マハナイムの神に出会う。
創世記32章2-13節(旧54頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 叔父であり、義父であるラバンによって、20年という長い歳月の間、奴隷のように利用されてきたヤコブ。しかし、神はヤコブがラバンにだまされ、ただ、こき使われている状況の中でも、着々とご自分の計画を進めつつ、彼の人生を導いてこられました。人間の目から見ると、ヤコブはラバンという障害物のような存在の下で、自分の将来も備えられず、ただ無力で受動的に歩んできた失敗者のように見えるかもしれません。しかし、神の御目から見ると、ヤコブは苦労と絶望の中でも、それとは別に主のご計画の中に守られていたのです。もしかしたら、ラバンの存在自体さえも主のご計画の一部であるかもしれなかったのです。私たちの信仰と人生において、一寸先も見えない絶望と悲しみの状況の中でも、神は私たちとは異なる見方で私たちの人生を見守っておられます。私たちの絶望と悲しみの時さえも、神のご計画の一部であって、神が私たちを導いておられることを信じる信仰者になりたいものです。結局、ヤコブは主の御助けによって、大家族を成し、金持ちになり、主の決定的な恵みでラバンの手から自由になって帰郷することになりました。 1。神のご予定と人間の行い。 以前、ヤコブは自分の計略で、祝福の相続人になりました。しかし、それはあくまでも人間中心的な解釈です。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(創世記25:23)ヤコブの生まれる前から、神はヤコブがアブラハムとイサクの相続人になることをすでに知っておられました。だからといって、神はヤコブが父と兄をだまして相続者になることを容認されたわけではありません。また、ヤコブに悪いことをさせられたわけでもありません。神の民にとって、結果だけでなく過程も大事です。「過程は悪いけど、結果さえ良ければ大丈夫だ。」という主張は望ましくありません。正義に満ちた公正な生き方で過程を経て、また主の御心に適う良い結果が出るように誠実に人生を生きるべきです。 福音書はイエス・キリストの御言葉を通して、キリスト者の望ましい生き方について教えてくれます。キリスト者は、何事においても「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きるべきです。しかし、ヤコブはそのような人ではありませんでした。結果だけに執着して過程には失敗しました。それにもかかわらず、神はヤコブをご自分の御心にふさわしい者に養っていかれました。 そして、ヤコブはその主の養いの中で、まことの約束の相続人として成長していきました。 ヤコブの人生を通して、キリスト教の重要な教えである「神の予定」について、そしてその「予定の中での人間の生」について考えてみたいと思います。予定とは、「全能の主が世のすべてを予め定めておられる。」という概念です。しかし、「すべてが定まっているから、人間は適当に生きても構わない。」と理解してはなりません。「ヤコブが悪いことをしたことも、成功したことも、世の中のすべてのことも結局、神ご自身がお定めになった予定によるものだから、人間はただ適当に生きれば良いんだ」というような理解は、人生の過程と結果への正しい姿勢を妨げます。主は人間に「選びの自由」をくださいました。主は全宇宙を創造し導かれる「経綸と摂理」(週報参照)の中で人間が主の御導きに反応し、主の御心に従って生きようとする「選び」の自由を与えてくださったのです。 その「選びの自由」を誤って利用した代表的な存在が、まさに「知識の実を貪ったアダムとエヴァ」なのです。主はご予定に従ってヤコブを約束の相続人にしようと計画されました。しかし、ヤコブは自分の「選びの自由」を誤ったやり方で使い、不正に相続者の権利を奪ってしまったのです。しかし、それよりもっと大きい神のご恩寵は、そのようなヤコブを鍛えて、主の御心に適う人として養っていきました。神の予定とは、いかなる障害があっても、全能なる神は妨げられず、その御心のままに成し遂げていかれるということを強調する概念なのです。 2.マハナイム– 神の二組の陣営 世の数多くの宗教は「自らの善行によって救いに至る」という基本的な救いへの見方を持っています。しかし、キリスト教での救いへの見方は徹底的に神の主導的な恵みと理解されています。神はご自分の主導的な予定の中で、民を敬虔に養成していかれる方です。そして神の絶対的な権能で彼らを救いにまで至らせてくださいます。つまり、人の行いではなく、神の恵みによって人間を救うということです。私たちはその恵みによって、一方的に救われ生きているということを忘れてはいけません。「ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。ヤコブは彼らを見たとき、ここは神の陣営だと言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。」(32:2-3) 今日の本文で神は、ご自分の計画の中でヤコブを導いていかれることをもう一度示してくださいました。本文に出てくるマハナイムという単語には、「二組の陣営」という表現がついています。マハナイムはヘブライ語の双数で記されたものです。マハナイムの原型は「マハネ」で、その意味は「陣営、軍隊」です。この「マハネ」に「イム」がつくと「マハナイム」という双数となり、二つの軍隊という意味になります。ところで、どうして「二組の陣営」なんでしょうか? 「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。」(32:8-9) 帰郷するヤコブは恐れていました。以前、父と兄をだまして長子の祝福を奪った時、兄エサウが自分を殺そうとしたことが思い起されたからです。今では、エサウが自分の地域で権力者に成長しており、もしかしたら、帰っていくとき、兄の仕返しですべてを失うかもしれないと思ったのです。自分の不正な行為による兄の怒りが恐ろしかったわけです。そこで、ヤコブは極めて人間的な自分なりの妙策を思いついたのですが、それは自分の所有を二組に分けて、もし一組がエサウに攻撃されたら、残りの一組は避難できるようにしたのでした。しかし、そのような人間的な知恵の案出にも関わらず、ヤコブの恐怖は止まりませんでした。しかし、神はすでにヤコブの心を見抜かれ、神がヤコブと一緒におられることを示してくださいました。まさに二組の陣営を備えてくださったのです。ヤコブの群れを守る神の二つの軍隊。神はヤコブの弱い信仰にもかかわらず、彼との契約を守るためにヤコブの群れを守る神の二組の陣営を備えてくださったのです。人間がいくら自分の知恵で対策を立てても、人間の知恵では、完全に自分を守ることができません。一つを守ったとしても、一つは諦めなければならない現実が、人間の最善の知恵であるのです。しかし、神は主ご自身が選ばれた民のために、ご自分の御手によって守ってくださり、避ける道を与えてくださる方なのです。 3. 一番先に主の御助けを求めよ。 しかし、ヤコブは神の軍隊を見ても特に反応しませんでした。ただ「ここは神の陣営だ」と言い、そこをマハナイムと名付けるだけでした。旧約聖書のヨシュア記5章にも、これと似たような出来事があります。「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。」(ヨシュア記5:13)モーセの後継ぎであるヨシュアが民を率いてヨルダン川を渡り、カナンに入ったとき、そして主のご命令に従ってエリコを攻撃する直前に、彼の前に剣を手にした、ある男が現れました。ヨシュアは彼に「あなたは味方か、それとも敵か」。尋ねました。すると彼は言いました。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」(ヨシュア記5:14)すると、ヨシュアは、急いで彼の前にひれ伏して反応しました。神は主の軍の将軍を遣わされ、エリコとの戦いに主の導きと助けがあることを示し、ヨシュアはそれにひれ伏すことで反応したわけです。しかし、ヤコブはヨシュアのような反応はしませんでした。主が一緒におられることを意味する二組の陣営を自分の目で見ても気付けなかったのです。彼は神に感謝も祈りも反応もせず、ただ兄のことで心配ばかりしていました。 ヤコブは9節でようやく神を探し始めます。「ヤコブは祈った。わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与えると、どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(32:10、12)主の深い恵みを受け、そのご命令に従って帰郷することになったヤコブ。しかし、彼の信仰は依然としてもの足りない状態でした。神は二組の陣営を通して彼の群れを守ってくださり、過去の契約を通して彼との約束を覚えてくださり、また、すべてを備えてくださって、ヤコブに故郷に帰れと命じられたのですが、ヤコブはその神の命令より、自身の過去の経験と考えと不信仰に捕らわれて一人で思い煩い、結局、いちばん最後に神に祈り始めたわけです。キリスト者は一番先に神を探し求めなければなりません。何が起ころうとも、最初から祈りの座に出なければなりません。祈りを通じて神に自分の事情を申し上げ、謙虚な心で神の御心を待ち望みつつ、それから自分ができることを模索すべきです。神が本当に自分と一緒におられると信じるなら、私たちはひとまず神の御前にひれ伏し、祈りの座に進むべきです。 締め括り 結論的に次の本文で、神はヤコブを最も良い方向に導いてくださり、エサウとの問題も丸く治めてくださいます。しかし、今日のヤコブの信仰については、実に残念です。私たちが神の民として選ばれて救いを得て、その方の経綸と摂理、予定のもとに生きていることを信じるならば、私たちはもっと神への積極的な信頼と感謝を持って生きるべきでしょう。 神はイエス•キリストを通して私たちにこう言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 主の救いと恵みを信じて、神と一緒に歩む者に、主は必ず共にいてくださる方です。私たちの信仰がヤコブより優れているとは言えないかもしれません。しかし、私たちの信仰が弱い時も、神は私たちを最後まで見守ってくださるでしょう。したがって、ヤコブの過ちから私たちの過ちを見つけ、日々信仰の改善を目指して生きていきましょう。主がいつも私たちと一緒におられることを信じて、感謝と賛美とで、今週も生きていくことを心から願います。