信仰のない時代に。
創世記15章6節(旧19頁) マルコによる福音書9章14-29節(新78頁) 前回の説教で、イエスは3人の弟子たちを連れて、ある高い山に登られました。主は山の上で真っ白に輝く姿に変容され、旧約の偉大な預言者であるモーセ、エリヤと語り合いました。ペトロはその姿にうっとりとして「私たちがここにいるのがすばらしいから」と言って山の上にいることを望みました。その時、みんなは急に雲に覆われ、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」神は山の上で主イエスの神聖さを示してくださったわけです。偉大なメシアとしての権力者イエスを望んできた弟子たちは、主が華やかに輝く姿に変容した山の上に、ずっといたかったでしょう。しかし、雲が消え、弟子たちのそばには誰もおらず、ただイエスお一人だけがおられました。私たちは華麗で素敵な主を期待して信仰生活をしているかも知れません。しかし、主は高くて華やかなところではなく、低いところに目を向けておられる方です。そして、その低いところで人の思いとは全く異なる神の御心によって、この世を治めておられる方なのです。前回の説教では、そのような人の思いとは異なる神の御心について話し、その神に従順に従うことこそ、真の信仰ではないかと分かち合いました。 1.山の下で。 「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」(14) 主と3人の弟子たちが、山から降りてきた時、ほかの弟子たちは律法学者たちと論争をしていました。主イエスがその姿を見て、何を議論しているのかと尋ねられると、ある者が言いました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(18) その人の息子が悪霊に取り付かれましたが、イエスの弟子たちがその霊を追い出せなくなると、それを見ていた律法学者たちと神学的な論争を繰り広げるようになったのです。私たちはこの状況を見て、2つを考えることができます。第一は3人の弟子たちは山の上で主の栄光を目撃しましたが、彼らの居場所は山の下であったということです。第二は言葉だけの信仰者には主による権能がないということです。数時間前までペトロ、ヤコブ、ヨハネは、主と一緒に高い山の上にいました。彼らは輝く聖なる主も見たし、偉大な旧約の預言者たちにも出会い、栄光の雲の中で神の声も聞きました。しかし、今日の本文で彼らは再びこの地上におり、惨めな現実を目の前にしています。しかも悪霊に苦しめられている人々と、その人を直すことができないユダヤの宗教指導者たち、そしてイエスの弟子たちが互いに論争している情けない現実です。 人それぞれ、信仰の体験が違うでしょうが、ある人々は幻を見たり、夢を見たり、超自然的な経験を通して、派手に神に出会ったりすることもあります。そのように主に出会った人々は、すぐにでもこの世が大きく変わるようになるかもしれないと期待することになります。神がこの世をまるでひっくり返されるような気がして胸を弾ませることもあります。明日すぐに主が再臨なさるような気がして華やかな主の到来を待ち望むことになるのです。しかし一日、一週間、一ヶ月が経っても世の中は変わりません。世の中は変わりなく今までと同様に流れていきます。そして結局、神にがっかりする場合もあります。恥ずかしいですが、私がまさにそのような人でした。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ3人の弟子たちは、わずか数時間前に華やかな姿に変わったイエスを目撃しました。しかし、彼らはまた以前と同じ世の中に戻ってきました。世の中は依然として病気、悪霊、悲しみに満ちているところでした。弟子たちはがっかりしたかもしれません。私たちは世の中を生きつつ、まるで神がいらっしゃらないような経験をしたりします。貧しい人々は相変わらず貧しく、善良な人々が苦しみを受け、悪い人々が富貴を享受して生きていくことをあまりにも頻繁に目撃します。考えとしては審判者であられる主が、直ちに世を裁かれることを望んでいますが、主はそうされませんので、あまりにももどかしい時が多いです。しかし、大事なことは神は、そういう現実の中でも世の中で苦しんでいる者と一緒におられるということです。 ここで私たちは神のご関心がどこに向っているかが分かります。多くの人々が宗教を持つ理由の一つは、世の中での苦しみと悲しみから解放され、幸せな人生を営んで生きるためでしょう。しかし、キリスト教は盲目的にそれだけを求める宗教ではありません。部分的にはそうでもあるでしょうが、私たちの主イエスは、いつも世の中の苦しみと悲しみにさらされている人々とおられ、共に苦しみと悲しみを受ける方なのです。 主はおっしゃいました。「何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。」(マタイ11:8) 主イエスが肉体となってこの世に来られた理由は、苦しくて悲しい人たちと共におられ、彼らを救って神に導かれるためです。ですので、主は世の中から離れて暮らす仙人ではないのです。したがって、主のご関心はいつも最も低いところにあります。主イエスを信じる私たちが、主に従って生きる存在ならば、私たちも山の上の華やかなイエスではなく、罪と苦しみ、悲しみに満ちている、この世におられる主を見つけるべきです。イエスはこの世の罪人と一緒に過ごすためにおいでになった方です。主は御父の右に座しておられる方ですが、聖霊を通して常にこの世の罪人の間で一緒に生きておられる方なのです。だから主を信じる、主の体である私たちがいるべき場所は、高くて華やかな山の上ではなく、辛くて貧しい、低いところなのです。 このイエスがおられる、この世を生きていく私たちは、主が与えてくださる力を持って、世の苦しみと悲しみにうめいている、我々の隣人たちと一緒に歩むべきなのです。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」イエスの時代の律法学者たちも、イエスの弟子たちも、世の中で苦しんでいる隣人たちには、あんまり関心がありませんでした。彼ら自身なりの追求するものがあり、願うものがあったでしょうが、それが主の御旨に適うものだったとは言えないでしょう。結局、神の御心に適合しなかった彼らは、神から力を得ることが出来ず、悪霊を追い出すことも出来なかったわけです。彼らはただ議論するだけでした。つまり、言葉だけで主からの権能はない存在だったのです。ある者の息子が悪霊に取り付かれたということは、この世の様子を示してくれるイメージだと言えます。福音書に悪霊が出てくる理由は、悪霊に象徴される世の悪の支配から、この世が自由でない状況を示す劇的な象徴なのです。イエスが山から戻ってこられた時、この世への悪の支配を意味する悪霊は追い出されました。私たちは今教会で主日の礼拝と水曜日の祈祷会を熱心に守っています。また聖書と教理書を学んでいます。しかし、私たちの生活の中でこの世の悪に対抗し、勝利する姿があるでしょうか? 頭の中に知識はありますが、その知識が行いとして現れているでしょうか。私たちは議論ばかりしている弟子たちと違う人生を生きているでしょうか。 3.信仰のない時代に。 今日の本文で、主はそのような弟子たちと周りの人々に言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(19) 悪霊を追い出すことができず、互いに論争ばかりしている者たちを、主は信仰がないと見なされたのです。つまり、キリスト者の真の権能は、言葉や仕草ではなく、その人の信仰から生まれるものとも言えるでしょう。マルコによる福音書の序盤にイエスはこうおっしゃいました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15) ひょっとしたら、マルコによる福音書の始まりから、主のご関心は信者の信仰にあったのかもしれません。主を信じて、主の御力と主の御業を待ち望み、主に従って生きるのです。その主への信仰がある時にはじめて、主の民は悪に支配されるこの世に勝利して生きることができるのです。しかし、私のような者には、自分の信仰があまりにも弱く自身がなくて、このような聖書の言葉が相当な負担と感じられがちです。しかし、今日の本文はこのような信仰の悩みを持っている者たちに大きな慰めと希望を与えてくれます。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。その子の父親はすぐに叫んだ。信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(22-24) 私たちの信仰が弱くても、主を信じると告白して主に寄りかかって生きれば、主が助けてくださるということです。 主が私たちに望んでおられるのは、偉大な信仰の人物になることでも、強い信仰ですべての聖書の言葉を守ることでもありません。それらが出来れば最も良いでしょうが、罪人として限界がある私たちにそれらは不可能に近いものです。主はそのような私たちが主の御前にひれ伏して主の御心と御導きと御助けを求める姿をご覧になり、私たちを助けてくださる方です。完璧な信仰がなくても、主を信じるために主の御前に進む私たちの姿を主は喜んでくださるのです。そして私はこのような信仰のある者の望ましい姿が祈りから見つかると思います。「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうかと尋ねた。イエスは、この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだと言われた。」(28-29)祈りでなければ、このような悪霊を追い払うことが出来ないという主の御言葉を通して、私は祈りとは何かについて考えてみました。今日の本文は、この祈りの意味をよく教えてくれる箇所だと思います。信仰の弱い、この父親が「信じます。」と、謙虚に主の御助けを求めたその姿がまさに祈る者の在り方ではないでしょうか。「私は信仰が弱いです。私にはできません。信仰のないわたしをお助けくださり、主の御心によって導いてください。」という、今日の悪霊に取り付かれた子の父親の謙虚な願いが、まさに祈りの真の姿ではないでしょうか?そして、それが信仰者の在り方ではないでしょうか。 締め括り 主が信仰のない時代、つまり、この世に望んでおられるのは、もしかしたら神の御前に自分の弱さを告白し助けを求めることであるかもしれません。そして、私たちが追い求めるべき信仰も、まさにその自分の弱さを告白し、主の御助けを求める謙遜な信仰ではないでしょうか。 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6) 創世記15章で神はアブラハムに「私があなたの子孫を天の星々のように多くする。」とおっしゃった時、アブラハムはその神の御言葉を信じました。自分には出来ないが、神にはお出来になると自分の力とは別に神の権能を信じ込んだのです。その時、主は彼を正しい者と認められました。 「私には出来ないが、主はお出来になる。だからこそ主に助けを求めてひれ伏す。そして、祈ったとおりに主を信じ、信仰に生きる。」これがまさに祈る者、すなわち信仰のある者の望ましい在り方なのです。私たちは依然として華やかな主ではなく、低い所にいらっしゃる主と共にこの世に生きています。しかし、主は私たちを離れずにいつも私たちと一緒におられる方です。その主に私たちのすべてを吐き出し、御助けを求めること、そのように主の御心に従順に聞き従うこと。それこそが、まさに私たちが追求すべき信仰の姿だと思います。主と共に低いところにおり、主に私たちの弱さを告白し、一緒に歩む志免教会になることを祈り願います。