祝福の基である」と約束されました。従って、「アブラハムの子」とは、単に民族としてのダヤ人というだけではなく、人類の祝福のために特別に選ばれ、神様の祝福を周りの方々に持ち運ぶ人のことです。 ところが、その彼がやがて「罪深い男」と呼ばれるようになっていきました。それは、彼が徴税人であったということと関係があります。徴税人が罪深いと言われると、今日、税務関係の方々はお困りになるでしょうが、現在の税務署員とこの当時の徴税人とは、まったく違っていました。その間の事情はこうです。 当時、ユダヤの国はかのローマ帝国によって支配されていました。ローマは、当然、支配した国々や民族から税金を取り立てました。しかし、「支配の天才」と呼ばれたローマは、税金問題が被占領地域の不安定化に繋がることをよく承知していました。そこで、ユダヤ人にはある程度の自治権を認めるふりをして、背後から統率する支配方法をとりました。王様もユダヤ人から立てました。そして税金も、ユダヤ人自身が徴収するようにさせました。すると、人々の憎しみの感情は自然とその背後にいる当のローマ人そのものよりも、彼らの手先として働く目の前の徴税人のような同胞に向けられるようになります。 しかも、徴税人が事のほか憎まれた理由がまだありました。それは彼らの税金の集め方からきます。徴税人は、ローマから割り当てられたある一定額を納めさえすれば、後は自分たちの腕次第。ローマ権力を後ろ盾にいくらでも人々からお金を巻き上げることができたのです。ザアカイが金持ちであったというのは、まさに人々の憎しみを代償として、しかもあまりほめられない手段で成りあがった地位ということでした。 ザアカイの歪み それにしても、なぜザアカイは敵国ローマの手先となってまで、お金に執着したのでしょうか。ある人たちは、ザアカイが「背が低かった」と肉体に関することがわざわざ書いてあるところに、何らかの暗示を読み取ります。彼の生来もっている劣等感、コンプレックスを予想するのです。確かにコンプレックスが心理的に反転して人間の諸活動のエネルギーとなるというのは事実でしょう。しかし、それがなぜザアカイを徴税人としたかまではわかりません。そこで、あえて行間を読むと、こうなります。 実は、ザアカイという名前は、正義や純粋と関連した言葉です。私たちでいうと、正さんとか清さんとか純さんという名前となるでしょう。どのような名前も両親やその社会の人間観を反映しています。きっと、ザアカイという名前も、神様の子供として、信仰深く清く正しく純真な人間に育ってほしいとの願いでつけられたものであったでしょう。しかし、清く正しく純真な心を持って生き続けることは難しいのです。特に、子ども時代はともかく、成人するころには、この世の醜さや矛盾を、だれもが嫌というほど知るようになります。実際、当時のユダヤの民は、神様の民と言われながら、現実には外国に支配されて大変惨めな生活を強いられていました。どこに神様さまがおられるのか、と人々は問うたにちがいありません。では、苦しい中、せめて神様の民同士は互いに助け合い、慰めあっていたかというと、これがそうでもありませんでした。この国では少数の貴族と大商人が土地の大部分を所有し、残りは貧しい民衆で占められていました。 当時、「雨は災い」という言葉があったそうです。なぜなら、雨が降ると土地が潤い、豊作になります。すると人々の生活が楽になる。それだと貴族や商人たちは困るのです。かえって雨も降らず不作だと、商人たちはわずかの収穫物を倉庫に隠し、人々がもっと飢えたころあいを見計らって高値で売りに出す、すると儲かるのです。人間が人間に対して狼となるような、そういう弱肉強食の厳しい時代と社会の中で、このザアカイも育ったのです。 どこに神様がおられるのか、どこに神様の民の愛があるのか、まじめに神様さまを信じ、同胞のために生きようとすれば、自分一人だけ損ばかりする世の中です。一層のこと、ローマの手先となっても、被害者から加害者へ、搾取されるものから搾取するものになった方が良い、そう彼は思ったのではあいでしょうか。以前、久留米出身のIT長者が話題になりました。彼はマスコミにこう言い放ちました。「世の中には2種類の人間しかいない。勝ち組と負け組。どうせならだれもが勝ち組になって、お金持ちになりたいだろう」と、そううそぶいたのです。世の中には、彼のように人生や社会の問題を非常に単純化し、弱肉強食の競争原理をそのまま人間の本能や社会の発展に合致するものとして受け入れ、世の中の流れにうまく棹差しながら生きる人たちがいるのです。ザアカイも、確かにその一人でした。 心の空虚さ ただ問題は、それでザアカイは本当に満足したかということです。彼はお金持ちとなりましたが、決して幸福ではありませんでした。お金も権力も手に入れたザアカイも、一方で自分が無くしたものに気付くだけの正直さはありました。それは、自分が本来そのように創られた神様の子どもとしての歩みであり、神様の祝福を人々にもたらすという、もう一つの人生でした。 人間はただ生存していれば良いという存在ではないのです。美味しいものが食べられ、他の人よりもお金も権力もある勝ち組になれば満ち足りる、というような単純な存在ではないのです。命の根源にある神様の祝福を感謝し、神の子どもとしての使命を果たさないと、すべては空しいのです。 もちろんザアカイは、神様の祝福などはどうでもよい、と思って生きてきたのです。でも、そうは思っても、心の底にポッカリと空いているその空虚さを無視することはできませんでした。 心の空虚さ 17世紀フランスの数学者、物理学者であり、キリスト教思想家であったブレーズ・スカルという人は、人間の心の奥底につきまとう不思議な空虚さについて、とても面白いことを言っています。いわく、人間の心には大きな穴が空いている。その穴を埋めるために、人は色々なものを追い求めて、埋めようとする。この世の栄光、お金、異性、そして権力・・。しかし、そのようなものでは心の穴は埋めることができない。なぜなら、その穴は神様様の形をしているのだから。神様様以外の何ものをもってしても、人間の心にぽっかりと空いた穴を埋めることは出来ない、と。 みなさまは、ジクソーパズルをご存知でしょう。私も、小さな頃、1000ピースのジクソーパズルに挑戦したことがあります。何日もかかって999ピースを完成させました。ところが、肝心の最後の1ピースが見つからないのです。そのときのことを思い起こすのです。999まで埋め尽くしたのだから、一つくらい欠けていても完成と同じではないか、と自分に言い聞かせても、納得いかないのです。むしろ、逆なのです。最後の一つが欠けているから、せっかく苦労して完成させた他の999ピースが、かえって不完全で醜く見えて、どうしようもないのです。 私がその経験から学んだことはこうです。人間の心理、人間存在の不思議さは、実は自分が今現在もっているものをすべてを集めた総量によってではなく、むしろそれによって全体が統合され調和していくような、究極的なある一つの何かによって、決定されていくということです。主イエスの言葉でいうと、「なくてならないものは多くはない。いや、むしろ一つである」ということです。ですから、その肝心要となる究極的な一つのものがなければ、その他どんなに多くのものをもっていても、人間は決して満足しないのです。 アウグスティヌスという古代教会の有名な先生が、「神様、あなたは私たちをあなたご自身に向けてお造りになりました。それゆえ、私たちはあなたのもとに憩うまでは安きをえません」と祈られましたが、正にこれが、ザアカイの空虚で平安のない状態だったと思うのです。 ただ、その彼が本当に幸いであったのは、主イエスのことを聞いたことです。同じ徴税人仲間のマタイという人がお弟子となったことも、心引かれたでしょう。こうして、3節、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」のです。直訳すると、「イエスがどんな人か見ることを切に求めた」となります。何とかしてイエスに会いたい、なぜなのか自分でもはっきりとはわからないのだけれども、しかし心の底から沸き起こる「内的な促し」があって、苦しいほどにキリストを「切に求め」るのです。 決心 そのザアカイの決心は、相当なものでした。3節に、「群集にさえぎられた」とありますが、これは群集が嫌われ者ザアカイに意地悪をして妨害した、と読めます。それでも、ザアカイはくじけませんでした。 聖書には、ザアカイをはじめとして、いろいろな困難や妨害を乗り越えてキリストに出会う人たちのお話しが出てきます。礼拝一つ守るためにも色んな差し障りがあります。家族の反対、仕事上の問題、自分の中で疑い、迷いも起こるでしょう。しかし主イエスはおっしゃいました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見出す。門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえる」。だれでも真剣に求めるなら、与えられ、見出し、道は開かれて行くのです。何か本当のものを求めたいと思っても、人々の目を気にしたり、世間に縛られて身動きできない人はたくさんいます。こうして、今日の決意が明日になり、明日があさってになり、一生を終える時に後悔して苦しむ人もいます。その中で、ザアカイは自分の心の促しに正直に、思いきって一歩を踏み出すことのできた勇気ある人でした。 救いの逆転 しかし、次の5節以下に記されていることは驚きです。というのも、木に登ったザアカイに、何と主イエスの方から彼に声をおかけになった、とあるからです。つまり、ここまでは心の中の空しさに突き動かされる形で、ザアカイが必死になってイエス様を求めていたという話でした。ところが、ここで話しが急に転回して、神様こそがご自分の独り子イエス・キリストにおいて、ザアカイを探し求めておられた、という風に変わっていくのです。 そして、ここにキリスト教信仰の大事な点があります。私たちが神様を求め見いだす前に、実は私たちを探し求める神様のお働きがあって、それが私たちを本当の意味で神様に向かわせ、神様のところに救い、立ち帰らせていくのです。 世間では、宗教信仰とは私たちが神様に近づくために、心を入れ替えたり、熱心に修行もしたりして、神様に相応しいあれこれの諸条件を満たしたら、神様がやっと重い腰をあげて、私たちに恵みを与えてくださる、そう考えられています。しかし、よくお考えください。それならばまるで商取引です。私は、しばしば「自動販売機の神様」という言い方をします。自動販売機とは、こちらが始めに100円をさし出すと、それに少しプラス・アルファした分のご利益が返ってくるものです。もし、それと同様に、こちらがこれだけのことをしたから、神様がそれに見合う祝福を与えてくださるというのなら、それはまさに人間と神様との商取引ではありませんか。かつて日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれましたが、宗教まで経済的な交換様式にしてはいけないのです。 聖書の信仰は、ギヴ・アンド・テイクではないのです。神様は天の高みにいて、高く上ることの出きる立派な人だけを迎えて、恵みをたれるというような神様ではないのです。10節をご覧ください。キリストはおっしゃっています。人の子、これはキリストのことですが、人の子は失われたものを探して救うために来たのである、と。クリスマスの時、神様の子主イエスがまずはじめに身を低くして、罪人たちの悲惨な世界においでくださいました。そして、このザアカイを探し求めてくださったのです。 神様の信実 5節の「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」という主イエスのお言葉は、大変興味深い言い方です。ザアカイのこれまでの人生は、コンプレックスにしろ、何にしろ、ともかく人を押しのけ、人よりも高いところに上ろうとした人生でした。キリストにお会いするためにも、自分の才覚で高いところに上らねばならないと思っていたのです。しかし、今や、主イエスは言われるのです。「急いで、降りてきなさい」。急いで、とは時間概念というよりは、回心を迫る言葉です。あなたの今までのモノの考え方や歩み方とはきっぱりと手を切りなさい、ということです。逆に言うと、あなたはもう無理して高いところに上る生き方はしなくてよい、むしろ地面に足をつけて、ありのままのあなたでいて良いのだ、そのありのままのあなたと、私は出会うのだと主イエスはおっしゃっているのです。 しかも、その時、主イエスはザアカイの名前を読んで、そうおっしゃったと言われています。名前を呼ぶ、それは何でもないことのようですが、人格的な関係を表します。もう少し言うと、愛の関係を表します。考えてみると、人々はザアカイを憎んでいましたから、彼の名前を呼ばずに、「あの罪深い男」、「あの汚れた奴」、「あんな奴」、という風に言っていたのです。しかし、主イエスはザアカイの名を呼ばれるのです。これを言い換えると、主イエスはザアカイを、みんなが見るように強欲で罪深い守銭奴としては見ておられなかったということです。むしろ、ザアカイの本来の姿、神様によって創造され、人々への祝福の担い手として歩むべき神様の子としての本来の姿を、ずっと見続けておられたということです。 こうして、「あなたの家に泊まることにしている」、とおっしゃったのです。この言葉も、実は神様御自身の先行的なみ業を表します。神様がそうするようにあらかじめ決めている、これは神様のみ心なのだ、というニュアンスの言葉です。人々はこれを非難して、主イエスが罪人の仲間となったといいましたが、主イエスはザアカイを神様の子として迎え入れられたのです。 神様の信仰 この一連の主イエスとザアカイの出来事を、一言で言い直すと、主イエスがザアカイの本来の姿、神様様から創造された神様の子としてのザアカイをどんなに信じつづけていてくださったか、ということに尽きます。ザアカイがどれほど神様の民としての道を踏み外し、落ちるところまで落ちても、そして他の人々はそのようなザアカイをやれ駄目な奴とか罪深い男だとか言って断罪し、批判し、背を向けたとしても、主イエスだけはザアカイの本来の姿をじっと心に持ち続けながら、彼を信じ続け、神様の子としての歩みへと導くことをおやめにならなかったのです。この神様の独り子イエス・キリストにおけるザアカイを信じ抜く揺るがぬ信仰と、そのためにザアカイに対して変わることなく注がれる愛の真実こそが、キリスト教の救いなのです。 今、「神様の、キリストにおけるザアカイへの信仰」と申しました。これは不思議な言い方かもしれません。信仰と言ったら、私たち人間が神様様やイエス様に持つ信仰と思っています。もちろん、それは間違ってはいませんが、しかしその私たち人間の持つ信仰に先立って、実は神様がキリストにあって、私たちに対する信仰をお持ちになっているのです。 新約聖書の中でキリスト教信仰について語られる時、しばしば「キリストへの信仰」、「キリストを信じる信仰」という風に訳されます。これは、ガラテヤ書やローマ書のような、福音の核心を語る重要な箇所で用いられている言い方ですが、原文を直訳すると、「キリストの信仰」となります。この言葉を、宗教改革者ルター以来、伝統的に私たちは「キリストの」という属格(所有格)を、目的格的属格と理解して、信仰とはキリストに対する私たち人間がもつ信仰ということで、私たちが「キリストを信じること」私たちの「キリストへの信仰」という風に訳してきました。しかし、このような翻訳では、聖書がいうところの「信仰」の全体を捉えきれないのではないかと思われるのです。 そこで、実は一番新しい聖書の翻訳である『聖書協会共同訳』では、ルター以来500年に渡ってそうなされてきた「キリストを信じる私たちの信仰」という翻訳から、「キリストの信仰」という風に訳するようになりました。キリストの信仰、あるいは、信仰という言葉は真実という意味ですから、「キリストの真実」「キリストが私たちに示し続ける神のご真実」と翻訳するようになったのです。これは画期的な翻訳と言われますが、しかし本来のキリストの救いの原点に立ち戻ったような翻訳なのです。 実際、たとえば、「神様の愛」と聖書が言う時、それは第一義的に「神様が私たちを愛する愛」という風に捉えますでしょう。その神様の愛をいただいているから、私たちも神様様を愛することができるのです。同様に、信仰もまずはキリストが私たちを信じていてくださるという、キリストの私たちに対する信仰と真実をいただくゆえに、私たちもまた神様様やキリストに対する信仰や真実を持つことができるようになるのです。 私たちが信仰を得たのも、まさに私たちが信じる前に、キリストにおいて神様が私たちを信じて、どこまでも真実を尽くしてくださったからです。私たちはキリストにおいて神様から信じられているのです。たとえ今、私自身、あるいは、人々が私をどのように見ていようと、キリストだけは私を神様の子として信じ抜いてくださるのです。それに感動しない人はいるでしょうか。その感動が、キリスト教信仰の中心にあるのです。そして、この感動には今まで味わったことがない喜びが付きまといました。ザアカイは、もちろんこれまで色々な喜びを経験しました。うまいこと人をだまし、たんまりと税金をむしり取ってお金がたまっていく喜び。ローマ政府の権力を傘にして特別待遇を受ける喜び。人々を出し抜いて優越感に浸る喜び。しかし、神様の信実に包まれ、神様と隣人と共に歩む喜びだけは知りませんでした。ザアカイは、生まれて初めて、命の喜びに満たされたのでした。 今日この家に救いが来た 最後に、今日、救いがこの家にやってきた、という言葉に注目して終わります。ルカ福音書やその続巻とも言うべき使徒言行録では、特に家ごとの救いということが強調されています。これは、心に残る神様の救いの出来事です。一人の人がキリストと出会い、救われる、それは決してその人一人の救いにとどまらないのです。家全体の救いがそこに始まっているのだ、といわれるのです。 この礼拝にも、家族から切り離されるように一人でお見えの方もおられるでしょう。自分の残してきたその家族を思いながら、時にはその救いをあきらめる思いにも捕らえられることがおありでしょう。しかし、主イエスは、「あなたは救われたが、あなたの家族は救いにはほど遠い」とおっしゃったのではないのです。そうではなく、「あなたの救いと共に、今日、あなたの家に救いが訪れた」、と宣言してくださったのです。それは、キリストの救いと共に、私にだけでなく、私たちの家族にも救いが訪れたという宣言です。私の家族が、神様の大きな命の祝福に包まれていくのです。 ですから、私たちはたとえ今は信仰をもたない家族のことでも喜びを失わない。希望を失わない。そして、どんな時でも、家族にも与えられているこのキリストにおける神様の祝福を担いながら家族と共に生きていくのです。願わくは、神様の救いが目に見える形でも家族の中に現れていくように、祈り、仕えていくのです。それが、神様の子どもたち、神様の祝福を担う者たちの歩みなのです。 主イエス・キリストの父なる神様 私たちは、罪のゆえに、あなたのことも、隣人のことも後回しにして、自分一人の幸福だけを追い求めながらも、心に平安を得ることができず、常に迷い、魂のさすらいを続けているような者たちです。しかし、そのような私たちを憐れみ、あなたはあなたの独り子、イエス・キリストをクリスマスの時に、この世に遣わしてくださいました。そして、救い主キリストにおいて私たち一人一人を探し求め、神様の子どもたちとして回復してくださいますことを、心より感謝申し上げます。 失われた神様の子どもたちを探し求めるあなたの驚くべき愛と恵みのみ業は、今も続けられています。私たちの周りにも、あなたのことを知らず、まるでかつてのザアカイのように世の中の流れに掉さし、あなたから離れ、隣人も失って、自己中心的な歩みをしておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのような方々が、主イエス・キリストにおいて、まことの神様であるあなたと出会い、まことの悔い改めと、新しい命の歩みを始めて行けるように、お導きください。願わくは、先に救われた私たちが、キリストにおけるあなたの驚くべき愛と恵みの救いに共に与る者たちとして、その方達の命の道しるべとなり、証し人となって、神様の驚くべき大きな祝福へと立ち帰ることができるように、お仕えすることができるようにお導きください。 尽きせぬ感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。

使徒信条(5)聖霊による聖徒の交わり。

ヨハネによる福音書14章16-26節(新197頁) 、16章13-14節(新200頁) 前置き ここ数回の説教を通じて、使徒信条が記された理由と使徒信条が持つ意味について考えてみました。私たちが信じる主なる神という存在は、被造物である人間が完全に理解できる対象ではありません。聖書に記された神についての知識も、神という存在のごく一部だけを教えているので、私たちは神について完全に理解することができません。しかし、少なくとも、聖書に記された神という存在とその方の本質については正しく知って信じなければならないと思います。使徒信条は、私たちに、神という存在への極めて限られた知識ではありますが、聖書に記された神について教えているのです。今日、私たちは残りの使徒信条「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」について学びます。これを通じて、聖霊なる神について、教会との関係について考えてみましょう。 1.聖霊なる神を信じる。 毎年「ペンテコステ」になると、教会では聖霊なる神について語ります。神は三位一体「御父と御子と聖霊」として存在するというのが伝統的な教会の教えであり、聖書にも、これを裏付ける言葉がたくさんあります。しかし、御父や御子に比べて聖霊はその比重が低く感じられる傾向があると思います。使徒信条でも非常に短く書いてあるだけです。しかし、聖霊なる神の御業は、御父、御子に負けないほど重要です。なぜなら、現在、この地上で教会を導きながら、御父と御子の業を成し遂げていかれる方が、この聖霊なる神であるからです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ福音14:16~17) イエスは完全な神でありながら完全な人間である方です。つまり、神の権威と権能を持っておられますが、また人間でもあるため、肉体を持っておられます。そういうわけで、物理的に私たちといつも一緒におられることはできません。聖書によると、イエスの肉体は、御父の右におられるからです。そのため、イエスは宇宙のどこにでも存在することが出来る聖霊のお働きを通して私たちと一緒にいてくださいます。 そんな理由で、イエスはヨハネによる福音書14章を通して、別の「弁護者(助け主)」聖霊を遣わしてくださると言われたのです。 一つの肉体を持っておられるイエスは、その肉体を通して、人間の代表になってくださいます。神であるにもかかわらず「肉体を持つ」とご自分で制限を加えられたのです。ご自身が絶対的な神だから体を複数にし、自然の摂理も無視して何でもするのではなく、主が定められた人間という範囲内で自らを完全な一人の人間とされたのです。それは、完全に人間の代表になってくださるための主のご意志なのです。だから、一つの肉体を持っておられるイエスは、多数の場所におられません。そのため、イエスはすべての所におられる聖霊の御業を通して、今もご自分の御業を全世界において果たしておられるのです。イエスは肉体を持っておられるため、一つの場所、父なる神の右におられますが、宇宙のどこにでもいることが出来る聖霊によって、すべての所で主の民を助けてくださるのです。聖霊は一ヶ所にだけいるイエスに代わって、この地上のどこでもイエスの御業を成し遂げていかれます。聖霊を軽んじてはならない理由は、御父と御子と同じ権威と権能を持って御父と御子の業をしておられるからです。したがって、私たちは聖霊への堅い信仰を持って信仰生活をしなければなりません。三位一体なる神は、お互いに協力しあって神の御業を成し遂げられます。父、子だけが重要なのではなく、父と子と共に働かれる聖霊も、私たちの信仰の対象として崇められるべき方です。 2. 聖なる公同の教会を導いてくださる聖霊。 「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」私たちが信じるこの聖霊なる神は、御父と御子の業を成し遂げられる方です。キリスト教の重要な信条の一つである「ニカイア·コンスタンティノポリス信条」は、聖霊についてこう教えています。「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。」聖霊は、御父と御子から出て、共に礼拝と栄光を受けるべき神だということです。ところで、聖霊は「予言者を通して」語られました。御父と御子の言葉を預言者を通して宣べ伝えられた方が、聖霊なる神だということです。そんな意味として、神の御言葉を語る説教の言葉も、その根源は聖霊によるのです。もちろん、歴史的に牧師や司祭が説教を用いて自分の思想や知識を主張する誤った場合も少なからずあったのですが、ひとえに御言葉の本義だけが伝えられ、その御言葉によって三位一体なる神の恵みが現れ、教会に役に立つ説教が語られるのであれば、それはきっと聖霊が語らせてくださった正しい説教なのでしょう。御言葉が伝えられるということは、そこに教会が建てられたということであり、そういう意味として教会は聖霊のお導きによって建てられるとも言えるでしょう。ですから、聖霊は教会を建てられる方です。 父なる神の計画、御子の贖い、聖霊の働きによって、教会は建てられるのです。教会の頭であるイエスは聖霊の働きを通して、教会を見守って導いてくださいます。このような一つの聖霊によって建てられたこの世のすべての教会は「一つの公同の教会」です。頭なるイエス·キリストがおひとりで、世の中のどこにもおられるおひとりの聖霊が導いてくださるキリストの体なる一つの教会なのです。聖霊のお導きによってイエス·キリストの体となった一つの公同の教会は、国家、民族、文化、風習、思想を乗り越え、イエス·キリストによって教えられた「使徒的な教え(使徒信条)」という一つの最も重要な価値によって連結される普遍的な教会であるのです。ですから、教派が違っても同じ使徒的な教えを追求するなら、仲良く交わるのが正しいでしょう。 聖霊によって導かれ、キリストの体となったこの教会は「聖なる公同体」です。使徒信条は、これを「聖徒の交わり」と語ります。聖なるという言葉の意味は「特別に区別された存在」という意味です。教会自体が善を行い、正しい行動をしたから、聖なる存在となったという意味ではなく、御父の計画と御子の贖いと聖霊の導きによって、主の民として、この世と区別され、キリストの民として生きる存在となったという意味です。頭であるキリストが聖なる方なので、その体である教会も聖なる者と見なされたのです。このような教会を建てて導かれる方が聖霊なのです。 3. 信仰を与えてくださる聖霊。 このように聖霊のお導きのもとに主イエスの体として区別された教会は、聖霊がキリストの御言葉によってくださる「信仰」にあって生きるようになります。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ福音16:13~14) 聖霊なる神は、御父と御子と同一本質で、同じ権能を持っておられますが、いつも謙虚に父と子の御言葉に従って神の御業を果たしていかれます。そのため、聖霊が私たちと一緒におられるならば、私たちは何よりも御父と御子の言葉に集中して生きるようになります。「聖霊は、自分から語るのではなく、聞いたことを語られる。」すなわち、聖霊は聖書にあるキリストの御言葉を通じて主の民に語られます。新しい何かではなく、以前からずっと存在してきた、主なる神の御言葉のみが伝えられるように導かれます。そして、その御言葉によって語らせてくださいます。したがって、健全な教会なら、神の御言葉が記してある聖書を中心として御言葉を宣べ伝えることに努めます。「異言、予言、啓示」これらも時には教会の活動に必要ですが、最も重要なことは私たちに与えられた聖書の御言葉によって、使徒的で普遍的な教えが宣べ伝えられることです。 そして、その使徒的で普遍的な教えによって、教会は保たれていかなければなりません。毎週の説教はいつも変わりなく、時には退屈であるかもしれません。説教者の立場からも、説教のテーマはほとんど変わりがありません。何年前にした説教と大きい変わりのない説教が今年また語られる場合もあります。しかし、新しい内容の説教ではないけれど、常に大事に伝えられなければならない、繰り返しの説教の中で、聖霊なる神は働かれます。繰り返しで退屈な説教を通して、聖霊はご自分の言葉を語られるのではなく、謙虚に御父と御子の言葉を語らせてくださいます。この聖霊の謙虚さによって、私たちは主の御言葉に少しずつ染まっていき、その御言葉から小さな信仰の芽が生えてくるのです。その信仰によって私たちは「父の計画とイエスの贖いによって、私たちの罪が赦されたこと、イエスの復活によって私たちも復活し、永遠に生きること」を知り、信じるようになるのです。聖霊の謙虚さが私たちの正しい信仰の養分になってくるということです。 締め括り 聖霊は三位一体のおひとりの神です。父と子に比べてあまり語られない理由は、聖霊が御言葉を通して、父と子のことを伝えておられるからです。つまり、ご自分のことはあまり語られないということでしょう。だから、聖霊は謙虚な方です。この聖霊は教会を建てて導かれる方です。世の中のすべての所におられる聖霊のお働きによって、父の右におられるイエス·キリストはご自分の御業をすべて果たしていかれます。したがって、私たちも御父、御子と共にこの謙虚によって教会を導いていかれる聖霊なる神を憶えて生きていきたいと思います。長い使徒信条の説教が終わりました。私たちがほぼ毎週告白するこの使徒信条を憶え、私たちが誰を信じ、何を追い求めければならないのか、もう一度顧みる時間であれば幸いです。正しい信仰の告白の中に正しい信仰生活が生まれることを憶えて生きていきたいと思います。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁) ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、ひどい飢饉に襲われ、それを避けてエジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹と騙さなければならない命の危機にあいました。その後、主のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、次は相続人と思っていた甥ロトと財産の問題で別れることになり、神に約束された息子の誕生は兆しが無かったです。側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子は神に相続人と認められませんででした。「主の民」という呼び名が形だけのものと思われるほど、アブラハムの人生はつらかったのです。しかし、そのようなアブラハムの人生にあって、絶対変わらないのがありましたが、それは主なる神の存在でした。神はアブラハムと結ばれた契約にあってアブラハムの罪を赦され、いつも共にいてくださいました。聖書において最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に共におられるということです。私たちは今日、アブラハムの失敗を見ます。しかし、それと共に、決してアブラハムを見捨てられない主なる神の愛をも見るようになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」などの表現があるほど、キリスト教信仰において、存在感の大きい人物です。しかし、このアブラハムという人は、私たちの思いほど、偉大な人でないかもしれません。その理由は、今日の本文のためです。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹と騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てる失敗を再び犯し、まったく成長していない姿を見せてしまいます。 創世記12章でアブラハムは神に何も尋ねず、飢饉を避けて勝手にエジプトに行きました。そして神にも、妻にも大きい無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返して失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。なのに、アブラハムは、長年の信仰生活にもかかわらず、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯したのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれた大事な人物でした。約束の相続人イサクの母になる妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破る裏切りだったのです。このアブラハムの姿を見て、「これが人間の本質なのか?」と思わされます。私たちは戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代に信仰生活をしています。しかし、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じる状況になったら、私たちは果たして信仰を守ることが出来ますでしょうか。ひょっとしたら、繰り返すアブラハムの失敗は、私たちを映す鏡であるかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、私たちはアブラハムと異なる選びが出来ますでしょうか。 現代を生きる私たちは、創世記が一人が書いたか、長い間、何人かが書いたか分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、主なる神が深く関わり、導いてくださったこと、主の御言葉として、この創世記をくださったことは分かります。なので、私たちは創世記 12章と 20章で繰り返すアブラハムの失敗と主のお赦しの物語を通して、主が私たちに示してくださる教訓があるということを考えなければなりません。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験し、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵でなければ、絶対に信仰を続けることができないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の意義ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3)神は創世記12章でファラオを戒められたように、今回はアビメレク戒をも戒められ、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは、罪による繰り返す失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを赦してくださったのです。いくら信仰があるといっても、人は自分の信仰を完全に守ることができません。民と共におられる主の恵みによってのみ、人は信仰を守ることが出来るのです。私たちはアブラハムの繰り返す失敗にがっかりするより、それでも、アブラハムを見守ってくださる神の愛に感謝すべきです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムであることが分かります。古代に一つの勢力が拠点を移す際に、他勢力の暴力を避けるために、家族を人質として差し出す場合もあったのですが、当時のアブラハムはカナンで権力も財力もある有名人で、妻サラはすでに90歳近くの老人でした。ある学者は、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈しましたが、説得力は低いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的に若かったので、命を救うために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力もあるアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父にふさわしくなく、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきです。主はアブラハムを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父にふさわしく行動する時も、そうでない時も、変わることなく「主の民、神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約をご覧になったからです。これはキリストの福音と非常に似ています。キリスト者は、自分の功績によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰で、時には不信仰で生きます。いや信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも、神は私たちを救ってくださったキリストの義によって、私たちをご自分の民と認めてくださったのです。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は彼が繰り返して罪を犯しても、変わりなく彼を赦し、正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、私たちを主の道へと導いてくださるでしょう。繰り返す罪の中でも、主は満ち溢れる恵みで主の民を憐れんでくださるのです。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身はぶどうの木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ、実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として聖書に記録されています。アブラハムが偉大な人物として描かれた理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずにつながっていたからです。神はキリストにつながっている者をも守っておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道へと導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れる必要はありません。失敗したら悔い改め、赦してくださる神を最後まで信じていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるからです。繰り返す失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を憶え、神のもとにいる者として生きていきましょう。

使徒信条(4)‐復活と勝利の神の子

詩編2編7~9節 (旧857頁) 、ヨハネによる福音書16章33節 (新201頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。(洗礼者教育のためにも)使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、その4番目、イエスの死と埋葬と復活、そして昇天と審判について話してみましょう。 1. 葬られて陰府にくだられた神の子。 「死んで葬られ、陰府にくだり」十字架で、人類の代わりに罪を背負って亡くなられたイエスは、本当に死を経験されました。本当に死を経験されたということは、神であるイエスが、人間の死の悲惨さを「経験しないが理解はする。」という意味ではなく、神であるイエスが人間になり「経験して確実に分かる。」という意味として理解することが出来ます。「経験しないが理解はする。」と「経験して確実に分かる。」は雲泥の差だからです。イエスは人間の真の代表になってくださるために、人間の生だけでなく死まで経験されたのです。日本語の使徒信条では「葬る」とありますが、古代のイスラエルでは人が死んだら、その死体を亜麻布に包んで岩窟の墓に納めたと言われます。古代イスラエルでは、神は天におられ、人間は地上におり、死者は地底世界「シェオール」にいると思いました。このシェオールはヘブライ語ですが、日本語に訳したのが「陰府」なのです。つまり、陰府とは古代イスラエル人において、死の代名詞だったのです。だから、使徒信条はイエスが実際に死んで葬られ、死者のところ、陰府にくだられたと語っているのです。しかし、私たちはこの使徒信条の文章を文字通り理解してはなりません。 ある学者たちは、イエスが実際に地獄(陰府)にくだられ、罪人たちを救われたと解釈します。また、ある学者たちは、イエスが死後、天国と地獄を問わず、ご自身が死に勝利したと宣言されたと解釈します。その他、様々な解釈がありますが、私たちは真相を知ることができないので、ある一つの解釈に盲目になってはなりません。「死んで葬られ、陰府にくだり」は、地上で生きている私たちが完全に証明できない言葉だからです。ただし、長老教会が重要に考える宗教改革者「ジャン·カルバン」は自分の著書「キリスト教綱要」を通して「キリストは神が怒りの中で罪人にくだされた死の刑罰を経験された。だから、主が地獄(陰府)に落ちたとしても驚くことはないだろう。」と語りました。すなわち、カルバンはイエスが直接陰府にくだられたという文字的な解釈より「比喩的に」陰府が意味する人間の死と悲惨さそのものを完全に経験して罪人の代わりに苦しみを受けられたということを強調しているのです。イエスが実際に陰府に行かれたかどうかは誰も知りません。ただ、イエスが私たち人間の死を完全に経験し、誰よりも理解して憐れんでくださるということから慰めを得るべきだと思います。 2. 復活して天に昇られた神の子。 「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って」イエスは、明らかに亡くなられました。真の神であるイエスですが、また真の人間として、この地上に生まれ、育ち、働き、罪の贖いのために死んでくださったのです。そのため、イエスは神でありますので、神の偉大さとみ旨を誰よりもよく分かっておられ、また人間でありますので、人間の弱さと死の権能を誰よりもよく分かっておられます。こんなイエスは死んで3日後に復活されました。なぜ3日なのでしょうか。その理由はイエスが直接ヨナを取り上げて言われたからです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ福音12:40)イエスは、旧約聖書の預言者ヨナが3日間、魚の腹(死)の中にいたが、神が彼を生かしてくださったことを例に挙げられ、ヨナより偉大な存在であるイエスご自身も3日間死に、復活されることを予言されたのです。完全に死にて葬られたイエスは、旧約聖書で神がヨナを魚の腹から出してくださったように、墓から復活して再び生き返られたのです。 イエスが、この地上に来られたのは、いと高き神である存在が、みすぼらしい人間の姿に自ら低くなられた謙遜の極みを示す出来事です。しかし、イエスが死から復活されたのは、神によって最も高いところに再び高められた栄光の極みを示す出来事なのです。イエスの誕生が低くなることの始まりだったとすれば、イエスの復活は高くなることの始まりであるのです。人間の姿になって、人間の死まで完全に経験されたイエスは、真の神でありながら真の人として死に勝利して再復活されたのです。最終的にイエスの復活は、主が来られた場所、天に帰られることで完成します。主イエスは復活を通して、再び栄光の座、御子なる神の座、父なる神の右に復帰されたのです。それが昇天の真の意味です。ですから、復活と昇天はコインの両面のように密接な関りがあります。復活して昇天されたイエスは、二度と死ぬことなく、永遠におられるようになったのです。そのため、イエスの復活は一時的に生き延びてまた死ぬこととは異なります。世の中でも生物学的に死んだ人が、奇跡的によみがえることが、しばしばあります。しかし、彼らは長生きはしても結局再び死にます。イエスの復活は二度と死がない永遠の命を伴います。イエスの復活は完全に死を乗り切った空前絶後の恵みなのです。 教会の頭なるイエス・キリストは、死から復活されました。そのため、主の体なる教会を成す私たちも、すでにイエスと共に復活の中に生きているのです。そして、その頭なるイエスが天に昇られたので、その体なる私たちも、この地に生きてはいますが、実は天に属した存在として生きているのです。イエス・キリストの復活と昇天は、主イエスおひとりだけが天に帰還した出来事ではなく、その方の民みんなに復活を与え、天の命をくださる栄光の出来事なのです。それはイエスだけの事柄ではなく、主の民みんなの事柄でもあるのです。復活と昇天のある人生とは、過去、救われる前の人生を顧み(悔い改め)新しい人生を生きることです。自分だけのために生きた人なら、他人のことも考えて生き、他人のものを欲した人は、他人のものを守り、節制のできない人は、節制して生き、何気なく罪を犯した人は罪を犯すことを恐れる人生に変わることなのです。それがまさに復活と天国を持った人の生き方ではありませんか。主イエスは復活して天に昇られました。主の民である私たちも、主に召される日まで、この地上で生きますでしょうが、すでに復活と天国に属していることを忘れてはならないでしょう。 3. 真の王として再び来られる神の子。 「全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。」復活して昇天されたイエスは、本来のご自分のところに帰られました。しかし、イエスの受肉と十字架での死、復活、昇天によって罪と死を征服されたイエスは、全宇宙を治める真の王の中の王になられました。創造以来、旧約時代には、父なる神が三位一体を主導されたのですが、イエスの復活と昇天以来には、詩編2編の言葉のように「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 御子に主導権をお譲りくださり、全宇宙を治めて裁かれるようにしてくださいました。したがって終末の日、イエスが再臨される時には、地上におられた時のように、苦しみを受ける姿ではなく、戦争に勝利した王として来られ、生者と死者を問わず、全人類を審判されるでしょう。私たちキリスト者は、このイエスの栄光と再臨を待ち望み、この世での苦しみを忍耐しつつ生きていくのです。私たちの主がすでに勝利されたからです。 締め括り 罪によって、死に束縛された人類を救うために、イエス·キリストは自ら死を経験されました。葬られたというのは、確実な死の経験を意味します。陰府にくだられたというのは、人間の死の悲惨さを完全に経験し、理解されたという意味です。復活されたというのはイエスが罪と死の権能に勝利され、主を信じる者たちに罪と死の権能からの完全な自由を与えてくださったという意味です。再臨し審判されるというのは信じない者には恐ろしい審判であるが、信じる者には主の栄光を分け与えてくださるという意味です。私たちはこのイエスを信じています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音16:33) ですから、イエスのもとにいる者は、死を恐れる必要がありません。この世では苦しみを受けるかもしれませんが、主は私たちの弱さを知り、いつも共にいてくださるでしょう。私たちが信じるイエスは生と死の支配者です。このイエスへの信仰をしっかりと守り、日常を生きる私たちでありますよう祈り願います。

私の一番良いものを。

箴言 3章9-10節(旧993頁) マルコによる福音書 14章3-9節(新90頁) 前置き 今日、探ってみようとする箇所は「イエスの頭に香油を注ぎかけたベタニアの女」の物語です。この本文を通して「私の一番良いものを」という題で話してみましょう。今日の本文を通じて、主は私たちに何を教えてくださいますでしょうか? 1。ベタニアにおられる主なる神。 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高値なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) イエスが十字架につけられる数日前、主はべタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人だったシモンの家に行き、食事の席に着かれました。呼称からも分かるように、シモンはかつてハンセン病者だったようです。律法によると、ハンセン病者は必ずイスラエルから隔離しなければなりませんでした。しかし、純粋なユダヤ人だった主イエスは、彼の家に入り、一緒に食事されたのです。食事の席に着くというのは、一緒に飲み食いする、人と深い関係を結ぶという意味です。もちろん、学者たちはシモンがすでにイエスによって癒され、正常になっていたと言います。彼は本当に回復していたでしょう。もし、彼が依然としてハンセン病者だったら、律法のため、イエスを除いた、みんなが彼の家に入ろうとしなかったはずだからです。ハンセン病から治ったとしても、人々は気軽に彼の家に入ろうとしなかったでしょう。しかし、イエスは全くお気になさらず、シモンの家に入り、彼と食事の交わりをなさいました。神の呪いのようなハンセン病によって隔離され、嫌われ、結局は寂しく死んでいくはずだったシモンは、イエスによって癒され、再び隣人と共に生きるようになったのです。 さて、このシモンの家はエルサレムから東へ約4-5km離れていた「べタニア」にありました。べタニアはアラム語(当時、エルサレム地域の人が主に使っていた言葉)で「貧しい者の家」という意味で、べタニアの近くには、ハンセン病者の隔離地域があったと言われます。イエス•キリストは、何のためらいもなくハンセン病にかかった者たちの地域に近いべタニアに行き、貧しい者たちを慰め、ハンセン病にかかった者たちを治してくださったのです。当時、ユダヤ教の人々はイエスを軽蔑して「徴税人や罪人の仲間だ。」と呼びました。ユダヤ人にとって、そのようなあだ名は呪いのようなものでした。しかし、イエス•キリストは、喜んで「徴税人や罪人の仲間」すなわち「疎外された者の友人」になってくださいました。イエスは華やかなエルサレムの王宮、あるいは、聖なるエルサレムの神殿ではなく、汚く、貧しく、疎外された「罪人のところ」におられたのです。神であるイエスは、寒くて汚くて臭い「飼い葉おけ」に生まれ、いつも低くて疎外されたところにおり、最後まで貧しいところ、罪人たちのところ、低いところにおられたのです。今日の本文のその日、神であるイエス•キリストは、べタニアにおられました。そして、貧しくて悲しい者たちと一緒にいてくださいました。私たちの主が生前、しょっちゅうおられた所、そこは低くて貧しいところでした。 2.キリストに香油を注ぎかけた女。 「一人の女が、純粋で非常に高値なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) 主がシモンの家で食事された時、一人の女がイエスのところに来て、300デナリオン以上のナルド香油をイエスの頭に注ぎかけました。ナルドとはイスラエル地域には育たない、現在のインド、ヒマラヤ山脈に育つ非常に貴重な植物だと言われます。当時、元気な男性労働者1人の一日労賃が1デナリオンだったということですから、300デナリオンなら、ほぼ1年の給料に当たる大きい金額だったでしょう。おそらく、そんなに富んでいない彼女は、長い間、貯めてきたお金で高い香油を買ってイエスのためにささげたでしょう。低いところで貧しくて悲しい人々とおられた主のために、女は自分の一番良いものを差し上げたでしょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。そして、彼女を厳しくとがめた。」(4-5) すると、人々は驚いて憤慨しました。常識的に考えても、いっぺんに、高値の物を使い切るよりは、それを売って他の貧しい人たちを助けたほうが、さらに有意義だったかもしれません。しかし、主は彼女をとがめる人々にこう言われました。 「イエスは言われた。するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6) その理由は十字架にて、人類の罪を背負って亡くなられるイエス•キリストの犠牲を記念するために、彼女が自分の一番良いものを主にささげたと、主が知っておられたからです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8) そして、イエスに自分の最も良いものを差し上げた、この女の行為が、福音が宣べ伝えられるすべてのところに共に伝えられると言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9) イスラエルの多くの人々はイエスに「してください。」と要求ばかりしていたでしょう。イエスの存在自体を讃美し、その方の御救いと犠牲を記念しようとする人は多くなかったと思います。主の弟子たちでさえ、各々の野望と必要のために、主に従ったからです。しかし、この女はいかなる条件もつけず、ただ、イエスとその犠牲を記念するために、自分の大事なものをささげました。ある女が「油注がれた者メシア、イエス」に、実際に油を注ぎかけることで、イエスが自分の主であり、キリストであることを公に告白したのです。そして、主はこの女の行為が福音が宣べ伝えられるすべての場所で記念されると言われました。 3.私の一番良いものを。 今日の本文で重要なことは、主に高値のものをささげということでも、自分のすべてを一つも残さず、すべてささげということでもありません。べタニアの女の香油は高いものでしたが、それを文字通りにして、現実に適用しろという意味ではありません。時には異端団体、いや普通の教会でも度を越えた献金を求めることがあると思います。たくさんの献金を持ってきて神を喜ばせという望ましくない説教をする牧師もきっと世の中にはいると思います。しかし、今日の本文は、それとは違います。私は皆さんが自分の出来る範囲で日常生活に差支えのないくらい、主がくださる心に従って献金することを積極的にお勧めします。つまり、今日の本文は献金の大小の問題ではありません。私たちが主をどれほど憶え、記念し、仕えているかという問題でしょう。主が私たちと一緒におられることを常に憶えているか? 主が私たちの命の主であることを認めているか? 主が私たちの罪を赦し救ってくださったことを信じているか? 私たちの心を主だけにささげているか? 私たちの命を尽くして主の御心と御言葉に聞き従って生きているか? 私たちの一番良いもの、私たちの心、私たちの生命、私たちの意志、私たちの愛を主にささげているかどうかとの問題なのです。 主は貧しい女に高い香油という重荷のような献物を求められたわけではありません。ただ、十字架で死んでいくご自分への愛、奉仕、女の信仰と心をお受けになったわけです。高値の物でなくても、主は神殿でレプトン銅貨二枚(極めてわずかな献金、マルコ12章)をささげた貧しい女や、五つのパン二匹の魚を出した少年(ヨハネ6章)の心も同じくお受け取りくださったでしょう。私たちは主に私たちの心、愛、生命の主権、純粋な信仰をささげているでしょうか? 私たちの情熱的な教会での奉仕と多くの献金も、時には必要であるかもしれませんが、それより、さらに大事なもの、つまり私たちの真心を主にささげていきたいと思います。大金、高値なもの、負担のかかる献物がすべてではありません。主への私たちの真心、私たちの一生をキリストの栄光のために生きると誓うこと、主が命じられた御言葉通りに生きること、神と隣人に仕えて生きること。そのような私たちの真心と愛とが、今日、主に香油を注ぎかけた女のように、主を喜ばせる真の献物ではないでしょうか。 締め括り 「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9‐10) 旧約聖書は「初物」を非常に大事に取り扱います。神がくださった初めての恵みだと思うからです。つまり、一番良いもの、大事なものということです。私たちにとって最も大事なものを神にささげること、それもある意味で旧約聖書のこのような「初物」に似ているのではないでしょうか? 私たちの一番良いものは高値のものでも、多くのお金でもありません。一番良いものは、神を最も愛しようとする私たちの心構えであり、何よりも神への私たちの真心ではないでしょうか。今日、香油を注ぎかけた女を見て、私たちの一番良いものとは何であり、神に何をささげれば良いだろうか考えてみる機会であれば幸いです。神に一番良いものをささげることが出来る志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

良い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節(旧1352頁) ヨハネによる福音書 10章1‐21節(新186頁) 前置き キリスト教は、御子イエス・キリストを頭として打ち立てられた宗教です。この世の誰もキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神に遣わされた唯一のメシアとして崇められる宗教なのです。父なる神が、このキリストだけを、唯一の世界の統治者として立ててくださり、いつか、世の終わりの日に、このキリストは戦争に勝利した王の姿で、善と悪を審判するために来られるでしょう。つまり、主イエスは私たちの思いより、さらに威厳と権能を携えた畏れるべき方であるということです。これが伝統的な終末のキリストのイメージなのです。しかし、新約聖書は、変わらずキリストを、羊を愛し守る穏やかな良い羊飼いとして想起させ、私たちに慰めと平和を与えてくれます。イエス・キリストは、世の誰よりも強力で偉大な方ですが、しかし、誰よりも良い羊飼いであることを忘れないように思い起こさせるのです。今日は、良い羊飼いについて考えてみましょう。 1.良い羊飼いイエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い羊飼いです。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導き、青草の原に休ませてくださる愛に満ちた良い羊飼いです。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分だけのために生き、自分のためなら他者が死んでも気にしない邪悪な世で、ご自分の命をかけて、羊を愛してくださる真の羊飼いです。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11) ところで、このイエスはご自身が羊飼いになってくださると同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな羊飼いとしての務めを与えられます。今日の旧約本文に羊飼いとありますが、これは、イスラエルを治める王や貴族を指し示す言葉です。彼らは民を愛さず、自分の欲望だけを追い求めました。主はそんな彼らに滅びを言われました。良い羊飼いイエスは、ご自分の命を捨ててまで、民を愛されましたが、イスラエルの指導者たちは、自分の名誉、権威、富だけを重んじ、貧しい民には何の興味もなかったのです。神は、ご自分の民の髪の毛までも数えられるほど、民を愛される方です。だから、苦しんでいる民のうめき声と涙に深い関心を持っておられます。そのような神の御心を理解しようともせず、かえって民を放っておいた指導者たちの罪で、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまったのです。羊を愛さず、打ち捨てた指導者たちは、心深く羊を愛された主によって裁かれ、滅びてしまいました。 私たちの教会は、イエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、口となって、イエスが愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、口として生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者にとって、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない何よりも大事な務めです。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。真の羊飼いであるキリストの教会を成す全ての者は、イエス・キリストに羊飼いとしての務めを与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない私たちの隣人も、失われた羊と思い、福音を伝え、愛をもって仕えるべきです。ただイエスを信じて、祝福されて、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの指導者たちと違いがないでしょう。真の羊飼いイエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私たちの心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか考えてみるべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはただお独りイエス・キリストだけです。この世の数多くの教会には、時々、こんな人たちが見られます。「自分は羊飼いとして選ばれた。」口先だけでは、牧師あるいは長老と言いますが、まるで、自分が教会の所有者となっているかのように振舞う人々がいるということです。しかし、厳密に言って、牧師も長老も、羊の群れの中で、説教や奉仕の務めを預かっている、また違う羊にすぎないのです。つまり、牧師も、長老も、執事も、平信徒も、皆、主の羊でありながら、兄弟姉妹に仕える小さな羊飼いであると考えるのが正しいでしょう。ただ、牧師は、神学、聖書について専門的に勉強したため、説教の時は尊重されるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊でしょう。だから、牧師も、主の羊として、主なる神の声を謙虚に伺わなければなりません。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それは、「イエス・キリスト」による聖書の言葉でしょう。聖書を引用しても主と関係ない教えは多いです。イエスが排除されたまま、聞こえてくる全ての愛の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意すべきです。統一教会、エホバの証人など、唯一の救い主なるイエスを軽んじて、自分らの教理を教える全ての聖書の教えは、偽りです。彼らは盗人であり、強盗です。これは私たちだけが真実だという独断ではなく、彼らが正しい救いの道から離れ、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。「はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞こうとします。 「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 」(ヨハネ福音10:10)私たちは主の羊として主の御言葉を聞き分け、主イエスだけによって神に接しなければなりません。イエスのない言葉は人間の言葉にすぎないからです。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個プロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが戦前の日本のキリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という牧師でした。彼は旧日本キリスト教会の統理であり、東京神学校の理事長を歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は日本帝国の軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であると言いました。また、彼の強要により、日本の教会は神社参拝を承認しました。それだけではなく、植民地の教会も彼の主張に屈し、神社参拝に加担しました。富田満は、戦後、教会の命運のために仕方がなかったと言い訳するだけで、まともな懺悔と謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師、神学教授として働き、1961年に亡くなります。今、彼を尊敬する人は日本の教会にいますでしょうか。 一方、韓国ソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。曾田嘉伊智という伝道者の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で孤児院を設立し、面倒を見た人です。彼は朝鮮の独立と朝鮮人のために奉仕した人ですが、朝鮮人には侵略者として、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰によって、強く忍耐し、全ての誤解を乗り越え、朝鮮人の愛を受けた人です。彼は真の平和を望み、朝鮮を助け、日本を宣教しようという一念で生きました。朝鮮人たちは、彼に感動し、信用しました。日本の敗北後、北朝鮮地域から引き揚げようとする日本人たちが、ロシア軍に攻撃される事件ありました。当時、近く教会で伝道師として働いていた曾田嘉伊智は教会堂に信者、迷信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は民族を問わず、主の御言葉のように人を愛したのです。戦後、彼は日本に帰り、伝道活動をして、後韓国に戻って1962年主に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。二人は主の裁判所で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは主なる神の領域ですので評価はしませんが、聖霊なる神が私たちの心に答えておられるでしょう。今日の旧約本文の「羊を養う」の「養う」の原文は「面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。」などの意味を持っています。私たちは主イエスの羊です。真の羊飼い、主イエスは、私たちを養ってくださる方です。だから、主は、私たちを守り、愛する友たちにしてくださいます。その主に愛される私たちは、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして生きなければなりません。主から愛された私たちは、今や、他者を助け、愛する友たちになる義務を持っています。主の羊であり、小さな羊飼いである私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちに祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、主に導かれる私たちでありますように。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなく与えられますように祈り願います。

使徒信条(3) 人となって苦しんだ神の子

イザヤ書53章5節 (旧1149頁) ヘブライ人への手紙13章12節 (新419頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の基準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで、苦しみを受け、十字架につけられ」今日は、御子イエスの誕生、苦難について考えてみましょう。 1. 女(乙女マリア)から生まれた神の子 「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ」日本キリスト教会の大信仰問答は、イエス•キリストを「真の神にして、真の人である方」と定義しています。これは宗教改革の遺産を受け継いだ改革教会なら、どこの教会でも共通して告白する「イエスのアイデンティティー」です。改革神学は語ります。「イエスは完全な神である。また、イエスは完全な人である。」古代ギリシャ神話のように、神と人間が半分半分混じった存在、神でもなく人間でもない「半神」ではなく、完全な神でありながら、また完全な人でもある存在ということです。そういう理由で、イエスは、神の御心を誰よりもよく知っておられると同時に、人間の状況をも誰よりもよく知っておられるのです。イエスが神と人の間の仲保者となられた理由は、このように神でありながら人であるからです。今日、私たちが告白した「処女マリアから生まれ」という告白は、このような完全な神でありながら、完全な人でもあるイエスを定義する最も重要な条件の一つです。 私たちはイエスが、ある日突然、人間になりたがって人間になることを決められた方ではなく、普通の子供たちのように人間の母親から生まれ、育ち、働いて、人間の喜怒哀楽をことごとく経験しつつ生き、時が来て公生涯を始められたことを忘れてはなりません。 ただし、イエスは普通の人間のように罪を持った方ではありませんので、特別な方式でお生まれになりました。代々、罪の影響から自由ではなかったアダムの子孫ではなく、創造の時の罪のない人間の姿そのままに生まれるために人間の種ではなく、聖霊の特別な恵みによってお生まれになったのです。ですから、罪もなく、欠点もない全く新しい人間、つまり新しいアダムとして、この世に来られたのです。「女から生まれた」という言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、先に申し上げたように、イエスは母親の胎から世の中に生まれ、人間の感情と罪と弱さを知り、自ら人間を代表する存在になるために人間そのものへの完全な理解をお持ちになったということ。だから、イエスは私たちの弱さを責める方ではなく、憐れんで助けてくださる方だということです。二つ、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15) いわゆる原始福音と呼ばれる女の子孫が悪魔の権勢を打ち砕くだろうという、はるか遠い昔からの神の約束が、処女から生まれたイエスの出来事で成就したということです。神の救いはいくら時間かかっても、必ず成し遂げられることがわかります。 2. 苦難を受ける。 そして、もう一つ重要なことは、イエスが苦難をお受けになったという事実です。 イエスは真の神ですが、肉体を持って人間として来られるようになりました。なぜ、神であるイエスが肉体を持たなければならなかったのでしょうか? 「神は霊である。」という有名なヨハネによる福音書の御言葉がありますが、この御言葉のように神は霊であります。「霊」とは人間のような限界と弱さのない、超越的な存在のことでしょう。しかし、御子なる神イエスは、自ら肉体を持って神であるにもかかわらず、人間として来られました。それは人間の弱さと苦しみを共有できるようになったということでしょう。イエスが人間になって人間のところに来られた理由は、罪によって堕落した人間が受けるべき神の厳しい裁きと刑罰を代わりに担うことができる条件を満たされるためです。つまり、御子が人になった理由は、神でありながら人間であって、人間を代表すると同時に罪人が受けるべき死の裁きを、肉体を持ったイエスが代わりに受けてくださるためです。もし、イエスが肉体を持たれなかったら、霊である神、御子は人間に代わって十字架の刑罰を受けることはできなかったでしょう。それなら人間の救いは絶対に成し遂げられなかったでしょう。人間の弱さを直接経験されたイエスが、ご自分の体を苦難に投げつけ、人間に代わって刑罰を受け、その償いによって人間を救うことができるようになったのです。 しかし、私たちは「肉体の痛みや苦しみ」だけをイエスの苦難だと考えてはなりません。すべてを超越する存在である神が、明らかな限界の人間の姿で、この世に来られたという自体が苦難の始まりなのです。神の国で父と子と聖霊が、お互いに尊重し愛しあう完全なお交わりの中から、御子が被造物の姿、すなわち人間になって、この世に来られ、その御子なる神を罪人たちに代わる贖罪の犠牲にするために、この世に人として生まれさせた、その始まりからが、すでに三位一体、何よりもイエスの苦難の始まりであることを憶えるべきです。そして、罪によって汚された世界は、神を愛していません。使徒信条はそんな世の有様を「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉で表現しました。ポンティオ・ピラトという特定の人だけがイエスを苦しめたという意味ではなく、ポンティオ・ピラトと象徴されるこの世を支配する悪がイエスを嫌い、反対するということです。神の国で毎瞬間、ほめたたえられた御子なる神は、この世に来られてからは、憎しみと敵対の中で生きなければならないようになりました。したがって、イエスが神を憎む、この世に来られたこと自体が、すでに苦難の始まりだということを憶えましょう。 締め括り 愛するから十字架に。 それでは、イエスが肉体を持って、ご自身を憎むこの世に来られた、いちばん大事な理由は何でしょうか? 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。」(ヘブライ13:12) それは人間になった神、イエスの犠牲により、罪に苦しんでいる罪人たちを赦され、救ってくださる限りのない愛のゆえです。創世記で神がアダムとエヴァをエデンの園から追い出された時、私たちは神の裁きだけを見受けやすいです。しかし、神は被造物の真の父であることを忘れてはなりません。人間に罰を下された時、神も悲しまれたのではないでしょうか? 何があっても、神の最高の被造物である人間を救うという、主の救いの計画から神の御心が伝わってきます。父なる神は人間を愛し、ご自分の独り子を十字架の犠牲へと導かれました。イエスは、その父なる神の愛を誰よりも深く知っておられ、イエスもまた人間を愛し、ご自分の命をかけられました。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) イエスが人間になられたこと、苦難を受けて亡くなられたこと。そのすべては、まさに罪によって滅ぼされるべき人間を憐れんでくださった神の限りのない愛に基づきます。私たちはその神の愛と御子の贖いを忘れてはなりません。

使徒信条(2) – 神の子を信じる。

詩編2編7〜9節 (旧835頁) ヨハネによる福音書3章16節 (新167頁) 前置き 私たちは、ほぼ毎週の日曜礼拝の時、使徒信条を告白します。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティを守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちは、この使徒信条を通じて、神とはどなたなのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、使徒信条その2回の時間で、神の子であり、私たちの信仰の源であるイエス·キリストへの告白を学びたいと思います。 1. 神の独り子 「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 詩篇2篇は、詩篇の中でも代表的な「メシアの詩」と言われます。メシアとは「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、旧約時代のイスラエル王国にあって、王、預言者、祭司が油に注がれて働きはじめる代表的な務めでした。その中でも特にイスラエルを治める「王」が、メシアとしての象徴性を強く持っていたようです。そんな意味として、詩編2編はイスラエルの王への詩でもあります。しかし、学者たちはこの詩編2編をメシアや王への詩だけに限らず、未来に到来する真のメシア・イエスを予告する、予言の特徴も持っていると解釈します。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(黙示録11:15) そしてキリスト者は、以上のような、いくつかの新約の言葉に基づき、イエス·キリストこそ、神が選ばれた真の王とメシアであると告白します。ですので、私たちはイエスが真の王、メシア(ギリシャ語でキリスト)であると信じています。 私たちが信じるイエス・キリストは、今日の旧約本文の言葉のように、偉大で唯一の真の神の子です。キリストは神の子ですが、実はキリストご自身も神であります。私たちが信じる、主なる神という存在は、御父、御子、聖霊として存在しておられます。そして、この世は、この父、子、聖霊で存在する神を三位一体の神と呼びます。前回は、その中から「父なる神」への告白について学びました。そして、今日は「子なる神」への告白について学びます。私たちは、キリストを父なる神の 独り子として信じています。イエス·キリストは私たち教会の頭であり、教会は主の体であります。イエス·キリストはご自分を主と告白する者たちに聖霊によって訪れられ、信仰を与えてくださり、神の子供になるように助けてくださり、今でも神の右におられ、彼ら一人一人の信仰のために祈ってくださる方です。もともと、人間は罪によって神と完全に離れてしまった滅びるべき存在です。しかし、神の子イエス·キリストは、滅びるべき罪人たちを、ご自分の体のように愛し、ご自分の御名を保証として、彼らの罪を赦し、神と和解するように導いてくださいます。したがって、私たちが神の子イエス·キリストを信じるということは、キリストによって、神に赦され、和解して子供となったという意味です。 2. 主イエス·キリスト ところで、気になることがあります。「メシア、主、イエス、キリスト」神の子には、多くの名称がありますが、これらはどういう意味でしょうか。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」ルカによる福音書1章30‐31節は、神が御使いを通して、マリアが身ごもった子の名前を教えてくださる記録があります。イエスはヘブライ語で「神の救い」という意味です。旧約聖書の「ヨシュア記」に出てくる「ヨシュア」が、神の救いを意味するより原文に近い発音ですが、文化圏や国によって呼び方も多様です。ギリシャは「イスス」日本は「イエス」韓国は「イェスゥ」中国は「イェシュウ」米国、英国は「ジーザス」、イタリアは「ジェス」、ドイツは「イェスス」など。しかし、発音が違っても「イエス」という名前は「神の救い」という明確な意味を持っています。イエスの使命が、その名前に、ありのまま現れているのです。また、私たちはイエスを「主」とも呼びます。「主」は、古代イスラエル人が神の御名を直接呼ぶことを恐れ、御名の代わりに呼んだ表現で、ヘブライ語「アドナイ」を訳したものです。中世時代の明、清(中国)や朝鮮では「王」の名前を、むやみに呼ぶことが許されなかったと言われます。古代のイスラエルでも、神の御名を口で呼ぶと大きな罪だと思って「アドナイ」と呼び、それが「主」と訳されたわけです。もちろん漢字語の意味のままに「私の主人」という意味もあります。 最後に「キリスト」とは、どういう意味でしょうか? 聖書はこの言葉を「メシア」をギリシャ語に訳したものだと語ります。新約聖書はギリシャ語で記録されたため、ヘブライ語の「メシア」をギリシャ語の「キリスト」に訳したのです。ところで、このキリストという概念はローマ帝国にとっては「皇帝」を意味する表現でもあります。皇帝そのものをキリストとは呼ばなかったでしょうが「神々の子、ローマを救った者」という意味で、ローマの皇帝はイエス時代のもう一つのキリストのような存在でした。そのため、当時のローマ帝国の各地に散らばっていたキリスト者たちは「ローマ皇帝をキリストとして崇めるべきか? 「主イエスをキリストとして崇めるべきか?」という分かれ道の前に立っていました。迫害を恐れてローマ皇帝をキリストとした者たちは、すぐにイエスと教会を裏切って自分の道に離れました。しかし、イエスだけをキリストとした者たちは、残酷な弾圧と迫害の中で命をかけなければなりませんでした。私たちにとってメシアは誰ですか? 私たちにとって救い主は誰ですか? 私たちにとってキリストは誰ですか? 現代の日本は宗教的な圧迫から自由な国家ですが、太平洋戦争の時には、教会はイエスと天皇の中で誰を上にするべきかとの現実的な悩みがありました。私たち教会はメシア、主イエス·キリストを信じています。使徒信条はイエスだけが真のキリストであると告白しているのです。 3. 神と人間をつなぐたった一つの道。 使徒信条を観察してみると、父なる神と聖霊なる神に比べて、御子イエスへの告白がより長いことが分かります。そのため、あと2回ほどキリストとかかわる使徒信条の説教が残っています。「キリスト教」であるだけに、この新約時代には、三位一体の中、キリストへの比重がより多く与えられていると言えます。もちろん、だからといってキリストが御父や聖霊より権能があるという意味ではありません。他の信条である「ニカイア信条」には、御子は御父と同一本質を持っていると記してあります。つまり、三位一体なる神のどっちのほうがより偉大だとは言えないということです。しかし、父なる神は、新約時代においては「キリスト」に支配権を与えられました。そして、その支配権はイエス·キリストが再臨して救いと裁きを完全に成就される時に父なる神に返されるでしょう。神はこのイエス·キリストを通して、神と世の中の繋がりを造られました。神と人間は絶対に会うことも、共通点を持つことも、付き合うこともできない全く違う格の両者です。神にとっての人間(罪人)は、人間にとってのアリよりも取るに足らない存在です。しかし、イエスはご自分の十字架での贖いによって、みすぼらしい人間と全宇宙の創造主である神とをつなげてくださいました。だから、私たちが主とあがめるキリストは、偉大な神と小さな人間をつなぐたった一つの道なのです。 締め括り 私たちは、イエス·キリストをあまりにも便利に信じているかもしれません。キリスト教会に通うのが馴染んでない日本社会ではありますが、誰も教会に通うからといって迫害しません。また、長年の信仰生活のために教会に通う人たちも習慣的になっているかもしれません。しかし、初代教会の状況は今とはまったく異なっていました。ローマ帝国の皇帝が、この世のキリストとして世界を支配しており、周辺には教会の正統的な教えを歪曲する異端が多かったのです。このような苦しい状況の中で、三位一体なる神への正しい信仰告白と異端の教えに闘うために、イエス·キリストの教えを継承した使徒たちの信仰を命のように守ろうとする者がいました。私たちが告白する、この使徒信条を単なる教会の儀式くらいに考えてはならないでしょう。私たちの信仰の根となり、骨となる信仰告白を正しく守り、その信仰にあって生きる私たちであることを祈り願います。

使徒信条(1)‐父なる神を信じる

詩編89編27〜30節 (旧927頁) ヨハネによる福音書20章17節 (新209頁) 前置き 信仰者は「神を信じ仰ぐ者」です。他宗教者も「誰かを信じる」という心で宗教生活をしているでしょうが、キリスト教の「信仰」はそれとは少し異なります。他宗教の信仰が「自分自身が信じるという意志を決めて誰かを信じる。」ことであれば、キリスト教の信仰は「御父の計画、御子の救い、聖霊の働きによって、人に信仰が与えられ、その三位一体のお導きによって神を信じる。」ということになります。つまり、他宗教とキリスト教の信仰の違いは「その信仰の主体が誰なのか?」にあります。言うまでもなく、キリスト教における信仰の主体は三位一体なる神です。「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であるとは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3) 私たちはあたかも自分が教会に来て、自分の意志で神を信じるようになったと考えがちですが、聖書は明らかに信仰は、聖霊(神)によって私たちに与えられたと語っています。そして、教会は歴史的に、その神への信仰について非常に大事に考えてきました。そのように、各地の古代の教会が神への共通した信仰を告白し、それが整えられつつ生まれたのが「信仰告白」なのです。今日はその信仰告白の中でも最も有名で一般的な信条である「使徒信条」について話してみましょう。 1. 使徒信条に関する知識 私たちは、ほぼ毎週の礼拝の時に「使徒信条」によって信仰を告白します。使徒信条は、私たちの信仰の対象についての告白なので、非常に重要な教会の伝統だと言えます。ところで、教会のもう一つの伝統である「主の祈り」は、新約聖書にも記されており、イエスご自身が教えてくださった祈りなので、当たり前に大事に扱うべきでしょうが、使徒信条は聖書にも記されてもいないのに、なぜ、私たちは使徒信条を大事に告白しているのでしょうか? その理由は「イエスに直接教えられた使徒たちの信仰を継承した告白」だからです。イエスが12弟子を召し出された理由は、主の福音を、この世に宣べ伝え、主の教会を建てていく指導者を養われるためでした。使徒信条と書いてあるので、使徒たちが自分で作ったという説もありますが、現代の学者たちは、そんな可能性は低いと推測しています。でも、こういう伝説的な物語が伝わっていますので、聞いてみましょう。「ある日、各地で情熱に伝道していたイエスの弟子たち(12使徒)が一ヶ所に集まった。使徒たちは、教会が信じ、伝えるべき神はどのような方なのか、互いに語り合った。その時、12使徒が神について一言ずつ告白して語り、それらを集めると立派な信仰告白が出来た。それで、人々は、それを使徒たちが告白したと言い、使徒信条と呼ばれるようになった。」 本当に素晴らしい物語だと思いますが、実際に使徒信条は、このように作られたわけではありません。初代教会当時には、数多くのカルトや異端が生まれましたが、彼らの偽った教えを拒否し、使徒から継承した三位一体なる神への正しい信仰を共有し、公に告白するために使徒信条が生まれたのです。使徒信条は、主イエスが使徒たちに教えてくださった、聖書の御言葉に基づいて書かれ、古代の教会によって公に認められたものです。キリスト教では使徒信条の他にも、いくつかの信条があります。信条とは、ラテン語の「私は信じる」を意味するCREDOという言葉に由来し、自分が誰を信じるのかを人前で公に告白する信念を意味します。したがって、私たちは使徒信条を通して、イエスご自身に教えられ、その意志を受け継いだ使徒の信仰を継承し、その信仰の対象である三位一体なる神への信仰を公に告白するのです。使徒信条の他にも、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を始め、カルケドン信条、アタナシウス信条、エフェソ信条、その他に多くの信条があり、三位一体またはイエスの神聖を告白します。そして、近くには日本キリスト教会の信仰告白もあります。私たちは主に召される終わりの日まで、使徒信条によって、私たちが誰を信じているのかを告白します。今まで習慣的に使徒信条を唱えてきたなら、これからは、その意味を吟味しつつ自分の信仰として告白していきたいと思います。 2. 全能な創造主 使徒信条はまず、全能の創造主なる神について告白します。「わたしは天地の造り全能の父なる神を信じます。」聖書の一番最初の言葉に当たる創世記1章1節には、こう書いてあります。「初めに、神は天地を創造された。」聖書の一番最初の言葉に創造についての内容が出てくる理由は、この世界の根源と支配権について説明するためです。この世の学問は、世界が偶然の宇宙的な爆発(ビッグバン)によって作られたと主張します。宇宙も、太陽も、月も、星も、地球も、動物も、植物も、人間までも、偶然の宇宙的な出来事によって生まれたということです。そのため、この世は万物の霊長である人間が世界の支配者だと大げさに言います。人間は自力でこの世界を開拓し支配する存在だと言うのです。しかし、聖書ははっきり語ります。「神こそがこの世界の主である」この世のすべてのものの源は神であり、その神こそ全能な方であり、この世界の統治者であると言うのです。創造は、ただ作って放っておくことを意味するものではありません。無から有を創り上げることから始め、無秩序に秩序を与えて被造物が生きられるように治めること、この世の救いと裁きの権能を持った絶対者が、この世界を導くこと。それがまさに創造の持つ意味なのです。したがって、創造主という言葉は唯一無二の絶対者という意味でもあります。 全能という言葉は文字的には「全てが可能である」という意味になりますが、神の全能については、すべてが可能であるという意味とは違います。実は神にもできないことがあります。例えば、神はご自分の力を超える被造物を創ることができません。神は嘘をつくことができません。神は悔い改めない悪人を救うことができません。神は罪を犯すことができません。神はまた別の神を求めることができません。等々、神の全能は、私たちが考える「何でも秩序を無視して全てが可能である。」という意味ではありません。それでは、神の全能とはどういう意味でしょうか? それは主なる神ご自身が造られた創造の秩序に逆らわない範囲で、主がご計画なさった、すべての善い計画を差支えなく、成し遂げていかれるという意味です。力ある者が自分の力をコントロールすることこそ真の力なのです。神は創造の時にご自分が造られた世界の秩序を尊重し、その中で被造物を導き、何よりも創世記で約束された罪人の救いを、主イエス·キリストを通して、間違いなく成し遂げていかれるでしょう。主なる神が、ご計画なさった善い計画を必ず成し遂げていかれること、その計画の中にある私たちの救い、罪人の救い、この世の救いは、全能なる神の御業によって必ず成就するでしょう。私たちはこの全能なる神を主として信じます。 3. 父なる神 使徒信条は、この「全能なる創造主」が私たちの父であると語ります。父の一般的なイメージは、私たちを生んだ存在、養う存在、守る存在と言えるでしょう。しかし、すべての人がそう思うわけではないでしょう。誰かには立派な父がいるかもしれませんが、別の誰かにとっては、父は家庭を破壊する存在であるかもしれません。また、誰かにとっては、あまりにも早く亡くなってしまい、親しく感じられないかもしれません。また、誰かにとっては、父が一生の重荷のような存在であるかもしれません。しかし、聖書が語る父なる神という存在は、造り、守り、導き、救いの主体となる完全で善良なイメージの方です。だから、私たちは父なる神に肉体の父のイメージを投影してはなりません。この完全で善良な父なる神は、被造物と徹底的に区別される存在です。神には罪も、弱さも、足りなさもありません。このような欠点のない神が欠点だらけの人間の父になるというのはありえないことです。 しかし、新約聖書のヨハネによる福音書は、こう述べています。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(ヨハネ福音20:17) この父なる神は、もともと私たちの実の父ではありません。もちろん、私たちに命を与え、生まれさせてくださった方は、確かに神ですが、罪によって神を父と呼べないのが、みじめな人間のありさまです。しかし、この父なる神の独り子であるイエス·キリストが私たちを呼び出され、ご自分の命を身代金とし、私たちを神の子に変えてくださいました。だから、父なる神は、「イエスの父である神」を意味する言葉です。しかし、私たちはイエスの償いによって、私たちもイエスのように、神を父だと呼ぶことができるようになりました。ヘブライ語の旧約聖書には父という単語が1200回余り出てきます。しかし、神を父として描いたケースは、たった15回しかありません。イエスは、その神を私たちの父であると宣言してくださいました。私たちと徹底的に区別された全能の造り主、父なる神、その神がキリストによって私たちの父になってくださったのです。 締め括り 私たちは、この全能の創造主、父なる神を信じています。これは聖書の御言葉に基づいた変わらない真理です。人には、この世に自分一人だけ残されたかように感じられる時があります。家族がおり、友達がいるにもかかわらず、根源的な孤独を感じるということです。しかし、その度に私たちは自分を創造して生まれさせてくださった父なる神がおられることを憶え、自分は一人ではないという信仰で生きていくべきです。詩編には、このような言葉があります。「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩と。わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える。」(詩篇89:27-30) この言葉はダビデ王にくださった主からの言葉ですが、今の新約教会にも有効な言葉だと思います。私たちはこの父なる神を信じています。使徒信条は、この父なる神が私たちの父であると告白しているのです。