二つの義。
ハバクク2章4節 (旧1465頁)・ローマの信徒への手紙10章1-4節(新288頁) 前置き 前々週のローマ書の説教では、救いの選びと滅びの選びを司る絶対者、神様についてお話しました。加えて、神のその絶対的な選びへの私たちの在り方についても話しました。神は絶対者であられるので、ご自分の御心に基づいて、すべてのものを選び、治めておられます。ローマ書が、このような神の選びについて語る理由は、神がすべてを選ばれる絶対主権と権威を持っておられ、それを通して全世界を治めておられることを説明するためです。私たちは、そのような神の絶対的な主権により、神の子として選ばれました。そして救われて、クリスチャンという名を持って生きています。実際、私たちには、神の絶対主権を満足させる、いかなる資格も、義もありません。すべての人間は、罪と不義を持って生まれたからです。しかし、神はご自分がお遣わしになったキリストを通して、資格のない者を選び、信仰を与えてくださり、その絶対主権を通して義人という資格を与えてくださいました。したがって、私たちは、神の絶対的な選びの前で、自分の行為ではなく、神の主権によって義を得、救いを得たということを認めなければなりません。今日のテーマは、まさにこの「義」ということについての話しです。今日は 神様が認めてくださる『義』と、そうでない『義』とは何かについて分かち合う時間になることを願います。 1.義に対するユダヤ人の誤解。 使徒言行録によると、パウロは自分の民族、イスラエルを誰よりも愛する人でした。『わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。』(使徒22:3)パウロは、何よりも自分の民族の文化と宗教を大事にする民族主義者でした。さらに、ユダヤ人の中でも、特に権威のある学者であるガマリエルの弟子として、誰よりもユダヤ教の教えに徹底する人でした。『また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。』(ガラテヤ1:14)ですが、キリストに出会った後のパウロは『熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。』(フィリピ3:6-9)という言葉を通して、自分が悟った、真の義であるイエスについて証ししました。 私たちは、聖書を読みながら、ユダヤ人への良くないイメージを持つようになったりします。しかし、ユダヤ教が生れたとき、それは神への純粋な信仰から始まったものということは忘れてはいけないと思います。神を裏切り、偶像に仕えるなどの悪行のために、イスラエルは異邦の帝国に滅ぼされました。しかし、預言者エレミヤの言葉のように、イスラエルは、イスラエルの地に帰り、再び神の民となる機会を得るようになります。バビロン捕囚当時、イスラエル民族は罪を悔い改め、神への信仰を回復して行き、解放された後には、祭司エズラを中心とし、さらに健全なユダヤ教を成立させました。ユダヤ人は、もうこれ以上、偶像を崇拝するのではではなく、律法と神殿を中心とし、神に仕えて生きる生き方を決意します。そのためにユダヤ教は、神の言葉、すなわち、律法を重んじる姿を見せます。しかし、時間が経つにつれて、ユダヤ教に複数の宗派が生じ、競争的に律法の精神より、律法の行為を大事にしはじめました。ついには、律法の言葉以外に、人が作った規則も現れ、行為を通じて、より高い宗教的な水準を示そうとする姿に変わっていきました。これらの変質した姿は、福音書に詳しく現れています。 ローマ書の説教の序盤に律法について話す時にも説明しましたが、「ミツボト」という律法の613種類の掟と、そのほか、ユダヤ人たちが作った『昔の人の言い伝え』など、ユダヤ人たちは、時間が経つにつれて、これらのものを完全に守り、行なうことによって、義を成し遂げることが出来ると信じるようになりました。明らかに、イエスの時代のユダヤ人には熱心さがありました。律法を堅く守り、神を崇めるのに熱心でした。しかし、その熱心さは変質したものでした。 『誰が一番、祈りを長くするのか?誰が一番、聖書を多読したのか?誰が一番教義を多く知っているのか?誰が一番行為をよく守っているのか?』のように、他人との比較のための熱心さでした。時間が経つにつれ、そのような熱心さは、宗教的な狂気となり、『神と隣人を愛しなさい。』という律法の精神を守るより、誰もかれも目に見える律法の行為を守ることに血眼になりました。そして、それを自分の義として誇りとしました。パウロはこのようなユダヤ人の姿に対して『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。』(2)と言いました。当時のユダヤ人の熱心さは、熱いだけで、方向が間違っていたのです。神の御心とは全く別の方向に走っていく、とんでもない熱心さだったのです。 しかし、私たちはユダヤ人の、このような姿を盲目的に非難するわけにはいかないと思います。確かに私たちも信仰の熱心さを持つことが必要だからです。祈らねばならず、黙想せねばならず、御言葉を行なわねばなりません。しかし、信仰の熱心さというのは熱意だけでは、物足りないでしょう。私たちは、神が聖書を通して教えてくださる正しい方向に進むべきです。ユダヤ人は徹底的に律法を守ることから、義を得ると思いました。しかし、聖書は神が教えてくださった正しい対象を信じることから、義を得ると語ります。私たちも、私たち自身が祈りを長くして、教会に頻繫に通って、献金をたくさんして、聖書を多く読むことなどの、宗教的な熱心さで、義を得ると考えてはいけません。信仰生活にそのような要素は、明らかに必要なのですが、それが私たちの義となるとは言えません。それらが、義だと信じるのは誤った信仰に基づくことです。私たちは、ひとえに神から与えられたキリストを信じる信仰を通してのみ、義とされることになります。私たちに必要なのは、如何なる宗教的な行為でも、熱心な行ないでもなく、我々が信じる対象であるイエス・キリストを正しく信じ、彼の言葉に聞き従い、神の御心に適う生き方なのです。キリストを信じる私たちは、過去のユダヤ人が持っていた、義に対する誤解から抜け出し、神様が意図なさった、真の義を追い求めて、生きていくべきでしょう。 2.真の義とは何か? それでは、聖書が語る、真の義とは何でしょうか?『なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。』(3)パウロは行いに基づく義に執着するユダヤ人の生き方について、自分が追い求める義のために、神の義に従わないものだと語りました。表向きでは神への熱心がありましたが、その熱心は神の義を追い求める熱心ではなく、神を崇めるという名目で自分の義を表そうとする熱心だったということです。このように純粋でない熱心さでは、どんなに努力しても、神に正しいとは認められません。それでは、パウロが言いたがっていた神の義とは、一体何でしょうか?『キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。』(4)神が認められる義とは、律法を完全に成し遂げられたキリストに頼って、律法を完成する生き方を意味するものです。ここで、私たちは4節の『キリストは律法の目標。』という言葉を探ってみる必要があります。 『律法の目標』という言葉での『目標』とは、ギリシャ語で「テロス」といいます。 4節の言葉で「テロス」には二つの意味があります。一つ目は「完成する。」です。家を建てていると仮定してみましょう。まず、土地を仕入れ、骨組みを作ります。壁を築き、屋根をつけます。しかし、それだけでは家が完成したとは言えません。壁紙を塗って、インテリアを飾る必要があります。それでも、まだ終わりではありません。家具を設置し、ガスと水道を繋げなければなりません。そして、最後に掃除をして、引越しをします。それから、やっと本格的な暮らしが始まるのでしょう。テロスは、このように完璧かつ総合的な完成を意味します。キリストは律法という家を完璧に建てられる、律法の完成者でいらっしゃいます。二つ目は、マラソンで比喩できると思います。試合の前にストレッチングをし、出発点に立ちます。そして、マラソンが始まります。約20キロメートルの折り返しを回ってゴールまで走っていきます。そして最後にフィニッシュ・ラインに到達します。テロスは、これ以上、加える必要のない完全な完成と目標の達成を意味するものです。このように家の建築とマラソン競技という二つの比喩で「テロス」を説明できます。完成と目標のために、すべての努力と貢献が果たされたという状態が、まさにこのテロスにある意味なのです。 今日の本文としては読みませんでしたが、5節から7節までの言葉は、申命記30章11節から14節までの言葉を引用したものです。申命記では、このように記されています。『わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。』(申命記30)この申命記の言葉によると、神の御言葉。つまり律法は、人から遠くではなく、ごく近くにあるということが分かります。そして、その御言葉が神の民の近くにあるため、人が神の御言葉を行うことが出来ると示しました。これは、人が何かを行えるという意味ではありません。人の近くにある神の御言葉が、人が言葉を守れるように導いてくれるという意味でしょう。人そのものだけでは出来ないことが、御言葉と一緒にある時は、出来るようになるという意味でしょう。 それでは、前のテロスに戻りましょう。聖書は、キリストが神の言葉であると証言しました。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネ1:14)その言葉が肉を持って、この地上で実体となった出来事が、まさにキリストのご降臨であります。そして、キリストは自ら人々のために、この地上で律法の完全な完成者、完全な目標点になってくださいました。神の義を完全に成し遂げ、つまり『テロス』されたということです。神の言葉として人々の間に実体を持って来られたイエスは、人のごく近くにおられ、人を助けてくださる方です。そして、キリストは、もはや人々の努力ではなく、神の言葉であるキリストへの信仰から義を与える方です。キリストは、すでに神がお求めになる義を完全に達成され、キリストご本人が、まさに律法の完成になってくださったからです。だから、義を成し遂げるというのは、神が遣わされた神の言葉であるキリストを信じ、彼の御導きの下で、神の力に寄り掛かって生きていくことを意味します。人間には、律法を完全に守り、義を成し遂げる、如何なる力もありません。ひたすら、義を完成された神の言葉、キリストが自分の義だと信じる時に、私たちは義と認められることが出来ます。このようなキリストによる義こそが、真の義であり、人を救う神の義なのです。 締め括り 『見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」』(ハバクク2:4)旧約聖書ハバクク書には、人間の悪に対する預言者の叫びが出てきます。『神様は正しい方でいらっしゃるのに、なぜ、世の中には悪人が、こんなに多いのでしょうか?』という預言者ハバククの問い掛けに対し、神は『いくら悪人が不義を働いても、正しい者は神への信仰によって生きる。』(日本語では、神に従う人だが、原文では義人を意味する。)と語られました。人がいくら、善いことをしても、善良に生きても、その根本は罪から始まります。人に罪があるからです。ある人は凶悪犯罪を犯したり、ある人は心の中だけで他人を憎んだりします。それらに対して人が感じる罪の大きさは、違いがあるだろうと思いますが、それでも、罪があるという事実には変わりがありません。神は、罪の大きさではなく、罪そのものをご覧になる方だからです。つまり、すべての人々は基本的に不義の中で罪を持って生きているということでしょう。しかし、神は、その罪人の中で信仰を持っている者を探しておられます。皆が不義に満ちているところで、果たして誰が正しい者と認められるでしょうか。不義な人間からでは義は生まれません。ただ、不義な人間の外から来る神の義であるキリストを通してのみ、人は義とされることが出来ます。私たちは、どこから義を得られるのでしょうか?私たちの努力と行いから、手に入れるのでしょうか?私たちの代わりに義を成し遂げられた、キリストから頂くのでしょうか?この質問への完全な答えを持って、いつもキリストに希望を置いて生きていく、私たちになることを願います。志免教会の上に主の恵みがありますように。