わたしの福音。
詩編33編8-15節 (旧863頁) ローマの信徒への手紙16章25-27節(新298頁) 前置き 今日は長い長いローマ書の最後の説教を分かち合う時間です。気軽に始めたローマ書の説教でしたが、説教し続けながら本当に難しい聖書だと考えることになりました。漠然と頭だけで知っている知識を、整理して説教に作ることが、どれだけ難しいのかに気付き、お粗末な自分の知識に反省する時間になりました。今度、機会が許されれば、より分かりやすくて深い説教が出来るように頑張りたいと思います。私たちは過去数ヶ月間のローマ書の説教を通して、私たちに訴えかけられる神の心を学ぶことが出来たと思います。人間の罪と、その破壊力に対する知識、それでも人間への変わらない神の御愛、その人間のために独り子を送って自らを犠牲になさった計画、そして、その独り子を通して、私たちに教えてくださった御救い、神様と共に生きる方法等。多くの部分において、私たちに福音の悟りが与えられる機会だったと思います。これからも皆さんが個人的にローマ書を読まれる時、一緒に分かち合った説教が役に立つことを望んでおります。今後もローマ書を黙想しつつ、私たちを愛しておられる、その神の恵みに感謝する生活を営んでいくことを願います。 1.私の福音 今日の本文は、ローマ書の掉尾を飾る部分です。パウロは、自分がなぜローマ書を書いたのか、この最後の文章を通じ、ローマ教会の信徒たちに話しているのです。 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」 今日の本文で、パウロは福音に対して他の誰かの福音ではなくて、自分の福音、即ち私の福音だと語っています。福音は、この地上のものではありません。福音は人間への神のメッセージです。また、この福音はキリストのみを通して届くものです。福音とは、神がイエスというメシアを通して、この地上に自由と救いの恵みをくださることを伝える良いお知らせなのです。したがって、人間から福音が出てくることはなく、ただ神のみに基づくものです。誰かが自ら「私を通してのみ福音が臨む。」と言うならば、彼は偽者であり、異端であるでしょう。ところで、誰よりも、その福音の価値をよく理解しているパウロが、なぜ「わたしの福音」という言葉を使っていたのでしょうか?皆さんもすでに理解しておられると思いますが、これは、福音が自分から出てきたという意味ではなく、その福音が自分にとって非常に重要な価値であることを積極的に表す告白です。自分の人生の全てをかけて、世の人々に伝えても全く惜しくない、自分の大切な価値が、まさにこのキリストの福音であるという意味です。 「わたしの福音」それは、キリストの福音へのパウロの堅い信仰告白だったのです。 パウロは、ユダヤ民族の若い人材でした。彼は当時の有名なラビであるガマリエルの弟子であり、キリキア州タルソス生まれのローマ市民権者でもありました。今で言うとハーバード大学で、世界的な教授の下で修学し、米国の市民権まで持っている前途有望な青年だと表現できるでしょう。英語は流暢で、高級日本語をも使いこなす自国の文化や宗教への優れた知識を兼ね備えた、日本の素晴らしい人材。パウロがそのような人だったということです。そんな彼が自国と宗教を愛する心で、イエス異端の手下を処断するために、奮然と立ち上がりました。自分の民族に向けた彼の情熱は、純粋で熱かったのです。そんなある日、深い愛国心と信仰をもってイエス異端を捕まえるために出た旅で、パウロは自分の人生が変わる不思議な経験をしました。 「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、’サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか’と呼びかける声を聞いた。」(使徒9:3-4)神と民族を愛していた青年パウロは、イエス異端を捕まえるために出た旅で、自分がそんなにも嫌悪していたイエスに出会ったのです。 「主よ、あなたはどなたですかと言うと、答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5) 嘘つき、異端、呪われた者と思っていたイエスが現れ、パウロの知識と信念を揺さ振りました。一瞬にして、この有望なユダヤ人青年の心の中に驚くべき変化が起こりました。彼が幼い頃から学んできた神の御言葉、ご自分の民への神の愛が持つ本当の意味、人間の堕落以来、絶えず繋がってきた神の深い御心を悟り始めました。神が長い長い旧約聖書をくださった理由、預言者たちが迫害と苦難の中でも、そんなに主の御言葉を宣べ伝えた理由、ユダヤ民族が存在する本当の理由。神に遣わされて世界を救うメシアが、自分があんなに嫌悪していたイエスだということを認識することになったのです。パウロは、その時初めて、神の福音が何なのかに気付きました。 「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25-26)キリストの福音は、とっくの昔から世界のすべての民族に示そうとしておられた神の御計画でした。そして、それはキリストを通して、この世のすべての異邦の民族が聞き従うべき御救いと恵みの御命令でもありました。 その日、パウロはキリストに出会って、自分の魂と体、全身で神の福音を悟りました。福音は知識だけで理解するものではありません。福音とは、神の御心が人の心の中で生き生きと働くものです。聖書の御言葉に詳しいのも、その教義をよく理解しているのも重要です。(そのために教師がいるわけでしょう。) しかし、そのすべてを知っているとしても、その中に隠れている神の心を知らなければ、それは殻に過ぎないのでしょう。(それは教師ではなく、神様のみが教えてくださるのでしょう。)教会で知識を通して学んだ神の御心に私たちの心を従わせ、その神の御心に従順に生きていくこと。その神の御心を隣人に伝えること。それこそが、私たちが追い求めるべき福音、キリストを通して私たちに託されている福音なのです。今、この福音は誰の福音なのでしょうか?それは今、私たちの福音となっているのでしょうか?単に預言者と使徒たちの福音ではないでしょうか?本当に私たちの人生の中で、私たちの人生を変え、隣人に良い影響を与えることが出来る、真の私たちの人生の原動力となっているのでしょうか?私たちは、今日の言葉に出てくる「私の福音」という言葉を疎かにしてはならないと思います。福音はもっぱら「私の福音」にならなければなりません。何ものとも変えることの出来ない、私の人生の原動力であるキリストの福音。その福音に示されている神の愛と恵みが、私の福音として私たちの中で熱く燃え上がることを願います。 2.イエス・キリストの福音。 しかし、「私の福音」というのは私のものではありません。私たちが追求している福音というのは、あくまでもイエス・キリストのみに基づくものです。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります…その計画は…信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(16:25-26から)私たちを強め、従順に導き、神の御心に従わせる、この福音というのは、ひたすらキリスト・イエスによってのみ生ずるものです。(ここでのキリストについての宣教とはギリシャ語であるケリュグマの翻訳、キリストによるキリストについての宣言を意味する。) これは、福音の力がキリストから出るということを意味します。上半期懇談会では、我々の力不足を身にしみるほど感じました。 「牧師を招聘するのは良い。ところが、今後安定した経済的支援は可能だろうか?これから数年後に志免教会はどうなるのだろうか?」あまりにも伝道が難しい日本という土壌で、その中でも小さな群れである志免教会を眺めながら、私たちはあまりにも現実的な壁に直面しなければなりませんでした。しかし、皆さん、それにも拘わらず福音は変わりません。福音の源でいらっしゃる主が変わることは、決して無いからです。聖書は一度も数字で、規模の大きさで、教会の在り方を求めたことがありません。聖書に出てくる数値や規模は、神の民の集まりを意味するものであって、その大きさを重要視するものではありません。 むしろ神様は神様に希望を置いて従う一人の真の信仰者をさらに喜ばれるのです。 大事なのは、イエス・キリストが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18-19)と言われたということではないでしょうか?また、パウロはこう語りました。 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテⅡ4:2)福音は「私のもの」である前にキリストによるものです。キリストは教会の大きさと規模に関係なく、御自分を担保に福音を伝えることを命じられました。大事なのはキリストの福音を伝えることです。なぜなら、福音の真の所有者であるイエス御自身が福音に対して責任を負ってくださるからです。歴史上に多くの教会が浮沈を繰り返してきました。ヨーロッパの多くの教会が酒場となり、中東の初代教会があった街には、モスクが建てられています。しかし、主の教会は、別の場所で別の方式で健在です。主の教会は、目に見える建物や団体ではありません。主の教会は、キリストの福音を告白する目に見えない巨大な、主の民の集まりなのです。これは神学的に非可視的教会、宇宙的教会と呼ばれています。したがって、主はその巨大な教会を通して絶えずに福音を伝えて行かれるでしょう。私たちは、そのイエスに従い、現状に絶望するよりは、折が良くても悪くても福音を伝えるべきでしょう。それこそが福音に対する私たちの在り方ではないでしょうか?だから、他の事柄は主にお委ねいたしましょう。 少し長めですが、今日の旧約本文を再びお読みいたします。 「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33:8-15)今日の説教を準備しながら、私はこの詩編の言葉がしみじみと心に届きました。教会の存亡と将来について心配している私たちに、これ以上完全な説教があるでしょうか?恐れ戦くべき立場は、私たちではなく、教会の外の世です。教会が世に判断されるのではなく、神が世をご判断なさるのです。主の企てはとこしえに立ち、主を神とする民は幸いになるでしょう。したがって、目の前の状況に恐れず、イエスの福音の力を信じてまいりましょう。 「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(27)キリストは、神に栄光を帰すために、御自分の福音を成し遂げて行かれるでしょう。 締め括り 今日は「私の福音」即ち「キリストの福音」についてお話しました。キリストの福音は決して変わりません。主を通して全世界は神の前でおののき、ひれ伏すことでしょう。その主が私たちの主であり、その主を通して私たちは赦され、御前に正しいとされるでしょう。その救いと恵みの良いお知らせが、まさに私たちの福音なのです。主は世の終わりまで、永遠に共におられると私たちに約束なさいました。イエスは終わりの日、万物を裁き、神に栄光をお帰しになるのでしょう。ですので、イエス・キリストを信じて、恐怖を振り払っていきましょう。神はキリストを通して、私たちを主の栄光に導いてくださるのです。福音の主であられるイエス・キリストの恵みが、皆さんの上に豊かにあることを願います。