聖霊の降臨。

ヨエル書3章1-5節 (旧1425頁)・使徒言行録2章1-4節(新107頁) 前置き イースター後、50日が経つと、我々は習慣的にペンテコステを記念し、しばらくの間、教会から遠ざかっておられる方々にハガキを送ったり、ペンテコステ記念礼拝を捧げたりします。しかし、『聖霊が来られた。』という意味に対しては、礼拝後すぐ忘れたり、日常生活の中では、そんなに意識せずに生活したりするかも知れません。残念なことに、アメリカや韓国のいくつかの教派では、ペンテコステの主日に大麦の収穫に合わせて、麦秋感謝主日という名の記念日を守り、ペンテコステであることも知らないまま、過ごす場合もあると言われます。このように聖霊は父なる神とイエス・キリストに比べて、あまりにも低く評価される傾向があると思います。聖書でも聖霊よりは、御父と御子をより多く注目する傾向が見えたり、祈るときにも、父なる神にイエス・キリストの名を持って捧げたりする場合が多いと思います。つまり、私たちの日常生活の中で聖霊を意識して生きることは、比較的に少ないということでしょう。しかし、聖霊は私たちの思いよりも、遥かに多くのお働きをしておられる全能なる神様です。聖書とか、祈りとかに聖霊の登場が少ない理由は、聖書の本当の著者が、祈りの導き手が、この聖霊なる神様であるからではないでしょうか?私たちは父と子と聖霊が一緒に働かれる時にはじめて、世と教会、そして私たちの生活の中で神の御意志が成し遂げられるということを知る必要があると思います。今日はペンテコステを迎えて、この大事な聖霊の降臨について一緒に分かち合いたいと思います。 1.聖霊降臨の意味 – 聖霊をとおしての神と人間の同行。 私たちは三位一体なる神を信じる共同体です。『三位の神が一体でおられる。』という神学的な概念は、人間の常識では到底、​​理解できない不可解な領域ですが、それにも拘わらず、私たちは、聖書に基づいて、父、子、聖霊が一体の神として、教会と世界を治めておられることを信じて認めています。父は万事を計画され、子は父の言葉であるという権威として、その計画を命じられます。そして、聖霊は父のご計画がキリストを通して宣言される時に、それを成し遂げるために働かれる方なのです。つまり、一体でいらっしゃる三位の神が、各々の役割を持って一つの目的のために存在しておられるということです。したがって、聖霊は神の力、あるいは道具ではありません。父と子のための助役でもありません。その方は人格を持っておられる神様そのものなのです。私たちは創世記の始めに出てくるこの言葉に注目する必要があると思います。 『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』(創世記1:2) 世界が造られる前から、すでに聖霊は神の霊でいらっしゃり、父と子と一緒に世界を創造された方でいらっしゃいます。ですから、私たちは聖霊の降臨を考えるとき、神の力や権能が、この地上に臨んだというイメージより、神が手ずから、この世に来られ、私たちと一緒におられるための神の臨在の出来事だという認識を持つべきだと思います。聖霊のご降臨は、神の愛とキリストの救いが、私たちの所である、この地上に実現される強力な神の御働きなのです。そして、その主人公は、正に、この聖霊なる神様です。今日の旧約の本文を見てみましょう。ヨエル書3章では神様が『主の日、大いなる恐るべき日』、神が『この世の悪をご処断なさる、その日』の到来の前に主の民に来られると記されています。また、神が来られ、その民を赦してくださり、神の霊を神の僕、すなわち神を信じる皆に注がれ、彼らに救いを見せてくださるとも、記されています。これは民を赦してくださったキリストの御業の後、神の聖霊を送ってくださり、絶えず民と共におられ、『主の日、大いなる恐るべき日』が至るまで、聖霊を通して一緒に歩んでくださることを、先に明確になさったのではないでしょうか。 聖霊の降臨はイエス・キリストを通して成し遂げられた、罪人への赦しを確証する約束であり、それによって罪人を守り、神の子としてくださる和解の象徴です。神は聖霊の降臨を通して、永遠に民と一緒に歩んでくださるでしょう。ペンテコステに来られた聖霊は、そのような神の強力なご意志と約束を示す象徴であり、実行そのものです。民を愛しておられる父、民を救ってくださるイエス・キリストは、父と子の御心を持ってこの地上に来られた聖霊を通して民と永遠に一緒におられるでしょう。そして、この聖霊を通して、その愛と救いは永遠に保たれるでしょう。したがって、聖霊のおられる所には、御父の愛があります。聖霊のおられる所には御子の救いもあります。聖霊のおられる所には、神の暖かい恵みがあります。これらの神の愛と救いと恵みが聖霊を通して私たちの中に満たされたこと。これこそ、聖霊の降臨が持つ本当の意味であり、ペンテコステを覚えなければならない、大切な理由なのです。 2.聖霊降臨の意味 – 罪人を義人に生まれ変わらせる聖霊の恵み。 旧約聖書、創世記11章では、次のような言葉が出てきます。『彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て言われた。』(創世記11:4-6)これは神が罪人の仕業のために地上に降臨された出来事でした。その時、人間は、強力な指導者を中心とし「バベルの塔」を築き上げていました。当時の人々は、天が神の場所だと思っていました。しかし、人々は高い塔を建てて天まで届き、神の場所である天を奪おうという高慢な意図を抱いていました。そして、有名になり、自らが神のような存在になろうとしました。『有名になる。』という意味は、当時の文学的な表現であり、自分の名前を出して権力を握るという意味です。これは神への反逆を意味するものでしょう。創世記によると多くの人が神のようになるために反逆し、滅びていきました。アダムは反逆の罪のため、神に呪われ、エデンから追い出されました。また、大洪水による人類の滅亡もありました。しかし、人間が持っている罪の性質は消えず、むしろ延々と続きました。 『主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされた。』(創世記11:9)神は、そのような罪人の反逆をご覧になるために、地上に降臨されたわけです。そして、神は彼らの言語を混乱させ、そこから散らされました。神の場所を奪おうとしていた人間の罪深い努力は、神の全能なる力の前に、無力にも言語と民族の分裂という形で現れました。神の最初の降臨は、このような人間へ呪いと裁きを下される恐ろしい降臨でした。しかし、今日、新約聖書での降臨は、それとは全く違う性格を持っています。『突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。』(使徒言行録2:2,4 )過去、罪によって分裂された、数々の言語が聖霊の降臨によって一つの声を出し始めたのです。もちろん言語は異なりました。しかし、聖霊のお導きにより、一つの心を持つようになった弟子たちは、自分の名前ではなく、神の御名を示す言葉を言い出しました。イスラエルの言葉、ローマの言葉、ギリシャ語、アフリカの言語、数多くの言語が湧き出したのですが、それらの言語は一つの声を高めていました。それは『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使徒言行録2:21)でした。 今日の旧約本文の人間たちは、自分の欲望のために、神に反逆しました。彼らは神の座を奪おうとしました。そんな彼らに下された神の裁きは混乱と分裂でした。彼らは自分の罪のゆえにさらに分裂し続け、この世も益々混乱と破壊に満ち溢れてきました。これは神の強力な呪いでした。しかし、キリストによる神の赦しと愛が成し遂げられ、その象徴として、聖霊が来られた時、人々の混乱の中から希望が湧きはじめました。過去の人々は、同じ言語を持っていたにも拘わらず、神を裏切って悪を企んでいました。しかし、キリストによって、聖霊と出会った弟子たちは、数々の言語にも拘わらず、心を合わせて神の御名を高め、追い求める正しい民に生まれ変わりました。聖霊の臨まれたところには、もはや神への反逆はありませんでした。彼らはひとえに神を高め、キリストを宣べ伝え、聖霊から力を受けました。聖霊が臨まれた、その日、罪人は生まれ変わり、神の民として堂々と神を伝えるようになったのです。そして、その日、彼らによって3000人の人が主イエスを信じることになりました。 同じ神の降臨ですが、創世記と使徒言行録の話は全く異なる結果をもたらしました。この二つの違いは何でしょうか?まさにイエスの十字架の出来事です。神の愛とキリストの救いが十字架で成し遂げられた後、聖霊は父と子のご意志を持って、弟子たちに臨まれました。キリストによる救いによって、恐ろしい混乱と分裂の降臨の代わりに、愛と救いの降臨が起こりました。過去の降臨が呪いの降臨であれば、ペンテコステの降臨は祝福の降臨でありました。今、私たちの間におられる聖霊は、キリストを通して私たちのところに来られた祝福の霊です。私たちは、この聖霊によって父の御心を悟り、キリストの御心を学び、神の国への希望と教会への愛を持つようになります。ペンテコステの聖霊は、これらの神の恵みを私たちにくださり、私たちの人生を導いてくださるために、永遠に私たちと共におられます。私たちは、その降臨された聖霊とイエスという名の下で一つの群れとなって、今日を生きていきます。聖霊の降臨は罪人を義人に生まれ変わらせる神の大きな祝福なのです。 締め括り 私たちは、過去2カ月間、それまで守り続けてきた主日礼拝をしばらく休止し、それぞれの場所で個人的な礼拝として守ってきました。主の御言葉に従い、集うことに力を入れつつ、神に賛美と礼拝を捧げた、過去の姿とは全く違う、それぞれの礼拝を守られたことでしょう。このような2ヶ月を経てきて、いろいろ複雑なお気持ちになられたと思います。集うことの大切さ、教会共同体と、そのお一人お一人の大切さをも感じられたと思います。私達は皆他人で、何の血縁関係も、金銭的な関係もありません。それにも拘わらず、私たちは一つの教会として、参集できない状況にもどかしさを感じつつ、祈ることになりました。なぜ、私たちは、このような心を持つことが出来たのでしょうか? 『平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。』(エフェソ4:3-4)このように、私たちを一つにならせる祝福の聖霊が私たちの間におられるからだと思います。一つにならせた聖霊の恵みを覚え、聖霊なる神に私たちの人生と生活をお任せしてまいりましょう。自分の心に注がれた神への愛と隣人への愛とを行い、聖霊が働いてくださる生活を生きていきましょう。聖霊が聖書の言葉を通して、私たちの人生の一足一足に、私たちの追い求めるべき生き方を教えてくださるでしょう。志免教会の上に神の恵みが豊かにありますように祈ります。