主イエスの苦難を記念して。

ヨエル書2章12-14節(旧1423頁) マタイによる福音書26章17-30節(新52頁) 前置き 今年の復活節も、もう2週間後になっています。そして今日はレント、つまり四旬節の5週間目です。私たちは、毎年の四旬節と復活節を通して、イエス•キリストの苦難と復活と救いを記念します。主イエスが私たちのために苦難を受けられたということは、どういう意味でしょうか? また、主の復活は何を意味するでしょうか。そして、私たちのための救いとは何でしょうか? 復活については復活節記念礼拝を、救いについては今後の多くの説教を通して、また考えてみる予定ですので、今日は主イエスの苦難と、その苦難を記念するいくつかの理由について話してみたいと思います。付け加えて、私たちが今日、あずかろうとしている聖餐の意味についても部分的にでも考えてみましょう。   1.主の時を記念する。 「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうかと言った。イエスは言われた。都のあの人のところに行ってこう言いなさい。先生が、わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をすると言っています。」(17-18)過越祭と除酵祭は出エジプト記の有名な物語である、神の十の災いの中の「長子の裁き」(エジプトへの神の最後の災い)からイスラエルだけが救われたことを記念する旧約の祭りです。 過越祭と除酵祭はイスラエルの暦においてのニサンの月(現代の3、4月頃)の14日目と15日目の日のことで、連続している2日間です。イスラエルは一日が始まる時が、前の日の日の入りからであると見なしていたため、過越祭の夕方は、即ち除酵祭の始まりを意味していました。そいうわけで、人々は過越祭を除酵祭の一日目のように考える傾向があったと言われます。「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。」(出12:7-8)人々は、過越祭に生贄の羊をほふって、その血を入り口の二本の柱と鴨居に塗って神の裁きを免れ、その肉は日没後、除酵祭になった時、酵母のないパンと一緒に食べました。我々の主であるイエスは、まるでこの過越祭の羊の血と肉と除酵祭の酵母のないパンのように、主を信じる民の救いのためにご自分のすべてを与えてくださった方です。我々が聖餐を大切に守る理由も、このような主の苦難と救いを聖餐を通して記念するためです。 イエスは、この過越祭が終わって除酵祭が始まる時、ご自分のすべてをくださるために弟子たちと最後の晩餐を持たれました。その前に主は「わたしの時が近づいた。」と言われました。ここで言う「時」とは、単なる物理的な時間を意味することではありません。ギリシャ語には2つの時間に関する概念があります。それはクロノスとカイロスです。クロノスとは、私たちが意識している物理的な時間を意味します。本日の礼拝は10時15分から始まっており、11時20分頃に終わる予定です。このような単純な意味としての時間が、クロノスです。カイロスとは、例えば皆さんが大切な人に出会った時など、人生にあって特別な意味の時間、つまり決定的な瞬間としての時間を意味します。今日、主イエスが言われた「私の時」とは、どの時間を意味するでしょうか? それはカイロスです。このカイロスは消滅する時間ではありません。「今は午前10時半だが、次は夜10時半である」というような流れる時間ではなく、人が恋人や配偶者や子供と初めて出会った時に感じた特別な記憶が、何十年後にも特別な記憶として残っているように、カイロスは変わらない意味を持つ特別な時間なのです。神はご自分の決定的かつ特別なカイロスのために主イエスをお遣わしになりました。そして、神のカイロスが到来した時、イエスを十字架の生け贄としてくださり、ご自分の民、つまり私たちを救ってくださったのです。 イエスは神がお定めになった、そのカイロスの時間がやってきた時、人類の罪を赦してくださるためにご自分の尊い命を進んで捧げてくださいました。これによりイエスは、私たちの過去と現在と未来の、すべての時間に存在する、恐ろしい罪をご自分の時間、カイロスの中で解決してくださいました。そして、主のカイロスは人間のそれとは違い、決して変わらない絶対的な時間ですので、今後も永遠に変わりません。だから、主イエスの苦難による、私たちの救いは永遠に変わらないものです。イエスは2000年前におられた古代の方であり、私たちは現代を生きる現代人であると、かけ離れて感じられると思います。しかし、イエスはそのカイロスという絶対的に変わらない決定的な時間の中で私たちの救いを守り、保たせてくださいます。ですので、主は終わりの日に私たちが主によって復活させられ、神と永遠に生きる時まで、私たちを絶対に諦められず導いてくださるでしょう。主を信じる私たちは、すでにイエス・キリストの絶対的かつ変わらない永遠な時間であるカイロスの中で生きているからです。四旬節はこのような主の時間を記念する期間でもあります。主の苦難によって、私たちが主の時間の中で生きるようになったということ、そのために私たちの肉体が死んでも、私たちの存在は主の懐にあり、最後の日にまた生き返るだろうということ。四旬節の期間、私たちはその永遠の命を与えてくださったキリストと、その方のカイロスを記念するべきです。 2.「イエスが主であることを記念する。」 「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。弟子たちは非常に心を痛めて、主よ、まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた。 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、先生、まさかわたしのことではと言うと、イエスは言われた。それはあなたの言ったことだ。」(21-25) 主イエスは過越祭の食事の途中、弟子の中の誰かがご自分を裏切るだろうと言われました。その時、弟子たちは「主よ」という表現をしました。しかし、そのうちのイスカリオテのユダだけは「先生」と表現しています。私たちは「主」という表現を、まるで口癖のように何気なく使用したりします。しかし、主と先生とは全く違う重さを持っています。主とは「キュリオス」というギリシャ語で「皇帝、王、絶対者」の代名詞として使う呼称です。しかし、先生はヘブライ語で「ラビ」です。皆さんは私をキム先生とは呼んでおられますが、私を「主なるキムさま」とは呼ばれません。当たり前でしょう。私は聖書を教える牧師ではありますが、人を救う主には絶対になれないからです。主と先生の違いはこれほど、明白なのです。多くの人々がイエス•キリストを知ってはいますが、主に主として仕える人は少ないのです。私たちは、主イエスに「私の主」として仕えているでしょうか? それとも「私の先生」として仕えているでしょうか。イエスを適当に偉大な先生として扱う私たちではなく、私たちのすべてとも代えることの出来ない、かけがえのない大切な存在として、私の救い主、私の王、私の主としてイエスを記念する四旬節の期間にしたいものです。 3.霊と肉の救い主であることを記念する。 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26-28) 私たちは、なぜ聖餐の杯とパンを「食べる」のでしょうか? キリスト教は霊的な宗教であり、ヨハネの福音書によると神は霊ではありませんか。しかし、神は霊と肉と両方とも創造された方です。神がこの世を創造なさった時、主は世の中の秩序を正されると共に肉体を持った物質的な存在をも創造されました。そして、その最後には、人間という肉体を持った存在を造られたのです。そして神はその被造物すべてをご覧になって善しとされました。我々は、神の御手によって霊と肉を持った存在として生まれました。そういうわけで、神は私たちの肉体も大事にされます。たとえ、人間の罪によって人間の肉体が欲望を追い求めたり、悪に流れやすくなったりしても、神はご自分が、その御手で造られた肉を大事にされるのです。もちろん、その前提は、主に赦され、罪から解放された存在としての肉のことです。 その罪を赦してくださるために、神は自ら肉となって、キリストとして来てくださり、その肉体を持ったキリストを通して、肉体を持って生まれた私たちを罪から解放してくださったのです。主が私たちに「食べる」という行為を通して、主イエスを記念させられる理由も、このような理由があるからです。神は霊だけを大事にし、肉は不浄に扱われる方ではありません。霊と肉、両方とも主に創造されたからこそ、神は私たちの霊肉ともに大事にされるのです。私たちは、食べる行為である聖餐を通して、神が私たちの霊だけをお救いになった方ではなく、肉体をもお救いになった方であることが分かり、信じるようになるのです。神は私たちのすべてを主イエスを通して救ってくださったのです。ですから、私たちはイエスを霊的な救い主としてのみならず、肉の救い主であることも信じるべきです。つまり、霊と肉を含む私たちの人生のすべてにおいて、主が愛し、導き、救いを望んでおられることを忘れないようにしたいものです。主に救われた私たちは、死後に楽園に入ることだけを考えてはなりません。肉体を持って生きている今この瞬間も、私たちは主と共に歩む神の国を生きていることを肝に銘じて生きるべきです。だからこそ、四旬節を通して、今、私たちの日常について顧みる時間を持つべきでしょう。私たちの霊と肉は、いずれも主によって救われたからです。 締め括り 「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(29) 時間の関係上、やや飛躍的な説明になってしまうでしょうが、主イエスがおっしゃった29節の言葉の意味は「これから私はあなたたちの救いのために死ぬ。」と解釈が出来ます。主イエスは私たちの罪を赦し、私たちを新たにしてくださるために死んだお方です。そして、主はぶどうの木に象徴される、まことの喜びの中で私たちを復活させ、永遠に治めてくださるでしょう。この四旬節の期間が、その主の苦難と救いを憶える時間であることを願います。「主は言われる。今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12-13)この期間を通して形式的な宗教行為から脱し、真に自分自身を振り返って、罪を痛感し、悔い改め、主イエスの苦難と救いを黙想する時間としたいものです。主の苦難があったからこそ、我々の救いもあるという、変わらぬ真理を憶えて生きたいと思います。神の恵みがレントを通して、主を愛する民の上に豊かにありますように。