罪人をキリストに導く律法。

ヨシュア記1章5‐9節 (旧340頁) ローマの信徒への手紙7章1-6節(新282頁) 聖書はイエス・キリストが律法を完全にされる方だと語っています。キリストは決して律法を無視する方ではなく、むしろ、律法の精神を完全に示してくださるという意味です。ですから、私たちキリスト者は旧約の律法を無視してはいけません。神がイスラエルに律法を与えられた理由は、その律法を通して、神の御心を学び、その御心に基づいて生きていくようにガイドラインを提示してくださるためでした。この律法に隠れている神の御心は、ご自分の民が神と隣人を愛し、神の民らしく生きていくことです。結局、私たちに律法が与えられた理由は、愛を行うためです。したがって、聖書は、今日も私たちにこう訴えます。『愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』(ローマ13:10)今日はローマ書7章を通じて、このような律法の機能と律法とキリストとの関係をどのように理解すべきかについて、皆さんとみ言葉を共にしたいと思います。 1.旧約の律法。 我々はすでに前のローマ書の説教を通して律法について分かち合いました。日本に日本国の憲法があるように、古代のイスラエルには、イスラエルの憲法に当たる律法がありました。そのため、律法にはイスラエル人のための司法、民法、刑法等のような実質的な法律が多く含まれていました。ところが、この律法は一般的な憲法とは異なる性格を持っていました。イスラエルは祭政一致社会でしたので、律法が憲法の機能を有すると共に、宗教法としての機能をも持っていました。 『それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法の全ての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。 』(申命記17:19)律法は、神を畏れることを学ばせる掟だったのです。そのため、律法には神への知識、神への崇め方、善と悪とは何かについて記されていました。すなわち、律法とは主の民の生活のための一般的な法律と神に仕える祭祀法が網羅されているイスラエル民族の生の基準だったのです。 『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることを全て忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。』(ヨシュア1:8)イスラエル民族がエジプトから出て40年の荒野での生活を終えた後、ヨルダン川を渡ろうとする時、神がヨシュアに一番最初に命じられたのは、律法を厳しく守ることでした。この律法が向後カナンの地で繰り広げられる苦難と挫折から、イスラエルの進むべき道を教えてくれる道しるべだったからです。また、この律法は、罪を悟らせる機能も持っていました。『ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。』(ヨシュア1:7)律法を守り、行なう際に、右にも左にもそれない生き方を学ぶことができたからです。右に左にそれるということは、神の御心に適わない生を意味するものです。つまり、罪のことです。神は律法を通して、罪と義について教えてくださり、義の道に進んでいく際に祝福してくださると約束されたのです。 旧約では、すでに律法が義と罪を分別し、どう生きるべきかを教えてくれる道具であることを明らかに示されていました。聖書は律法を行うことによって救いに至るのではなく、律法の行いを通して神の御導きを悟り、その中での生き方を教えてくれただけです。つまり、神は民が律法を行うことによって贖われるのではなく、律法を行うことによって罪を離れ、正しく生きるようになることを教えてくださったのです。そのように律法を行う生の中で、神の御心に基づいて、救いが決められるのです。ここに人間の力はちっとも要りません。しかし、イスラエルの宗教指導者たちは、律法を行うことによって義とされると思っていました。彼らは律法の役割について完全に誤解していたわけです。なので、イエスが来られた時代の宗教指導者たちは、律法の精神を忘れ去り、自分の宗教的な行為を誇り、律法についてよく知らず、律法を完全に守ることができない弱い人々を無視して裁きました。残念なことに、イエスの時代の律法は、完全に誤解されていました。 2.新約の律法。 パウロは、このような律法への誤った理解に対して、正しい律法観を植え付けようとしました。今日の新約本文の言葉は、そのような背景の下で、律法について論じているのです。『それとも、兄弟たち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。 』(ローマ書7:1-2)パウロは、律法とイエスについて、律法は元夫であり、イエスは新しい夫であると比喩しました。イスラエルの律法では、元夫が死ねば、新しい夫と再婚することが許されるという法があったからです。これはイエス・キリストによって、律法の支配にいた人が、キリストの支配に移されるという比喩なのです。神から前にいただいた律法は人を正しい生に導き、その正しい生を通して神に近づかせる道具でした。したがって、律法は、正しい行為とは何か、罪とは何かについての知識だけを与えるガイドだったのです。そのガイドに沿って最終的に至って会う存在は律法そのものによる救いではなく、律法を与えられた神による救いでした。 時が満ち、神は神の救いを成し遂げる存在を遣わしてくださいました。彼はイエス・キリストでした。イエスを通しての福音は、義と罪を教えることだけの役割を超え、積極的にその罪から贖われる方法をも教えてくれました。つまり、律法にはない神の救いを満足させる教えだったのです。そして、その福音の結果は、イエス・キリストを信じて罪から自由になる完全な救いでした。『ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。』(4)そういうわけで、律法はイエス・キリストに出会った人に、もはや力を発することができなくなりました。まるで、元夫が死ねば、妻に何の影響も与えられないように、キリストの中で律法は、罪を定める、その力を失ってしまいました。律法が義と罪を教える機能だけを持っていたのに対して、キリストによる福音は義を完成させ、罪の影響力を完全に打ち破る律法の完成を成し遂げたからです。そのため、イエス・キリストを信じる者は、律法に定められた罪人という身分から完全に解き放たれました。それまで律法が義と罪を仕分ける道具であったのに対して、キリストはその律法が果たせなかった罪人を義人に生まれ変わらせる力をも持っておられるからです。 『こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。 しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません。』(ガラテヤ3:24-25)パウロのまた他の聖書であるガラテヤ書はこれについて、いっそう簡単に説明しています。養育係とはローマ時代に、両親に代わって子供たちを養い、彼らが両親の跡継ぎとして、立派に成長できるように導く奴隷でした。(ローマの奴隷の意味については、先週の説教で説明しました。)旧約の律法は、キリストがこの地上に来られ、私たちに真の救いと恵みをくださる時まで、民を導く養育係に過ぎませんでした。だから、律法そのものが、私たちを罪から自由にすることはできません。私たちは、律法を通して、自分が正しいかどうか、罪人かどうかを悟るようになるだけです。このように過去の罪を悟らせる律法が、私たちを捕らえた元夫のような存在であれば、キリストは福音をもって私たちを自由にする、真の夫となり、私たちと永遠に一緒におられる方です。要はキリストに導く養育係としての役割、それが新約聖書が語る律法の機能であるということです。 3.神様のために実を結ぶ民。 このように、旧約も新約も、律法では私たちの信仰は完全にはならないということを口を揃えて語っています。しかし、人々は意外と、これらの律法を守る生を通して信仰の守り甲斐を得たりします。ある人々は聖書の言葉に打ち込んだあまり、自分より知識の少ない人を裁いたりします。神学校でも、そんな場合があります。神学知識の多い学生が同級生を見下したり、責めたりすることもあります。神学校を卒業した後も、まだ、そのようにする人がいます。積極的な信仰の行ないのない人に、実践が足りないと咎めたりします。恥ずかしいのですが、以上の例え話は、私自身の話でもあります。ところで、ある日、その全ての振る舞いが、過去のユダヤ人が持っていた律法への自負と似ていることであると認識しました。知識が、行為が、私たちを救うことはできないのですけれども、まるでイエスの時代の律法主義者たちのように相手側にいる人を裁き、侮る愚を犯してしまったのです。 数多くの知識、祈り、行い、等々。この全ては、私たちの信仰のために必ず必要なものです。しかし、最も大事なものは、我々が律法から学んだ知識、行いなどが目指すべきところは、その知識と行い自体による個人的な満足感ではなく、知識と行いによって結ばれるキリストの実を結ぶべきだということです。 『兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、全てはあなたがたを造り上げるためにすべきです。』(コリント14:26)ここでの『造り上げる』という言葉の意味は、キリストの教会を健全に建てるという意味です。私はこれこそがキリストによる神様のための実だと思います。神がお許しくださった律法も、結局は、律法そのものではなく、神から与えられた最終的な価値、イエス・キリストを示し、主の教会に仕えるためのものです。つまり、キリストを通じた信仰の実を結ばせるものです。私たちの律法による行いで、キリストの実が結ばれなければ、いかなる有益なことも罪の道具となり、最終的には無益なものとなります。律法は、ただ、私達をキリストに導く道しるべに過ぎません。 『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ6:5-6)律法は私たちに罪とは何かについて認識させる道具です。しかし、律法によって、その罪に気付いただけで、キリストによる悔い改めと罪の赦しを受け入れなければ、律法は私たちを死から自由にすることはできません。でもキリストを信じる者は、そのような律法の支配から解放され自由にされた存在です。私たちは、いつでもキリストを通して悔い改めることができ、赦されることができ、キリストを通しての実を結ぶことができます。主による「“霊”に従う新しい生き方」とは、私たちがキリストに従い、キリストに倣って生きていくことです。律法の教えに従って生きると同時に、律法の限界を明らかに悟り、その律法が導くところ、すなわち、イエスを信じること、キリストに見倣うこと、彼の民らしく、良い実を結びつつ生きていくことを追求することこそ、神が私たちに律法を与えられた本当の理由ではないでしょうか? 結論 過去、キリストを知らなかった私たちは、罪の実を結ぶ人生を生きてきました。神を信じず、他人を憎み、自分だけのために生きて来ました。いくら聖書をよく知っていたとしても、善行をたくさん行ったとしても、キリストの恵みがなければ、私たちの生は、最終的に律法に罪を定められ、罪人として裁かれ、罪の実を結ぶ生になって死んだはずでしょう。しかし、今、キリストを知っている私たちは、私たちの罪が何なのかが分かるようになり、その罪から完全に自由になりました。キリストが贖ってくださったからです。そしてキリストによる聖霊の導きのゆえに、本当に善を行い、義の実を結ぶことができる立場に立つことになりました。この全てが、イエス様の愛と救いによる恵みなのです。したがって、律法の影響から自由な者になっていきましょう。足りない部分があっても、キリストを信じて生きていきましょう。律法の教えを行ないながら義の実を結んでいきましょう。主が私たちの弱さを知り、助けてくださるでしょう。主の御守りの下で、律法の精神である愛を行い、主と隣人に喜ばれる神の民、志免教会として、私たちの生を生きていきましょう。