創世記30章25-43節(旧50頁)
エフェソの信徒への手紙1章11-12節(新352頁)
1.今、私たちに与えられた状況の意味について。
伯父ラバンのためにヤコブは長い歳月の間、働きました。ヤコブは、まるで無料奉仕のような労働を20年もしなければなりませんでした。ヤコブは当初、ラケルをめとるために7年間の働きを約束しましたが、伯父ラバンは結婚の当日に、次女ラケルの代わりに長女レアをすり替えてしまいました。結局レアと結婚するようになったヤコブは再びラケルをめとるために、さらに7年間を働くことになりました。そして31章41節によると、ヤコブは2人の妻だけでなく、ラバンの羊のためにも、6年間を働いたと記してあります。しかし、気の毒にも彼に与えられた物質的な財産は、とても少なくみすぼらしかったのです。兄の長子の祝福を横取りしたヤコブの人生は祝福というより労働による疲れと適切な報酬のない呪いのような不条理なものになっていました。しかし、それでも彼は一生懸命働きました。彼は伯父にだまされ、家族の問題で思い煩い、正当な報酬が得られませんでしたが、それでも彼は自分に任された務めに最善を尽くして生きたのです。その結果、「わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。」(創世記30:30)ヤコブの労働により彼の伯父ラバンは栄えていきました。 ヤコブの足がいたるあらゆるところに神が祝福を及ぼしてくださり、その祝福がラバンにも行き渡ったわけです。
ヤコブへのラバンの行動は、明らかに指摘されるべき悪行でした。しかし、そんな不条理の中でのヤコブの人生にも、意味がありました。彼は責任を負わず、家族を捨てて逃げることも出来るはずでしたが、最後まで家族を守り、伯父との不条理な約束を守り、伯父の財産が豊かになるまで仕えました。彼は自分の状況に屈せず、任された務めをやり遂げて生きてきたのです。その結果はヤコブを通した神様の祝福でした。この本文を読みつつ、宗教改革者ジャン·カルヴァンの職業召命観という概念を思い出しました。神は、主の民それぞれがあらゆる活動に携わる中で、自分の召命を記憶し、神からの召命を尊重して生きることを命じられる方です。そして、私は職業だけでなく、私たちの人生のすべてにおいて神からの召命があると思います。つまり、今、私たちに託された状況は、主が私たちにくださった召命の一部だということです。確かに、ヤコブの20年は疲れと不条理の時間でしたが、主がヤコブにその状況を許してくださったことには理由があるのです。不当に感じられたその年月の間、ヤコブは自分の家を治める知恵を得、後を引き継ぐ子供たちが生まれ育ち、生まれ故郷にはヤコブの場所が設けられました。そして何よりも、自分のことだけを考えたヤコブが、もはや一種族を治める族長にふさわしく成長しました。今、私たちに許された全ての状況は神からの召命の一部です。私たちに与えられた現在の人生には神のご計画と御心が必ずあるのです。そして、主はこの我らの人生を通して、私たちを一層正しく導いてくださるでしょう。
2.この世の執拗さ。
したがって、私たちは今現在、自分の状況がうまく行かなくても、盲目的に不満を吐き出したり、すべてを諦めたりしてはならないのです。たとえ悪い状況だとしても、きっと神の御心と御導きがあるということを忘れてはいけません。今、皆さんの状況はいかがでしょうか? もしかして、到底納得できない状況下にいる方はおられませんか? しかし、いくら辛い状況の中だと言っても、それも神からの召命の一部であることを憶えて生きたいと思います。不条理や困難に無条件に我慢せよというわけではありません。不条理や困難の中でも自分に何ができるのか、また神が何を計画しておられるのかを顧み、すべてが主からの召命の一部であることを認識し、絶望せず主に尋ねつつ祈りの時間を持って乗り切っていくことを願いたいです。さて、伯父ラバンの不条理の中で生きてきたヤコブに、とうとう神の時が訪れました。「ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」(25-26) ヤコブがラバンとの約束を全うし、ついに生まれ故郷に帰ることを決心したということです。まだ末っ子のベニヤミンが生まれる前ですが、イスラエル民族を成す、ほとんどの息子たちがある程度成長し、ヤコブ自身にも自分の一族を導けるほどの知識と経験が出来たからです。
そして何よりも、神がアブラハムとイサクに与えてくださったカナンの約束の土地が、いまや神からいただいた自分の居場所であることに気が付いたからです。25節の「生まれ故郷」という表現の原文の意味は「自分が立っているべき場所」つまり自分が受け継いだ土地という意味です。異郷での不条理な20年の人生が、ヤコブに自分のまことの居場所を教えてくれたわけです。人の苦難と逆境はその人の居場所を示す人生の表示板なのです。苦難があるからこそ私たちの居場所である主のふところを憶えることが出来るのです。しかし、ラバンは優しい言葉で彼を手なずけました。「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ。」(27) ラバンは偶像を崇拝する者でした。彼は異邦の神の前で占いをし、その結果、ヤコブの主なる神が自分に祝福をくださったことに気づきました。しかし、彼は異邦の神を離れませんでした。ヤコブの主なる神と自分の異邦の神が別々の存在であり、ラバン自らが主なる神に属した者ではないことを示したわけです。先日、県庁の宗教係から連絡が来ました。宗教法人の代表者名義変更の件でしたが、牧師、教派など教会関係に馴染んでいないようでした。日本ではキリスト教はやや異質的な宗教であり、時には怪しく思われる時もあるようです。ヤコブもまたラバンの家でそんな存在でした。
もうこれ以上、ラバンの家はヤコブの家族がいるべき場所ではありませんでした。価値観が違い、ヤコブが受け継げない土地でした。それに気づいたヤコブに残されたのは、神が約束なさった自分の所、つまり約束の土地に帰ることしかありませんでした。しかし、ラバンはヤコブが離れないように口車に乗せて懐柔したのです。「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」(28)ラバンはヤコブの労働力を再び搾取するため、自分の貪欲のためにヤコブを送り出そうとしませんでした。「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」という言葉も、懐柔のための偽りに過ぎなかったと、何人かの学者たちは解釈しています。つまり、ヤコブはこれ以上ラバンの家にいることはできません。今、彼は断固としてラバンの懐柔を断ち切り、神が約束してくださった自分の土地に帰らなければなりません。私たちが生きているこの世も同様です。神への信仰のために新しい人生を生きようと誓う時、新約聖書ヨハネの手紙Ⅰの言葉のように「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ手紙一2:16)が私たちの回心を阻みます。しかし、私たちが神のもとに帰っていこうと悟り決めた時、確実に向き直って神のもとに進むべきです。世の甘い誘惑には新しい人生がないからです。帰らなければ、残るのはこれまでと同じ罪人としての憐れな人生にすぎないからです。
3.一方的な神の恵み
29節から43節までの物語は、時間の関係上、手短に説明させていただきます。ラバンが「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と言った時、ヤコブは一つの提案をしました。それはラバンの家畜の中で、ぶちとまだら、黒みがかった家畜(以下、色のある家畜)を自分のものにしたいとのことでした。すると、けちくさいラバンは、表ではよろしいと言いましたが、その家畜をすべて息子たちの手に任せ、遠くに送ってしまいました。ラバンの貪欲さが垣間見える場面です。それでもヤコブは失望せず、白い羊から色のある羊が生まれるようにし、結局は豊かになりました。ところで、面白いことは、ヤコブが、白い羊と山羊が水を飲む時、皮をはいだ木の枝を彼らに見せると、彼らが色のある子を産むようになったということです。実は白い家畜と色のある家畜の違いは、遺伝学で言われる優性と劣性の違いから生まれる事柄です。白い家畜は優性遺伝子が強いと言われ、色のある家畜は劣性遺伝子が強いと言われます。しかし、白い家畜にも劣性遺伝子がありえますし、色のある家畜にも優性遺伝子がありえますので、白い家畜からも十分色のある子が生まれることが出来るのです。こういう概念は西暦19世紀に入ってから明らかになりましたので、ヤコブが生きていた古代には、家畜の親の色によって子の色が決まると信じていたのです。そのため本文に出てくる皮をはいだ木の枝は、家畜に何の影響も及ぼすことが出来ません。ただ、ヤコブの願いが込められた象徴的な物ではなかったでしょうか。
とにかく重要なのは、白い家畜の中から数多くの色のある家畜が生まれたということです。神が古代人が認識できなかった羊や山羊の遺伝子を用いられて、ヤコブに多くの羊や山羊を与えてくださったのです。「こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにラクダやロバなどを持つようになった。」(43) このことを通して、ヤコブはラバンにもらえなかった20年間の報酬を、神の介入によって、満ちあふれるほど受け取ることができました。人間の常識と理解を超える神の恵みが、ヤコブという存在を貧しい労働者から、一族を導くに値する族長として格上げさせたのです。ヤコブはラバンの家に来て途方もない苦労をしました。しかし、その経験を通して彼は多くのことを学び得ることができました。家族、子供、財物ができ、自分の部族を導くリーダーシップを養うことができました。そして、一番大事なことは、自分が神の約束の相続人であり、自分に必ず帰るべきところがあるということをしみじみと痛感することになったということです。このすべてが20年以上、ヤコブの人生を見守ってこられた主なる神の一方的な恵みだったのです。つまり、ようやくヤコブは神の祝福の実現を見届けることになったということです。
締め括り
「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) 今日の新約の本文のように、神はキリストを通して、その御心のままに一方的な恵みで、ご自分の民を導いていかれる方なのです。どんな苦難がご自分の民の生の中にあっても、主なる神は必ず民を見守り、結局は一番正しい道に導いてくださる方なのです。今日、私たちが分かち合った点は3つでした。第一、いかなる状況下でも、今の私たちの人生が神からの召命の一部であることを認め、神の御導きに信頼して生きるべきであること。第二、この世からの執拗な罪の誘惑と懐柔の中でも神からの召命を悟った主の民は、断固として神の方に向き直っていくべきということ。 第三、私たちの人生のすべてが、神の一方的なご恩寵のもとで、神の御導きによって進められているということ。それらの三つを忘れないようにしましょう。これからもヤコブは、多くの失敗を経て成長していきます。私たちの人生にも失敗があるものです。しかし、明らかなことは何があっても、神は私たちといつも一緒におられ、私たちを導いてくださるということです。今日の説教の題のように、主は私たちをまことの故郷、主のふところに導いてくださるでしょう。その神に信頼し、主を憶えて生きる私たちになっていきましょう。主なる神の豊かな恵みを祈り願います。