日常においての復活を考える。
イザヤ書60章1-3節(旧1159頁) ヨハネによる福音書11章25-26節(新189頁) 今日は主イエスの復活を記念する復活節です。今日、私たちはイエス・キリストの復活を記念し、一緒に喜ぶためにここに集いました。 私たちが主と崇め、告白するイエス·キリストは死から復活された方です。その方は罪のため、苦難を受け、死んでいくべきすべての罪人のために天から来られ、その罪人の代わりに神の罰を受け、死に、人間の罪と苦しみと死を担ってくださいました。イエスの死によって罪人は罪と死の苦しみから自由になり、神の恵みと救いを得ることができるようになったのです。そしてイエスはその死からよみがえられ、その方を信じるすべての者に死の権能に勝利する信仰と希望を与えてくださいました。この復活のイエスを喜び、私たちにも復活を与えてくださった主を覚えて生きていきたいと思います。 1.死 人間はひょっとしたら死ぬために生まれるのかも知れません。すべての人が年を取って老いていき、いつか必ず来る自分の最期を悩むということがそれを証明します。あの有名な一休宗純(1394~1481)はこう語りました。「世の中は起きてフンして寝て食うて後は死ぬるのを待つばかりなり。」この室町時代の有名な僧は、人の人生がこのように無駄なもので、結局、死んで終わるということを一行の文章で表現したのです。いくら一生懸命生きるといっても、結局、死によって人生が終わるのは定まっているからです。 7年くらい前、昭和時代の文化に深い興味がわき、1970-80年代の日本の歌手や俳優について探求したことがあります。その中でも1980年代の「セーラー服と機関銃」という歌と映画で有名だった薬師丸ひろ子さんが特に好きでした。1978年にデビューして一時かなり人気の俳優兼歌手で、去年は紅白歌合戦にも出演しました。「さようならは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束」この歌をご存知の方もおられるでしょう。そんなある日、番組で50歳を過ぎてコンサートを準備している彼女を見ることになりました。もちろん50代はまだ若いとは思いますが、薬師丸さんの少女の姿だけを覚えていた私は、彼女の中年の姿を見て、かなりショックを受けました。時が経ち、かわいい少女は中年の女性になっていたのです。 その時、私は老いていくということについてじっくり考えさせられました。人がいくら熱心に生きていっても結局は年を取って老いてゆき、100年にも至らない短い人生を経て、死の問題を解決できず死んでいくということが本当に悲しく思いました。そういう意味で、この世は喜劇というより悲劇に近い舞台かもしれないと思いました。文学で喜劇と悲劇を区切る目安は、悲しい物語、楽しい物語ではなく、主人公が問題を解決できず死んで終われば悲劇、主人公が生き残って問題を解決すれば喜劇だと言われます。いくら悲しい物語だといっても主人公が生き残れば喜劇、いくら楽しい物語だと言っても主人公が死ねば悲劇になるのです。そういう意味で人間は死という人生最大の問題を解決できないまま、結局その死によって生を終える悲劇の主人公であるかもしれません。いくらお金持ちで、権力者で、名誉のある者であるといっても、人間は結局、死を迎えるからです。聖書もこの死を人生の最大の問題として指し示しています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:2) つまり、人は無条件に一度は死ぬしかないということです。ところで、聖書は死についてそれ以上のことを語ります。死んでも生きている人がいれば、生きていても死んでいる人がいるということです。 2.聖書が語る死と生命 「その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) 聖書は人が一度死ぬことは定まっていると言います。しかし、それだけで終わりません。その後には神の裁きが残っていると語ります。私たちは裁きという言葉を聞くと裁判所を思い浮かべ、つい恐ろしさを感じがちです。しかし、「裁き」のギリシャ語の語源は「区別する」という意味を持っています。聖書で裁きと訳された原文は法定用語としても使われますが、日常用語としても使えるものです。つまり、すべての人が死んだ後、神の公正な区別のもとで、死後の歩みが定まるということです。聖書はここで、神に正しい人として区別された者は死後にも神と一緒に生き、正しくない人として区別された者は死後に見捨てられると語ります。聖書は、真の死は肉体の死だけを意味するのではなく、世のすべてを区別なさる神に見捨てられることであると述べているのです。したがって、死は老いて衰えて死ぬ肉体の死だけを意味しません。神を離れて神なしに生き、主への信仰も、主との交わりも持たず、神と一緒に歩まず生きていき、結局、神に「私は君のことをまったく知らない」と見捨てられることが、まさに聖書が語る本当の死なのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26) 今日の本文でイエスがご自分に対して「私は復活であり、生命である」と言われたのには、まさにこのような意味が含まれているのです。聖書によると、人の生と死をお裁きになる神は、イエスという「神と人の間におられる唯一の仲裁者(仲保者)」を送ってくださったと言われます。神を知らない人や、神に逆らって生きてきた人でも、神から遣わされた仲裁者であるイエスを信じ、その方と一緒にいれば、神の正しい判断によって彼は正しい人として区別されるのです。聖書はこれを救いと言います。そして、ここで「正しい」という意味は、神の御旨に適うという意味です。また、イエスと神への信仰で生きる人は、死後にも真の喜びを持って神と一緒に生きていくでしょう。そして、最終的に神がお定めになった終わりの日にはイエス・キリストが死から復活されたように、イエス・キリストを信じる人も最も完全で美しい姿で死から復活するでしょう。聖書が語る本当の死とは、肉体の死を超える神との関係が断絶した状態を意味します。そして、聖書が語る命とは神との関係が回復し、生きても死んでも神と一緒に歩んでいくことです。イエスはこの永遠の命、神と人の和解のためにこの地に来られ、その和解をご自分の死と復活を通して成し遂げてくださいました。したがって、イエスを信じる者は死んでも生きている者として神に認められ、いつかイエス•キリストのように死から復活して永遠に神と生きていくでしょう。 3。日常においての復活を考える。 今日の説教はここで終わってもいいかもしれません。聖書が語る死、命、救い、そして復活について語り尽したと思うからです。しかし、皆さんと一緒に日常を生きている牧師として、神学的かつ哲学的な話ばかりすることでは、何だか物足りないと思います。もっと実践的な話をして説教を終わりたいです。イエスによって死に勝ち抜き、命を得て終わりの日に復活するという話は本当に重要な教えです。しかし、それだけで満足して生きることには、果たしてどういう意味があるでしょうか。日本キリスト教会の大信仰問答には、復活についてのこういう箇所があります。「問97:イエス・キリストの復活を通して、この世に何がもたらされましたか。答:罪によって死んだ者を生かし、始祖の堕落によってまったく損なわれてしまった神のかたちを、再び創造されることによって、新しい時代を来たらせてくださいました。」私はここで「新しい時代を来たらせてくださる」という表現に注目しました。イエス·キリストの復活がこの世に新しい時代をもたらすということです。つまり、イエスの復活は、死後に私たちに与えられる新しい命と幸いだけを意味するものではないということです。聖書と説教を通して、復活について学び信じるようになったら、私たちは必ずその聖書の言葉を自分の人生に適用し、主のお導きに従って実践して生きるべきです。そういうわけで、今日の説教の題も、命と救いと復活だけで終わるのではなく、「日常においての復活を考える」なのです。 イエス·キリストへの信仰によって死の恐怖から逃れ、命を得て、復活の希望を抱くことになった者なら、この世の普通の人たちのようにただ自分の欲望にだけ従って生きてはなりません。イエス·キリストが私たちを死の恐怖から救ってくださり、私たちに命の喜びを与えてくださり、私たちに復活の希望を与えてくださったように、私たちはイエス·キリストの手と足となって、この世で愛を実践し、イエスの復活による新しい時代がこの世で成し遂げられるように、キリストの民にふさわしく生きていくべきです。イエス·キリストの到来を告げ知らせた洗礼者ヨハネは、このように語りました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3:8,11)彼は実践的な信仰を強調したのです。真の復活のある人生は、ただ復活を信じることで終わりません。 御言葉を通して、私たちにくださる聖霊のお導きをよくわきまえ、神と人を愛し、キリストにならって主の忠実なしもべとして生きていくのです。キリストによる復活を信じる人なら、キリストによる復活の命にふさわしい人生を生きていくべきなのです。私はそのような生き方がまさに復活のある人生の真の意味ではないかと思います。 締め括り 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:1-3)神は旧約の民であったイスラエルに、起きて光を放てと命じられました。つまり、主の民にふさわしく正しく生きることを命じられたということです。この命令は、今を生きている私たちにも同様に当てはまる言葉です。特に、旧約のイスラエルと比べものにならないほど、キリストによって恵まれた私たちは、さらに光を放って生きるべきです。イエスの民として神と隣人を愛し、善を追い求め、悪を退けることで、私たちは一生を通して復活の権能を輝かして生きるべきです。この復活節の礼拝が、そういう人生を誓う機会になりますようにしたいものです。主の復活を喜び、復活のある人生を誓って生きる皆さんに三位一体なる神の豊かな愛と恵みが満ち溢れますように。主の祝福を祈り願います。