創世記26章1-25節(旧40頁)
ローマの信徒への手紙8章28節(新285頁)
前置き
今日からは、また創世記とマルコによる福音書の言葉に戻り、神の御言葉について学んでいきたいと思います。前の25章の主な内容は、アブラハムが神に召されたこと、イサクの妻リベカが双子の息子たちを産んだこと、イサクの息子、エサウとヤコブの間に起こった長子の特権をめぐっての物語などでした。今日は26章に記されたイサクの歩みから、いくつかの教訓を得たいと思います。26章で見られるイサクの人生は、まるで過去のアブラハムの人生のように、失敗と間違いの歩みでした。しかし、神は変わらずイサクの人生を導いていかれました。今日はイサクの歩みの様々な側面から、信仰者の人生について探ってみたいと思います。
1. アブラハムと同様な間違いを犯すイサク – エジプト
私たちは今日の本文を通じて、過去、アブラハムが犯した間違いを、イサクも同じく犯していることを見つけることになります。1つ目は、イサクも生前のアブラハムのように、エジプトに行こうとしていたということです。「アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。そのとき、主がイサクに現れて言われた。エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」(創世記26:1-2)「エジプトに行く」という言葉は、どういう意味でしょうか。1節では、イサクが飢饉のゆえにゲラルに行ったと記してあります。おそらくイサクが住んでいたベエル・ラハイ・ロイ(24:62)は岩石砂漠の地域だったため、飢饉がさらに酷かったはずです。だから、イサクはその地域で最も栄えた町であった、ゲラルに行ったわけでしょう。ゲラルは、ベエル・ラハイ・ロイに比べて食糧が得やすい場所であり、何よりもエジプトに行きやすい地域だったからです。おそらくイサクはゲラルを経由してエジプトに向かおうとしていたはずです。イサクの時代において飢饉とは、現代の飢饉とは比べ物にならないほどの深刻な災いでした。現代は、比較的に飢饉への備えがしっかりされており、また、ことがうまくいかなかったら、同盟国からの援助などで持ちこたえることが出来るでしょう。しかし、イサクの時代の飢饉は、一つの国や民族が滅びることもあり得る恐ろしい災厄でした。
そのようなイサクの時代に、飢饉から比較的に自由な地域があったのですが、それがまさにエジプトでした。エジプトをつらぬくナイル川は、乾いたエジプトの砂漠地域を流れていますが、その水源は、アフリカ中南部の熱帯雨林地域です。ナイル川の長さは6700キロメートルで、3300キロメートルの日本列島より2倍の長さを誇ります。そういうわけで、エジプト地域がどんなに乾いても、ナイル川の上流には継続的に雨が降るため、ナイル川が渇くことは、ほとんどなかったのです。ということは、エジプトには多くの食糧があったという意味でしょう。エジプトは物質的に豊かで、宗教的にも偶像崇拝が盛んな地域でした。アブラハムとイサクがエジプトに下って行こうとした理由も、この豊かさと関係があるでしょう。目に見えず予測できない神のお助けよりは、顕かに目に見えるエジプトの豊かさの方が、より明確な正解だと考えたからです。神はご自分の民であるアブラハムとイサクが艱難の時に、何よりも神の助けを求めて生きることを望んでおられました。人間の予測可能な環境で神無しに暮すのではなく、困難な状況に直面しても、神と共に乗り越えて生きることを望んでおられたのです。アブラハムとイサクが、エジプトへ行こうとした理由は、つまり「神がなくても生きられる。」という無神論的な思想に基づいた発想があったからでしょう。それが人間の本能だからです。
2. アブラハムと同様な間違いを犯すイサク – 妻を妹だと騙す。
二つ目のイサクの間違いは、アブラハムと同じように妻を妹だと言ったことでした。「そこで、イサクはゲラルに住んだ。その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。」(創世記26:6-7)創世記12章と20章でアブラハムは、すでに2度も妻を妹だと言うことで、当時の権力者たちを騙そうとしました。アブラハムは自分が殺されないために、神によって結ばれた妻との関係を大事にしなかったのです。ところで、これはサラにとって大きな裏切りでしたが、神に対しても大きな罪でした。神はアブラハムとサラの間に生まれる子だけを相続人にしようとなさいました。つまり、アブラハムに限らず、サラも神の約束の対象だったということです。なのに、アブラハムは身勝手にサラを他人に渡してしまいました。そして、残念ながら、息子イサクもそのような悪いことを犯してしまったのです。すでにエサウとヤコブといった息子たちがいたのに、イサクは結婚関係を騙そうとしていました。それは妻のリベカにも裏切りであり、リベカの息子ヤコブを相続人に立てようとなさった神のご計画を無視するイサクの深刻な罪でもありました。
結婚は神からの賜物です。人間にとっては、「自分が好きだったから、今の配偶者を選んだ。」と思うかもしれませんが、神にしてみれば「創世の前からお定めくださった大切な絆」なのです。なのに、この愚かなイサクは自分の命のために、その結婚の関係を破ろうとしていたのです。イサクの結婚は彼の意志によるものではなく、あくまでも神のご計画によるものです。それにもかかわらず、イサクはリベカとの大切な結婚関係を、あまりにも軽んじていたのです。イサクの父アブラハムは一生、間違いを繰り返して生きました。主がいらっしゃったからこそアブラハムは信仰者として生きることが出来たのです。ところで、息子のイサクも父と同じく間違いを繰り返していました。ここから私たちは人間が持っている罪の本性を見つけることが出来ます。人間は決して罪から自由になることが出来ない存在です。キリスト者もそれから自由ではありません。親が立派な信仰者だからといって、子どもも同じく立派な信仰者になるわけではありません。親も子どもも根本的には、罪を持って生まれる罪人なのです。クリスチャンホーム生まれだからといって、未信者の家庭で生まれた人にまさるとは言えません。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12)実にパウロの言葉通りです。それが人間の本性だからです。
3.信仰者の人生
「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創世記26:4)それでも、神はイサクを祝福してくださいました。いくら子どもたちが親に逆らい、好き勝手に振舞うといっても、子どもと縁を切る親はいません。もし、そういう人がいるとしたら、親としての資格がない者でしょう。神もご自分の民を絶対に諦められません。主の民が過去、いかなる罪や間違いを犯したとしても、偽りのない真実な悔い改めさえあれば、神は、それを聞き入れ、赦し、正しい道を示し、助けて、民が人生の道を走り抜けるように最後まで力を与えてくださいます。神は真の父だからです。したがって神の民は過度な罪悪感を抱いて生きてはなりません。適度な罪悪感は必要でしょうが、悔い改めと罪悪感は別のものです。悔い改めは自分の生き方を省み、神と隣人に赦しを求め、過去の間違いから向き直って再び正しい道に進むことです。しかし、過度な罪悪感は神のお赦しを信じずに、自分の判断で自らを裁くことです。判断と裁きは、ひとえに神の事柄なのに、罪悪感は神の事柄を奪おうとする行為なのです。罪悪感も一種の偶像崇拝なのです。「自分自身という神を作り、神より上に置く。」それが過度な罪悪感の根源です。 26章の記録上に、罪悪感で止まっているイサクの姿は見当たりません。ただ神の導きに従って黙々と生きていくだけです。
イサクの人生に失敗と間違いがありましたが、それでも彼は信仰者として生きつづけました。12節から25節の内容で、イサクはゲラルの人々と井戸をめぐって対立しました。ゲラルの人たちは、イサクの井戸を土で埋めました。 砂漠のようなパレスチナの南部地域で、しかも飢饉によって苦しんでいた時に、他人の井戸を埋めるということは、その人の命綱を断ち切ろうという意味です。しかし、イサクは彼らと闘いませんでした。彼はその井戸から離れ、黙々とまた別の井戸を掘りました。「イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。」(創世記26:22-23)エジプトに行こうとした間違い、妻を妹だと騙した間違いがあったにもかかわらず、神はイサクを赦し、祝福してくださいました。そして、神のお導きのもとでイサクは諦めずに信仰者として生き続けました。敵の妨げに退かず、黙々と自分の人生を進めたのです。彼はそうした人生を経て、最終的に父アブラハムが神への祭壇を立てた地、ベエル・シェバに帰郷することになりました。
締め括り
「その夜、主が現れて言われた。わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに。」」(創世記26:24) イサクは、なぜベエル・ラハイ・ロイに住んでいたのでしょうか? そこはイサクの土地ではありませんでした。イサクは、なぜゲラルに行ったのでしょうか。そこは他民族の地でした。もともとイサクのいるべき場所は、アブラハムの地、ベエル・シェバでした。もしかしたら、イサクは信仰と人生を彷徨っていたのではないでしょうか。イサクの人生に紆余曲折と罪と間違いがあったにもかかわらず、神は彼を本来の居場所に導き、そこで祝福してくださいました。信仰者の人生にも紆余曲折があり得るでしょう。間違ったり、失敗したり、つまづいたりします。しかし、そういう人生の辛さの中でも共におられる神様は、絶対に変わらない方です。ご自分の民が自分の居場所に着くまで、神は変わらず民と共に歩んでくださいます。なぜ創世記に3度も、アブラハムとイサクの同じ間違いが記してあるのでしょうか? それは人間の罪と限界を見せると同時に、そんな人間と変わらず同行してくださる神の恵みを示すためではないでしょうか?「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:28)信仰者の人生のあらゆる出来事は、神の導きによって、万事が益となるように共に働くでしょう。一度選ばれた民を絶対に諦められない神の愛のおかげです。イサクは今後も、また罪や間違いを犯すでしょう。しかし、それでもイサクは、神の民として生きるでしょう。ですので、聖書は語ります。「アブラハムとイサクとヤコブの神」と。私たちも、この変わらない神が、共におられることを信じ、信仰者として生きて行きましょう。神が喜んで一緒に歩んでくださるでしょう。