私の神、私の盾。
詩編18編 2-4節 (旧847頁) ヨハネによる福音書17章3節(新202頁) 前置き。 もう、今年の最後の礼拝が持たれるようになりました。今年の初めに、過去一年を守ってくださり、新しい一年を導いてくださる神様に感謝する礼拝を捧げましたが、あっという間に一年が経ち、また、年末の礼拝をささげるようになりました。今年も本当に多くの出来事がありました。今年は特に、「コロナで始まり、コロナで終わる。」と言っても過言ではないほどの一年だったと思います。コロナによって4月には、一ヶ月くらい礼拝を休止しなければならない時もあり、伝道礼拝も先送りに先送りを重ねてクリスマスになって、やっと守ることが出来ました。イエス・キリストの体なる教会であることを告白する聖餐も、一緒にお交わりするマナの会も、無期限に延ばされるようになりました。しかし、それにも拘わらず、やむを得ない事情のある方を除いては、皆で礼拝を守ることが許され、特に、昨年のように韓国からの訪問者がいなかったにも関わらず、礼拝への出席者の数が全く変わりませんでした。日本のキリスト教会内外の他の教会の礼拝出席者が大幅に減少したことに比べれば、志免教会はコロナによる打撃がほとんど無かったとも言えるでしょう。他の教会の出席者が減じたのは、本当に心痛むことですが、外国人宣教師に変わり、お互いの心を分かち合い、慣れていく時間の中にあって、このように無事に一年が経っていくのを見て、感謝しないわけにはいきません。来年はコロナが静まり、安定を取り戻して、いっそう神への感謝と礼拝を持って生きる私たちになることを願います。 1.イエス – 私の神、私の盾。 そういう意味で、今日は、私たちを守ってくださる神様、そしてイエス・キリストについて話してみたいと思います。 「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔、ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」(詩篇18:2-4)この詩編は、ダビデが歌った感謝の賛美詩として知られています。この詩編の言葉は、ダビデの晩年を取り上げているサムエル記下の22章でも、ほぼ同様の内容で、出てきています。サミュエル記上下を通して、ダビデの人生を最初から最後まで説き明かしたサムエル記は、ほぼ最後の部分で、ダビデが歌ったと言われる、この賛美を持って、ダビデが神様の御前で、どのような心構えを持って生きて来た人なのか、また、神に、如何に愛を受けた人なのか、まとめているのです。以降、この賛美詩は、エルサレムの神殿で、神に礼拝する時に歌う賛美になったと言われます。この賛美詩は、神に愛されたダビデ、すなわち神の人を守ってくださり、導いてくださった神様に感謝を捧げる、感謝の賛美なのです。 イエス・キリストの先祖ダビデは、イスラエル民族の歴史上、最も偉大な王でした。彼はイスラエルの歴史の中で、最も広い領土を征服した人であり、イスラエルの名を高めた人であり、多くの手下を率いていた人でした。しかし、彼が神に偉大な王と認められた理由は、広い土地を征服したからではなく、優れた政治力によるわけでもなく、彼の人柄が素晴らしかったからでもありません。新約聖書の使徒言行録はダビデという人について、こう証ししています。 「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。(未来形)」(行13:22)ダビデが偉大な王として認められた理由は、たった一つ、神が彼を愛され、お受入れになったからです。彼がまだ王になる前に、敵に脅(おど)される前に、何の影響力も無かった時に、神はすでに彼を選ばれ、彼のことを喜ばれました。神はダビデの行為を御覧になって、喜ばれたわけではなく、その人のありのままを御覧になり、特に神への彼の信仰を御覧になって喜ばれたわけです。 過去1年間、私たちは礼拝を休んだこともあり、聖餐を守ることが出来ず、コロナによって積極的な伝道を行なうことも出来ませんでした。もし教会が会社だったら、良い実績を出したとは言えないでしょう。しかし、主は、私たちの行為と結果に基づいて、私たちを愛しておられる方ではありません。ダビデが何者でもない時に、神がダビデのことを喜ばれたように、私たちが何も出来ない時にも、神は私たちを愛してくださいます。なぜなら、私たちはキリストの体なる教会として、神に愛されている存在だからです。神は私たちの素晴らしい行為や結果だけを求める御方ではありません。神は私たちの頭でいらっしゃるキリストをご覧になる御方なのです。そして、そのキリストにある私たちの信仰を御覧になり、私たちを喜びを持って愛してくださるのです。私たちは、その主イエスによって、移り変わりの無い愛の中で、ここ1年を生きてきました。神の御前で私たちを愛される者としてくださるキリストに感謝する今年の最後の礼拝になることを願います。主イエス・キリストは、私たちの神、私たちの盾、私たちの岩、私たちの救いの角であり。私たちの砦の塔であられます。そのようなイエスに感謝し、今年を終え、来年を始める私たちになることを望みます。 2.救ってくださるイエス・キリスト。 今年の主題聖句は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)でした。それだけに、今年の説教で最も強調したかった存在は、イエス・キリストだったのです。しかし、この言葉の冒頭に出てくる、永遠の命という言葉も強調したい表現です。皆さん、永遠の命とは、果たして何でしょうか?今年、筑紫野教会での水曜祈祷会の説教の後、ある方が私に聞いて来られました。 「先生、永遠とは果たして何ですか?神と共に住むのは良いと思いますが、永遠なら、長すぎで退屈になるのではないでしょうか?」もちろん、その方の冗談半分の話だったと思いますが、私は、その質問を聞いて、信徒の皆さんが永遠という概念について、誤解しておられるかも知れないと思いました。人は永遠という言葉について、「無限の時間」だと、漠然と思いがちだと思います。しかし、西洋の哲学では、無限の時間を生きることを、「永遠の命」と呼ばず、「不滅」と呼びます。哲学者たちは「永遠とは時間の外に存在する概念」だと信じていました。つまり、永遠とは、時間とは関係なく、「最初から最後まで、その中のすべての物事」と思った方が望ましいと思います。キリスト教的に言えば、永遠とは、「世界をお造りになった神が、また世界を御裁きになる、その終わりの日まで、神のご計画の中で、司られている全ての物事を意味する概念」です。したがって、永遠の始まりと終わりは神様だけが知っておられ、人間はあえて触れることができない、計り知れないレベルの概念です。だから、神様が永遠の命を与えてくださるということは、単に長い時間を生きるという意味ではなく、神ご自身の計画の中で、最初から最後まで、私たちを導き、私たちの生の全てに責任を負ってくださるという意味です。 キリスト教は、その名称の通り、イエス・キリストを中心とする教会です。私たちの信仰、生活、すべてがキリストを中心に行われる宗教であるのです。しかし、キリスト教は宗教というには、あまりにも、私たちの生活と密接な関係を持ちます。過去、私の祖母は、いくつかの宗教で信仰生活をしました。日本から来た天理教、韓国の仏教、後は台湾から来た、仏教、道教、キリスト教のように、複数の宗教がミックスされた宗教をも信じました。そうするうちに、母の絶え間ない伝道によって70歳の頃に、イエスに出会い、本当に神を信じるようになりました。それ以前の宗教は、優れた教えを持ってはいましたが、宗教の対象と信徒の現実の生活との接点がありませんでした。お経を唱え、宗教行為を行い、宗教の教義を勉強しましたが、その中心的な内容は、「自分の努力の有無によって、人に生まれ変わるか、極楽に入るか、超越者になる。」という教えでした。その宗教には全能の神がご自分の民の生に責任を負うという概念がありませんでした。つまり、永遠の命が無かったということです。超越者と信徒との間に接点がない、別々の宗教だったのです。しかし、キリスト教は超越者が信者の生活に介入して、彼らの人生に責任を負います。それこそがキリスト教と他宗教との異なる点なのです。したがって、キリスト教は宗教というよりは、人生、生活そのものに、より近いものです。 キリスト教は信仰の対象である神様が、信徒の生活に入って来られ、共に歩んで行かれる、まるで親と子、先生と学生、友人と友人のような関係で、私たちと一緒に生きて行かれる宗教です。イエス・キリストは、単に私たちを天国に導くための、何の感情も、人格もない全能者だけに止まる神ではなく、私たちの喜怒哀楽を分かち合い、人生の旅を一緒に歩んでくださる、誰よりも人格的な存在なのです。キリスト教が語る真の救いとは、そのようなことです。キリスト教で語られる天国は、救いの結果ではなく、救われた者に与えられる救いの旅のご褒美なのです。私たちの真の救いは、まさにこのキリストを通して、神の子として認められたものであり、神の中で神と共に喜怒哀楽の世界を生きていくこと、そのものなのです。つまり、イエスによる神との歩みが、まさに私たちの救いです。そういう意味で、私たちは、すでに救いと天国の中にいる存在なのです。今日の旧約本文の言葉も、そのような文脈で理解すべきものだと思います。神は、まるで盾、砦の塔、岩のように、主がお選びになった民らのことに責任を負ってくださり、彼らを守ってくださり、愛してくださる方です。その神様は、ご自分の民が帰ってくることが出来る道として、私たちに、イエス・キリストを送ってくださいました。その神様は、いろいろ大変なことが多かった今年も自分の民である志免教会を放って置かれず、愛を持って歩みを共にしてくださったのです。 締め括り 来年も、神と共に愛と平和とを持って歩んでいく志免教会であることを望みます。教会員同士の関係が一層深まり、教会員のご家族の間にも平和が満ち溢れ、教会の近所の人々にも、志免教会は平和の場所、親切な所、美しい所という印象が残ることを願います。なぜなら、私たちの教会は、人の力によって成り立つ場所じゃなくて、ひとえに神様の御導きによって成り立つ主の共同体だからです。主が私たちを愛し、私たちと一緒におられることに慰められ、これからも神の喜び、隣人の喜びになる、私達志免教会になることを願います。2021年度も、主の恵みと愛に満ちた教会、そして教会員の生活になることを祈り願います。