ダニエル記7章13-14節 (旧1393頁)
マルコによる福音書2章1-12節 (新63頁)
前置き
イエスが、この地で行なわれた御業は大きく3つに分けられます。それは癒すこと、宣教すること、教えることでした。癒しとは、単に肉体の治癒だけの意味を超えて、罪を赦す意味をも持っています。これはイエスによって、もはや罪の支配ではなく、主に治められる神の国が到来することを意味するものでした。宣教とは、罪によって神と敵になった罪人に、キリストを通した神との和解がもたらされることを宣言し、罪人が神の御前に出て来て、御赦しと,御救いを受けるように導くことでした。最後に教えることとは、神の御言葉を通して罪人を教え、それを介して、神の御旨に従わせること、神の民にさせることでした。イエス・キリストは、罪深いこの世で罪人を赦し、神に帰らせるために臨まれた方です。そして癒し、宣教、教えを通して、それを行われました。それらの点を覚えつつ、今日の言葉を取り上げてみましょう。
1.中風の人のようなイスラエルの状況。
ガリラヤ地方のあちこちを巡回なさりながら、弱い者たちを癒し、宣教し、教えてくださったイエスは、再び主のおもな活動地域であったカファルナウムに来られました。カファルナウムはヘブライ語で、町を意味する「カファル」と慰めを意味する「ナハム」の合成語です。すなわち、カファルナウムとは「慰めの町」という意味です。イエス・キリストは裁きのために来られた方ではなく、慰めと救いのために来られた方です。主がおもに活動なさった、カファルナウムが持つ意味を通して、マルコ書の読み手は、主が来られた意味を、もう一度顧みることが出来るでしょう。 「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで隙間もないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」(2:1-2)イエスは、この慰めの町、カファルナウムで神の御言葉を宣言なさいました。当時の堕落したイスラエルの宗教指導者たちから真の慰めを得られなかった人々は、主イエスに希望を置いて、訪ねてきました。神様は、共同体を正しく導くために指導者を立て、ご自分の民をお委ねになります。しかし、指導者が神の御前に正しくない時、彼らは民を守る者ではなく、民を苦しめる者になってしまいます。
「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。」(ルカ5:17)今日の本文の内容は、マタイ、マルコ、ルカ書で共通して登場しますが、宗教指導者たちの話も同じく出てきます。状況的に、彼らは主を批判するために集まったようです。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。」彼らがイエスに否定的に反応するからです。主は貧しい者たちと弱い者たちのために癒しを施されましたが、イスラエルの宗教指導者たちは、貧しい者と弱い者の座を奪い、ひたすらイエスを責めるために集まったのです。 「四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(2:3-4 )イエスを責めようとする、イスラエルの指導者たちの邪悪さの故に、群衆は家の外に追い立てられ、最も癒しが必要な中風の人は、家の中に入ることさえ出来ませんでした。今日の本文は、単純に中風の人と彼をイエスに連れて行った4人の物語ではありません。これは当時のイスラエルの悲劇を描いた物語です。神の御言葉と愛を正しく教えることも、行うこともなかった、邪悪な指導者たちのために、イスラエルでは真の癒しが起こることがなかったのです。イスラエルはまるで床の中風の人のように麻痺して患っている状態でした。
2. 4人の信仰をご覧になり、中風の人を癒してくださったイエス。
キリスト教は、神と信者が、互いに反応する宗教です。生ける神が信者を愛してくださり、信者も、その神の愛にお応えする関係の宗教なのです。つまり、信者なら、神への渇望を持って、積極的に反応を行うべきだということです。今日の本文に中風の人と一緒にいた4人が、まさにそのような人たちだったのです。邪悪な宗教指導者たちによって、もたらされた妨げのために、人々がイエスと向かい合う機会が奪われたにも関わらず、彼らは家の屋根をはがして、主に中風の人をつり降ろしました。 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)主は、その4人の信仰をお測りになり、中風の人をお治しくださいました。ところで、ここで少し疑問が生じます。プロテスタント教会は、明らかに自分の信仰によって、自分が救われる宗教、つまり他人の信仰を通して救われる宗教ではありません。そんな方式は、中世のカトリック教会で行われたことでした。まだ、救いが不透明な知人のために、免罪符を買えば煉獄の知人の魂が天国に昇れるというような信仰で、中世のカトリックで通用していた方式です。
ですから、私たちは、今日の本文を文字、そのままに受け入れ、中風の人を運んだ、4人の信仰のおかげで、中風の人が癒されたという風に解釈してはならないでしょう。私たちは、今日の話を通して、中風の人が持つ意味が、当事者だけではなく、中風の人のような状況であった当時のイスラエルの社会を認識する必要があります。指導者の正しい導きの不在のために、当時のイスラエルは全身が麻痺した中風の人のように、霊的な麻痺の中にあり、その結果、大勢の民が苦しみに陥っていたと理解しなければなりません。教会共同体も時には罪のために病んだり、崩れたりします。中風の人のように機能が麻痺した教会になってしまうこともあります。しかし、あの4人の人々のように、積極的に神との関係の回復を追い求め、立ち上がる人々が必要なのです。我々は、皆、すべて諦めてしまう中風の人のような者にも、何とかやってみようとする、あの4人のような者にもなれるのです。イエス様がくださる癒しと回復を待ち望み、如何なる妨げと逆境にも、主を探しに出る私たちになる必要があるでしょう。主はそのような人を用いて、教会を再び立ててくださり、進むべき道を開いてくださる方でいらっしゃるからです。
3.罪をお赦しになる人の子、イエス。
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われた。」(5)イエスは、4人の活躍で、イエスに辿り着いた中風の人に癒しを許してくださいました。ところで、主は中風の人に、「私があなたを治してあげる。」あるいは「あなたは私に癒される。」と言われませんでした。主は「あなたの罪は赦される。」と仰ったのです。今日、我々は、主のこの御言葉を介して、前回の説教で分かち合った癒しの本義について、もう一度学ぶことが出来ます。主のお癒しは贖いを前提とする癒しです。肉体と魂の癒し自体が目的ではなく、罪人への赦しの証明として癒しが施されるわけです。したがって主に癒された人は、その癒しが霊的であれ、肉体的であれ、それを通して神が、自分を愛しておられ、罪の赦しを通して完全な神の子供となることを待ち望んでおられるということを覚え、悔い改めの座に進むべきです。主は、人間の罪を赦してくださるために、この地に来られた方だからです。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(7)イエスの癒しと罪の赦しを目撃した宗教指導者たちは、主の発言を神への冒涜だと評価しました。主が「あなたの罪は赦される。」と言われた言葉は、ギリシャ語的に「神である私によってあなたの罪は赦される。」という意味が含まれている表現でした。宗教指導者たちは、人間であるイエスが自ら神であると認めることを見て、神への大きな冒涜だと思いました。しかし、イエスは彼らの心を見抜かれ、ご自分が病気を癒し、また、それよりも深刻な人間の罪をも赦してくださる贖いの神であることを証明なさるために、中風の人をお癒しくださいました。それにも関わらず、霊的な目が閉じてしまった、指導者たちは、イエス・キリストが真の神であるという事実を悟ることが出来ませんでした。
イスラエルの全歴史をまとめて、罪を赦す権限を持つ存在は、神様お独りのみでした。今日の本文で、我々はどのようにイエスが神であることを知ることが出来るでしょうか?私たちは、今日の本文で、主が言われた「人の子」という表現に焦点を当てる必要があります。 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10)人の子という表現は、旧約のダニエル書で出てくる言葉で、神のメシアを指す表現です。 「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」(7:13-14)旧約聖書の預言者ダニエルは、獣で表現された世界の諸帝国同士の食うか食われるかとの阿鼻叫喚の幻を見て、最終的に、そのすべてに勝利し、支配する者は、まさに「日の老いたる者の前に立った人の子のような者」である預言しました。ただ、その人の子だけが、滅びることのない権威を受けて、この世界を支配すると神に教えていただいたわけです。マルコは今日の本文の出来事と人の子という表現を通して、イエスが罪を赦し、この世を正しく導いていかれる真の神であることを告白しているのです。
締め括り。
今日の本文は、多くの内容を含んでいるので、一度、整理して終わりたいと思います。第一に、正しくない指導者によって、教会共同体が不健全になり得るということです。ここで、指導者とは牧師、長老だけでなく、ペテロの手紙Ⅰの言葉のように、神の聖なる祭司として召された、すべての信徒に該当するものです。一人の間違いによって、共同体全体が病むことを覚え、常に謙虚と真実に生きていくべきでしょう。第二に、共同体が病んで、無力な時でも、誰かは神に進まなければならないということです。中風の人を移した4人のように、共同体のために、神を渇望する人々が必要だということです。これもまた、私たちみんなに当たる教えです。第三に、主イエスは、罪を赦してくださる神様であることです。私たちの希望は、ひとえに主にあります。私たちは、絶えず悔い改めながら、主イエスが神様であることを認めて生きていくべきです。主イエスは、旧約から預言された真のメシア、神様です。主だけが罪を赦すことが出来、教会を回復することが出来ます。主は、なぜ人の子と自称なさったのでしょうか?主は神でいらっしゃいますが、人々の間に一緒におられる方、つまり真の神であり、真の人である方だからです。この人の子イエスに私たちの希望を置いて、罪を告白し、主に従っていく私たち志免教会になることを望みます。