創世記6章1-7節 (旧8頁)
ローマの信徒への手紙8章1-17節(新283頁)
前置き
ローマ書の説教が始まってから2〜3週間目になったある日、『果たして、ローマ書の説教を始めたのは良い選択だったのか?』という悩みが湧き上がりました。説教を準備する私にも、聴いてくださる皆さんにも、分かりにくく、複雑な内容だったからです。ローマ書が難しく感じられる理由は、いくつかの神学的な話がごちゃごちゃになって、体系的に整えられていないという理由と同時に、何よりも当時の哲学、文化、社会的な知識の背景がなくては、パウロが伝えたがっていたところが完全には理解しにくいという理由もあったからです。しかし、ローマ書は、私たちに一つの明らかな教えを強調しています。 『イエス・キリストを信じなさい。そこに正解があります。』ローマ書は、このように変わらない真理を伝えている聖書ですので、難しいものの、必ず取り上げるべき大事な聖書です。そういうわけで、ローマ書の8章の言葉は実にローマ書の中で最も重要な教えと言えるでしょう。神の律法さえも解決できなかった、人間が持っている罪の問題を完全に解決してくださるキリストの恵みと愛が明確に示されているからです。ローマ書の説教は、複雑で分かりにくいです。しかし、ローマ書を通じた、神の恵みは、確かです。いよいよローマ書を半分くらい学びました。私も足りない知識をもって取り組んでおりますが、この説教を通して与えてくださる聖霊のお導きを期待しつつ、続けてローマ書を学んで行きたいと思います。
1.肉に従う人生。
『世のすべての人は不義のために罪人となった。神の旧約の民であるユダヤ人さえ、それから自由になれない。初めから今まで、すべての人間は、罪によって汚れている。神は人間にその罪に対処するための律法を教えてくださったが、結局、人間はその律法によって、さらに明確に罪に定められた。実に人間には救いを得る力がない。』今までローマ書は、このような人間の惨めさについて続けて語ってきました。特にローマ書は7章の言葉を通して、人間のこのような惨めさの理由が『罪の法則』に支配されているからだとしました。『わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。』(ローマ7:23)ローマ書は罪人には不義と罪に従う性質しかないということ、いくら善を行おうとしても、最終的には悪に流れていってしまうということ、それにいくら逆らおうとしても自由になれないということを嘆き、人間は罪の法則に捕らわれていると語りました。ローマ書はこれを『罪と死との法則』と言います。
ローマ書は、この『罪と死との法則』に生きる人生を『肉に従う歩み』としました。つまり、『罪と死との法則に導かれて生きる人生は肉に従う人生である。』という意味です。私はこれが罪人に対する最も適切な説明だと思います。ここでの肉とは『サルクス』というギリシャ語です。ギリシャ語では、肉を意味する2つの表現があります。『ソーマとサルクス』です。 「ソーマ」とは一般的に肉体を意味します。つまり、人間の物理的な体を指す表現です。『サルクス』も肉体あるいは肉という意味を持っています。しかし、この言葉は、より本質的な人間、人間の本性などを意味します。人間の罪、弱さ、悪、限界等がこの言葉に含まれます。従って、『肉に従う歩み』という意味は、神に背き去る『罪と死との法則』の支配下で生きていく、サルクス的な生き方を意味します。日本語では、肉的な人生ほどの意味
でしょう。まさに罪の性質に支配されて、罪の影響下に生きていく存在を意味するものです。今日の旧約本文である創世記6章3節に出てくる肉という言葉は、まさにこのサルクスを意味するものです。 『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』(創世記6:3)このように肉に従う者らの最後は洪水の裁きによる絶滅でした。
ローマ書8章は、このように肉に従って生きる人、すなわち罪人という存在が自由になる素晴らしい教えを伝えています。『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』(1-2)キリストが地上に来られた理由は、まさにこのためです。イエスは罪人の中に暴れている罪の性質に従うサルクス的な人生から、罪人を救い出され、『命をもたらす霊の法則』をくださるために来られたのです。 『肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(3-4)主は罪の無い方ですが、自ら、サルクスを持つ『罪深い肉と同じ姿』を持って私たちのところに来てくださいました。罪人をその罪から自由にするために、罪人の姿そのものとして来られたという意味です。主は私たち人間のように『罪深い肉と同じ姿』で来られ、罪の代償を払われ、律法の要求を満足させられました。そのような律法の満足への報いは、キリストの中にいる、すべての人々を罪と死との法則から解放することでした。
2.霊に従う人生。
ところで、主が私たち罪人のようにサルクスの姿をもって来られたからといって、イエスに罪があるとは言えません。キリストは何の罪もない純潔な方だからです。それでは、イエス様が『罪深い肉と同じ姿』として来られたということは、どのような意味でしょうか?これは受肉を意味するのでしょう。しかし、これは単に『神が人間を救うために、人間と異なる特別な存在として来られた。』という意味ではありません。 『この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。』(ヘブライ人4:15)これは、主自らが人間の最も弱い部分、すなわち完全に同じ立場から、人間を代表する存在となるために、自らが、人間の立場に来られたということを意味します。表面的にだけ人間を理解するという言葉でなく、見た目だけ同様になるという意味でもありません。私たち人間の悲惨さに手ずから参加され、完全に人間の立場から人間の罪を代わりに背負うために来られたということです。主は『罪と死との法則』の支配下で苦しみを受け、最終的に死ななければならない人間として来られ、そのすべての弱さを直接体験し、人間への完全な理解と経験を持って死なれたのです。だから、私たちに向かう主の御救いは完全です。『罪と死との法則』に支配されるサルクス、すなわち肉はキリストによる『命をもたらす霊の法則』に完全に屈服しました。
『神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。』(9)なので、キリストを信じ、罪の赦しを
受けた者はキリストによる『命をもたらす霊の法則』の下で生きていく人です。『命をもたらす霊の法則』の支配下に住んでいる人は、キリストの霊と共に歩む人であり、もはや肉に従わず、霊に従って行う者です。そのような霊に従う者には、律法の要求が成し遂げられ、これ以上の裁きと死の恐怖に怯える必要がありません。私たちを贖われた主が私たちに下されるべき裁きと死の影響をすでに解決されたからです。律法によっては解決できなかった問題をキリストが解決してくださったのです。『肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。』(5-6)キリストによってサルクス的な生から抜け出し、霊の法則の支配に入ってきた私たちは、霊に従って生きる人です。そのようなキリストに属する人に死は何の力も使えません。むしろ、主が与えてくださる命の希望と、どのような苦しみにも揺らがない平和があるだけです。
ここでの霊とは何でしょうか?もちろん、これは、キリストによる聖霊の御臨在を意味します。では、聖霊の臨在とは何を意味するのでしょうか?『しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。』(ヨハネ16:13)霊に従って生きる人生とは、私の人生に神とイエスを通して来られた聖霊が共におられることを意味します。聖霊は神とキリストの真理の言葉に信者を導き、神とキリストの言葉を悟らせてくださるという意味です。つまり、主の御言葉通りに生きるように導かれるという意味です。主が私たちを愛しておられることを認識させ、主が追い求めておられるように神への愛を実行させ、主が送ってくださった隣人を愛するようにさせ、私の生活の中で、神の国が成し遂げられるように、お導きくださることを意味します。主の恵みの中で実践的に生き方の変化が生じるという意味です。神の霊、キリストの霊が共におられるということは、神のご意志が私の中にも現れるということです。罪人であった私が、過去の生活を捨て、神が追求される愛と平和の成就のために自分自身を神の道具として捧げるという意味です。
3.キリスト者に相応しい生き方とは。
『それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。』(12)今日の言葉の中で最も重要な内容は、私たちがキリストという神の恵みを通して、『罪と死との法則』から解放されて『命をもたらす霊の法則』に入ったということです。かつて、私たちは肉の法則、すなわち『罪と死との法則』の下で不義と罪への義務をもっている者でした。この義務の原文は『借金』を意味します。罪人として生まれ、罪の力に縛られた肉の支配下で罪がなければ、生きることが出来なかった存在であったため、そのような罪への債務を持って生きていく存在でした。つまり、罪が私たちの生の原動力のようなものだったということでしょう。その時、私たちは罪による悪と肉が導く方向に進む存在でした。その肉への代償は罪で、死だけでしか返済できないものでした。しかし、キリストが私たちをその罪から救い出してくださり、これ以上、肉への債務が無くなりました。
今や、私達は、『命をもたらす霊の法則』に導かれた神に命の債務を持つ存在となりました。私たちは、
もはや過去のような罪深い生活を続ける必要がありません。今や、神が私たちの中に植えつけてくださった聖霊の導きに沿って、神の御前に正しい生活をしつつ借金を返して生きるべきです。私たちは、命の存在としてキリストに債務を持つ者となったということです。私たちは、過去のような死の恐怖に震える必要がありません。罪による死の恐怖から逃れられたからです、だから、神の望まれる義人としての人生を生きていきましょう。霊の法則によって新たになった私たちは罪を離れ、神の喜ばれる人生とは何なのかについて敏感に反応するべきでしょう。弱い私たちが神に返すものは何もありません。ただし、神への債務を清算するかのような心を持って生きていきましょう。聖書に記された正しいことを行い、キリストが神と隣人に対して抱かれた愛と善行に従って生きていきましょう。忘れてはいけません。今、私たちに託された命は、罪の人生ではなく、義の生活であり、キリストに従う人生なのです。
『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 』(15-16)そのような生活の中で、キリストの霊が私たちに与えてくださる証言は、私たちが神の子となったということです。正しく生きてきたから、神の子とされたのではなく、神の子となったから、正しく生きるべきであるということです。私たちの生きるべき正しい人生とは何でしょうか?おそらく、皆さんの心の中にすでに浮かび上がってきたと思います。キリストにある私たちは、律法によって罪に定められる存在ではなく、すでにキリストによって律法を満足させた者として認められ、律法に記されている正しいものを何の非難もなく行うことができる存在となりました。そのような罪から自由になった存在、律法の非難から解放された存在、キリストのように神の御前で何の恐怖をも感じない存在。それがまさに神の子となった私たちの新しいアイデンティティなのです。今日のローマ書は、そのような私たちが、神の栄光の相続人として認められた主の子だと語っています。これがローマ書が語っているキリスト者の生き方なのです。
締め括り
『もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(17)最後に今日の本文は、私たちがそのようなキリストの恵みの中で、神の子としての栄光が得られたので、その栄光に応じて、苦しみも受けるべきだと教えます。罪の支配ではなく、生命の支配、キリストの支配下にある人々は、聖霊の法則に従い、神の御心を成し遂げるために生きていくべき存在です。神の聖なる御心は罪に満ちた世に常に抵抗されています。私たちは、私たちの生活の中で積極的に神の聖なる御心に聞き従って生きなければならない存在となりました。なので、私たちは、常に霊的な抵抗のうちに住まなければならない存在なのです。私たちが、善を行おうとするとき、苦難を受けるでしょう。しかし、恐れる必要はありません。神が私たちの中に神の霊として一緒におられるからです。キリストによって救われたキリスト者として苦しみを恐れず、すでに私たちに与えられた神の栄光に感謝していきましょう。私たちは、今、キリストのお陰で、神の前で正しい存在として認められています。正しい存在、神の子、キリストの民、神の相続人として、世の罪と悪、苦難に向かい合う聖なる信者の生を生きていきましょう。