罪に死に、キリストに生きる。
詩編16章7-11節 (旧846頁) ローマの信徒への手紙6章1-14節(新280頁) 前置き 私たちは、これまでのローマの信徒への手紙の言葉を通して、人間の罪深い本質について、そのような人間を愛しておられる神について、神と人間を和解させてくださるキリストの恵みについて、そして、そのようなキリストの恵みを実現させる聖霊について分かち合いました。ローマ書は非常に複雑な内容と理解しにくい内容の話をたくさん含んでいる聖書ですが、その最も大事な教えは、『イエス・キリストが罪から私たちを救ってくださった。』ということです。レントとイースターを通して分かち合ったもの、つまり、ご自分の民の罪をお赦しくださるために死んでくださり、復活されたイエス・キリストを覚えながら、再びローマ書の話を続けていきたいと思います。複雑で容易ではない内容のローマ書の言葉ですが、最後まで、よく学ぶことが出来るよう、皆さんのご協力とお祈りをお願いいたします。 1.パウロの時代の人々の救いに対する誤解 ローマは、帝国の首都として罪に満ち満ちた都市でした。ローマ教会はそのような罪の都市にありながら同時に、イエス・キリストを信じる信仰の共同体でもありました。パウロは、ローマ書を通して彼らの信仰を褒めると共に、それでも、人間は罪人であるということを改めて強調しました。パウロはいくら神を信じると自負する者でも、神の御前で罪の悔い改めがない場合、また、神ではなく、自分の力に頼って救いを得ようとするなら、決して救いに至ることが出来ないと警告しました。旧約の神の民であるユダヤ人にしろ、新約の異邦人のキリスト者にしろ、ひたすらイエス・キリストを救い主として信じ、自分の罪を告白して、神様に従う時のみ、民族と出身を問わず救われると教えたのです。キリストによって義とされた人は、他の何物でもないキリストへの信仰だけによって救われました。信仰によって救いを得た義人は、どのような苦難の中でも、神が共におられる祝福を得る人です。彼らは永遠に、神と和解できる恵みの中にとどまる人です。罪によって神と離れた人類は、ただイエス・キリストを通して神と和解することができます。キリストにあって生きていく者は永遠に神を自分の誇りとして、主と同行することができます。以上がローマ書1-5章の主な内容でした。 ローマ書1-5章の言葉で最も重要な内容は、まさに 『どんな罪人であっても、イエスを信じることによって義とされ、神の民として生きることになる。』ということです。罪人は神を離れ、不義を行い、それによる罪の中に生きて、神に見捨てられる永遠の死に至る運命でした。ですが、神様はそのような罪人にキリストによる新しい人生を得る機会をくださったということです。しかし、パウロがイスラエルとローマ帝国の各地で教えた、この恵みの福音は、当時ローマ帝国に蔓延していた、ある異端思想によって深刻に歪められてしまいました。それは『グノーシス主義、霊知主義』でした。グノーシス主義とは、『人は真の知識によってのみ、救われる。』という教えを中心とした宗教的、文化的思想でした。(グノーシスはギリシャ語で知識、認識を意味する。)『真の知識を通して救いを得る。』という言葉そのものは、非常に耳に聞き良い言葉だと思うんですが、その真の知識というのは、キリストの真理と救いとは何の関係もないものでした。グノーシス主義には、様々な教えがありましたが、その中で最も代表的なものは『肉体は悪、霊は善。』」という二元論でした。彼らはこれが真の知識の基本だと信じていました。 彼らが主張した『肉体は邪悪な神によって創造されたので、悪であり、霊は善良な神によって創造されたので、善である。』という教えは、色んな副作用をもたらしました。たとえば、『アダムを創造した旧約の神は邪悪な神、イエスを遣わした新約の神は善良な神。』 あるいは『肉体は邪悪なものであるため、イエスの肉体は復活せず、彼の魂だけが復活した。』などの教えでした。彼らのうちには、『肉体は邪悪であるため、どんなに善良に生きても肉体は救われない。だから、飲み食いしつつ楽しもう。』と主張する快楽主義もありました。当時の一部の人々は、これらのグノーシス主義的な快楽主義に陥って、『イエス様を信じれば、私たちの魂は、必ず救いを得ることが決まっている、だから、思う存分、自由に生きよう。』という考えでパウロの教えを誤解し、わがままに生きる人もいたそうです。『律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。』(ローマ5:20)快楽主義のグノーシス主義者たちは、これらのパウロの教えを誤解して、『私たちが罪を犯しても、主はより大きな恵みをくださる。』というこじつけを主張したと言われます。このようにパウロが教えたキリストの福音を歪曲したグノーシス主義の教えは、当時の教会に数多くの混乱と誤解を増し加えました。 これらの副作用の痕跡は、聖書の他の箇所でも見つけることができます。 『行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。』(ヤコブ2:18)当時の教会の中では『ただ信仰によってのみ救われる。』という言葉を誤解した人が度々見られました。彼らは放蕩な生活をしたり、または、近所の人や社会には何の関心もなく、ただ自分だけに集中したりする誤った信仰生活をしていました。我が儘に生きても、信仰さえあれば、救われると思っていたわけです。そういうわけで、ヤコブは『魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。』と話したのです。確かにパウロの教えのように罪人は、ただイエス・キリストによってのみ、救いを得ることが出来ます。しかし当時の世界は誤った信念のために、福音を歪めることが多かったのです。ですのでパウロはこのような教えを通して強く警告したのです。 『どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪の中に生きることができるでしょう。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、また、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。』(ローマ6:1-3)残念なことは、このように信仰のみ強調して、実践のない信仰生活を続ける人々が、今も少なからず、いるということです。今日の言葉は、信仰を口実として、誤った生き方を通す人へのパウロの警告なのです。 2.罪に死に、キリストに生きるということとは? ならば、キリスト者はどのような生き方を通すべきでしょうか?『あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。』(ローマ6:22)(ローマ時代の奴隷は、日本で知られている概念とは意味が違います。言葉の上では奴隷ですけれども、持ち主の助力者としての意味の方がさらに強いのです。それでも、違和感があると思いますのでしもべと言い替えさせていただきます。)本当にイエス・キリストを信じ、神に救われた者は、自分の思いのままには生きていきません。キリスト者は自分が神のしもべとされたことを自ら自覚している者だからです。しもべとされたのは、持ち主がいるという意味でしょう。持ち主の意志に聞き従い、持ち主の命令に服従することが、真のしもべとされた者の在り方でしょう。パウロが語っている『信仰によってのみ、救いを得る。』という言葉は、私たちが主のしもべとなったという意味です。これは単に信じるだけで、すべてが終わるという意味ではありません。しもべとして行うべき役割があるということです。キリストを信じて罪から解き放された私たちは、神のしもべに相応しい生活を営まなければなりません。それこそがキリストを信じる人の真の在り方、信仰なのです。今日の本文に出てくる言葉のように、イエスを信じるということは、私たちがイエス・キリストの死と復活を通して、主のしもべとされ、主の御心に適う生を生きるということです。つまり、キリストのしもべであるキリスト者は、イエスに従う人生が必ず伴われなければならないということです。 イエスは神のご意志に従って、この世に生まれ、従順に生きて、神の御心に応じて死んでくださいました。主の人生はすべての面で御自分の欲望と考えではなく、遣わされた方の御心に従う人生だったということでしょう。主によって救われたキリスト者の生き方も、これと同様であるべきだと思います。神に聞き従い、死に至られた主のように、キリスト者の人生も、自分の欲望ではなく、主の御心に従って生きるべきでしょう。そういうわけでローマ書はキリスト者のアイデンティティについてこう語ります。『私たちがキリストと一体になってその死の姿に肖(あやか)るならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』(5)キリスト者の生活は、キリストと一つになって彼の生き方に従うことです。しかし、我々は、自分が決してそのような生き方を貫いていないということをしみじみと感じています。私たちは、すでにキリスト者となった者ですが、いつも自分の考えばかりで生きようとする傾向があると思います。隣人を愛すべきですが、気に入らない人を憎む傾向もあると思います。神に従うべきですが、最終的には自己中心的に生きていく傾向があると思います。両親を敬うべきですが、そんなに優しくない傾向があると思います。欲張ってはいけませんが、欲張りの本性を持っていると思います。私たちの生活の中に、キリストの姿より、自分の判断に従う姿が、しばしば見られると思います。つまり、依然として、私たちに罪の影響力があるということでしょう。 ローマ書によると、私たちは既に罪に死んだということが分かります。なのに、なぜ、まだ罪人の性質を持っているのでしょうか?キリスト者は明らかに罪の赦しを受けた者なのです。キリストの血潮が私たちの過去と現在と未来の罪を全て洗い上げました。これは、神が確証してくださることです。しかし、私たちは『既にと未だとの間』に生きる存在です。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(4)キリスト者はキリストの死にあずかる洗礼を受けました。私たちは、この洗礼という言葉を通して、今の私たちの状況を推測して見ることができます。私たちは、主の御名によって洗礼を受けます。洗礼は死んだ者が生き返ること、すなわち、復活の象徴です。しかし、私たちは、実際にはまだ死も復活も経験していません。それでも、主はキリストの御名による、この洗礼を通して、我々はすでに罪に対して死に、キリストによって復活されたと見なしてくださいます。本当に死に、復活したのではないですが、そのように認めてくださるということです。つまり、私たちは、まだ罪を持っている不完全な存在ですが、キリストによって、神に罪のない、復活された義人と認められているのです。 私たちは、主に洗礼を授けられ、新しく創造された者となったと、主の正しい民となったと信じて生きていきます。しかし、私たちの中には、まだ罪が残っています。そして、まだ完全な善を実践して生きることが出来ません。しかし、主はキリストの名によって行われた、洗礼を通して、私たちキリスト者を『すでに死んで、復活した存在』としてくださいました。そして終わりの日に、神の御前に立つ時まで、私たちを義と認められ、導いてくださるでしょう。キリストと共に生きることは、このような御導きの中に生きることを意味します。私たち自身はまだ取るに足りなく、完全ではありませんが、キリストという正しい方の手柄を拠り所とし、自分も義人と認められたこと、まだ完全ではないけれど、最後の日の完全な存在になるまで、主が我らを守ってくださること、これこそがキリストを信じる人に与えられるかけがえのない大事な神の恵みなのです。私たちは、キリストによって罪に死んだ者として、キリストによって復活した者と認められ、生きている者です。ですから、私たちに罪の痕跡が残っているからと言って、恐れる必要はありません。私たち自身のことを深く知り、主に喜ばれる人生とは何なのかと、どのように善を実践して生きていくべきかと、苦悶する時、主は私たちが進むべき道を喜んで教えてくださるでしょう。 締め括り 『あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(12-13)私たちは、キリストによって義と認められた存在です。したがって、私たちは私たちの中にある罪に沿って生きてはなりません。私たちは主の義のための道具として、それに合致する人生を生きていくべきです。主の義のための道具として自分自身を神に捧げるということは、単純な献身、あるいは奉仕を意味するものではありません。神の御心に合致する人生とは何なのかと悩み、それを自分の生活の中に適用させて、神に聞き従う人生。主に喜ばれる生活のために孤軍奮闘する人生、それらこそが、主の義のための道具としての人生なのでしょう。『命の道を教えてくださいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。』(詩篇16:11)主は、主に従う者らに、彼らの進むべき命の道を示してくださいます。信仰によって救われたということに満足して、我が 儘に生きる人生ではなく、毎日、主が示してくださる命の道とは何かと悩みつつ、キリストに属している者として生きていきましょう。常に我々の信仰に適う善の実践を追求する時、神は義とされた者として、私たちのことを喜ばれ、正しい道に導いてくださるでしょう。