罪人をキリストに導く律法(2)
ヨシュア記1章5‐9節 (旧340頁) ローマの信徒への手紙7章7-25節(新282頁) 前置き 先週、私たちは、律法の役割について学びました。律法には、神の御心について、また、神と隣人を愛するように導かれる信者の生き方について、そして、最終的に信じる人をキリストに導く生命の道について記されています。しかし、律法そのものは信じる者に救いを与えるわけではありません。その律法の記録どおり、いくら学び、行なっても、私たちに命を与えることができないということでしょう。キリストがいらっしゃらなければ、この律法のすべてを守っても、真の満足と救いはないということを教えてくれるだけです。パウロは、律法について、まるで子供を養って親に導く養育係のようなものだと話しました。律法がその下にいる者らを律法の完成であるキリストに導くということです。また、律法は、キリストという真の夫が来られるまで、信者を支配する元夫のようなものだとも話しました。律法は大事なものですが、それだけでは完全にならないことを力説したものです。律法を通してキリストに出会うときこそ、その律法は完全にその役割を果たせるということです。今日は先週に続いて、律法の役割について、もうちょっと分かち合いたいと思います。 1.法の二つの顔。 律法は神の民を生かす生命の書物です。律法は信者にとして、どのように生きるべきかを示す大切な教えです。イスラエル民族が追求すべき生き方を教える憲法のようなものと同時に、神に仕えるための宗教的な教えを与える宗教法として、神の民の進むべき道を示す必要不可欠な教えなのです。神の民は、律法を通して生の在り方を学び、神のご意志を探ることができます。この律法が指示する生き方をよく守り、聞き従って生きていく時に、神の民は正しい道に沿っていくことが出来、神に喜ばれて生きることができます。ですので、神はイスラエルがカナンの地に入る際に、ヨシュアを通して律法をよく守りなさいと命じられたのです。『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。 』(ヨシュア1:8) しかし、それと同時に、律法は民を死なせる書でもあります。『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。』(ローマ7:5)先週は言及しませんでしたが、ローマ書は、キリストが来られる前には、律法が私たちの元夫のように、私たちを捕らえて罪の中にいるようにしたと語っています。キリストは、そのような死の律法から、私たちを解き放し、もはや律法の影響下ではなく、キリストの栄光に移されたと語りました。明らかに、神は御自分の民に命の実を結ばせるために律法を与えてくださったと語りましたが、なぜローマ書は突然言葉を翻して、律法が私たちに死に至る実を結ばせると語っているのでしょうか?律法が私たちに罪を追求する欲情を与えるという意味でしょうか?本当に皮肉な話ではないかと思います。 これは、律法に二つの顔が隠れているからです。確かに律法は私たちを生かすものですが、同時に、私たちを死なせるものでもあります。しかし、パウロは、明らかに宣言しました。『律法は罪であろうか。決してそうではない。』(7)律法は、明らかに罪ではありません。しかし、我々が律法を通して得る影響は両面性を持っています。パウロはその理由について、こう説明しています。『律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が貪るなと言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。』(7)人は、律法によって罪を悟るようになりますが、同時に、その律法によって罪に定められるのです。古今東西を問わず、人々は、律法を行うことによって、神の御心を成し遂げ、神に一歩近づくことができると思いました。律法に接する人は自らが律法を守る能力を持っていると考えたということです。律法を完全に行うならば、きっと神に褒められると考えたわけです。しかし、人々が見落としているものがあります。人間の中にある罪という存在が、人間が考えている通り、律法を完全に行うように、放っては置かないということです。 2.罪を悟らせる法。 パウロが話そうとするところは、まさにこれなのです。私たちが律法を行おうとすればするほど、この律法を完全に守れない私たちが見つかるということです。ローマ書はそれを貪りという大きなテーマをもって説明しています。『では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。』(7)パウロは、なぜ、わざわざ十番目の戒めで禁じている貪りに言及したのでしょうか?それは、まさに罪のもとに貪り、つまり貪欲という巨大な悪が潜んでいるからです。皆さん、覚えておられるか分かりませんが、昨年、十戒の説教の最後の時間に、私たちは、この貪欲がすべての罪の原因であるということについて学びました。アダムが善悪の木の実を貪ることから始めて、旧約聖書の多くの人物がこの貪欲によって神に呪いを受け、滅ぼされたのです。つまり、貪欲とは十戒の1-9の戒めが指す、すべての罪を網羅する、非常に基本的な罪であるということです。このように律法は人の心に隠れている罪の原因を悟らせるものです。律法を通して、私たちの中に罪があるということを認識するようになるという意味です。 『私は、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 私は死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。』(9-10)律法がなかった時、人々は自分が罪を犯していることさえ、分かりませんでした。アダムが善悪の木の実を欲張ったのは、神様の立場からは、罪でしたが、人の立場からは、進歩のための本能に近かったと思います。自分の欲望のために物を貪ることを進歩だと思い、罪であるとは認識していなかったということです。むしろ、神様が自分らを騙しておられると思ったのでしょう。しかし、神がその貪りが罪であることを教えてくださった時に、それは始めて罪と定められました。律法は人が罪ではないと思ったものに対して、罪であると認識させてくれる機能を持っています。古代農耕時代には豊作と繁栄のために、偶像を拝みました。イスラエルの周辺の異民族は、誰もが、そのような生活を営んでいました。誰も、それを罪だとは思っていません。しかし、律法は、それが罪であることを明らかにしました。イスラエルの民は、すべての異民族が行う偶像崇拝が罪ではなく、日常だと思っていたんですが、神はそれが明らかに罪であると律法を通して教えてくださいました。認知していない時は、罪ではなかったことが、律法が罪だと宣言した時から、隠れていた罪となったのです。 律法は、イスラエルを生かし、神に喜ばれる民族として生きられるようにする生命の道具でした。しかし、罪によって律法を完遂できないイスラエルが、その生命の道具である律法を通して、罪を悟ったとき、イスラエル民族は、罪に定められました。罪の代償は死という言葉のように、罪について分からない時は、その罪が何もありませんでしたが、悟った時は、その罪は死をもたらしました。ですので、私たちは、律法を通して、私たちが罪人であることを認識するようになります。もし、律法を完全に行う能力があれば、律法は私たちに命をもたらす道具となるはずでしたが、律法を完全に行う能力のないときには、律法は私たちを裁く死の道具となるのです。そのため、罪人である私たちが律法の下にいるならば、私たちは必ず死で罪の代償を払わなければなりません。命の道具が死の道具に変わったということです。私たちにとって、この律法は切れない元夫のような存在です。我々はこの律法により、永遠に死ぬしかない存在です。キリストの偉大さが、ここで現れます。律法によって罪に定められた私たちを罪のない存在であると認めてくださり、私たちを死の律法から救われ、その影響下から呼び出してくださったからです。『それでは、善いものが私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 』(13) 3.律法による人間の悲惨さから救ってくださるキリスト・イエス。 人々が、これらの律法の機能について悟るなら、おそらく、その心の中に大きな負担や不安を感じるようになるでしょう。自分を生かす律法ではなく、むしろ、非難して死なせるということが分かるようになったら、律法を行うことによって救いを得ると考えてきたが、むしろ、その律法が自分を永遠に殺し、呪う道具であることが分かるようになったら、我々はどうすべきでしょうか?おそらく、到底、希望を見つけることができないようになるでしょう。この世に生まれたすべての人に罪があります。その罪は私たちの意志とは関係なく、生まれつき、私たちの中にあるのです。自分の願いを成し遂げようとすること、自らを自分の人生で最も中心にすること、このように最も基本的な本能そのものさえ、私たちを罪に引き入れているのです。律法は、そのような本能によって罪から自由になれない人間の弱さを残酷なほど、明らかに示す道具なのです。律法を行おうとすればするほど、私たちの罪はさらに大きく現れます。善を行おうとすればするほど、自分の中の罪が、さらに明らかに現れます。自分の心は、神の言葉に聞き従おうとしますが、自分の肉体は引き続き、罪を犯してしまいます。前は罪ではないと思っていたものさえ、最終的に罪であると悟るのです。律法のもとにある人間は惨めそのものなのです。 つまり、私たちは、律法を守ること、律法を行なうこと、律法そのものを通っては、絶対に神を喜ばせることができません。むしろ生きていけば生きていくほど、より大きな罪と向き合うことになるだけでしょう。そして、その罪の結果は、果てしなく続く悲惨な死しかないでしょう。 『私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。』(18)隣人を愛すべきなのに、我々は今日も人を憎みます。家族に優しくすべきなのに我々はまた、声を荒立てます。両親を敬うべきなのに、我が儘から両親を傷つけてしまった記憶があります。自然を守るべきなのに、自然を破壊します。何よりも神を愛すべきなのに、自分自身をもっと愛しています。数多くの本能と日常が私たちに罪の結果として迫ってきます。自分は善良に生きていきたいのに、自分の肉体に潜んでいる罪のために、いつも罪の方向に走っていきます。律法を行うどころか、毎日律法を犯し、その律法は、私たちに罪人という烙印を押します。私たちは、このように罪の惨めさの中で一日一日を生きつつ、死に至る存在なのです。『それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。』(21) このような私たちの悲惨さを眺めるとき、私たちは絶望するしかありません。これによって、私たちが律法を行うことによっては、救いを得ることができない理由が、はっきりとされました。律法は私たちを命に導くために来ましたが、結局、我々を殺すものとなりました。律法が私たちを命に導くためには、必ずその律法を完成する者が必要です。彼はイエス・キリストであります。『私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。』(24 25)律法がなかった時は、何が罪なのか分からずに罪を犯し、律法が与えられた時からは、罪がさらに明確になって、死ぬしかない運命。それが私たちの悲惨な現実なのです。だから、キリストが私たちのところに来られたというのは、このようなどうしようもない私たちを、その律法の支配から自由にする唯一の道が与えられたということです。キリストが律法を完全に成し遂げ、ご自分の御名を持って私たちを、律法の支配から自由にしてくださったからです。律法は途轍もなく強いです。私たちを縛りつける沼のようなものです。しかし、キリストは、さらに強い方なのです。その沼を平らになさる力を持っておられるからです。私たちは、律法を通して、私たちの悲惨さを悟ります。そして、キリストは、そのような悲惨な私たちを主のものとしてくださり、惨めさから解放してくださり、私たちが果たすべき律法を完全に成し遂げてくださる方です。 締め括り パウロは、複数の手紙を通して、律法について教えてくれました。彼は律法は良いものであり、人を義に導く機能を持っていると語りました。しかし、律法は人を完全に義とはならせません。人には律法を完全には守る力がないからです。私たちには律法の延長線である聖書があります。しかし、我々は、その聖書の言葉を完全に守ることができません。去る一週間の生活を顧みても、私たちは聖書に記された多くの罪を犯しつつ生きてきました。律法は善いものです。善いものであるため、私たちの生活の中から罪を探し出すのです。なので、私たちは、聖書を読むとき、自分自身の罪と向き合うことになります。そういうわけである人は、聖書について「魂の鏡だ」と言いました。しかし、幸いなことに、過去のユダヤ人の律法には律法の完成のための何の言及もありませんでしたが、今私たちが読んでいる聖書には、律法の完成について、はっきり記録されています。新約聖書は、今日も、イエス・キリストが律法を完成され、我々が主と共に歩む時に、律法の影響から自由になると叫んでいます。律法は私たちに罪を悟らせてくれます。そして、イエス・キリストを通して、その罪から解き放されると訴えています。これらの律法の機能を通して私たち自身の現実に気付き、さらにキリストに頼って生きていく志免教会になって行きましょう。