ヤコブの逃走
創世記31章1-21節(旧51頁) 前置き 前回の説教は、ヤコブが伯父のラバンの所であるパダン・アラムを離れ、生まれ故郷に帰る前にあったことを話しました。ヤコブは20年間伯父であり、義父であるラバンにだまされ、未来が一寸先も見えない不条理な状況下にいました。しかし、神はそのような不条理の中でもヤコブを一族の長にふさわしく育てられ、結局は超自然的にラバンの財産を取ってヤコブに与えてくださいました。本日、取り上げる創世記31章は、前回の説教の延長線とも言えます。ヤコブが家路に本格的につく場面だからです。実は、31章の内容は、前の説教と大きい違いはありません。そして内容もとても長くて多いので、端的な教訓を得ることも容易ではありません。ですので、今日はこの31章のいくつかの箇所から、25章から始まったヤコブの人生について語り、神がヤコブをどのように導いてくださったのかを、もう一度考えてみる機会にしたいと思います。実は今日の説教のタイトルを「ヤコブの逃走」としましたが、正式なタイトルは「ヤコブにとっては逃走、しかし神はいつも一緒におられた。」としたいです。ヤコブの人生において神はいつも彼を見守ってくださったからです。 1。今までのヤコブの生涯を振り返る。 ヤコブの父のイサクは、生まれる前から神に選ばれた人でした。ヤコブの祖父アブラハムは、カルデア・ウルの偶像職人でしたが、神の導きによって主の民となり、生まれ故郷、父の家を離れてカナンに来た信仰の第1世代でした。神はアブラハムに「あなたとあなたの子孫を祝福する。」と約束されました。イサクはそのアブラハムの真の相続人、つまり祝福された信仰の第2世代だったのです。そのイサクはいとこのリベカと結婚し、双子を儲けました。兄はエサウ、弟はヤコブでした。兄は狩人で野の人に育ち、ヤコブは穏やかな(静かな)人に育ちました。しかし、ヤコブには野望がありました。兄を押しのけて自分がイサクの長子になろうとしたのです。しかし、ヤコブはイサクの長子になるということが、どういう意味なのか分かっていませんでした。それは神に選ばれた信仰の3代目になるという厳重な意味でした。しかし、ヤコブは、ただ父の相続人になって父の財産のすべてを自分が受け継ぐという世俗的な考えだけだったのです。そのため、ヤコブはパンとレンズ豆の煮物一杯で長子の権利を買い取りました。以後、父を欺いて長子の祝福を奪い取ったヤゴブは、兄の怒りを避け、はるかに遠い母の故郷であるパダン・アラムに身を寄せるようになりました。そして、彼はパダン・アラムに赴く途中、アブラハムとイサクの神に出会うことになりました。 しかし、長子の権利と祝福を横取りしたヤコブを待っていたのは、祝福どころか、最初から苦しみだけでした。誰も彼を歓待せず、労苦と孤独の旅路だったのです。そんなある夜、石枕で野宿していた彼の夢に神が現れました。天と地をつなぐ階段の上に神がおられたのです。神は彼に「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」と言われました。夢の中で神の祝福を受けることになったヤコブは、そこを神の家という意味のベテルと名付け、自分を無事に帰らせてくださったら神に供え物を捧げると約束しました。つまり、ベテルは神とヤコブの契約の場だったのです。無事にパダン・アラムにたどり着いたヤゴブは、いとこのラケルに出会い、伯父のラバンの家に行きました。ヤコブは故郷で騙す者と呼ばれたんですが、ラバンは彼を上回ってけち臭い者でした。ヤコブはラケルを愛していましたが、ラバンの計略に騙されて姉のレアと結婚することになり、伯父に抗議したら、ラバンはそれを口実にラケルと女奴隷たちまで与え、その対価として、14年間(結婚前7年)の労働を求めました。さらに羊飼いの6年まで、ラバンは20年間、ヤコブを奴隷のようにこき使いました。しかし、神はヤコブといつも一緒におられました。ヤコブに家族ができ、経験が積み重なり、ヤコブの独立の時に際して、神は彼に財物を与え、ラバンの家を離れるように導いてくださいました。 2。神がヤコブと一緒におられた。 ヤコブがラバンの家を立ち去ることを決めたとき、神は彼の夢に現れて言われました。「わたしはベテルの神である…今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」(13)神は、ヤコブが長子になることをすでに知っておられました。ただ、長子の権利をヤコブ自身の計略で奪い取ることは正しくない行動でした。しかし、このようなヤコブの罪と過ちにもかかわらず、神は彼を孤独、不条理、苦しみ、悲しみの中で鍛えられ、彼が一族を支えられる族長の器になった時、何よりも彼がアブラハムとイサクの後を継ぐ者として、成長し始めた時、神のご計画どおり彼を導いてくださいました。過去に人間的な欲望で長子の権利を欲しがった彼でしたが、20年という厳しい歳月を積み重ね、ヤコブは少しずつ神が自分と一緒におられることに気づいたのです。「わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。」(5)すなわち5節は、まだ神への完全な理解も足りず、信仰的にも弱いヤコブでしたが、それでも神が自分と一緒におられると告白する一種の信仰告白なのです。神はその信仰の告白どおりに13節に現われて神とヤコブの契約を守ってくださるためにヤコブに帰郷を命じられたのです。ヤコブが生まれる前から、また彼の人生のすべてにおいて、神は彼と一緒におられ、いつまでも一緒にいてくださる方でした。 ヤコブは妻たちと相談し、ラバンの家をこっそり離れようとしました。ラバンは彼を最後まで捕まえておき、奴隷のようにこき使うつもりでしたが、神もヤコブもそれを望んでいませんでした。「ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった。ラバンは一族を率いて、七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドの山地でヤコブに追いついたが」(22-23)ラバンはヤコブの家族を捕まえるために彼らを追いかけました。しかし、ヤコブと一緒におられる神は、ラバンの夢の中に現れて警告されました。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」(24)神は露骨にヤコブを偏愛され、ラバンは神を恐れてヤコブとその家族をひどい目に合わせることができなくなりました。神がヤコブと一緒におられることを端的に見せてくれる場面です。ヤコブに追いついたラバンはヤコブを叱りましたが、彼を傷つけることはできませんでした。彼を無理やり連れて帰ることもできませんでした。神がヤコブと一緒におられることをラバンはよく知っていたからです。「わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」(42)結局、神のご介入により、ヤコブは無事にラバンから離れ去ることが出来たわけです。 3。「ベテルの神に帰る」の意味 このように神はヤコブを守ってくださり、静かに彼の成長を待ってくださり、神の時が来た時に自由を与えてくださいました。しかし、神がヤコブに自由をくださったことは、これからお金持ちになって自分勝手に生きていいという意味ではありませんでした。「わたしはベテルの神である。」ヤコブが名付けたベテルという表現を、神が進んで使われたように、神はヤコブとの契約を覚えておられました。神がヤコブに自由を与えてくださった理由は、これからベテルの神に立ち返って主との契約を遂行しろという意味だったのです。特に13節で神はヤコブに「あなたの故郷に帰りなさい。」とおっしゃいましたが、それはアブラハムとイサクの所に帰れという、ヤコブの本当の居場所に復帰しろという命令でした。つまり、神とヤコブが結んだ契約は、ただのヤコブ個人の契約ではなく、過去アブラハムとイサクが神と結んだ契約の延長線だったのです。このように神がヤコブを故郷に行かせてくださった理由はアブラハムから始まった神の祝福がヤコブを通して継承されていることを示す強力な証でした。長子の祝福を持っていたヤコブは苦難を通して成長し、神のご介入を通して自由を得、神の御導きを通して、その方(かた)の民に育てられていきます。ベテルに帰れという意味は、神の契約を記憶し、神の民らしく生きろという意味だったのです。 しかし、ヤコブには一つの不安要素がありました。それは愛する妻ラケルから始まります。「ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。」(19)守り神の像とは、テラフィム(士師記17:5)のことで、当時のパダン・アラム地域の偶像でした。これは古代の時計、青銅の偶像、偶像の絵、息子の首を切ってその皮を塩漬けにした置物など、いろいろな口伝えがあります。いずれにせよ、古代カナンではこのような偶像を作る風習があったようです。ところで、問題はラケルがその守り神を盗んだということです。昔、あるラビはテラフィムが話せると主張しました。彼はラケルがテラフィムを盗んだ理由も、テラフィムが自分たちの逃走をラバンに言いつけるかと怖がったからだと主張しました。偶像が話せるなんてとんでもないですが、古代人の想像力ですから理解しましょう。さて、最も有力な仮説は、ラケルが自分のためのお守りとして父のテラフィムを盗んだのではないかということです。神はヤコブを契約のベテルに導かれましたが、ヤコブは自分の家族を取り締まることができず、最愛の妻が偶像テラフィムに頼ることをも阻まなかったのです。つまり、ヤコブは神を信じてはいましたが、偶像を容認する不完全な信仰の人物だったのかもしれません。そんな家風だったから、妻が守り神を盗んだのでしょう。そのような不完全な信仰のためか、その後、ヤコブはベテルに行かず、他の所に落ち着いてしまい、大きな不幸に見舞われてしまいます。その内容は、創世記34章で話しましょう。 締め括り 今日の本文には、特に新しい内容はなかったと思います。前の説教で取り上げたことを、もう一度整理する気持ちで説教しました。それでも、今日の説教を通して憶えておきたいことはあります。第一に、神がご自分の民であるヤコブとの約束を大切にされ、まだ不完全な信仰のヤコブでしたが、彼といつも一緒におられ、偏愛するほど守ってくださったということです。主はその民であるキリスト者ともこのように一緒におられる方でしょう。第二に、神とヤコブの契約がヤコブだけの事項ではなく、神と祖父と父との契約を引き継ぐということです。私たちの信仰は私個人だけの信仰ではなく、神とキリストの契約よってなされ、保たれるのです。第三に、神を信じてはいますが、私たちは依然として不完全だから、いつも自らを顧み、悔い改める準備をしていなければならないということです。今後、ヤコブはパダン・アラムを離れ、神の約束の地に帰ります。これから主はどのようにヤコブを導いてくださるでしょうか。神の御導きを期待しつつ次の本文もともに聞きましょう。ご自分の民といつも一緒におられる主を賛美し、この一週間を生きていきましょう。