主による輝かしい勝利。

レビ記26章9-13節 (旧205頁)・ローマの信徒への手紙8章31-39節(新285頁) 前置き 8章はローマ書の最も重要な内容を含んでいる箇所です。私たちは、1-7章を読み進めながら、人の罪、不義、神の裁き、永遠の死など、人間の惨めな現実について話してきました。また、そのような惨めさから、人間を救ってくださり、神の子にしてくださったキリストの愛についても、絶えず分かち合ってきました。このように繰り返し罪と救いの話を続けてきた理由は何でしょうか?私は神がそれだけ人間を愛し、お見捨てにならず、ご自分の子として、お救いになるという強いご意志を持っておられるからだと思います。前々週のローマ書の説教では、罪のために神を離れ、肉的な生き方をしてきた人間に、神に聞き従う霊的な生き方を促す神。つまり、キリストを通して人間を救ってくださり、ご自分の相続人にさせてくださる神について分かち合いました。神はご自分を離れ、罪の中に生きている人間に深い憐れみと愛を持って、今日も救われるべき者を探しておられます。今日のローマ書は、そのような神の愛について続けて語っています。(今日のローマ書の本文は31-39節ですが、前の18〜30節の内容も含まれておりますので、帰宅後にご一読いただきたいと思います。) 1.キリスト者の苦しみ。 先々週、ローマ書の本文の最後に、このような言葉がありました。 『もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。』(ローマ8:17)神の恵みによって罪人の身分から抜け出し、神の子、義人に生まれ変わったキリスト者は、神の相続人として認められた存在です。 『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)イエス・キリストの救いと神の愛により、私たちのところに来られた聖霊が、私たちキリスト者の生と共におられることによって、私たちに神の子供、相続人という身分を許してくださったのです。神様を離れ、肉的な生を生きていた私たちは、今では、聖霊の御導きと恵みを通して、神と共に生きる霊的な生を生きることになりました。それゆえ、私たちは、もはや罪人ではなく、神の子であり、相続人として認められた存在となったのです。 ただし、だからといって、これからの私たちの人生に、如何なる苦しみも、悲しみも、挫折もなく、専ら、気楽に、楽しい生活が営めるというわけではありません。 『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(ローマ8:17)(新共同訳の翻訳は、原文と翻訳順番が違います。より、原文に近い翻訳は『キリストと共に栄光を受けるなら、共にその苦しみをも受けるべきなのです。』の方が、本文に近い表現なのです。)17節は、キリスト者の生活の両面性を示しています。 『神の相続人として栄光を受ける存在となったけれど、それと共に、相続人としての苦難への責任をも負うようになった。』ということです。ローマ書の5章では、すでに、このことについて短くですが言及しています。『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(ローマ書5:2-4)神から栄光を受けるためには、主による苦難をも経験しなければならないということを意味するのでしょう。 なぜ、キリストによって、神の栄光の相続人となったキリスト者に、このような苦難がついてくるのでしょうか?キリスト者なら、さらに一層、祝福と平安の内に生きるべきではないでしょうか?残念なことにその苦難の理由は、人間の罪にあります。『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。』(22)ここでの被造物とは、人間世界のすべての物事を意味するものです。これは、自然のような物理的な世界も意味しますが、人の間柄のような霊的、精神的な世界を意味するものでもあります。その中には人と人との愛、人と自然の釣り合いのように、この世の物事のすべてが属しています。しかし、最初の人の不義に基づいた罪は、人間と人間の対立、自然に対する人間の乱用に繋がりました。国々が対立して戦争し、人が互いに憎み合い、各々の貪欲のために自然は破壊されました。人間の罪は人間だけでなく、この世の物理的、精神的な被造物にも悪い影響を及ぼしたのです。これらの嫌悪と憎しみと破壊の世界で神の子として、主の言葉に聞き従い、原初から続いてきた人間の罪の性質に逆らって生きるというのは、罪と不義によって既に汚された世界とは、全く異なる生き方をすることを意味します。したがって、罪に満ちたこの世で、神の相続人として生きている人は、罪に汚されたこの世から抵抗を受けるしかありません。これは世から大きな迫害と苦難を受けることを意味します。神様の子は、世とは全く別の生き方を堅持する存在だからです。 私たちの受ける苦しみは、神の民なら、必ず受けるしかない、正しい苦難です。自分を憎む人を愛するために受ける苦しみであり、自分の国と対立している国との平和を祈る苦難でもあります。神から与えられた自然に優しくするために、自分の不便を堪える苦難です。罪と不義に満ちたこの世で、神の正義と愛を示すために受ける苦難です。もし私たちが神を真の父と信じ、その御意志に従って生きることを決心したなら、これらの苦難は避けられない課題です。しかし、これらの苦難は苦しみだけで終わるものではありません。その内側には、より大きな御業を成し遂げる神の御心が隠れています。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。』(28)、そのような神の相続人としての苦しみの中で、神を愛し、信頼して生きていく際に、そのような苦難さえも、最終的には一つになって共に働き、神の御心を成し遂げる万事の益となるのでしょう。 2.苦難を圧倒する神の愛。 パウロは、イエス様に出会った後、神の支配によって治められる理想的な世界を夢見ました。私たちが神の国と呼ぶ国、それは神の御導きと統治に満たされた国です。これは、ただの死後のユートピアだけを意味するものではありません。罪によって汚された、この世界で、神の真の愛とお導きによって建てられていく主の支配権を意味するものです。神はそのため、キリストをお遣わしになったのです。キリスト・イエスは、私たち、主を信じる者が、この地上で苦難に負けず、神の国を成しつつ、生きていくことが出来るように、先立って手ずから苦難の手本を見せてくださいました。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。』(29)罪によって歪められた、この世界で神の国を建てるということは、苦難をともなう難しいことです。しかし、神は言葉だけで命令する方ではありませんでした。イエス・キリストという独り子、御子が直に私たちの間に来られ、苦難を受けられ、我々の進むべき道を開けてくださったのです。聖書は、このようなイエス・キリストを長子と表現しています。私たちキリスト者は、そのイエス様が切り開いた道に沿っていくことで、神の国を建てていくことが許されます。 だから、神の子とされた私たちは、苦難の背後に隠れている神の栄光を望まなければなりません。キリスト教の規模が、あまりにも小さくて弱い、この日本という地で、私たちは巨大な世の権力と向き合って生きていきます。例えば、志免と須恵にキリスト教会は、片手の指で数えられるほど少ないです。むしろ、神社やお寺は数え切れないほど、多いです。多くの人が神社に行き、正体の知れない偶像に願いをかけたりしますが、教会には違和感を感じたりします。日本の教会が政府の理不尽に異議を申し立てても、誰ひとり、耳を傾けません。沖縄の米軍基地問題で教会が、いくら声を立てても、世界はちっとも変わらないように見えます。これらの偶像崇拝と不義に満ちた世で、世界を変えられない私たち教会は、自分自身を顧みながら無力感を感じやすいと思います。しかし、我々は本質を見抜かなければなりません。教会の小ささが神様の小ささを意味するものではありません、教会が無力だからといって、神様が無力な方であるわけではありません。卵で岩を打てば卵が割れますが、神は岩を壊し、その場に卵を置くことが出来る方です。私たちのなし得ないことも、神は成し遂げられます。私たちが弱くても、先に行かれたイエスは誰よりも強い方です。ですから、私たちは苦難を前にして、神に堅く信頼しなければならないでしょう。 『誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。』(33-34)御子イエスの命を与えてくださってまで、聖徒たちを呼ばれ、導かれた神様。この神様が私たちと共に歩んでくださる限り、私たちは信徒の苦難に勝ち抜くことが出来ます。私たちの苦難は、すでにキリストが経験なさった苦難であるため、主は誰よりも私たちの苦しみを深くご存知でいらっしゃるからです。『私を殺せない苦難は、私をさらに強く鍛えさせる。』という言葉があります。このように、キリストと一緒に受ける苦難は、私たちを強く鍛錬するものであり、終わりの日、神様の相続人として主に召され、輝かしい勝利で報いられるでしょう。『誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。』(35)、神はキリスト・イエスの愛を持って私たちを世の終わりまで守ってくださるでしょう。 締め括り キリスト者の輝かしい勝利。 今年の初めから始まったローマ書の説教が、もう、半年近くも取り上げられてきています。罪、裁き、救いのような、似たり寄ったりの話が毎週繰り返されました。説教の内容が常に似ていて、物足りないと思われた方もおられたかも知れません。しかし、そのように繰り返された説教は、この言葉で一段落すると思います。『しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 』(37)罪人であった私たちは、キリストのお蔭で義人と認められ、神の言葉に聞き従って生きる存在、キリスト者となりました。また、私たちは神の国を受け継ぐ相続人です。そのために私たちは、キリストと共に苦難を受けて生きなければなりません。しかし、主は、その苦難の中で、私たちをさらに愛してくださり、さらに守ってくださるでしょう。今日の言葉を通して、私たちに希望を与え、助けてくださる主を見つけられることを願います。そして、これからも神と隣人に仕え、この世で神に褒められる生活、キリスト者に相応しい生活を生きていくことを願います。私たちが、主に聞き従うために受ける苦難は、終わりの日に神のお褒めによって報われるでしょう。その日を楽しみにして生きていく正しい志免教会になることを祈ります。『私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。』(38-39 )