聖霊の降臨。

ヨエル書3章1-5節 (旧1425頁)・使徒言行録2章1-4節(新107頁) 前置き イースター後、50日が経つと、我々は習慣的にペンテコステを記念し、しばらくの間、教会から遠ざかっておられる方々にハガキを送ったり、ペンテコステ記念礼拝を捧げたりします。しかし、『聖霊が来られた。』という意味に対しては、礼拝後すぐ忘れたり、日常生活の中では、そんなに意識せずに生活したりするかも知れません。残念なことに、アメリカや韓国のいくつかの教派では、ペンテコステの主日に大麦の収穫に合わせて、麦秋感謝主日という名の記念日を守り、ペンテコステであることも知らないまま、過ごす場合もあると言われます。このように聖霊は父なる神とイエス・キリストに比べて、あまりにも低く評価される傾向があると思います。聖書でも聖霊よりは、御父と御子をより多く注目する傾向が見えたり、祈るときにも、父なる神にイエス・キリストの名を持って捧げたりする場合が多いと思います。つまり、私たちの日常生活の中で聖霊を意識して生きることは、比較的に少ないということでしょう。しかし、聖霊は私たちの思いよりも、遥かに多くのお働きをしておられる全能なる神様です。聖書とか、祈りとかに聖霊の登場が少ない理由は、聖書の本当の著者が、祈りの導き手が、この聖霊なる神様であるからではないでしょうか?私たちは父と子と聖霊が一緒に働かれる時にはじめて、世と教会、そして私たちの生活の中で神の御意志が成し遂げられるということを知る必要があると思います。今日はペンテコステを迎えて、この大事な聖霊の降臨について一緒に分かち合いたいと思います。 1.聖霊降臨の意味 – 聖霊をとおしての神と人間の同行。 私たちは三位一体なる神を信じる共同体です。『三位の神が一体でおられる。』という神学的な概念は、人間の常識では到底、​​理解できない不可解な領域ですが、それにも拘わらず、私たちは、聖書に基づいて、父、子、聖霊が一体の神として、教会と世界を治めておられることを信じて認めています。父は万事を計画され、子は父の言葉であるという権威として、その計画を命じられます。そして、聖霊は父のご計画がキリストを通して宣言される時に、それを成し遂げるために働かれる方なのです。つまり、一体でいらっしゃる三位の神が、各々の役割を持って一つの目的のために存在しておられるということです。したがって、聖霊は神の力、あるいは道具ではありません。父と子のための助役でもありません。その方は人格を持っておられる神様そのものなのです。私たちは創世記の始めに出てくるこの言葉に注目する必要があると思います。 『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』(創世記1:2) 世界が造られる前から、すでに聖霊は神の霊でいらっしゃり、父と子と一緒に世界を創造された方でいらっしゃいます。ですから、私たちは聖霊の降臨を考えるとき、神の力や権能が、この地上に臨んだというイメージより、神が手ずから、この世に来られ、私たちと一緒におられるための神の臨在の出来事だという認識を持つべきだと思います。聖霊のご降臨は、神の愛とキリストの救いが、私たちの所である、この地上に実現される強力な神の御働きなのです。そして、その主人公は、正に、この聖霊なる神様です。今日の旧約の本文を見てみましょう。ヨエル書3章では神様が『主の日、大いなる恐るべき日』、神が『この世の悪をご処断なさる、その日』の到来の前に主の民に来られると記されています。また、神が来られ、その民を赦してくださり、神の霊を神の僕、すなわち神を信じる皆に注がれ、彼らに救いを見せてくださるとも、記されています。これは民を赦してくださったキリストの御業の後、神の聖霊を送ってくださり、絶えず民と共におられ、『主の日、大いなる恐るべき日』が至るまで、聖霊を通して一緒に歩んでくださることを、先に明確になさったのではないでしょうか。 聖霊の降臨はイエス・キリストを通して成し遂げられた、罪人への赦しを確証する約束であり、それによって罪人を守り、神の子としてくださる和解の象徴です。神は聖霊の降臨を通して、永遠に民と一緒に歩んでくださるでしょう。ペンテコステに来られた聖霊は、そのような神の強力なご意志と約束を示す象徴であり、実行そのものです。民を愛しておられる父、民を救ってくださるイエス・キリストは、父と子の御心を持ってこの地上に来られた聖霊を通して民と永遠に一緒におられるでしょう。そして、この聖霊を通して、その愛と救いは永遠に保たれるでしょう。したがって、聖霊のおられる所には、御父の愛があります。聖霊のおられる所には御子の救いもあります。聖霊のおられる所には、神の暖かい恵みがあります。これらの神の愛と救いと恵みが聖霊を通して私たちの中に満たされたこと。これこそ、聖霊の降臨が持つ本当の意味であり、ペンテコステを覚えなければならない、大切な理由なのです。 2.聖霊降臨の意味 – 罪人を義人に生まれ変わらせる聖霊の恵み。 旧約聖書、創世記11章では、次のような言葉が出てきます。『彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て言われた。』(創世記11:4-6)これは神が罪人の仕業のために地上に降臨された出来事でした。その時、人間は、強力な指導者を中心とし「バベルの塔」を築き上げていました。当時の人々は、天が神の場所だと思っていました。しかし、人々は高い塔を建てて天まで届き、神の場所である天を奪おうという高慢な意図を抱いていました。そして、有名になり、自らが神のような存在になろうとしました。『有名になる。』という意味は、当時の文学的な表現であり、自分の名前を出して権力を握るという意味です。これは神への反逆を意味するものでしょう。創世記によると多くの人が神のようになるために反逆し、滅びていきました。アダムは反逆の罪のため、神に呪われ、エデンから追い出されました。また、大洪水による人類の滅亡もありました。しかし、人間が持っている罪の性質は消えず、むしろ延々と続きました。 『主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされた。』(創世記11:9)神は、そのような罪人の反逆をご覧になるために、地上に降臨されたわけです。そして、神は彼らの言語を混乱させ、そこから散らされました。神の場所を奪おうとしていた人間の罪深い努力は、神の全能なる力の前に、無力にも言語と民族の分裂という形で現れました。神の最初の降臨は、このような人間へ呪いと裁きを下される恐ろしい降臨でした。しかし、今日、新約聖書での降臨は、それとは全く違う性格を持っています。『突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。』(使徒言行録2:2,4 )過去、罪によって分裂された、数々の言語が聖霊の降臨によって一つの声を出し始めたのです。もちろん言語は異なりました。しかし、聖霊のお導きにより、一つの心を持つようになった弟子たちは、自分の名前ではなく、神の御名を示す言葉を言い出しました。イスラエルの言葉、ローマの言葉、ギリシャ語、アフリカの言語、数多くの言語が湧き出したのですが、それらの言語は一つの声を高めていました。それは『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使徒言行録2:21)でした。 今日の旧約本文の人間たちは、自分の欲望のために、神に反逆しました。彼らは神の座を奪おうとしました。そんな彼らに下された神の裁きは混乱と分裂でした。彼らは自分の罪のゆえにさらに分裂し続け、この世も益々混乱と破壊に満ち溢れてきました。これは神の強力な呪いでした。しかし、キリストによる神の赦しと愛が成し遂げられ、その象徴として、聖霊が来られた時、人々の混乱の中から希望が湧きはじめました。過去の人々は、同じ言語を持っていたにも拘わらず、神を裏切って悪を企んでいました。しかし、キリストによって、聖霊と出会った弟子たちは、数々の言語にも拘わらず、心を合わせて神の御名を高め、追い求める正しい民に生まれ変わりました。聖霊の臨まれたところには、もはや神への反逆はありませんでした。彼らはひとえに神を高め、キリストを宣べ伝え、聖霊から力を受けました。聖霊が臨まれた、その日、罪人は生まれ変わり、神の民として堂々と神を伝えるようになったのです。そして、その日、彼らによって3000人の人が主イエスを信じることになりました。 同じ神の降臨ですが、創世記と使徒言行録の話は全く異なる結果をもたらしました。この二つの違いは何でしょうか?まさにイエスの十字架の出来事です。神の愛とキリストの救いが十字架で成し遂げられた後、聖霊は父と子のご意志を持って、弟子たちに臨まれました。キリストによる救いによって、恐ろしい混乱と分裂の降臨の代わりに、愛と救いの降臨が起こりました。過去の降臨が呪いの降臨であれば、ペンテコステの降臨は祝福の降臨でありました。今、私たちの間におられる聖霊は、キリストを通して私たちのところに来られた祝福の霊です。私たちは、この聖霊によって父の御心を悟り、キリストの御心を学び、神の国への希望と教会への愛を持つようになります。ペンテコステの聖霊は、これらの神の恵みを私たちにくださり、私たちの人生を導いてくださるために、永遠に私たちと共におられます。私たちは、その降臨された聖霊とイエスという名の下で一つの群れとなって、今日を生きていきます。聖霊の降臨は罪人を義人に生まれ変わらせる神の大きな祝福なのです。 締め括り 私たちは、過去2カ月間、それまで守り続けてきた主日礼拝をしばらく休止し、それぞれの場所で個人的な礼拝として守ってきました。主の御言葉に従い、集うことに力を入れつつ、神に賛美と礼拝を捧げた、過去の姿とは全く違う、それぞれの礼拝を守られたことでしょう。このような2ヶ月を経てきて、いろいろ複雑なお気持ちになられたと思います。集うことの大切さ、教会共同体と、そのお一人お一人の大切さをも感じられたと思います。私達は皆他人で、何の血縁関係も、金銭的な関係もありません。それにも拘わらず、私たちは一つの教会として、参集できない状況にもどかしさを感じつつ、祈ることになりました。なぜ、私たちは、このような心を持つことが出来たのでしょうか? 『平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。』(エフェソ4:3-4)このように、私たちを一つにならせる祝福の聖霊が私たちの間におられるからだと思います。一つにならせた聖霊の恵みを覚え、聖霊なる神に私たちの人生と生活をお任せしてまいりましょう。自分の心に注がれた神への愛と隣人への愛とを行い、聖霊が働いてくださる生活を生きていきましょう。聖霊が聖書の言葉を通して、私たちの人生の一足一足に、私たちの追い求めるべき生き方を教えてくださるでしょう。志免教会の上に神の恵みが豊かにありますように祈ります。

霊と肉の分かれ道で。

創世記6章1-7節 (旧8頁) ローマの信徒への手紙8章1-17節(新283頁) 前置き ローマ書の説教が始まってから2〜3週間目になったある日、『果たして、ローマ書の説教を始めたのは良い選択だったのか?』という悩みが湧き上がりました。説教を準備する私にも、聴いてくださる皆さんにも、分かりにくく、複雑な内容だったからです。ローマ書が難しく感じられる理由は、いくつかの神学的な話がごちゃごちゃになって、体系的に整えられていないという理由と同時に、何よりも当時の哲学、文化、社会的な知識の背景がなくては、パウロが伝えたがっていたところが完全には理解しにくいという理由もあったからです。しかし、ローマ書は、私たちに一つの明らかな教えを強調しています。 『イエス・キリストを信じなさい。そこに正解があります。』ローマ書は、このように変わらない真理を伝えている聖書ですので、難しいものの、必ず取り上げるべき大事な聖書です。そういうわけで、ローマ書の8章の言葉は実にローマ書の中で最も重要な教えと言えるでしょう。神の律法さえも解決できなかった、人間が持っている罪の問題を完全に解決してくださるキリストの恵みと愛が明確に示されているからです。ローマ書の説教は、複雑で分かりにくいです。しかし、ローマ書を通じた、神の恵みは、確かです。いよいよローマ書を半分くらい学びました。私も足りない知識をもって取り組んでおりますが、この説教を通して与えてくださる聖霊のお導きを期待しつつ、続けてローマ書を学んで行きたいと思います。 1.肉に従う人生。 『世のすべての人は不義のために罪人となった。神の旧約の民であるユダヤ人さえ、それから自由になれない。初めから今まで、すべての人間は、罪によって汚れている。神は人間にその罪に対処するための律法を教えてくださったが、結局、人間はその律法によって、さらに明確に罪に定められた。実に人間には救いを得る力がない。』今までローマ書は、このような人間の惨めさについて続けて語ってきました。特にローマ書は7章の言葉を通して、人間のこのような惨めさの理由が『罪の法則』に支配されているからだとしました。『わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。』(ローマ7:23)ローマ書は罪人には不義と罪に従う性質しかないということ、いくら善を行おうとしても、最終的には悪に流れていってしまうということ、それにいくら逆らおうとしても自由になれないということを嘆き、人間は罪の法則に捕らわれていると語りました。ローマ書はこれを『罪と死との法則』と言います。 ローマ書は、この『罪と死との法則』に生きる人生を『肉に従う歩み』としました。つまり、『罪と死との法則に導かれて生きる人生は肉に従う人生である。』という意味です。私はこれが罪人に対する最も適切な説明だと思います。ここでの肉とは『サルクス』というギリシャ語です。ギリシャ語では、肉を意味する2つの表現があります。『ソーマとサルクス』です。 「ソーマ」とは一般的に肉体を意味します。つまり、人間の物理的な体を指す表現です。『サルクス』も肉体あるいは肉という意味を持っています。しかし、この言葉は、より本質的な人間、人間の本性などを意味します。人間の罪、弱さ、悪、限界等がこの言葉に含まれます。従って、『肉に従う歩み』という意味は、神に背き去る『罪と死との法則』の支配下で生きていく、サルクス的な生き方を意味します。日本語では、肉的な人生ほどの意味 でしょう。まさに罪の性質に支配されて、罪の影響下に生きていく存在を意味するものです。今日の旧約本文である創世記6章3節に出てくる肉という言葉は、まさにこのサルクスを意味するものです。 『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』(創世記6:3)このように肉に従う者らの最後は洪水の裁きによる絶滅でした。 ローマ書8章は、このように肉に従って生きる人、すなわち罪人という存在が自由になる素晴らしい教えを伝えています。『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』(1-2)キリストが地上に来られた理由は、まさにこのためです。イエスは罪人の中に暴れている罪の性質に従うサルクス的な人生から、罪人を救い出され、『命をもたらす霊の法則』をくださるために来られたのです。 『肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。』(3-4)主は罪の無い方ですが、自ら、サルクスを持つ『罪深い肉と同じ姿』を持って私たちのところに来てくださいました。罪人をその罪から自由にするために、罪人の姿そのものとして来られたという意味です。主は私たち人間のように『罪深い肉と同じ姿』で来られ、罪の代償を払われ、律法の要求を満足させられました。そのような律法の満足への報いは、キリストの中にいる、すべての人々を罪と死との法則から解放することでした。 2.霊に従う人生。 ところで、主が私たち罪人のようにサルクスの姿をもって来られたからといって、イエスに罪があるとは言えません。キリストは何の罪もない純潔な方だからです。それでは、イエス様が『罪深い肉と同じ姿』として来られたということは、どのような意味でしょうか?これは受肉を意味するのでしょう。しかし、これは単に『神が人間を救うために、人間と異なる特別な存在として来られた。』という意味ではありません。 『この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。』(ヘブライ人4:15)これは、主自らが人間の最も弱い部分、すなわち完全に同じ立場から、人間を代表する存在となるために、自らが、人間の立場に来られたということを意味します。表面的にだけ人間を理解するという言葉でなく、見た目だけ同様になるという意味でもありません。私たち人間の悲惨さに手ずから参加され、完全に人間の立場から人間の罪を代わりに背負うために来られたということです。主は『罪と死との法則』の支配下で苦しみを受け、最終的に死ななければならない人間として来られ、そのすべての弱さを直接体験し、人間への完全な理解と経験を持って死なれたのです。だから、私たちに向かう主の御救いは完全です。『罪と死との法則』に支配されるサルクス、すなわち肉はキリストによる『命をもたらす霊の法則』に完全に屈服しました。 『神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。』(9)なので、キリストを信じ、罪の赦しを 受けた者はキリストによる『命をもたらす霊の法則』の下で生きていく人です。『命をもたらす霊の法則』の支配下に住んでいる人は、キリストの霊と共に歩む人であり、もはや肉に従わず、霊に従って行う者です。そのような霊に従う者には、律法の要求が成し遂げられ、これ以上の裁きと死の恐怖に怯える必要がありません。私たちを贖われた主が私たちに下されるべき裁きと死の影響をすでに解決されたからです。律法によっては解決できなかった問題をキリストが解決してくださったのです。『肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。』(5-6)キリストによってサルクス的な生から抜け出し、霊の法則の支配に入ってきた私たちは、霊に従って生きる人です。そのようなキリストに属する人に死は何の力も使えません。むしろ、主が与えてくださる命の希望と、どのような苦しみにも揺らがない平和があるだけです。 ここでの霊とは何でしょうか?もちろん、これは、キリストによる聖霊の御臨在を意味します。では、聖霊の臨在とは何を意味するのでしょうか?『しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。』(ヨハネ16:13)霊に従って生きる人生とは、私の人生に神とイエスを通して来られた聖霊が共におられることを意味します。聖霊は神とキリストの真理の言葉に信者を導き、神とキリストの言葉を悟らせてくださるという意味です。つまり、主の御言葉通りに生きるように導かれるという意味です。主が私たちを愛しておられることを認識させ、主が追い求めておられるように神への愛を実行させ、主が送ってくださった隣人を愛するようにさせ、私の生活の中で、神の国が成し遂げられるように、お導きくださることを意味します。主の恵みの中で実践的に生き方の変化が生じるという意味です。神の霊、キリストの霊が共におられるということは、神のご意志が私の中にも現れるということです。罪人であった私が、過去の生活を捨て、神が追求される愛と平和の成就のために自分自身を神の道具として捧げるという意味です。 3.キリスト者に相応しい生き方とは。 『それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。』(12)今日の言葉の中で最も重要な内容は、私たちがキリストという神の恵みを通して、『罪と死との法則』から解放されて『命をもたらす霊の法則』に入ったということです。かつて、私たちは肉の法則、すなわち『罪と死との法則』の下で不義と罪への義務をもっている者でした。この義務の原文は『借金』を意味します。罪人として生まれ、罪の力に縛られた肉の支配下で罪がなければ、生きることが出来なかった存在であったため、そのような罪への債務を持って生きていく存在でした。つまり、罪が私たちの生の原動力のようなものだったということでしょう。その時、私たちは罪による悪と肉が導く方向に進む存在でした。その肉への代償は罪で、死だけでしか返済できないものでした。しかし、キリストが私たちをその罪から救い出してくださり、これ以上、肉への債務が無くなりました。 今や、私達は、『命をもたらす霊の法則』に導かれた神に命の債務を持つ存在となりました。私たちは、 もはや過去のような罪深い生活を続ける必要がありません。今や、神が私たちの中に植えつけてくださった聖霊の導きに沿って、神の御前に正しい生活をしつつ借金を返して生きるべきです。私たちは、命の存在としてキリストに債務を持つ者となったということです。私たちは、過去のような死の恐怖に震える必要がありません。罪による死の恐怖から逃れられたからです、だから、神の望まれる義人としての人生を生きていきましょう。霊の法則によって新たになった私たちは罪を離れ、神の喜ばれる人生とは何なのかについて敏感に反応するべきでしょう。弱い私たちが神に返すものは何もありません。ただし、神への債務を清算するかのような心を持って生きていきましょう。聖書に記された正しいことを行い、キリストが神と隣人に対して抱かれた愛と善行に従って生きていきましょう。忘れてはいけません。今、私たちに託された命は、罪の人生ではなく、義の生活であり、キリストに従う人生なのです。 『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 』(15-16)そのような生活の中で、キリストの霊が私たちに与えてくださる証言は、私たちが神の子となったということです。正しく生きてきたから、神の子とされたのではなく、神の子となったから、正しく生きるべきであるということです。私たちの生きるべき正しい人生とは何でしょうか?おそらく、皆さんの心の中にすでに浮かび上がってきたと思います。キリストにある私たちは、律法によって罪に定められる存在ではなく、すでにキリストによって律法を満足させた者として認められ、律法に記されている正しいものを何の非難もなく行うことができる存在となりました。そのような罪から自由になった存在、律法の非難から解放された存在、キリストのように神の御前で何の恐怖をも感じない存在。それがまさに神の子となった私たちの新しいアイデンティティなのです。今日のローマ書は、そのような私たちが、神の栄光の相続人として認められた主の子だと語っています。これがローマ書が語っているキリスト者の生き方なのです。 締め括り 『もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(17)最後に今日の本文は、私たちがそのようなキリストの恵みの中で、神の子としての栄光が得られたので、その栄光に応じて、苦しみも受けるべきだと教えます。罪の支配ではなく、生命の支配、キリストの支配下にある人々は、聖霊の法則に従い、神の御心を成し遂げるために生きていくべき存在です。神の聖なる御心は罪に満ちた世に常に抵抗されています。私たちは、私たちの生活の中で積極的に神の聖なる御心に聞き従って生きなければならない存在となりました。なので、私たちは、常に霊的な抵抗のうちに住まなければならない存在なのです。私たちが、善を行おうとするとき、苦難を受けるでしょう。しかし、恐れる必要はありません。神が私たちの中に神の霊として一緒におられるからです。キリストによって救われたキリスト者として苦しみを恐れず、すでに私たちに与えられた神の栄光に感謝していきましょう。私たちは、今、キリストのお陰で、神の前で正しい存在として認められています。正しい存在、神の子、キリストの民、神の相続人として、世の罪と悪、苦難に向かい合う聖なる信者の生を生きていきましょう。

罪人をキリストに導く律法(2)

ヨシュア記1章5‐9節 (旧340頁) ローマの信徒への手紙7章7-25節(新282頁) 前置き 先週、私たちは、律法の役割について学びました。律法には、神の御心について、また、神と隣人を愛するように導かれる信者の生き方について、そして、最終的に信じる人をキリストに導く生命の道について記されています。しかし、律法そのものは信じる者に救いを与えるわけではありません。その律法の記録どおり、いくら学び、行なっても、私たちに命を与えることができないということでしょう。キリストがいらっしゃらなければ、この律法のすべてを守っても、真の満足と救いはないということを教えてくれるだけです。パウロは、律法について、まるで子供を養って親に導く養育係のようなものだと話しました。律法がその下にいる者らを律法の完成であるキリストに導くということです。また、律法は、キリストという真の夫が来られるまで、信者を支配する元夫のようなものだとも話しました。律法は大事なものですが、それだけでは完全にならないことを力説したものです。律法を通してキリストに出会うときこそ、その律法は完全にその役割を果たせるということです。今日は先週に続いて、律法の役割について、もうちょっと分かち合いたいと思います。 1.法の二つの顔。 律法は神の民を生かす生命の書物です。律法は信者にとして、どのように生きるべきかを示す大切な教えです。イスラエル民族が追求すべき生き方を教える憲法のようなものと同時に、神に仕えるための宗教的な教えを与える宗教法として、神の民の進むべき道を示す必要不可欠な教えなのです。神の民は、律法を通して生の在り方を学び、神のご意志を探ることができます。この律法が指示する生き方をよく守り、聞き従って生きていく時に、神の民は正しい道に沿っていくことが出来、神に喜ばれて生きることができます。ですので、神はイスラエルがカナンの地に入る際に、ヨシュアを通して律法をよく守りなさいと命じられたのです。『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。 』(ヨシュア1:8) しかし、それと同時に、律法は民を死なせる書でもあります。『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。』(ローマ7:5)先週は言及しませんでしたが、ローマ書は、キリストが来られる前には、律法が私たちの元夫のように、私たちを捕らえて罪の中にいるようにしたと語っています。キリストは、そのような死の律法から、私たちを解き放し、もはや律法の影響下ではなく、キリストの栄光に移されたと語りました。明らかに、神は御自分の民に命の実を結ばせるために律法を与えてくださったと語りましたが、なぜローマ書は突然言葉を翻して、律法が私たちに死に至る実を結ばせると語っているのでしょうか?律法が私たちに罪を追求する欲情を与えるという意味でしょうか?本当に皮肉な話ではないかと思います。 これは、律法に二つの顔が隠れているからです。確かに律法は私たちを生かすものですが、同時に、私たちを死なせるものでもあります。しかし、パウロは、明らかに宣言しました。『律法は罪であろうか。決してそうではない。』(7)律法は、明らかに罪ではありません。しかし、我々が律法を通して得る影響は両面性を持っています。パウロはその理由について、こう説明しています。『律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が貪るなと言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう。』(7)人は、律法によって罪を悟るようになりますが、同時に、その律法によって罪に定められるのです。古今東西を問わず、人々は、律法を行うことによって、神の御心を成し遂げ、神に一歩近づくことができると思いました。律法に接する人は自らが律法を守る能力を持っていると考えたということです。律法を完全に行うならば、きっと神に褒められると考えたわけです。しかし、人々が見落としているものがあります。人間の中にある罪という存在が、人間が考えている通り、律法を完全に行うように、放っては置かないということです。 2.罪を悟らせる法。 パウロが話そうとするところは、まさにこれなのです。私たちが律法を行おうとすればするほど、この律法を完全に守れない私たちが見つかるということです。ローマ書はそれを貪りという大きなテーマをもって説明しています。『では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。』(7)パウロは、なぜ、わざわざ十番目の戒めで禁じている貪りに言及したのでしょうか?それは、まさに罪のもとに貪り、つまり貪欲という巨大な悪が潜んでいるからです。皆さん、覚えておられるか分かりませんが、昨年、十戒の説教の最後の時間に、私たちは、この貪欲がすべての罪の原因であるということについて学びました。アダムが善悪の木の実を貪ることから始めて、旧約聖書の多くの人物がこの貪欲によって神に呪いを受け、滅ぼされたのです。つまり、貪欲とは十戒の1-9の戒めが指す、すべての罪を網羅する、非常に基本的な罪であるということです。このように律法は人の心に隠れている罪の原因を悟らせるものです。律法を通して、私たちの中に罪があるということを認識するようになるという意味です。 『私は、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 私は死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。』(9-10)律法がなかった時、人々は自分が罪を犯していることさえ、分かりませんでした。アダムが善悪の木の実を欲張ったのは、神様の立場からは、罪でしたが、人の立場からは、進歩のための本能に近かったと思います。自分の欲望のために物を貪ることを進歩だと思い、罪であるとは認識していなかったということです。むしろ、神様が自分らを騙しておられると思ったのでしょう。しかし、神がその貪りが罪であることを教えてくださった時に、それは始めて罪と定められました。律法は人が罪ではないと思ったものに対して、罪であると認識させてくれる機能を持っています。古代農耕時代には豊作と繁栄のために、偶像を拝みました。イスラエルの周辺の異民族は、誰もが、そのような生活を営んでいました。誰も、それを罪だとは思っていません。しかし、律法は、それが罪であることを明らかにしました。イスラエルの民は、すべての異民族が行う偶像崇拝が罪ではなく、日常だと思っていたんですが、神はそれが明らかに罪であると律法を通して教えてくださいました。認知していない時は、罪ではなかったことが、律法が罪だと宣言した時から、隠れていた罪となったのです。 律法は、イスラエルを生かし、神に喜ばれる民族として生きられるようにする生命の道具でした。しかし、罪によって律法を完遂できないイスラエルが、その生命の道具である律法を通して、罪を悟ったとき、イスラエル民族は、罪に定められました。罪の代償は死という言葉のように、罪について分からない時は、その罪が何もありませんでしたが、悟った時は、その罪は死をもたらしました。ですので、私たちは、律法を通して、私たちが罪人であることを認識するようになります。もし、律法を完全に行う能力があれば、律法は私たちに命をもたらす道具となるはずでしたが、律法を完全に行う能力のないときには、律法は私たちを裁く死の道具となるのです。そのため、罪人である私たちが律法の下にいるならば、私たちは必ず死で罪の代償を払わなければなりません。命の道具が死の道具に変わったということです。私たちにとって、この律法は切れない元夫のような存在です。我々はこの律法により、永遠に死ぬしかない存在です。キリストの偉大さが、ここで現れます。律法によって罪に定められた私たちを罪のない存在であると認めてくださり、私たちを死の律法から救われ、その影響下から呼び出してくださったからです。『それでは、善いものが私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 』(13) 3.律法による人間の悲惨さから救ってくださるキリスト・イエス。 人々が、これらの律法の機能について悟るなら、おそらく、その心の中に大きな負担や不安を感じるようになるでしょう。自分を生かす律法ではなく、むしろ、非難して死なせるということが分かるようになったら、律法を行うことによって救いを得ると考えてきたが、むしろ、その律法が自分を永遠に殺し、呪う道具であることが分かるようになったら、我々はどうすべきでしょうか?おそらく、到底、希望を見つけることができないようになるでしょう。この世に生まれたすべての人に罪があります。その罪は私たちの意志とは関係なく、生まれつき、私たちの中にあるのです。自分の願いを成し遂げようとすること、自らを自分の人生で最も中心にすること、このように最も基本的な本能そのものさえ、私たちを罪に引き入れているのです。律法は、そのような本能によって罪から自由になれない人間の弱さを残酷なほど、明らかに示す道具なのです。律法を行おうとすればするほど、私たちの罪はさらに大きく現れます。善を行おうとすればするほど、自分の中の罪が、さらに明らかに現れます。自分の心は、神の言葉に聞き従おうとしますが、自分の肉体は引き続き、罪を犯してしまいます。前は罪ではないと思っていたものさえ、最終的に罪であると悟るのです。律法のもとにある人間は惨めそのものなのです。 つまり、私たちは、律法を守ること、律法を行なうこと、律法そのものを通っては、絶対に神を喜ばせることができません。むしろ生きていけば生きていくほど、より大きな罪と向き合うことになるだけでしょう。そして、その罪の結果は、果てしなく続く悲惨な死しかないでしょう。 『私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。』(18)隣人を愛すべきなのに、我々は今日も人を憎みます。家族に優しくすべきなのに我々はまた、声を荒立てます。両親を敬うべきなのに、我が儘から両親を傷つけてしまった記憶があります。自然を守るべきなのに、自然を破壊します。何よりも神を愛すべきなのに、自分自身をもっと愛しています。数多くの本能と日常が私たちに罪の結果として迫ってきます。自分は善良に生きていきたいのに、自分の肉体に潜んでいる罪のために、いつも罪の方向に走っていきます。律法を行うどころか、毎日律法を犯し、その律法は、私たちに罪人という烙印を押します。私たちは、このように罪の惨めさの中で一日一日を生きつつ、死に至る存在なのです。『それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。』(21) このような私たちの悲惨さを眺めるとき、私たちは絶望するしかありません。これによって、私たちが律法を行うことによっては、救いを得ることができない理由が、はっきりとされました。律法は私たちを命に導くために来ましたが、結局、我々を殺すものとなりました。律法が私たちを命に導くためには、必ずその律法を完成する者が必要です。彼はイエス・キリストであります。『私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか。 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。』(24 25)律法がなかった時は、何が罪なのか分からずに罪を犯し、律法が与えられた時からは、罪がさらに明確になって、死ぬしかない運命。それが私たちの悲惨な現実なのです。だから、キリストが私たちのところに来られたというのは、このようなどうしようもない私たちを、その律法の支配から自由にする唯一の道が与えられたということです。キリストが律法を完全に成し遂げ、ご自分の御名を持って私たちを、律法の支配から自由にしてくださったからです。律法は途轍もなく強いです。私たちを縛りつける沼のようなものです。しかし、キリストは、さらに強い方なのです。その沼を平らになさる力を持っておられるからです。私たちは、律法を通して、私たちの悲惨さを悟ります。そして、キリストは、そのような悲惨な私たちを主のものとしてくださり、惨めさから解放してくださり、私たちが果たすべき律法を完全に成し遂げてくださる方です。 締め括り パウロは、複数の手紙を通して、律法について教えてくれました。彼は律法は良いものであり、人を義に導く機能を持っていると語りました。しかし、律法は人を完全に義とはならせません。人には律法を完全には守る力がないからです。私たちには律法の延長線である聖書があります。しかし、我々は、その聖書の言葉を完全に守ることができません。去る一週間の生活を顧みても、私たちは聖書に記された多くの罪を犯しつつ生きてきました。律法は善いものです。善いものであるため、私たちの生活の中から罪を探し出すのです。なので、私たちは、聖書を読むとき、自分自身の罪と向き合うことになります。そういうわけである人は、聖書について「魂の鏡だ」と言いました。しかし、幸いなことに、過去のユダヤ人の律法には律法の完成のための何の言及もありませんでしたが、今私たちが読んでいる聖書には、律法の完成について、はっきり記録されています。新約聖書は、今日も、イエス・キリストが律法を完成され、我々が主と共に歩む時に、律法の影響から自由になると叫んでいます。律法は私たちに罪を悟らせてくれます。そして、イエス・キリストを通して、その罪から解き放されると訴えています。これらの律法の機能を通して私たち自身の現実に気付き、さらにキリストに頼って生きていく志免教会になって行きましょう。

罪人をキリストに導く律法。

ヨシュア記1章5‐9節 (旧340頁) ローマの信徒への手紙7章1-6節(新282頁) 聖書はイエス・キリストが律法を完全にされる方だと語っています。キリストは決して律法を無視する方ではなく、むしろ、律法の精神を完全に示してくださるという意味です。ですから、私たちキリスト者は旧約の律法を無視してはいけません。神がイスラエルに律法を与えられた理由は、その律法を通して、神の御心を学び、その御心に基づいて生きていくようにガイドラインを提示してくださるためでした。この律法に隠れている神の御心は、ご自分の民が神と隣人を愛し、神の民らしく生きていくことです。結局、私たちに律法が与えられた理由は、愛を行うためです。したがって、聖書は、今日も私たちにこう訴えます。『愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』(ローマ13:10)今日はローマ書7章を通じて、このような律法の機能と律法とキリストとの関係をどのように理解すべきかについて、皆さんとみ言葉を共にしたいと思います。 1.旧約の律法。 我々はすでに前のローマ書の説教を通して律法について分かち合いました。日本に日本国の憲法があるように、古代のイスラエルには、イスラエルの憲法に当たる律法がありました。そのため、律法にはイスラエル人のための司法、民法、刑法等のような実質的な法律が多く含まれていました。ところが、この律法は一般的な憲法とは異なる性格を持っていました。イスラエルは祭政一致社会でしたので、律法が憲法の機能を有すると共に、宗教法としての機能をも持っていました。 『それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法の全ての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。 』(申命記17:19)律法は、神を畏れることを学ばせる掟だったのです。そのため、律法には神への知識、神への崇め方、善と悪とは何かについて記されていました。すなわち、律法とは主の民の生活のための一般的な法律と神に仕える祭祀法が網羅されているイスラエル民族の生の基準だったのです。 『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることを全て忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。』(ヨシュア1:8)イスラエル民族がエジプトから出て40年の荒野での生活を終えた後、ヨルダン川を渡ろうとする時、神がヨシュアに一番最初に命じられたのは、律法を厳しく守ることでした。この律法が向後カナンの地で繰り広げられる苦難と挫折から、イスラエルの進むべき道を教えてくれる道しるべだったからです。また、この律法は、罪を悟らせる機能も持っていました。『ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。』(ヨシュア1:7)律法を守り、行なう際に、右にも左にもそれない生き方を学ぶことができたからです。右に左にそれるということは、神の御心に適わない生を意味するものです。つまり、罪のことです。神は律法を通して、罪と義について教えてくださり、義の道に進んでいく際に祝福してくださると約束されたのです。 旧約では、すでに律法が義と罪を分別し、どう生きるべきかを教えてくれる道具であることを明らかに示されていました。聖書は律法を行うことによって救いに至るのではなく、律法の行いを通して神の御導きを悟り、その中での生き方を教えてくれただけです。つまり、神は民が律法を行うことによって贖われるのではなく、律法を行うことによって罪を離れ、正しく生きるようになることを教えてくださったのです。そのように律法を行う生の中で、神の御心に基づいて、救いが決められるのです。ここに人間の力はちっとも要りません。しかし、イスラエルの宗教指導者たちは、律法を行うことによって義とされると思っていました。彼らは律法の役割について完全に誤解していたわけです。なので、イエスが来られた時代の宗教指導者たちは、律法の精神を忘れ去り、自分の宗教的な行為を誇り、律法についてよく知らず、律法を完全に守ることができない弱い人々を無視して裁きました。残念なことに、イエスの時代の律法は、完全に誤解されていました。 2.新約の律法。 パウロは、このような律法への誤った理解に対して、正しい律法観を植え付けようとしました。今日の新約本文の言葉は、そのような背景の下で、律法について論じているのです。『それとも、兄弟たち、私は律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。 』(ローマ書7:1-2)パウロは、律法とイエスについて、律法は元夫であり、イエスは新しい夫であると比喩しました。イスラエルの律法では、元夫が死ねば、新しい夫と再婚することが許されるという法があったからです。これはイエス・キリストによって、律法の支配にいた人が、キリストの支配に移されるという比喩なのです。神から前にいただいた律法は人を正しい生に導き、その正しい生を通して神に近づかせる道具でした。したがって、律法は、正しい行為とは何か、罪とは何かについての知識だけを与えるガイドだったのです。そのガイドに沿って最終的に至って会う存在は律法そのものによる救いではなく、律法を与えられた神による救いでした。 時が満ち、神は神の救いを成し遂げる存在を遣わしてくださいました。彼はイエス・キリストでした。イエスを通しての福音は、義と罪を教えることだけの役割を超え、積極的にその罪から贖われる方法をも教えてくれました。つまり、律法にはない神の救いを満足させる教えだったのです。そして、その福音の結果は、イエス・キリストを信じて罪から自由になる完全な救いでした。『ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。』(4)そういうわけで、律法はイエス・キリストに出会った人に、もはや力を発することができなくなりました。まるで、元夫が死ねば、妻に何の影響も与えられないように、キリストの中で律法は、罪を定める、その力を失ってしまいました。律法が義と罪を教える機能だけを持っていたのに対して、キリストによる福音は義を完成させ、罪の影響力を完全に打ち破る律法の完成を成し遂げたからです。そのため、イエス・キリストを信じる者は、律法に定められた罪人という身分から完全に解き放たれました。それまで律法が義と罪を仕分ける道具であったのに対して、キリストはその律法が果たせなかった罪人を義人に生まれ変わらせる力をも持っておられるからです。 『こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。 しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません。』(ガラテヤ3:24-25)パウロのまた他の聖書であるガラテヤ書はこれについて、いっそう簡単に説明しています。養育係とはローマ時代に、両親に代わって子供たちを養い、彼らが両親の跡継ぎとして、立派に成長できるように導く奴隷でした。(ローマの奴隷の意味については、先週の説教で説明しました。)旧約の律法は、キリストがこの地上に来られ、私たちに真の救いと恵みをくださる時まで、民を導く養育係に過ぎませんでした。だから、律法そのものが、私たちを罪から自由にすることはできません。私たちは、律法を通して、自分が正しいかどうか、罪人かどうかを悟るようになるだけです。このように過去の罪を悟らせる律法が、私たちを捕らえた元夫のような存在であれば、キリストは福音をもって私たちを自由にする、真の夫となり、私たちと永遠に一緒におられる方です。要はキリストに導く養育係としての役割、それが新約聖書が語る律法の機能であるということです。 3.神様のために実を結ぶ民。 このように、旧約も新約も、律法では私たちの信仰は完全にはならないということを口を揃えて語っています。しかし、人々は意外と、これらの律法を守る生を通して信仰の守り甲斐を得たりします。ある人々は聖書の言葉に打ち込んだあまり、自分より知識の少ない人を裁いたりします。神学校でも、そんな場合があります。神学知識の多い学生が同級生を見下したり、責めたりすることもあります。神学校を卒業した後も、まだ、そのようにする人がいます。積極的な信仰の行ないのない人に、実践が足りないと咎めたりします。恥ずかしいのですが、以上の例え話は、私自身の話でもあります。ところで、ある日、その全ての振る舞いが、過去のユダヤ人が持っていた律法への自負と似ていることであると認識しました。知識が、行為が、私たちを救うことはできないのですけれども、まるでイエスの時代の律法主義者たちのように相手側にいる人を裁き、侮る愚を犯してしまったのです。 数多くの知識、祈り、行い、等々。この全ては、私たちの信仰のために必ず必要なものです。しかし、最も大事なものは、我々が律法から学んだ知識、行いなどが目指すべきところは、その知識と行い自体による個人的な満足感ではなく、知識と行いによって結ばれるキリストの実を結ぶべきだということです。 『兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、全てはあなたがたを造り上げるためにすべきです。』(コリント14:26)ここでの『造り上げる』という言葉の意味は、キリストの教会を健全に建てるという意味です。私はこれこそがキリストによる神様のための実だと思います。神がお許しくださった律法も、結局は、律法そのものではなく、神から与えられた最終的な価値、イエス・キリストを示し、主の教会に仕えるためのものです。つまり、キリストを通じた信仰の実を結ばせるものです。私たちの律法による行いで、キリストの実が結ばれなければ、いかなる有益なことも罪の道具となり、最終的には無益なものとなります。律法は、ただ、私達をキリストに導く道しるべに過ぎません。 『私たちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。』(ローマ6:5-6)律法は私たちに罪とは何かについて認識させる道具です。しかし、律法によって、その罪に気付いただけで、キリストによる悔い改めと罪の赦しを受け入れなければ、律法は私たちを死から自由にすることはできません。でもキリストを信じる者は、そのような律法の支配から解放され自由にされた存在です。私たちは、いつでもキリストを通して悔い改めることができ、赦されることができ、キリストを通しての実を結ぶことができます。主による「“霊”に従う新しい生き方」とは、私たちがキリストに従い、キリストに倣って生きていくことです。律法の教えに従って生きると同時に、律法の限界を明らかに悟り、その律法が導くところ、すなわち、イエスを信じること、キリストに見倣うこと、彼の民らしく、良い実を結びつつ生きていくことを追求することこそ、神が私たちに律法を与えられた本当の理由ではないでしょうか? 結論 過去、キリストを知らなかった私たちは、罪の実を結ぶ人生を生きてきました。神を信じず、他人を憎み、自分だけのために生きて来ました。いくら聖書をよく知っていたとしても、善行をたくさん行ったとしても、キリストの恵みがなければ、私たちの生は、最終的に律法に罪を定められ、罪人として裁かれ、罪の実を結ぶ生になって死んだはずでしょう。しかし、今、キリストを知っている私たちは、私たちの罪が何なのかが分かるようになり、その罪から完全に自由になりました。キリストが贖ってくださったからです。そしてキリストによる聖霊の導きのゆえに、本当に善を行い、義の実を結ぶことができる立場に立つことになりました。この全てが、イエス様の愛と救いによる恵みなのです。したがって、律法の影響から自由な者になっていきましょう。足りない部分があっても、キリストを信じて生きていきましょう。律法の教えを行ないながら義の実を結んでいきましょう。主が私たちの弱さを知り、助けてくださるでしょう。主の御守りの下で、律法の精神である愛を行い、主と隣人に喜ばれる神の民、志免教会として、私たちの生を生きていきましょう。

罪に死に、キリストに生きる。

詩編16章7-11節 (旧846頁) ローマの信徒への手紙6章1-14節(新280頁) 前置き 私たちは、これまでのローマの信徒への手紙の言葉を通して、人間の罪深い本質について、そのような人間を愛しておられる神について、神と人間を和解させてくださるキリストの恵みについて、そして、そのようなキリストの恵みを実現させる聖霊について分かち合いました。ローマ書は非常に複雑な内容と理解しにくい内容の話をたくさん含んでいる聖書ですが、その最も大事な教えは、『イエス・キリストが罪から私たちを救ってくださった。』ということです。レントとイースターを通して分かち合ったもの、つまり、ご自分の民の罪をお赦しくださるために死んでくださり、復活されたイエス・キリストを覚えながら、再びローマ書の話を続けていきたいと思います。複雑で容易ではない内容のローマ書の言葉ですが、最後まで、よく学ぶことが出来るよう、皆さんのご協力とお祈りをお願いいたします。 1.パウロの時代の人々の救いに対する誤解 ローマは、帝国の首都として罪に満ち満ちた都市でした。ローマ教会はそのような罪の都市にありながら同時に、イエス・キリストを信じる信仰の共同体でもありました。パウロは、ローマ書を通して彼らの信仰を褒めると共に、それでも、人間は罪人であるということを改めて強調しました。パウロはいくら神を信じると自負する者でも、神の御前で罪の悔い改めがない場合、また、神ではなく、自分の力に頼って救いを得ようとするなら、決して救いに至ることが出来ないと警告しました。旧約の神の民であるユダヤ人にしろ、新約の異邦人のキリスト者にしろ、ひたすらイエス・キリストを救い主として信じ、自分の罪を告白して、神様に従う時のみ、民族と出身を問わず救われると教えたのです。キリストによって義とされた人は、他の何物でもないキリストへの信仰だけによって救われました。信仰によって救いを得た義人は、どのような苦難の中でも、神が共におられる祝福を得る人です。彼らは永遠に、神と和解できる恵みの中にとどまる人です。罪によって神と離れた人類は、ただイエス・キリストを通して神と和解することができます。キリストにあって生きていく者は永遠に神を自分の誇りとして、主と同行することができます。以上がローマ書1-5章の主な内容でした。 ローマ書1-5章の言葉で最も重要な内容は、まさに 『どんな罪人であっても、イエスを信じることによって義とされ、神の民として生きることになる。』ということです。罪人は神を離れ、不義を行い、それによる罪の中に生きて、神に見捨てられる永遠の死に至る運命でした。ですが、神様はそのような罪人にキリストによる新しい人生を得る機会をくださったということです。しかし、パウロがイスラエルとローマ帝国の各地で教えた、この恵みの福音は、当時ローマ帝国に蔓延していた、ある異端思想によって深刻に歪められてしまいました。それは『グノーシス主義、霊知主義』でした。グノーシス主義とは、『人は真の知識によってのみ、救われる。』という教えを中心とした宗教的、文化的思想でした。(グノーシスはギリシャ語で知識、認識を意味する。)『真の知識を通して救いを得る。』という言葉そのものは、非常に耳に聞き良い言葉だと思うんですが、その真の知識というのは、キリストの真理と救いとは何の関係もないものでした。グノーシス主義には、様々な教えがありましたが、その中で最も代表的なものは『肉体は悪、霊は善。』」という二元論でした。彼らはこれが真の知識の基本だと信じていました。 彼らが主張した『肉体は邪悪な神によって創造されたので、悪であり、霊は善良な神によって創造されたので、善である。』という教えは、色んな副作用をもたらしました。たとえば、『アダムを創造した旧約の神は邪悪な神、イエスを遣わした新約の神は善良な神。』 あるいは『肉体は邪悪なものであるため、イエスの肉体は復活せず、彼の魂だけが復活した。』などの教えでした。彼らのうちには、『肉体は邪悪であるため、どんなに善良に生きても肉体は救われない。だから、飲み食いしつつ楽しもう。』と主張する快楽主義もありました。当時の一部の人々は、これらのグノーシス主義的な快楽主義に陥って、『イエス様を信じれば、私たちの魂は、必ず救いを得ることが決まっている、だから、思う存分、自由に生きよう。』という考えでパウロの教えを誤解し、わがままに生きる人もいたそうです。『律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。』(ローマ5:20)快楽主義のグノーシス主義者たちは、これらのパウロの教えを誤解して、『私たちが罪を犯しても、主はより大きな恵みをくださる。』というこじつけを主張したと言われます。このようにパウロが教えたキリストの福音を歪曲したグノーシス主義の教えは、当時の教会に数多くの混乱と誤解を増し加えました。 これらの副作用の痕跡は、聖書の他の箇所でも見つけることができます。 『行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。』(ヤコブ2:18)当時の教会の中では『ただ信仰によってのみ救われる。』という言葉を誤解した人が度々見られました。彼らは放蕩な生活をしたり、または、近所の人や社会には何の関心もなく、ただ自分だけに集中したりする誤った信仰生活をしていました。我が儘に生きても、信仰さえあれば、救われると思っていたわけです。そういうわけで、ヤコブは『魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。』と話したのです。確かにパウロの教えのように罪人は、ただイエス・キリストによってのみ、救いを得ることが出来ます。しかし当時の世界は誤った信念のために、福音を歪めることが多かったのです。ですのでパウロはこのような教えを通して強く警告したのです。 『どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪の中に生きることができるでしょう。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、また、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。』(ローマ6:1-3)残念なことは、このように信仰のみ強調して、実践のない信仰生活を続ける人々が、今も少なからず、いるということです。今日の言葉は、信仰を口実として、誤った生き方を通す人へのパウロの警告なのです。 2.罪に死に、キリストに生きるということとは? ならば、キリスト者はどのような生き方を通すべきでしょうか?『あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。』(ローマ6:22)(ローマ時代の奴隷は、日本で知られている概念とは意味が違います。言葉の上では奴隷ですけれども、持ち主の助力者としての意味の方がさらに強いのです。それでも、違和感があると思いますのでしもべと言い替えさせていただきます。)本当にイエス・キリストを信じ、神に救われた者は、自分の思いのままには生きていきません。キリスト者は自分が神のしもべとされたことを自ら自覚している者だからです。しもべとされたのは、持ち主がいるという意味でしょう。持ち主の意志に聞き従い、持ち主の命令に服従することが、真のしもべとされた者の在り方でしょう。パウロが語っている『信仰によってのみ、救いを得る。』という言葉は、私たちが主のしもべとなったという意味です。これは単に信じるだけで、すべてが終わるという意味ではありません。しもべとして行うべき役割があるということです。キリストを信じて罪から解き放された私たちは、神のしもべに相応しい生活を営まなければなりません。それこそがキリストを信じる人の真の在り方、信仰なのです。今日の本文に出てくる言葉のように、イエスを信じるということは、私たちがイエス・キリストの死と復活を通して、主のしもべとされ、主の御心に適う生を生きるということです。つまり、キリストのしもべであるキリスト者は、イエスに従う人生が必ず伴われなければならないということです。 イエスは神のご意志に従って、この世に生まれ、従順に生きて、神の御心に応じて死んでくださいました。主の人生はすべての面で御自分の欲望と考えではなく、遣わされた方の御心に従う人生だったということでしょう。主によって救われたキリスト者の生き方も、これと同様であるべきだと思います。神に聞き従い、死に至られた主のように、キリスト者の人生も、自分の欲望ではなく、主の御心に従って生きるべきでしょう。そういうわけでローマ書はキリスト者のアイデンティティについてこう語ります。『私たちがキリストと一体になってその死の姿に肖(あやか)るならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』(5)キリスト者の生活は、キリストと一つになって彼の生き方に従うことです。しかし、我々は、自分が決してそのような生き方を貫いていないということをしみじみと感じています。私たちは、すでにキリスト者となった者ですが、いつも自分の考えばかりで生きようとする傾向があると思います。隣人を愛すべきですが、気に入らない人を憎む傾向もあると思います。神に従うべきですが、最終的には自己中心的に生きていく傾向があると思います。両親を敬うべきですが、そんなに優しくない傾向があると思います。欲張ってはいけませんが、欲張りの本性を持っていると思います。私たちの生活の中に、キリストの姿より、自分の判断に従う姿が、しばしば見られると思います。つまり、依然として、私たちに罪の影響力があるということでしょう。 ローマ書によると、私たちは既に罪に死んだということが分かります。なのに、なぜ、まだ罪人の性質を持っているのでしょうか?キリスト者は明らかに罪の赦しを受けた者なのです。キリストの血潮が私たちの過去と現在と未来の罪を全て洗い上げました。これは、神が確証してくださることです。しかし、私たちは『既にと未だとの間』に生きる存在です。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(4)キリスト者はキリストの死にあずかる洗礼を受けました。私たちは、この洗礼という言葉を通して、今の私たちの状況を推測して見ることができます。私たちは、主の御名によって洗礼を受けます。洗礼は死んだ者が生き返ること、すなわち、復活の象徴です。しかし、私たちは、実際にはまだ死も復活も経験していません。それでも、主はキリストの御名による、この洗礼を通して、我々はすでに罪に対して死に、キリストによって復活されたと見なしてくださいます。本当に死に、復活したのではないですが、そのように認めてくださるということです。つまり、私たちは、まだ罪を持っている不完全な存在ですが、キリストによって、神に罪のない、復活された義人と認められているのです。 私たちは、主に洗礼を授けられ、新しく創造された者となったと、主の正しい民となったと信じて生きていきます。しかし、私たちの中には、まだ罪が残っています。そして、まだ完全な善を実践して生きることが出来ません。しかし、主はキリストの名によって行われた、洗礼を通して、私たちキリスト者を『すでに死んで、復活した存在』としてくださいました。そして終わりの日に、神の御前に立つ時まで、私たちを義と認められ、導いてくださるでしょう。キリストと共に生きることは、このような御導きの中に生きることを意味します。私たち自身はまだ取るに足りなく、完全ではありませんが、キリストという正しい方の手柄を拠り所とし、自分も義人と認められたこと、まだ完全ではないけれど、最後の日の完全な存在になるまで、主が我らを守ってくださること、これこそがキリストを信じる人に与えられるかけがえのない大事な神の恵みなのです。私たちは、キリストによって罪に死んだ者として、キリストによって復活した者と認められ、生きている者です。ですから、私たちに罪の痕跡が残っているからと言って、恐れる必要はありません。私たち自身のことを深く知り、主に喜ばれる人生とは何なのかと、どのように善を実践して生きていくべきかと、苦悶する時、主は私たちが進むべき道を喜んで教えてくださるでしょう。 締め括り 『あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。』(12-13)私たちは、キリストによって義と認められた存在です。したがって、私たちは私たちの中にある罪に沿って生きてはなりません。私たちは主の義のための道具として、それに合致する人生を生きていくべきです。主の義のための道具として自分自身を神に捧げるということは、単純な献身、あるいは奉仕を意味するものではありません。神の御心に合致する人生とは何なのかと悩み、それを自分の生活の中に適用させて、神に聞き従う人生。主に喜ばれる生活のために孤軍奮闘する人生、それらこそが、主の義のための道具としての人生なのでしょう。『命の道を教えてくださいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。』(詩篇16:11)主は、主に従う者らに、彼らの進むべき命の道を示してくださいます。信仰によって救われたということに満足して、我が 儘に生きる人生ではなく、毎日、主が示してくださる命の道とは何かと悩みつつ、キリストに属している者として生きていきましょう。常に我々の信仰に適う善の実践を追求する時、神は義とされた者として、私たちのことを喜ばれ、正しい道に導いてくださるでしょう。