目を覚ましなさい。
ヨナ書4章10-11節(旧1448頁) マルコによる福音書8章11-26節(新76頁) 前置き 前回の説教では、イエスが異邦の地域での最後の奇跡として、七つのパンと小さい魚少しとをもって4000人に食べ物を与えてくださった出来事について話しました。6章での5000人に食べ物をくださった奇跡がユダヤ人への恵みであれば、8章での4000人に食べ物をくださった奇跡はユダヤ人ではなく、異邦人への恵みでありました。これを通して、私たちは主がユダヤ人だけでなく異邦人をも、差別なく愛しておられる方であることが分かりました。イエスはすでに選ばれた者だけの主ではなく、この世の全ての存在の主でいらっしゃいます。そして、主はすべての存在を公平に愛してくださる方です。主のからだなる教会が教会員同士だけでなく、周りの未信者をも愛し、仕えるべき理由は、まさにこの理由があるためです。今日の本文は、4000人に食べ物をくださった出来事の後、ガリラヤに戻ってこられたイエスが、弟子たちに霊的な目を覚ますことを促される物語です。今日の本文を通して、主イエスは弟子たちに何を教えてくださるでしょうか。 共にみ言葉に聞きましょう。 1.今の時代のファリサイ派は誰か? 「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(11-12)イエスは異邦の地域からガリラヤに戻って来られました。イエスが到着された時、イエスを待っている者たちはファリサイ派の人々でした。彼らは、すでに前からイエスとしっくりいっていませんでした。 彼らにとってイエスはユダヤ教に逆らう異端者でした。イエスがユダヤ教が禁ずる不浄な者たちと付き合い、弟子たちに伝統的なユダヤ教の儀式である断食をさせず、安息日に働き、昔の人の言い伝えを守っておられなかったからです。そして、今回はユダヤ人が嫌がる異邦人4000人に食べ物を与えられました。そのため、ファリサイ派の人々はイエスを律法を乱す者と見なしていました。そういうわけで、彼らはイエスに「あなたが本当に律法的に正しい者なら、天からの証拠を見せなさい。」と要求したわけです。しかし、彼らが嫌がっているイエスの行為は、律法の大事な価値である愛の実践に基づくことでした。イエスは誰よりも律法に熱心だったのです。その反面、ファリサイ派の人々は愛の実践には関心がなく、ただ自分たちの宗教的な儀式を重んじるだけでした。 ここで「天からのしるし」とは、「神からの証拠」を婉曲に表現した言葉です。伝統的にユダヤ人たちは、直接、神の御名を口にしません。聖なる神の御名を罪深い人間が口にすることが神への無礼だと考えているからです。しかし、神の証拠を求めること自体が、神へのさらに深刻な無礼なのです。宗教儀式として「無礼を働かないために神の御名を呼ばないこと」と、「神に認められた正しい人を自分が認めたくないから、神の証拠を求めること」のうちで、どちらが無礼なのでしょうか? ユダヤ人たちは自分たちの宗教儀式はよく守っていましたが、実質的な神の御心である愛の実践を行っておられるイエスのことは理解していませんでした。信仰のある者たちは、イエスが神からの方であることに気付いていました。イエスの言葉と行為が、神から来られたことの証拠でした。しかし、ファリサイ派の人々は自分たちの伝統と基準だけを重んじ、主イエスが神の人であることを見分けられませんでした。私たちは聖書を読みつつ、ついファリサイ派を批判しがちです。また、私たちは彼らとは違うと思うかもしれません。しかし、目に見える宗教行為や教理などを強調するだけで、神の御心に従わない人は、ファリサイ派の人々と異なるところがないでしょう。宗教的、神学的なことだけを強調し、人生の中で少しも愛の実践がない、知識と行為がかけ離れた人生、それこそが、まさにファリサイ派的な人生なのです。 2.ヨナの物語 今日の本文でイエスは、このようなファリサイ派の人々にいかなるしるしも見せてくださいませんでした。それで、今日の本文の平行本文であるマタイによる福音書12章を参照してみました。「イエスはお答えになった。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ12:39) ここでヨナのしるしについて考えてみたいと思います。マタイによる福音書の12章40,41節に、ヨナについての二つの話がすでに記してありますが、今、私が話すのは、それらとは別の話です。預言者ヨナは旧約聖書ヨナ書の主人公でありますが、登場するのはヨナ書のみではありません。「イスラエルの神、主が、…預言者…ヨナを通して告げられた言葉のとおり、…イスラエルの領域を回復した。」(列王記下14:25)列王記下にもヨナは預言者として登場しています。ヨナは旧約のイスラエル民族の預言者として、イスラエルの復興を熱望する愛国者であり、民族主義者でした。ところで神は彼に、当時の強大国であったアッシリアの首都ニネベに行き、神の御裁きを宣べ伝え、悔い改めさせることを命じられました。しかし、愛国者であったヨナは、敵国のアッシリアにまで御憐みを示される神が、到底理解できませんでした。 彼は「イスラエルの神が、なぜ敵国のアッシリアまで憐れんでおられるのだろうか?」と思ったのです。そこで彼は船に乗って反対方向のタルシシュに逃げました。その途中、彼の船は台風にあい、結局、ヨナは巨大な魚に呑み込まれてしまいました。 その後、ヨナは神によって劇的に救われ、ニネベにたどり着きました。ヨナは結局、仕方なく神の御裁きをニネベの人々に宣べ伝えることになったのです。ところが、意外とニネベの人々は素直に、しかも徹底的に悔い改めました。実は、ヨナは敵国アッシリアが滅びることを願っていました。しかし、神は、あのアッシリアも愛しておられたのです。それでもヨナはアッシリアの滅びを望んで、ニネベの東側の、とうごまの木の生い茂った場所からニネベを眺めました。その夜、神は虫でとうごまの木を枯らし、翌日、日差しと暑い風に疲れたヨナは神に怒りました。すると、神はお答になりました。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:10-11)ひょっとしたら、このようなヨナの姿がイエスの当時のファリサイ派の人々の姿ではなかったでしょうか? 神の御言葉を研究し、敬虔な宗教人として生きていると言うものの、自分の価値基準に妨げられて、神の御心が聞き取れず、御言葉通りに生きられず、宗教儀式的な情熱だけに閉じ籠っている人々。主イエスがおっしゃったヨナのしるしという表現には、こういう意味もあったのではないかと考えてみました。 3.自分中心から逃れ、神の御心に目を覚ましなさい。 再びマルコによる福音書に戻って、ファリサイ派の人々と論争されたイエスは、その場を離れて弟子たちに次のように戒められました。 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)すると、弟子たちは自分たちにはパンがないと論じ合っていました。イエスはファリサイ派の人々と当時の指導者であったヘロデの悪、つまり主の御心である律法の精神から離れ、ただ、自分の見た目だけ、自分の権力や欲望だけを大事にし、他人を愛しない悪い姿をパン種にたとえて仰いましたが、弟子たちは、 主の意図に気付くことが出来ませんでした。弟子たちはイエスの御心が分からず、異邦人を嫌がり、ファリサイ派の人々の生き方を踏襲していました。実際、イエスの弟子というタイトルを持っていたにもかかわらず、彼らはイエスよりもファリサイ派やヘロデの価値観に近い姿でした。つまり、イエスはご自分の弟子たちがファリサイ派の人々とヘロデのような自己中心的な見方から脱して、主の御心を学び、主のように律法の精神である愛の実践を為遂げる存在になることを願っておられたのです。その後、イエスは、ある盲人に出会い、彼の目を癒してくださいました。主と一緒にいるにもかかわらず、まだファリサイ派の人々のような霊的な盲人である弟子たちの前で、主はまさに「霊的な目を覚ましなさい」というしるしとして、盲人の目を治してくださったのではないでしょうか? 「5000人に食べ物を与えてくださった主は、ユダヤ人を愛される方でした。そして、4000人に食べ物を与えてくださった主は、ユダヤ人だけでなく異邦人も愛される方なのです。ユダヤ人か異邦人かを問わず、差別なく愛を実践することが、主イエスの御心であり、律法の真の精神であるのです。 もし、私たちが自分の好きな存在だけを好み、愛して生きるなら、私たちもヨナ、ファリサイ派、ヘロデ、今日の本文の弟子たちとそんなに違いの無い者になるかもしれません。我々は霊的な目を覚まして、イエスの心と業に倣って生きていくべきです。 聖書をたくさん読むからといって、祈りを長く頻繁にするからといって、膨大な神学的な知識を持っているからといって、神の御心に適っていると思わないようにしましょう。隣国の韓国の教会には聖書を100回も読み、一日に数時間を祈っていると威張る牧師たちが少なくありません。しかし、彼らは韓国社会で認められず、教会内部の権力を貪り、他の宗教に配慮せず、かえって嫌悪したりしています。聖書をただ一回読んでも、そこに記してある律法の精神とイエスの御心に倣い、神と隣人を私自身のように愛し、神の御旨を追い求めなければ、そのすべての(聖書の)読書と祈りと宗教儀式は無駄になるだけです。私たち自身を顧み、ますます実践していく生き方が大事です。我々の中に弟子たちの愚かさ、ヨナの憎しみ、ファリサイ派のパン種はありませんでしょうか。 締め括り 志免教会に来てから3年間、数え切れないほど、神と隣人への愛を力強く説教してきました。しかし、時には、自分自身に愛以外に説教の素材が足りないのだろうかと問い掛けたりします。しかし、不思議なことに、聖書を読めば読むほど、一番多く目に付くのは、この愛の実践なのです。この間、水曜祈祷会で聖書を読む時も、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(コリントⅠ13:1-3)という言葉が出て来ました。おそらく、これからも私は愛の実践について、絶えず説教していくでしょう。宗教儀式だけに気を遣い、頭でのみ考え込んで、実践のない人生はファリサイ派のパン種のような人生です。主はそこから脱して、本当に主の御心に目を覚ます人生を望んでおられます。愛を実践して生きましょう。御言葉によって神の愛を悟り、悟った愛を実践して生きる時に、神は私たちを喜び、祝福してくださるでしょう。これからも変わることなく、愛を実践する共同体「志免教会」として生きていくことを心から祈り願います。