わたしよりも彼女の方が正しい

創世記38章1-11節(旧66頁) マタイによる福音書1章3-6節(新1頁) 前置き 前回の創世記の説教では兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまうヨセフについて話しました。ヨセフは夢を見る人でした。神はヨセフに夢を通して、将来のことを教えてくださったのです。ヨセフの時代には、新旧約聖書が完成していなかったため、神は夢を通して主の御言葉を啓示してくださいました。しかし、ヨセフは、その夢を自分のことを誇るために誤って使いました。父も、兄弟たちも、自分にひれ伏すようになるだろうと偉そうにしゃべり続けたのです。主の御言葉を託された者は、謙遜であるべきだったのに、ヨセフはそうではなかったのです。その結果、ヨセフは兄たちに憎まれ、奴隷として売られることになってしまいました。しかし、神はそのようなヤコブ家の悲劇さえも主の道具として用いられ、ご自分の計画を成し遂げられる方です。主の民と呼ばれるキリスト者にも困難と苦難は起こり得ます。しかし、神は民の困難と苦難さえも主の道具として用いられ、最後には喜びに変えてくださる方です。主はヨセフに困難と苦難を許されましたが、それによって、ヨセフはエジプトの総理になり、結局は自分の家族と隣の数多くの他民族とを救うことになりました。いかなる困難と苦難さえも、喜びに変えることがお出来になる神に私たちの希望を置き、信仰によって生きることを望みます。主への信仰と希望は決して私たちを裏切らないからです。 1.なぜ、ユダなのか? 今日の本文は、ヨセフではなくヤコブの四男であるユダに目を移しています。実際、38章でユダの物語が出てこなくても創世記の全体的な内容には何の差支えもないのに、なぜ聖書は、あえてユダを登場させるのでしょうか?その理由は、神がヨセフだけでなく、ユダというまた別の男にも深い関心を持っておられるからです。実際に神はユダという罪深い人を通じて、また別の救いの歴史を造っていかれます。彼の子孫から新旧約を代表する人物が生まれるからです。メシアを象徴する、旧約の代表的な人物であるダビデ王、そして、真のメシアである新約の主イエス•キリストが、まさに彼の子孫です。しかし、ユダという人そのものは、最初から神に認められた人ではありませんでした。彼は兄弟たちを煽り立てて、銀二十枚で弟ヨセフをエジプトに売ってしまい、父親には弟ヨセフが死んだと、偽りを告げた不義の人間でした。今日の本文でも、彼は決して正しい姿を見せません。ユダの本質は罪人でした。しかし、それでも、彼は44章で末弟のベニヤミンと父親ヤコブのために、代わりに自分の命をかけ、49章では父親ヤコブの心からの祝福を受けるようになります。彼は罪人でしたが、聖書は彼を正しい人と認めているのです。旧約学者たちによると、罪に満ちていた彼が正しい人に変わる決定的なきっかけが、今日の本文にあるかもしれないと言われます。罪深い人だった彼はどのようにして変わるようになったのでしょうか。 2. レビラト婚 (レビラトは夫の兄弟を意味するラテン語) 今日の本文によると、ユダはヨセフをエジプトに売った出来事以後、自分の住いをアドラム地域に移したそうです。ユダは父の家を離れてカナン人の地域に移ったのです。そして、そこでシュアという人の娘と結婚しました。つまり、ユダは異邦人と付き合い、異邦人の娘と結婚したということです。それは、主が禁じられたことでした。聖書にはシュアの娘と「結婚」したと記されていますが、その表現には性的欲望によって彼女をめとったという否定的なニュアンスが含まれています。ユダの子孫の中には、偉大な人物が数多くいましたが、ユダ本人は信仰の人物であるとは言えなかったのです。以後、ユダはシュアの娘を通して、エル、オナン、シェラという3人の息子をもうけ、長男エルが成年になった時、タマルという異邦人の女と結婚させました。しかし、エルは主の御前に正しくない人生を送ったからか、主に殺されました。残念なことにタマルは子供なしで寡婦になってしまいました。そこで、ユダは次男のオナンが兄嫁に対して義務を果たすようにしました。ここで義務を果たすということは、子供なしに兄が死んだので、その兄に代わって兄嫁に子種を与えるという意味でした。しかし、オナンは兄嫁に子供ができれば、自分の財産が減るだろうと懸念し、子種を地面に流しました。すると、主はオナンも悪く思われ、彼をも殺されました。一体、オナンの罪は何だったのでしょうか。 古代の聖書の世界にはレビラト婚という仕来りがあったと言われます。「兄が死ぬと兄嫁に兄の財産が受け次がれ、そのまま兄嫁が他の血族の人と再婚すると、血族の財産が外に流出する可能性があるため、それを防ぐために作られた制度」だったのです。しかし、それは極めて世俗的な解釈であるので、私たちはレビ記25章を通じて、聖書においてのレビラト婚の意味について探ってみる必要があります。旧約にはヨベルの年(ヨベルは角笛の音を意味)という概念があります。 「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25:10) ヨベルの年とは、神がご自分の民イスラエルに与えられたすべての土地を、50年ごとに元の所有者に返す回復の年でした。ヨベルの年の第七の月の十日の贖罪日に、角笛を鳴り響かせれば、経済的な困窮で土地を奪われた人、他人の奴隷となった人、故郷から遠く離れた人たちが、皆解放され、故郷に帰り、自分の土地を返してもらえる恵みの年だったのです。すべての土地の真の主は神おひとりであり、神がその土地を再びご自分の民に返され、皆が平等に神の祝福の下にいるようにしてくださるという意味の日だったのです。それは、一度滅びたような存在を、再び助け起こしてくださる主の恵みでした。 主が、現代人には多少変に感じられがちな、このレビラト婚をお許しになったことには、あのヨベルの年の精神と深い関わりがあります。たとえ、ユダの長男エルが自分の罪によって神に罰せられ、子供なしに死んだとしても、レビラト婚によって彼の子と認められた者が生まれれば、ヨベルの年の精神に基づき、彼の財産を引き継ぎ、エルの罪とは関係なく、再びエルの家を立てることが出来るという意味なのです。つまり、次男のオナンが兄嫁のタマルと関係を結ぶのは、このようなヨベルの年の精神を果たす大事な義務でした。 しかし、オナンは兄の相続人が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、ヨベルの年の精神を無視して自分の子種を与えませんでした。それが主の御前に大きな罪になってしまったということです。オナンの死はヨベルの年の精神を無視した結果なのです。この世のすべてのものは神の所有です。そして、すべてのものの主である神は、それぞれの人と民族と国に土地の境を与えてくださいました。そして神はすべての人が神のご支配のもとで、公平で幸せに生きることを望んでおられます。しかし、この世の現実はそうではありません。誰かは他者より、強く豊かになることを望んで、弱い者を踏みにじって苦しめ、奪い取ります。そのような精神から戦争と帝国が生まれるのです。オナンの思いはそのような世の現実に似ていたのです。オナンは兄の分を欲しました。彼の思いは神のヨベルの年の精神に対立しました。それが彼の死んだ理由でした。 3.タマルの努力が持つ意味。 「ユダは嫁のタマルに言った。『わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。』それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。」(38:11) ユダには3人の息子がいましたが、一番目のエルも、二番目のオナンも、自分の罪によって神に殺されました。もうユダは末っ子のシェラを通して嫁のタマルに子種を与えなければなりませんでした。それがヨベルの年の精神に合致する対応でした。しかし、ユダはタマルを実家に帰らせ、末っ子シェラが成人するのを待たせるだけでした。ユダはシェラが成人になったにもかかわらず、タマルを呼びませんでした。実はユダはタマルに末っ子を与えるつもりではなかったからです。彼も死ぬかと恐れたからでしょう。考えてみれば、エルとオナンの死は、彼らだけの間違いによることではなかったかもしれません。父のユダが信仰者としての真実な人生を生きることが出来なかったから、彼らも父の姿を踏襲したのではないでしょうか。普段、ユダが主の御言葉を軽んじてきたので、彼らも主の御前で悪い姿を見せてきたのではないでしょうか。もし、ユダにヨベルの年の精神を重んじる心があったら、彼は末っ子シェラが成人するやいなやタマルを呼んでシェラの子種を与えるようにしたでしょう。しかし、ユダは、末っ子の命も奪われるかと恐れるだけでした。末っ子が死ぬかもしれないという不信心が、主のヨベルの精神を大切にする心よりも強かったのです。 今日の一度の説教で、ユダとタマルの物語を済ませようとしましたが、時間の関係で無理だと思います。ですので、次の創世記の説教で、ユダとタマルの物語をもう一度取り上げたいと思います。あらかじめお話しますと、タマルはユダを騙して直接ユダの子種をもらい双子の息子を身ごもることになります。ユダは彼女が不浄を犯したと判断し、彼女を殺そうとします。しかし、タマルはユダの保証の品を見せ、身ごもった子供たちがユダの子であることを証明します。彼女はしつこくエルの相続人を得るために努力しました。そして、それは人間の目には不適切なことに見えるかもしれませんが、神の御目には、ヨベルの年の精神を成し遂げるための彼女の努力と見られました。なぜなら、ユダとタマルの間で生まれたペレツが、あの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖になるからです。現代人の目には望ましくないと思われることでしたが、少なくとも創世記が記録された古代にはタマルの努力は、非常に崇高なことでした。タマルが意図したかどうかは分かりませんが、少なくとも聖書では、人間の考えを越えて神の御心を成し遂げるために努力する姿として描かれているからです。もちろん神はユダとタマルのような不適切な関係を擁護する方ではありません。現代を生きる私たちは絶対にそうしてはいけません。しかし、神の救いの歴史という観点から見ると、タマルの努力がなかったら、ダビデ王もキリストも生まれなかったかもしれません。そのため、結論的にタマルの行為は神の御心に合致すると評価されるのです。 締め括り ヨベルの年の精神は、私たちの信仰において、大事な意味を持ちます。滅びるべき人を、赦して再び活かされる、主の御心が含まれているからです。イエス•キリストが罪人を赦し、生まれ変わらせてくださることも、ヨベルの年の精神と相通じます。タマルは現代の道徳観念から見ると不適切な行為の人かもしれません。しかし、何があっても死んだ夫の家を継がせるという彼女の努力は、ヨベルの年の精神と合致し、イエス•キリストの系図を守る手段となりました。そのため、彼女はイエス•キリストの系図に名を載せる偉大な異邦の女性になったのです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを(もうけた)」(マタイ1:3) ユダがタマルが自分より正しいと言った理由は、彼女の行為がユダの行為より神の御心に合うことだったからです。ユダは残りの末っ子を死なせたくないという考えで神の御心に従いませんでしたが、タマルは死んだ夫の家を継がせるために、自分の命をかけてまで子供を持とうとしました。そして、タマルの行為の結果は、ヨベルの年の精神に合致する正しい行為となったのです。そして、ユダはそのような嫁の努力を通じて、自分の過ちを反省し、正しい生き方について自覚するようになったのではないでしょうか。今日の本文を通じて聖書が語るヨベルの年の精神について考えてほしいです。そして、そのようなヨベルの年の精神を成就されたキリストの救いと愛を覚えたいと思います。