イエス・キリストを信じる。
創世記15章6節 (旧19頁) ローマ信徒への手紙 3章19‐32節(新277頁) 前置き 前の数回の説教を通して、すべての人間は罪のゆえに不義な存在として生きており、そのような罪の影響は信者、未信者を問わず、すべての人類に同じく有効であるということが分かりました。これらの罪の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるということも分かるようになりました。人は如何なる行為や思想を通しても、神の御前で義と認められることが出来ない存在だというのがローマ書の教えでした。そのため、人は自らが正しい者であるという考えを捨て、神の御前で自分の罪を認めなければならないということも分かるようになりました。それでは、人類はどうすれば、正しい存在、義とされることが出来るでしょうか?そして、その義というのは何を意味するのでしょうか?今日はキリスト教の最も重要な教義、キリストへの信仰による義と、律法行為によって義とされるということの無意味さについて話してみたいと思います。 1.律法とは何か? 私たちは、前の説教を通して、神に選ばれたと言われるユダヤ人について取り上げました。彼らは神に律法を委ねられた、神様が手ずから立てられたイスラエルの民でした。しかし、神は彼らを、律法、民というタイトルだけで、義と認められませんでした。むしろ、『わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(19-20)という言葉のように、ユダヤ人の律法は、ユダヤ人が完全な義人ではないことを証明するブレーキのようなものでした。また、『わたしたちが知っているように』という言葉を推し量ってみたら、当時、イエスを信じていた信者たちの間には、ユダヤ人が持っている律法の機能に対する理解と教えがあったようです。それでは、この律法とは果たして何でしょうか? 律法は神様がご自分の民を、世の中で聖別されて生きさせるために、神ご自身が与えてくださった法則を意味します。基本的に10戒を意味しますが、より広くは、モーセ五書を、新約では、今の旧約聖書のほとんどを意味するとします。 『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。』今日の21節の言葉に出てくる律法と預言者について、律法とはモーセ五書を、預言者とは、その他の全ての預言書や知恵文学を意味します。古代イスラエルは祭政一致社会であったため、律法には宗教法をはじめ、民法、司法、刑法が統合されていました。つまり、律法は古代イスラエル社会のすべてをまとめる憲法のような機能を持っていたのです。宗教法にせよ、憲法にせよ、法律というのはそれを守る時に、有効なものです。法律を持っているといっても、守らなければ、その法律は何の意味も持つことが出来ないようになるでしょう。特にユダヤ人たちは、モーセ五書を更に重要としましたが、神から与えられた最初の成文法だと思うからです。ところで、彼らはこのモーセ五書から『守るべき戒め248個』、『してはならない戒め365個』を集めて合計613個の命令を作成、『ミツボト』という律法書を作って、使いました。 律法はヘブライ語で『トーラー』と言いますが、『指示、法令、戒め、法律、仕来り』という意味を持っています。この『トーラー』の語源は、『ヤーラー』です。この言葉は幾つかの意味を持っていますが、特に有意義な意味では、『矢を的に当てる。』と解析できます。これは、おそらく、ヘブライで『罪』が持っている語源的な意味と関係あると思います。ヘブライ語で罪の語源は『矢が的に外れる。』ですが、その反対に、「矢を的に当てる。」という意味を使い、すなわち、律法とは、神様の御前で罪を犯さないためのガイドラインという意味として『ヤーラー』を語源とする『トーラー』になったと思います。 また、ギリシャ語では、律法をノモスと言いますが、これは『分ける、分離させる。』という意味を持っています。ここでの『分ける、分離させる。』という意味は、神の民と、民でない者を差別するという意味ではなく、神の「民」が「民でない者」から区別された生き方を持たせるという意味で、「聖別」と理解するのが正しいと思います。つまり律法とは、罪を拒む民、神様に聖別された民が追い求めるべき、ユダヤ人の行動の指針なのです。 2.律法を通しては、義を成し遂げることが出来ない。 世界の各国は各々の憲法を持っています。憲法とは一国の国民が必ず守るべき、行動指針です。日本には日本の憲法が、アメリカには米国の憲法が、韓国には韓国の憲法があります。私たちは自国の国民として、憲法を遵守する義務があります。日本人が日本国の憲法をよく守るといって、義人と呼ばれることは有り得ないでしょう。皆さんも日本の憲法をよく守っておられるでしょう?しかし、誰にも『憲法をこんなに堅く守るなんて、あなたは義人ですね。』とは言われないでしょう?それは国民の当たり前な義務だからです。法律をよく守ったからといって、特に賞を受けたりすることはありません。律法も同様です。なのに、ユダヤ人の問題は何であったのでしょうか?自分らが神から与えられた聖なる律法を所有し、堅く守っているからという、自分らの行為に基づいて、自ら義人であると考えていたということです。彼らは当然に守るべきことを守っただけなのに、自分たちが特別だと思ったのです。しかし、実は、そのような勘違いに陥り、ちゃんと守ることも出来なかったのが真実でしょう。つまり、ユダヤ人の自己認識は、神の前で、何の根拠のないものでした。 また、19-20節の言葉に戻っていきましょう。『わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』私たちは、この言葉から律法の機能である『すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。』という言葉に注目する必要があると思います。『神の裁きに服する。』という言葉の原文は、ギリシャ語の『ウポディコス』です。これは新約聖書で、たった一度だけ、使われた表現ですが、古代ギリシャでは、頻繫に使用された非宗教的な法廷用語で『解明する責任がある。』という意味です。律法は、その下にある、すべての者に『解明』を要求します。なぜ、『律法をきちんと守れなかったのか』ということに対し、責任を問うという意味の言葉です。ローマ書は、神様が、この律法を通して、ユダヤ人だけでなく、その律法に記された、すべての戒めを守らなかった者に解き明かすことを求められると語っています。これは、もともと、律法がユダヤ人だけへの命令ではなく、全人類に与えられた戒めであることが分かる部分です。ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、解明できない者らに下される報いは、神様の厳重な裁きなのです。 従って、ユダヤ人も、キリスト者も、また、未信者も律法の所有、そのものに特別な価値を置いてはいけません。創世記は、神様がモーセに律法を与えてくださる数百年前に、すでに、イスラエルの先祖アブラハムを義とされたと証言しています。義というのは律法の遵守という行為に閉じ込められていることではありません。義とは、律法と別に働くのです。そして、その判断は、神様だけがなさる事柄です。ユダヤ人が、いくら律法を堅く守っても、キリスト者が聖書の御言葉にきちんと従うといっても、未信者が、いくら善良に生きるといっても、神様は人の行為から義を求められません。神様は、ひたすら神が定められた、主のご計画に従って、義人と罪人を分けられます。だから、現代を生きていく私たちキリスト者も、自分の努力や行いから神様のお褒めの言葉、自分の正しさを求めてはならないでしょう。パウロは、今までの言葉を通して、この点を確実にしているのです。律法では決して義を達成することが出来ません。律法は人間の罪責の解明を要求し、罪の存在を悟らせるだけです。 3.神から来る唯一の義 – イエス・キリスト。 このような律法の機能のため、すべての人間は、最終的に罪人というくびきから脱することが出来ません。先に私は613個の命令をまとめた『ミツボト』というユダヤ人の律法書についてお話しました。ラビたちは義人の条件について、非常に厳しく教えました。それは613個の戒めをすべて守り、維持することでした。面白いのは、この『ミツボト』の613個の戒めから612個を守っても、1つを守らなければ、律法は完成出来ないということです。もし613個を全部守るといっても、それを最後まで維持しなければならないということです。あるユダヤ人たちは、そのような律法を完全に守り抜いたラビがいたが、彼がメシアだったかも知れないと言いました。しかし、その『守り抜く』という意味が、単純な行為だけの意味ではなく、その行為に含まれている律法の最も重要な精神『神と隣人を愛すること』を叶えるという意味であれば、それはまた、不可能となったでしょう。そのラビもユダヤ人の習わしや宗教に従って、異邦人を侮ったはずだからです。つまり、律法が求める行為と共に律法の精神まで、守り抜くということは限りのある人間としては、まったく不可能な話ではないでしょうか。 だからこそ、神は人間の行いや手柄から義を探し求められないのです。ただ、主は人間の行いとは別に、ある基準を立てられ、そこから神の義を満足させ、求めようとなさいました。その基準についての話が、まさに主イエス・キリストのことなのです。正しい神様はモーセに律法を与えてくださる何百年前から、神ご自身から生じる真の義を人間に与えようとする御計画を持っておられました。この義は人の行い、手柄、律法などとは一切関係ありません。それはただ、造り主、神様の完全さに、その拠り所を置いているのです。『神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。』(29)したがって、神の義は、ユダヤ人と異邦人とを選り分けません。誰でも自分の行いではなく、神様からの義を受けることによって、ひたすら神の御業によって義とされるのです。神はこのような真の義を成し遂げる役割を真の神であり、真の人であるイエス・キリストに任せられたのです。 『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。』(21-22)ローマ書は明らかに『イエス・キリストを信じることによって、すべて信じる者に与えられる神の義』のことを話しています。これは人種、貧富、名誉、行為の有無に基づいたものではなく、ひたすらイエスという存在を信頼し、彼に頼る際に得ることが出来るものです。 『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』(23-24)世のすべての人々は、罪から自由になることが出来ません。しかし、神様は、ただイエス・キリストという存在を通じて、そのような罪人も赦されることが出来るということを示されたのです。これは、私たちに大きな慰めと希望となります。私たちはこれを福音と呼びます。人類が自分の弱さのため、罪から自由になることが出来ない時、神様から遣わされたイエス・キリストは罪に勝利し、勝ち取られた、その力をもってご自分を信じる全ての人に、主の義を分けてくださいます。それによって、主イエスは信じる者が神に義人であると認められるように導いてくださるのです。キリストを信じる者は、自分の力に関係なく、神が立てられた義の基準を、神から遣わされたイエス・キリストに任せて、主から来る義によって、神の前に義人として立つことが出来ます。 締め括り レビ記には、和解の献げ物という祭祀法が登場します。これは、神と人、人と人が、 この祭祀を通して仲直りし、一つになる喜びの献げ物です。『神はこのキリストを立て、その血 によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。』(25)、新共同訳では、『罪を償う供え物』と書かれていますが、その言葉の語源は『和解する。』です。神はキリストを『和解の献げ物』として、人類に遣わしてくださったと思います。人間がいくら努力しても得られない神との和解を、イエス・キリストという義に満ちた存在が、代わりに叶えてくださったからです。もちろん、今後ローマ書の説教を通して、キリストがその和解のために、いかに多くの苦難と悲しみを受けたのかをお話しする予定ですが、主はご自分を信じる者らを赦し、神と和解させるために喜んで和解の献げ物になってくださったのです。このイエスの功績は今日も有効なのです。私の行いではなく、キリストの義に頼り、神様の御前に進む時、私たちは神と本当に和解し、正しい者と認められるでしょう。このすべてが、キリスト・イエスから来る真の義によるものであることを感謝しましょう。私たちに義を与えてくださるキリストに感謝して生きていく一週間になることを願います。