キリスト者の生活。

前置き 今まで、パウロはローマ書1-11章を通して、キリスト教の重要な教えについて、長い時間を割き、説明してきました。それを手短に整理してみると、『人間は皆、罪人として生まれた。人間は自力で罪を解決することが出来ない。神様は、その罪の解決のためにキリストを遣わしてくださったのだ。キリストは手ずから、その人間の罪の問題を解決してくださった。このキリストを信じる人は、彼のお蔭で罪から自由になり、神との和解が可能になる。』だと言えるでしょう。このような1-11章の内容を通して、我々はキリストの福音が持つ役割と恵みを悟ることが出来ます。それは救われる資格のない者が救いを得るために導いてくださる神様の愛のことです。今日の12章は、このような1-11章を通して、神の民となったキリスト者が、どのような生き方で生きるべきかということについて話すことから始まります。 1.神の憐れみによる生活。 『こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。』ローマ書は、凡そ、1-11章と12-16章に分けることが出来ます。この中で、1-11章は『罪とは何か?裁きとは何か?福音とは何か?キリストとは誰か?』などの教義的な説明で成されています。なので、その部分は理論的な言説が多かったです。しかし、12章の以下からは、その教義の実践に関する言説が主となっています。つまり、1章から11章にわたって出て来た数多くの教えに悟りを得、キリストの弟子となった者ならば、もうこれ以上、じっとしておらず、世の中に出て、その悟ったことを行いを通して実践していきなさいという意味でしょう。そのためなのか、12-16章には命令語が、頻繁に出て来ます。つまり、12章1節の『こういうわけで』という表現は、1-11章の内容をまとめて、その結果としての実践を促す、後半を開く表現なのです。『こういうわけで、皆さんが今まで、神の福音、御恵、キリストの愛と御救いについて、学んできたならば、そのような神の御心に相応しい者として、実践して生きていきなさい。』という意味でしょう。福音を聞くだけで終わらず、聞いた福音を積極的に行って生きなさいという意味です。 ところで、パウロは、その実践の根拠を人間の力ではなく、神様の御憐みから見つけようとしました。神様の憐みとは、1-11章に継続に出たように、人間の貢献ではなく、神の愛を通して人間を救ってくださったことを意味します。全ての人間は罪人であるゆえに、自らの罪を解決できない存在です。キリストに出会って罪の赦しを得ない限り、人は罪から自由になることが出来ません。そのような罪人をお選びくださり、主権的に、その罪を贖ってくださるのが、まさに神様の御憐みなのです。蟻を例に挙げて比喩してみましょう。蟻の社会では女王蟻がおり、兵隊蟻がおり、働き蟻がおります。蟻の社会では彼らは各々の地位と役割を持っています。しかし、人の目には、彼らは全て、虫に過ぎません。人間にとっては女王蟻にせよ、働き蟻にせよ、蟻は蟻に過ぎないでしょう。神様にとっても同じです。相手が罪人であるならば、東大出身にしろ、政治家にしろ、財閥にしろ、特別な扱いはありません。罪人は、ただ罪人に過ぎないのです。皆が不義によって、堕落した罪人であるだけです。神様にとって罪人は、人が蟻を見ることよりも、さらに小さくて弱い存在なのです。しかし、憐れみ深い神様は、そのような罪人らが、罪から抜け出し、救いを得ることをお望みになり、ご自分の慈悲を持って、救い主キリストをお送りくださいました。人間は自力で救いを得たわけではありません。ひたすら、神の御憐みを通して救われたのです。 我々の行いや実践も同様だと思います。パウロは12章からはじめ、数多くの行いと実践について語り続けていきます。しかし、この行いや実践は、かつてユダヤ人が追い求めていた『行為で救いを得る行い』とは異なります。神様の御憐れみによって、キリストを信じて救われた者らが、神のその憐れみに応じるために行わなければならない行為であり、実践であるのです。神の憐れみによる救いが前提とされなければ、私たちが、この世で行うキリスト者としての行いと実践は、如何なる意味もなくなるでしょう。つまり、私たちの行いと実践は神の御憐みへの答えであるとき、ようやく価値を持つことが出来るという意味です。神様が御憐みをもって、私を救ってくださったので、それに対する変化の証として、我らの行いと実践がもたらされるという意味です。だから、私たちはパウロが勧めている私たちの行いや実践が私たちから出る善行や力ではなく、ひとえに神からくる力によることであるということを確認するべきです。私たちはもっぱら、神の御慈悲への誠実な答えとして善行を行い、実践して信仰を貫くべきです。私たちの善行は結局、神様の御憐みに基づくものだからです。 2.聖なる生ける生け贄としての生活。 『自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。』神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして、自分の体を献げるということは、どんな意味なのでしょうか?先立って、パウロは神様の御慈悲に基づく生き方として、私たちの実践的な生活を勧めました。我らの善行の実践は、私たちを救ってくださった憐れみ深い神様の、その慈悲を私たちの生活を通して、代わりに現わす実践にならなければなりません。マタイ福音書には、これと似合う語句があります。『 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。』(マタイ5:16)そのような生き方は、単純に『主を信じる。』と口だけで告白する形式的な信仰の生き方ではありません。この世での生の中で、自分の体を神様に捧げる生ける生け贄としての実践が伴う生き方であります。すなわち、この地上で神の御憐みを示すために、自身の『命をかけるほど、善を行って生きていくという覚悟』を意味するものです。我々はキリストが律法の目標になられたという言葉を学びました。律法の目標となったということは、キリストが自らの体を十字架の生け贄として捧げられ、過去、旧約時代に行われた全ての律法の祭祀を完成させたという意味です。私たちはキリストのような完全な献身は出来ないかも知れません。しかし、主がなさった、その献身の御意志を受け継いで、主イエスのように神と隣人への愛を実践する人生を生きていくために力を尽くすべきでしょう。 旧約のイスラエルの神殿では、毎日祭祀がありました。司祭たちは、自分と民の罪を贖うために獣をとり、その血を神に捧げました。しかし、その生け贄の血だけでは、永遠の贖いをもたらすことが出来ませんでした。人間の内面に潜んでいる罪は、永遠に消えない罪であって、獣の生け贄で捧げる祭祀としては、限界があったからです。なので、皮肉なことに人々は、獣の生け贄を捧げる祭祀に尚更執着するようになりました。ですが、神様が望んでおられる祭祀は、そのような多くの生け贄ではありませんでした。祭祀は、ただの形式にすぎないものであっただけで、神様はその中身である精神を求めておられたのです。今日の旧約本文であるミカ書に、それと関わりのある話が出て来ます。預言者ミカは、このように問い掛けます。『何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。』(ミカ6:6-7)ミカは、単純に神殿で 献げ物をさし上げることだけでは、神の喜びとされないということを悟り、このように自答しました。『 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、隣人を愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。 』(ミカ6:8)神様が望んでおられる、真の献げ物は、華麗な礼拝ではありません。主が望んでおられる礼拝は、御言葉を通して学んだ悟りを、日常の中で実践し、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことなのです。だから、主日の礼拝と共に日常の生としての礼拝が相和される時に初めて、我々の生は、聖なる生ける生け贄の生き方になるのであり、それこそが、神に捧げる真のなすべき礼拝になるのでしょう。 イエスは、獣の生け贄で捧げた旧約の祭祀を、もうこれ以上、守らなくても構わないほど、完璧な生け贄として、ご自分の全てを神様にお捧げになりました。そのお蔭で、私たちが捧げるべき祭祀は主イエスを通して、既に完成されました。そういうわけで、私たちは獣の生け贄を捧げなくても良いのです。代わりに私たちは、私たち教会の頭なるキリストの肢体としてのアイデンティティを持って、キリストが神様にご自分を捧げられたように、彼の体なる私たちも、我らの人生を神様に捧げるべきです。それこそが私たちが神様に捧げる、私たちのなすべき礼拝なのです。私たちの真の祭祀、つまり礼拝は主日だけに守るものではなく、我らの生活の中で我ら自身を 献げ物として、神様に喜ばれる人生を生きることを意味します。真の礼拝は、決して容易なものではありません。我らを救ってくださった神の御慈悲と、神の慈悲そのものであるイエス・キリストの十字架での贖いに感謝を持って答える生き方。その神の恵みに答える私たちの献身的な生活こそが我らの真の礼拝になるのです。我々は自分の体、つまり、自分の生を神に捧げる時に真の礼拝をなすことが出来ます。自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げるという言葉の意味は、キリストを模範として、この世での生活の中で神から頂いた福音の言葉を実践して生きる人生なのです。 3.キリスト者の生活。 それでは、前の内容を再び整理してみましょう。『①我らの善行と実践は、自分が正しい者であるから行うことではありません。それは神の御憐みへの答えとして行うものです。②自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げるということは、神の御憐みへの答えとしての善行と実践を行いつつ、生きていくという意味です。そのような生き方がある時こそ、私たちの礼拝は、真のなすべき礼拝となるのでしょう。』使徒パウロは、このような1節が勧める生き方を基として、2節のように生きていくことを促しています。『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』(2) ここで、『この世に倣ってはなりません。』という言葉の意味は何でしょうか?人間は基本的に神様を憎む存在です。神様を自分の主と認めれば、自分が自身の主になれないからです。そのように自分が自分の神のようになりたがっているのが、人間の本能なのです。人間の歴史は、そのような本能の軌跡を書き残したものです。『この世を倣う。』という言葉は、このような人間の本能的な『神への反抗』を意味します。これはパウロの時代、あるいは2020年という一つの時点だけを意味するものではありません。人間が生きて来た全ての歴史と世代を意味するものです。代々に自らが神のようになろうとしている人間の本能を意味するものです。しかし、パウロは神様に自分を捧げる生き方を通して、それを乗り越えていくことを勧めています。 そのためには、心を新たにして神に自分を変えていただくように祈る必要があります。この変化は、たった一度で成し遂げられる変化ではないと思います。『この世』という表現が人間の歴史と共に長く繋がってきた、神に反抗する人間の姿を意味するように、心を新たにして変わることも、短時間で成し遂げられることではないという意味です。完全に新しくなる変化ではなく、繰り返して新たになる変化だからです。私たちはキリストに恵みを与えていただき、御言葉を学び、善行を実践して、絶えず悔い改めることを通して、日々新たになって行くべきです。毎日の生活の中で、世の誘惑と自分の欲望が追い迫ってくるのは決まっていることですが、キリストに依り頼み、休まず、戦って行くべきです。そのような生活の中で、我々は、キリストによる聖霊のお導きを通して、徐々に聖化していくのでしょう。そのように聖化していく生活の中で、我々は『何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになる』のでしょう。憐れみ深い神様は、そのような我らの人生にキリストによる悟りと力を与えてくださるでしょう。私たち人間は、この世に生きていく限り、その罪の本能のため、完全な義人になることは出来ません。今日の本文を通して聞いていただいた御言葉も、正直、完全に実践できないでしょう。しかし、神の御慈悲は、そのような弱い我らを、絶え間なく助けてくださるでしょう。だから、我々の出来る範囲で、行うべき善行を為していきましょう。我らの人生を聖なる生ける生け贄として、捧げるために頑張ってまいりましょう。そのような生き方を貫く際に、神は主の御心を弁えることができる知識を注いでくださると信じます。 締め括り キリスト者の生活とは、神の御憐みに答えて生きていく生であります。また、自分を聖なる生ける生け贄として神に捧げることを覚悟する生でもあります。そのような生の中で、神は日々私たちを新たにしてくださり、導いてくださるでしょう。そのように神様を仰いで生きていけば、我々は少しずつ、 何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを教えられていくでしょう。しかし、我々は弱い存在ですので、そのような生き方を、何の失敗もせず、保つことは出来ないと思います。神様も私たちの弱さを良く知っておられますが、それでも、神様は決して私たちを諦められないでしょう。キリストを通して私たちをご自分の者としてくださったからです。だから、私たちも、自分の弱さに負けず、諦めることなく、神の憐れみと愛を隣の人々に伝えて行きましょう。我らの出来るだけの善行を実践して行きましょう。憐れみ深い神様が、来る一週間も志免教会の歩みを御守り、御導きくださると信じます。主の豊かな恵みを祈り願います。