≪あしあと≫

—2022年9月25日の説教の原稿はありません。- いつも志免教会の説教をお読みくださる皆さんに感謝申し上げます。 今日は、志免教会の聖書と讃美の集い(伝道礼拝)の日です。 外部の講師を招き、御言葉の説教を聞きますので、今日は説教の原稿がありません。 たいへん申し訳ございませんが、ご理解をお願いします。 代わりに短い文章を掲載いたします。 ≪あしあと≫ 作者:マーガレット・F・パワーズ ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。 一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 私は砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。 このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。 それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。 一番あなたを必要としたときに、 あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」 主はささやかれた。 「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。 あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

ユダを通じて学べる教訓。

創世記38章12-26節(旧66頁) マタイによる福音書1章1-6節(新1頁) 前置き 1.前回の説教のあらすじ 今日は、前回の創世記38章の説教で、全て話せなかったユダの物語について、考えてみたいと思います。前回の本文の内容に手短に触れてみましょう。ヤコブの息子であるユダと彼の兄弟たちは、目の敵のようだった弟ヨセフをエジプトに売り渡した後、父親にはヨセフが獣に殺されたと偽りを告げました。ヤコブはその話しを聞いて嘆き悲しみました。その後、ユダは兄弟たちと別れてカナン地域に移住し、そこで異邦人たちと付き合い、その地域の女と結婚しました。そしてユダは3人の息子を儲けました。一番目はエルでしたが、彼は神の意に反する者でした。彼はタマルという異邦の女と結婚しましたが、自分の罪のため、子供も儲けず、若死にしました。そこで、ユダはエルの子供を持たない嫁タマルに、次男のオナンの子種によって妊娠させようとしました。しかし、オナンは兄嫁に子供が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、子種を与えずにそれを地面に流しました。神はそれを悪く思われ、オナンも罰して殺されました。それを見たユダは三男のシェラが成人するまで嫁タマルを実家に戻し、待たせました。しかし、ユダは三男のシェラもエルとオナンのように殺されるのではないかと恐れ、彼が成人したにもかかわらず、タマルを呼び寄せず、放置しておきました。 なぜ、次男のオナンは兄嫁に子種を与えなければならなかったのでしょうか?オナンはなぜ、兄嫁に子種を与えないことで罰せられ、殺されたのでしょうか?私たちは前回の説教で旧約のレビラト婚について語り、それがヨベル(角笛の音)の年の精神に基づいた制度であることを学びました。ヨベルの年とは、旧約時代、神がご自分の民イスラエルにお与えになった土地を、50年ごとに元の地主に返す回復の年のことです。ヨベルの年の贖罪の日に角笛を吹くと、経済的な事情で土地を失った人、他人の奴隷となった人、他郷暮らしをする人たちが皆解放され、帰郷して自分の土地を返してもらうことができました。すべての土地の真の主人は、神おひとりですので、神がその土地を再びご自分の民にお返しになり、皆が平等に神の祝福のもとに帰ってくるという意味を持っていました。それは一度滅びた存在を立ち直らせる主の恵みを象徴しました。ユダの長男であるエルが亡くなり、ユダの次男であるオナンが兄嫁に子種を与え、兄の跡継ぎにすることは、このヨベルの年の精神に基づいたエルの家庭の回復を意味します。たとえエルが自分の罪によって罰せられ、死ななければならなかったとしても、神は弟のオナンの子種をその兄嫁に与え、息子を産ませることで、エルの家庭が再出発するように配慮してくださったのです。なのに、オナンはそのような神の御心を無視し、自分の私利私欲のために子種を与えず、流したわけです。それがオナンの罪となって、彼は殺されたのです。 2.ユダという人の本質 しかし、その父ユダもまた、ヨベルの年の精神に対する認識が薄かったようです。それゆえか彼は、三男シェラをタマルに与えませんでした。漠然と残りの独り息子だけでも生かさなければならないという極めて人間的な思いが彼を愚かにしたのです。これを通じて、私たちはあの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖であるにもかかわらず、ユダ自身は、そんなに信仰的な人物ではなかったことが分かります。結局、今日の本文では、タマルが自分の夫の跡を継ぐという一念で、義父ユダが認識していなかったことを遂行する場面を目撃することになります。「かなりの年月がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。ユダは喪に服した後、友人のアドラム人ヒラと一緒に、ティムナの羊の毛を刈る者のところへ上って行った。」(38:12) ユダの二人の息子が亡くなり、タマルが実家に帰ってから、かなりの年月が経ち、ユダの妻が亡くなりました。ここで「ユダが喪に服した後」という表現は、原文的に訳すると「ユダが慰められた後」という表現になりますが、ヨセフを失ったヤコブが「慰められることを拒んだ。」(37:35)と比較されます。また、タマルが「やもめの着物」(38:14)を着ていたこととも比較されます。つまり、ユダは他人の悲しみに無感覚で、自分自身だけを大事にする自己中心的な人間だったということが分かります。さて、ユダがティムナに行った理由は「羊の毛を刈る」ためでしたが、この「羊毛刈り」ということは、単に羊の毛を刈る作業という意味ではなく、当時の盛大な祭りを意味する表現です。数年の間、育てた羊の群れの毛を刈るということは、まるで穀物の収穫のような豊かさを意味したからです。そして彼は、そこで娼婦を探し求めました。おそらく、祭りで酔っ払い(何人かの学者たちの解釈)、自分の性的欲求を考えたということでしょう。妻が亡くなって間もないのに情けない人間です。 ユダは実に霊的に暗い人でした。彼は本質的に罪人だったのです。死んだ夫エルの後を継がせる計画を立てたタマルは、祭りの真っ最中のティムナの近くに行って娼婦に変装し、自分の愚かな義父ユダに接近しました。おそらく、ユダは羊毛刈り祭りで酔っ払い、欲情に燃えていたでしょう。そして自分の嫁とも気づかず、関係を結んでしまったのでしょう。私たちは聖書に登場する人々が、私たちより高い信仰のレベルと道徳性を持っていると誤解しやすいです。しかし、聖書は登場人物の愚かさと不様を加減なく見せてくれます。あの有名なダビデ王さえも、聖書は絶対に美化しません。聖書は人間の罪についてことごとく告発しているものです。ユダは嫁を娼婦(レゾーナ、語源はザナ-姦淫する。-)と勘違いしました。それはあくまでも自分の欲情を晴らすためでした。39章で弟ヨセフがポティファルの妻の誘惑から最後まで自分を守ったことと、比較される場面です。「ひもの付いた印章と杖」そして、ユダはあまりにも簡単に自分のアイデンティティを意味する物を娼婦に手渡ししました。その後、ユダは自分のものを取り返すために知人を通して、子山羊一匹を送り届けようとしました。この時もユダは自分が「神殿娼婦(ケデシャ-古代神殿で崇拝行為として売春をしていた女司祭)」と関係を結んだと知人をだましました。欲望で娼婦を買った彼が、異邦の基準として聖なる神殿娼婦に会ったと嘘をついたというわけです。 3。人の善悪とは関係ない神の計画。 また、ユダは自分も欲情に目が暗んで姦淫を犯したのに、嫁が妊娠すると、自分の罪は顧みず、是非も正さず、盲目的に嫁を焼き殺そうとしました。彼はこのように自分のことしか知らず、罪に無感覚で、無慈悲な人だったのです。ユダは神が愛された族長たち、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であり、また神が愛された偉大なダビデ、そして、救い主イエス・キリストの先祖であります。しかし、彼の人生の一歩一歩を見ると、あまりにも情けない人だったということが分かります。神の御心には関心もなく、神の御心に従うこともなく、子供たちは信仰とは遠く育て、他人の心や立場には興味がなく、自分の欲望に目がくらみ、自己中心的に生きる罪人の中の罪人でした。単に聖書に登場する偉大な人物の祖先だからといって、その人まで偉大な信仰者として扱えないということです。しかし、私たちはこのような愚かなユダであったにもかかわらず、彼を用いられる神の恵みを憶えなければなりません。神のご計画は人間の善と知恵、悪と愚かさと何の関わりもありません。ある人が高い道徳性と信仰を持っていても、根深い罪と不信心を持っていても、神の計画の成就には、いかなる影響も及ぼすことができないことを憶えておくべきです。神はどんなことがあっても、他の存在に左右されず、神の御心に従って、その計画を必ず成し遂げていかれる方だからです。 ユダはヨベルの年の精神への認識が薄すぎる人間でした。子供たちを立派に育てることもできませんでした。不信仰で、人間味もない人でした。それでも、神はその嫁タマルを通して、ユダがヨベルの年の精神に気づくようにしてくださり、後を継がせてくださり、(現代的な観点からしては不適切に見えるかもしれませんが、)何とかペレツという息子を産ませてくださいました。そして、そのペレツを通じて神は旧約の代表的な人物であるダビデ(旧約のメシア的な人物)と真の救い主であるキリストが生まれるようにしてくださいました。主の恵みによって罪人から正しい人が生まれるようになったということでしょう。ここに私たちの希望があります。今、私たちの信仰が立派でなくても、私たち自身が罪人として生まれたとしても、到底、自分の力では救われることが出来ない、絶望的な状況であっても、神の御心の中にいれば、私たちはキリストを通じて神の計画(救い)が成し遂げられることを見つけるでしょう。信仰者にとって最も大事なことは「自分が立派な人であり、自分が何かを成し遂げる。」ではありません。「自分が信じる主なる神が偉大な方であり、その方が自分のことを導いてくださる。」が大事なのです。これがまさにキリスト教が語る「信仰」なのです。神は罪人のユダが自分の過ちについて悟るように導いてくださいました。ユダは立派な信仰者ではありませんでしたが、神はどうにか彼を見捨てることなく、変えていかれたのです。それを通じて、最終的にユダは自分の過ちを認め、後には父親ヤコブに盛大な祝福を受け、キリストの先祖となる信仰の人物に変わっていくのです。 締め括り ユダは、実にどうしようもない罪人でした。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だったにもかかわらず、彼の人生は全く信仰者の姿ではありませんでした。しかし、神は最後まで彼を見捨てられず、少しずつ変えていかれました。もちろん彼の2人の息子は死んでしまいましたが、タマルを通じて、また新しい息子2人を与え、そのうち1人をメシアの系図に乗せてくださいました。神は罪を憎まれる方ですが、罪人まで憎まれる方ではありません。罪人を新たにされ、正しい人に生まれ変わらせることを望んでおられる方です。人にはできないが、神にはお出来になるので、神はユダのような罪人も少しずつ変えていかれるのです。ユダの罪から私たちの姿を見出します。しかし、神は私たちに罪があるにも関わらず、必ずユダのように私たちを見捨てられず、主イエスの贖いによって救ってくださる方でしょう。私たちもまた、そのように罪人をあきらめない神の御恵に留まっていることを憶えつつ生きるべきでしょう。ユダの物語に鑑み、私たち自身を顧みることを願います。主の豊かな恵みを祈ります。

子ろばに乗ってこられる方。

ゼカリヤ書9章9節(旧1489頁) マルコによる福音書11章1-11節(新83頁) 前置き 今日のマルコによる福音書の本文には、いよいよエルサレムに、お入りになるイエスの物語が描かれます。イエス•キリストはこの世のすべての罪を背負い、自らを十字架のいけにえとして捧げ、罪人を救われる、神によって遣わされた唯一のメシアです。旧約の律法には人が神の御前で、自分の罪を償うために傷のない獣のいけにえを捧げなければならないという規定がありますが、その旧約のいけにえは一度で終わらず毎年行わなければならない不完全なものでした。獣の血では人の罪を完全に償うことができないからです。しかし、神がお遣わしくださった唯一のメシアであるイエスは、完全な神であり、完全な人であるゆえに、罪のないご自分の肉体を十字架で捧げることにより、罪人の救いをたった一度で完成する完全ないけにえになられました。イエスがエルサレムに向かわれる理由は、まさにその完全な救いのためにご自分の肉体を生贄になさるためでした。これまでイエスは病んでいる者、悪霊に取り付かれた者、貧しい者たちの世話をしてくださり、弟子たちに福音の秘密を教えてくださいました。しかし、もはや主は癒され、宣教され、教えられる御業に終止符を打ち、これからは自ら罪人のための身代金になられるために、犠牲と贖罪の十字架の道に進まれるのです。今日の本文からは、十字架に向かって進まれる、主イエスの最後の一週間の物語が描かれます。 1.子ろばに乗ってこられた方。 「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」(1-2)弟子たちと一緒にエルサレムの近所に来られた主は、すぐエルサレムにお入りにならず、その前にエルサレムの東側、オリーブ山のふもとのベタニアという小さな村に行かれました。そして、主はそこから子ろばを連れてきなさいと、向こうのベトファゲに二人の弟子を送られました。その後、主はオリーブ山の道を通ってエルサレムの方へお向かいになりました。オリーブ山はエルサレム神殿が見下ろせる低い丘ですが、神殿の入口が見える場所です。主がエルサレムの東側にあるベトファゲとベタニア、オリーブ山を通ってエルサレムに行かれた理由は、おそらく「メシアは東から臨まれる」という当時のユダヤ人の信仰と関わりがあると思います。「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」(エゼキエル43:4)そして実際に、東側のオリーブ山からエルサレムに目を向けると神殿の東側(神殿の入口)が丸見えなので、メシアの到来を意味するのかもしれません。ところで、ここで少しおかしいことがありますが。なぜ、主イエスは立派な白馬(馬は帝王の出現を意味)に乗ってこられず、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに来られたのでしょうか? 「見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、誠実および真実と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19:1)黙示録を見ても、再臨のキリストが悪をお裁きになる時に、白い馬に乗っていらっしゃると書いてありますが、今日の本文のキリストはあまりにもみすぼらしい姿の子ろばに乗っておられました。何か間違ったのではないでしょうか。しかし、次の箇所を読むと考えが変わるかもしれません。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9) 今日の旧約本文であるゼカリヤ書は、メシアの出現について、このように話しているからです。旧約では、メシアの出現について2つの姿を描写しています。一つは、先日、説教で取り上げられたダニエル書の「天の雲に乗った姿」です。「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進んだ。」(ダニエル7:13) そして残りの一つは、今日のゼカリヤ書のように「子ろばに乗った姿」です。ゼカリヤ書はメシアは謙遜な方なので、雌ろばの子に乗ってくると表現しています。実際にイエスは自らを低くされ、罪人の贖いのために代わりに死んでくださる謙遜の王です。しかし、私たちはここで「子ろば」に目を奪われてはいけません。「まだだれも乗ったことのない」という表現に目を注ぐ必要があります。 主イエスが子ろばに乗られた理由は、旧約の預言の成就という意味でしょう。ところで「まだだれも乗ったことのない」という言葉は、イエスの本質につい教えてくれるヒントなのです。ミシュナーサンヘドリンというユダヤ人のタルムードには「王が乗る獣には誰も乗ってはならない。」という解説があると言われます。つまり、イエスは単純に子ろばというみすぼらしい獣に乗られたのではなく、誰も乗ったことのない預言に登場する特別な獣に乗られたということです。誰も乗ったことのない子ろばという表現がイエス•キリストのメシアとして、また王としてのアイデンティティを表しているわけです。また、普通の人々はエルサレムに入る時に獣から降りて歩いて入ったと言われますが、イエスが獣に乗ったまま、入城されたということ自体が特別な意味を持っているのです。そして、子ろばに大人のイエスが乗ったということで動物虐待と誤解する人もいますが、これは私たちが考える幼いろばではなく、元気な若いろばの意味として解釈できるということを見逃してはならないでしょう。現代を生きている私たちの目には、子ろばに乗られたイエスが滑稽に見えたり、不自然に感じられたり、するかもしれません。しかし、イエス当時のユダヤ人にとって、子ろばに乗ってエルサレムにお入りになったイエスのイメージは、旧約の預言に登場した真のメシアと重なって見えたということを理解したうえで、今日の本文を読む必要があります。 2.ホサナ:主よ、どうか私たちを救ってください。 イエスが、エルサレムに入ろうとされた時、多くの人々は子ろばに乗って来られた、このイエスというラビを見て、旧約の預言を思い起こしたでしょう。それで、人々はついにローマ帝国の圧制から自民族を救い上げる指導者が臨んだと考えたのでしょう。人々はイエスという若いラビがいきなり登場し、病人を癒し、悪霊を追い出し、多くの人々に食べものを与え、今までなかった権威ある講説をするといううわさを聞いてきました。そういうわけで、もしかしたら、この人こそがイスラエルを救い出すメシアであるかもしれないと思ったわけでしょう。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(8-10) 今日の本文にはホサナという表現が出てきていますが、これは「主よ、どうか私たちを救ってください。」という意味のヘブライ語です。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」(詩篇118:25) そして、その出所は詩篇118編です。ところで、ホサナの実際の発音は「ホシュアナ」です。「ホシュア」は救いを意味する「ヤシャ」という表現が文法的に変形したもので、「ナ」という表現は「どうか、ぜひ」などを意味します。この「ヤシャ」から旧約の「ヨシュア」新約の「イエス」という名前が派生しました。 さて、人々はどういう思いをもって、イエスに「ホサナ」と叫びながら喜んだのでしょうか? 彼らはイエスがこの世のすべての存在を惨めにする罪の問題を解決するために来られた霊的なメシアであるということを分かっていたでしょうか。実に残念なことは、主の弟子たちも、群衆もイエスをただ政治、軍事的なメシアとして理解していたということです。彼らが考えてきた救いは、ただ自分の国と民族が、ローマ帝国から解放され、自分たちの思い通りに生きることでした。神は創世記のアダムの堕落以来、この世を汚し乱す罪の問題を解決するために休まず働いてこられました。神は贖いの御業を成し遂げられるために、イスラエルという主の民を打ち立てられ、祭司の国にしてくださいました。イスラエルの使命は神の救いを、全世界に表す神の国になることでした。そのため、主は巨大な国々からイスラエルを守り、保たせてくださったのです。しかし、イスラエルは自分の使命を忘れ、世俗的な道を進み、数多くの罪を犯しました。そこで、神はイスラエルを滅ぼされ、帝国の植民地にされたのです。なぜ、神はご自分の民さえも滅ぼされるのでしょうか。神は巨視的にこの世をご覧になる方です。一国の興亡盛衰ももちろんつかさどる方ですが、それより、もっと大きな問題、すなわちこの世の全てを苦しめる罪の問題を解決するために、より広く世を見ておられる方なのです。神にとって最も重要なのはイスラエルという一国の復興ではなく、人類を罪から救われることでした。 しかし、当時のイスラエルの人々は、そうではありませんでした。彼らはあまりにも微視的な観点からメシアを理解しました。自分の祖国を解放する政治的な人、自分たちの欲求を聞いてくれる世俗的な指導者だけを求めていたのです。イスラエルの群衆は子ろばに乗っておられるイエスを眺めながら、どのような意味の「ホサナ」を叫んだのでしょうか。彼らは罪の問題を解決しようとされた神の巨視的な観点とは全く関係のない、自己欲望の解決というあまりにも微視的な観点からイエスを理解しようとしたのです。これは私たちの信仰とも関係があります。 私たちは毎週教会に出席し「ホサナ」を唱えます。もちろんホサナという表現は直接言いませんが、私たちの礼拝、讃美、教会生活が結局は「主よ、どうか私を救ってください」という無言のホサナではないでしょうか。ところで私たちは自分の罪を贖われるイエスへの愛と感謝としてホサナを呼んでいるのか、それとも自分の有益と必要だけのためにホサナを呼んでいるのかを、はっきり確かめなければなりません。ひょっとしたらイエスの贖いと救いの御業は、当時のイスラエル人においては、別に必要ないものだったかもしれません。 なぜなら、彼らが望んだ救いは罪の問題を解決する根本的な救いではなく、直ちに自分の願いが叶うという世俗的な救いだったからです。そして、彼らは自分の世俗的な欲望を聞き入れてくださらなかったイエスを自分たちの手によって十字架につけてしまいました。私たちはどのような意味としてホサナを呼んでいるのでしょうか? どんな心で信仰生活を続けているのでしょうか。 締め括り 今日はイエスが子ろばに乗って来られた出来事の意味について、そしてホサナの意味と理解し方について分かち合いました。昔、ユダヤ人のあるラビがこのような話をしたと言われます。「神の民がまともに備えていれば、メシアは天の雲に乗ってこられるだろう、しかし、神の民がまともに備えていなければ、メシアは子ろばに乗ってこられるだろう。」もちろん、これは一介のユダヤ教のラビの解釈ですので、キリスト者はこの言葉を真摯に受け入れる必要はないでしょう。しかし、私たちは彼の言葉を通じて、私たちがキリスト者として、どのような心構えで生きているのか、振り返ることはできると思います。主への純粋な信仰によってホサナを唱えているのか、自分の必要と欲望によってメシアを利用するために、ホサナを唱えているのか、私たちは常に私たちの信仰の純粋性について疑い、点検しつつ生きるべきです。これからマルコによる福音書で現れるキリストの十字架の道を通じて、より一層私たちの現在の信仰を顧み、主に正しく聞き従うために力を尽くす私たちになることを願います。今週も主の豊かな恵みにあって平安に過ごされますよう祈ります。

わたしよりも彼女の方が正しい

創世記38章1-11節(旧66頁) マタイによる福音書1章3-6節(新1頁) 前置き 前回の創世記の説教では兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまうヨセフについて話しました。ヨセフは夢を見る人でした。神はヨセフに夢を通して、将来のことを教えてくださったのです。ヨセフの時代には、新旧約聖書が完成していなかったため、神は夢を通して主の御言葉を啓示してくださいました。しかし、ヨセフは、その夢を自分のことを誇るために誤って使いました。父も、兄弟たちも、自分にひれ伏すようになるだろうと偉そうにしゃべり続けたのです。主の御言葉を託された者は、謙遜であるべきだったのに、ヨセフはそうではなかったのです。その結果、ヨセフは兄たちに憎まれ、奴隷として売られることになってしまいました。しかし、神はそのようなヤコブ家の悲劇さえも主の道具として用いられ、ご自分の計画を成し遂げられる方です。主の民と呼ばれるキリスト者にも困難と苦難は起こり得ます。しかし、神は民の困難と苦難さえも主の道具として用いられ、最後には喜びに変えてくださる方です。主はヨセフに困難と苦難を許されましたが、それによって、ヨセフはエジプトの総理になり、結局は自分の家族と隣の数多くの他民族とを救うことになりました。いかなる困難と苦難さえも、喜びに変えることがお出来になる神に私たちの希望を置き、信仰によって生きることを望みます。主への信仰と希望は決して私たちを裏切らないからです。 1.なぜ、ユダなのか? 今日の本文は、ヨセフではなくヤコブの四男であるユダに目を移しています。実際、38章でユダの物語が出てこなくても創世記の全体的な内容には何の差支えもないのに、なぜ聖書は、あえてユダを登場させるのでしょうか?その理由は、神がヨセフだけでなく、ユダというまた別の男にも深い関心を持っておられるからです。実際に神はユダという罪深い人を通じて、また別の救いの歴史を造っていかれます。彼の子孫から新旧約を代表する人物が生まれるからです。メシアを象徴する、旧約の代表的な人物であるダビデ王、そして、真のメシアである新約の主イエス•キリストが、まさに彼の子孫です。しかし、ユダという人そのものは、最初から神に認められた人ではありませんでした。彼は兄弟たちを煽り立てて、銀二十枚で弟ヨセフをエジプトに売ってしまい、父親には弟ヨセフが死んだと、偽りを告げた不義の人間でした。今日の本文でも、彼は決して正しい姿を見せません。ユダの本質は罪人でした。しかし、それでも、彼は44章で末弟のベニヤミンと父親ヤコブのために、代わりに自分の命をかけ、49章では父親ヤコブの心からの祝福を受けるようになります。彼は罪人でしたが、聖書は彼を正しい人と認めているのです。旧約学者たちによると、罪に満ちていた彼が正しい人に変わる決定的なきっかけが、今日の本文にあるかもしれないと言われます。罪深い人だった彼はどのようにして変わるようになったのでしょうか。 2. レビラト婚 (レビラトは夫の兄弟を意味するラテン語) 今日の本文によると、ユダはヨセフをエジプトに売った出来事以後、自分の住いをアドラム地域に移したそうです。ユダは父の家を離れてカナン人の地域に移ったのです。そして、そこでシュアという人の娘と結婚しました。つまり、ユダは異邦人と付き合い、異邦人の娘と結婚したということです。それは、主が禁じられたことでした。聖書にはシュアの娘と「結婚」したと記されていますが、その表現には性的欲望によって彼女をめとったという否定的なニュアンスが含まれています。ユダの子孫の中には、偉大な人物が数多くいましたが、ユダ本人は信仰の人物であるとは言えなかったのです。以後、ユダはシュアの娘を通して、エル、オナン、シェラという3人の息子をもうけ、長男エルが成年になった時、タマルという異邦人の女と結婚させました。しかし、エルは主の御前に正しくない人生を送ったからか、主に殺されました。残念なことにタマルは子供なしで寡婦になってしまいました。そこで、ユダは次男のオナンが兄嫁に対して義務を果たすようにしました。ここで義務を果たすということは、子供なしに兄が死んだので、その兄に代わって兄嫁に子種を与えるという意味でした。しかし、オナンは兄嫁に子供ができれば、自分の財産が減るだろうと懸念し、子種を地面に流しました。すると、主はオナンも悪く思われ、彼をも殺されました。一体、オナンの罪は何だったのでしょうか。 古代の聖書の世界にはレビラト婚という仕来りがあったと言われます。「兄が死ぬと兄嫁に兄の財産が受け次がれ、そのまま兄嫁が他の血族の人と再婚すると、血族の財産が外に流出する可能性があるため、それを防ぐために作られた制度」だったのです。しかし、それは極めて世俗的な解釈であるので、私たちはレビ記25章を通じて、聖書においてのレビラト婚の意味について探ってみる必要があります。旧約にはヨベルの年(ヨベルは角笛の音を意味)という概念があります。 「この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(レビ記25:10) ヨベルの年とは、神がご自分の民イスラエルに与えられたすべての土地を、50年ごとに元の所有者に返す回復の年でした。ヨベルの年の第七の月の十日の贖罪日に、角笛を鳴り響かせれば、経済的な困窮で土地を奪われた人、他人の奴隷となった人、故郷から遠く離れた人たちが、皆解放され、故郷に帰り、自分の土地を返してもらえる恵みの年だったのです。すべての土地の真の主は神おひとりであり、神がその土地を再びご自分の民に返され、皆が平等に神の祝福の下にいるようにしてくださるという意味の日だったのです。それは、一度滅びたような存在を、再び助け起こしてくださる主の恵みでした。 主が、現代人には多少変に感じられがちな、このレビラト婚をお許しになったことには、あのヨベルの年の精神と深い関わりがあります。たとえ、ユダの長男エルが自分の罪によって神に罰せられ、子供なしに死んだとしても、レビラト婚によって彼の子と認められた者が生まれれば、ヨベルの年の精神に基づき、彼の財産を引き継ぎ、エルの罪とは関係なく、再びエルの家を立てることが出来るという意味なのです。つまり、次男のオナンが兄嫁のタマルと関係を結ぶのは、このようなヨベルの年の精神を果たす大事な義務でした。 しかし、オナンは兄の相続人が生まれれば、自分の財産が少なくなることを懸念し、ヨベルの年の精神を無視して自分の子種を与えませんでした。それが主の御前に大きな罪になってしまったということです。オナンの死はヨベルの年の精神を無視した結果なのです。この世のすべてのものは神の所有です。そして、すべてのものの主である神は、それぞれの人と民族と国に土地の境を与えてくださいました。そして神はすべての人が神のご支配のもとで、公平で幸せに生きることを望んでおられます。しかし、この世の現実はそうではありません。誰かは他者より、強く豊かになることを望んで、弱い者を踏みにじって苦しめ、奪い取ります。そのような精神から戦争と帝国が生まれるのです。オナンの思いはそのような世の現実に似ていたのです。オナンは兄の分を欲しました。彼の思いは神のヨベルの年の精神に対立しました。それが彼の死んだ理由でした。 3.タマルの努力が持つ意味。 「ユダは嫁のタマルに言った。『わたしの息子のシェラが成人するまで、あなたは父上の家で、やもめのまま暮らしていなさい。』それは、シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった。タマルは自分の父の家に帰って暮らした。」(38:11) ユダには3人の息子がいましたが、一番目のエルも、二番目のオナンも、自分の罪によって神に殺されました。もうユダは末っ子のシェラを通して嫁のタマルに子種を与えなければなりませんでした。それがヨベルの年の精神に合致する対応でした。しかし、ユダはタマルを実家に帰らせ、末っ子シェラが成人するのを待たせるだけでした。ユダはシェラが成人になったにもかかわらず、タマルを呼びませんでした。実はユダはタマルに末っ子を与えるつもりではなかったからです。彼も死ぬかと恐れたからでしょう。考えてみれば、エルとオナンの死は、彼らだけの間違いによることではなかったかもしれません。父のユダが信仰者としての真実な人生を生きることが出来なかったから、彼らも父の姿を踏襲したのではないでしょうか。普段、ユダが主の御言葉を軽んじてきたので、彼らも主の御前で悪い姿を見せてきたのではないでしょうか。もし、ユダにヨベルの年の精神を重んじる心があったら、彼は末っ子シェラが成人するやいなやタマルを呼んでシェラの子種を与えるようにしたでしょう。しかし、ユダは、末っ子の命も奪われるかと恐れるだけでした。末っ子が死ぬかもしれないという不信心が、主のヨベルの精神を大切にする心よりも強かったのです。 今日の一度の説教で、ユダとタマルの物語を済ませようとしましたが、時間の関係で無理だと思います。ですので、次の創世記の説教で、ユダとタマルの物語をもう一度取り上げたいと思います。あらかじめお話しますと、タマルはユダを騙して直接ユダの子種をもらい双子の息子を身ごもることになります。ユダは彼女が不浄を犯したと判断し、彼女を殺そうとします。しかし、タマルはユダの保証の品を見せ、身ごもった子供たちがユダの子であることを証明します。彼女はしつこくエルの相続人を得るために努力しました。そして、それは人間の目には不適切なことに見えるかもしれませんが、神の御目には、ヨベルの年の精神を成し遂げるための彼女の努力と見られました。なぜなら、ユダとタマルの間で生まれたペレツが、あの偉大なダビデ王と主イエス•キリストの先祖になるからです。現代人の目には望ましくないと思われることでしたが、少なくとも創世記が記録された古代にはタマルの努力は、非常に崇高なことでした。タマルが意図したかどうかは分かりませんが、少なくとも聖書では、人間の考えを越えて神の御心を成し遂げるために努力する姿として描かれているからです。もちろん神はユダとタマルのような不適切な関係を擁護する方ではありません。現代を生きる私たちは絶対にそうしてはいけません。しかし、神の救いの歴史という観点から見ると、タマルの努力がなかったら、ダビデ王もキリストも生まれなかったかもしれません。そのため、結論的にタマルの行為は神の御心に合致すると評価されるのです。 締め括り ヨベルの年の精神は、私たちの信仰において、大事な意味を持ちます。滅びるべき人を、赦して再び活かされる、主の御心が含まれているからです。イエス•キリストが罪人を赦し、生まれ変わらせてくださることも、ヨベルの年の精神と相通じます。タマルは現代の道徳観念から見ると不適切な行為の人かもしれません。しかし、何があっても死んだ夫の家を継がせるという彼女の努力は、ヨベルの年の精神と合致し、イエス•キリストの系図を守る手段となりました。そのため、彼女はイエス•キリストの系図に名を載せる偉大な異邦の女性になったのです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを(もうけた)」(マタイ1:3) ユダがタマルが自分より正しいと言った理由は、彼女の行為がユダの行為より神の御心に合うことだったからです。ユダは残りの末っ子を死なせたくないという考えで神の御心に従いませんでしたが、タマルは死んだ夫の家を継がせるために、自分の命をかけてまで子供を持とうとしました。そして、タマルの行為の結果は、ヨベルの年の精神に合致する正しい行為となったのです。そして、ユダはそのような嫁の努力を通じて、自分の過ちを反省し、正しい生き方について自覚するようになったのではないでしょうか。今日の本文を通じて聖書が語るヨベルの年の精神について考えてほしいです。そして、そのようなヨベルの年の精神を成就されたキリストの救いと愛を覚えたいと思います。