詩編119編174-176節 (旧968頁)
ローマの信徒への手紙 2章12‐29節(新273頁)
前置き
前々週、私達は裁きは神様だけがなさる事がらであり、『人は他人を裁いてはならない』というローマ書の教えについて分かち合いました。新約聖書で神の裁きと人間の判断は『クリノー』という同じ言葉を使っていました。これは裁く人が裁かれる人の処分を定めるときに使用する言葉でした。なので、人が他の誰かを判断するのは、まるで、神のように誰かを裁こうとする行為になり、神の権限を奪う罪になると学びました。ローマ書は、この人間の『判断しやすい傾向』が、罪に基づいていることなので、神を知らない罪人と同じく罪を犯すことになると語っています。また、神様は表に現れる姿だけをご覧になって裁かれる方ではなく、人の心中に隠れている意図まで把握し、裁かれる方であることを教えています。そのため表を見るだけで、隠れているものについては、全く分からない人間は、正しい判断が出来ないことが分かりました。結局、罪人も罪人を判断する人も皆、神の御前では同じく罪人であり、両方、神の裁きの下にあるということが、ローマ書2章1-11節の教えでした。そのような事実の前でキリスト者は、ただ謙虚に神に判断を任せ、『神の御心に聞き従うべきである。』というのが先々週の説教の主な内容でした。
1.パウロが突然ユダヤ人に声をかける理由。
ローマ書は2章に入ってから、その雰囲気が全く変わります。 1章で、人間の不義と罪、神の裁きについて、複数の聞き手に説明文のように語っていたパウロは、なぜ突然、話し方を変えて2章からは、一人に向かって叱責するような姿を示すのでしょうか?これは新約聖書で、しばしば用いられるディアトリベーという文学形式で記されているからです。このディアトリベーを日本語に翻訳すると(辞書的意味は『論文』になりますが、)『論理的な仮想対話』と言えるでしょう。このディアトリベーは仮想の人物と語り合いつつ、自分の主張を繰り広げるものですが、教師が生徒に論理的な叙述を通して、叱責するような方法で、相手が持っている誤った情報や偏見を矯正し、教訓を与えようとするときに使う教え方です。
パウロはそのディアトリベーの対象を神を知らない異邦人ではなく、自らが神に選ばれたと信じているユダヤ人に定めています。 最初はユダヤ人という名称は出ず、人を裁く者という言葉だけが出てきますが、17節に行けば、その裁く人がユダヤ人であるということが明らかになります。ローマ教会はユダヤ人と異邦人のキリスト者が一緒に仕えていたのに、なぜ、ユダヤ人だけを特定して語るのでしょうか?先々週、私はパウロが、自分は『ユダヤ人だから、またはキリスト者だから』と思い、世の罪人とは違うと信じている全ての『神を信じる者』に『君らも同じく罪人である』ということを強調しているとお話しました。つまり、これは単にユダヤ人だけへの教えではなく、自分が神の民であるため、他の罪人とは違うという勘違いに陥りやすい、すべての信者の偽善をユダヤ人という代表的な例を挙げて指摘しているのです。 『すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。』(ローマ2:9-10)という言葉のように使徒パウロは、ユダヤ人という仮想の存在を立てましたが、その教えは、ただユダヤ人だけでなく、 異邦のキリスト者を含む、すべての信者たちにも、適用されるという意味です。
ユダヤ人たちは、自分らが神の特別な民であり、子供だと思っていました。アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、自分らが神に選ばれた者であり、神が自分らだけに律法を与えてくださったので、自分らだけが特別な存在だと思っていたのです。当時のローマの異邦人キリスト者たちも罪が蔓延っていたローマ帝国で、キリストに救われた自分らが普通の罪人とは異なると考え、自分らを特別な存在だと思っていたでしょう。パウロは、このような全ての信者たちを仮想のユダヤ人と想定し、これらの信じる者が持ちやすい偏見や頑なな心を咎め、論理的に告発しているのです。このような理由から、ローマ書の読み手は、たとえ神を信じる信者であっても、誰でもユダヤ人のように偏見と片意地に惑わされ、罪を犯しやすいと悟るのです。このように、今日ローマ書が取り上げているユダヤ人は、一次的には本当のユダヤ人であり、二次的には神を信じるすべての信者であるということが分かります。従って、これは、ある名の無いユダヤ人へのメッセージではなく、志免教会で信仰生活をしている私たちにも適用できる内容でしょう。
2.パウロが突然、律法を登場させる理由。
ところで、2章12節から急に律法が登場します。今まで罪と不義について話し、罪人を裁く者の罪をも話していたパウロは、なぜ、いきなり飛躍的に、話題を律法に変えるでしょうか?実は当時のユダヤ人と律法は密接な関係でしたし、ユダヤ人が自分を義人とし、平気で罪人を裁いた根拠が、彼らは神に律法を委ねられたからという当時のユダヤ人社会の背景を考えると、突然な律法の登場は、別に不自然ではないかも知れません。当時のユダヤ人といえば、律法を思い浮かべるのが当たり前なことだったからです。ここでの律法とは、モーセが残したモーセ五書を指すことです。ユダヤ人たちは、このモーセ五書を受けた唯一な存在が、自分の民族であることを誇りに考えていました。自分たちが、このモーセ五書を持っているだけでも、異邦人たちとは違う大きな恵みを得、この律法があるため、自分らにとって神の救いは当然のことだと思っていました。彼らは律法のない全ての異邦人は滅びるだろうと思っていました。ユダヤ人に於いて、律法は誇りであり、全部でした。
しかし、パウロは彼らに律法を持っていることだけでは、何の役にも立たないと強調しています。 『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)律法は、ただ持っているだけでは、何の効果ももたらしません。律法に記された言葉を心に留め、それに聞き従う際に、律法の価値は輝きます。しかし、ユダヤ人たちは律法を持っているだけで満足したのです。自分たちは、律法を持っているため、神の裁きから自由だと信じていました。しかし、パウロは、むしろユダヤ人が律法によって裁かれると警告しました。新共同訳では省略されていますが、元々原文では11節と12節の間に「なぜなら」という単語があります。これを通して2章の1-11節の言葉を、このように解釈することが出来ると思います。『神に律法を委ねられたと高ぶり、他の罪人を裁き、自分を正しく思うユダヤ人たちよ。君らは異邦の罪人と全く違わない。ただ神様は君に対して忍耐しておられる。ユダヤ人にしろ、ギリシャ人にしろ、悪を行うと苦しみと悩みが、善を行うと栄光と誉れと平和がある。』その後、省略された『なぜなら』が入り、次の第12-13章に繋がります。『律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』
では、これを私たちキリスト者は、どのように自分に適用することが出来るでしょうか?ユダヤ人に律法があれば、キリスト者には、主の福音があります。ユダヤ人たちは、神の言葉である律法を通して、神の救いが、既に臨んでいたと思いました。キリスト者も、イエス・キリストの十字架の御救いを通して、既に救われ、天国を許されたと信じながら生きていきます。しかし、キリスト者が、既に救われたから善行は要らないという考え、もう天国が自分のものになったかのような安易な思い、隣人の魂への哀れみもなく、自分だけは地獄に行かないだろうと満足し、主の御言葉への不従順、神と隣人への愛も、キリストが福音を通して教えてくださった奉仕も無く、ただ福音を天国行きのチケットくらいに思っているなら、キリスト者は自分の救いについて、真剣に考えてみるべきだと思います。『ただ福音を持つ者が救われた者ではなく、福音の精神を生活の中で現わしている者が、本当に救われた者』であるからです。
3.律法は、形ではなく精神である。
ローマ書は2章17節以降、具体的にユダヤ人の勘違いと律法について話しを繋いでいきます。当時のユダヤ人たちは、自らが律法に頼り、神を誇りとし、神の御心を知り、律法の教えによる在り方を弁えていると思いました。 また、律法に具体的な知識と真理があると考え、自らが盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師だと自負していました。彼らは見掛けだけでは実際にそのような人々だったのかも知れません。しかし、彼らは律法をしる知識にふさわしくない悪い意図や振る舞いも持っていました。神と隣人を愛せよという律法の精神は破り、偽善的に行い、貧しい人々を無視し、異邦人を憎んだりしました。律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮ってしまいました。この手紙を書いたパウロさえも、神のためにという名目で、使徒言行録でステパノの迫害に加わった人殺しでした。ユダヤ人たちは、律法への知識と行為が一致しませんでした。表だけは立派に見えましたが、中身は腐った墓のように裏と表が違ったのです。ところで、突然ですが、恐ろしい事実があります。それはこのユダヤ人への叱責がユダヤ人だけでなく、私達にも同じく適用されるということです。私たちはこの言葉を通して、ユダヤ人ではなく、自分自身を顧みなければならないと思います。
ユダヤ人が残したタルムードのような文書には、ユダヤ人に3つの誇りがあったと記されています。律法、神殿、割礼です。このすべてのものは、ただ表だけに見える表示です。律法とは、神と隣人を愛せよという具体的な命令であり、神殿とは、その神殿を通して神様がユダヤ人だけでなく、すべての人類と共におられることを示す象徴でした。割礼とは、生命の根元になる男性性器の一部をきり、人間ではなく神だけが命の源であるということを認める謙虚と従順の象徴でした。しかし、ユダヤ人たちは、この3つのものが持っている真の精神は抜かして、ただ律法、神殿、割礼という目に見える形だけを取り、自分たちだけが神に救われ、選ばれた民族だと信じていたのです。
パウロはこのようなユダヤ人という象徴を通して、本当に選ばれた存在は、律法やその他の何かを通して証明できるものではなく、神の律法が持つ精神を生活の中で実践する時こそ証明出来ると、絶えず力説しています。『だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。』(フィリピ 2:12)パウロは、フィリピ書の言葉のように、常に恐れおののきながら、自分の救いについて反省し、自分が救われた者であるか、証明する生活を生きて行くように勧めています。 これは、行いによる救いという意味ではありません、救われた人の証としての行いを求めているのです。『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。』(ローマ2:28-29)このように今日の本文は目に見えるものではなく、目に見えない律法の精神を強調しました。
締め括り
今日パウロは、神を信じる者の象徴としてユダヤ人を選びました。また、そのユダヤ人の必ず守るべき精神としての律法を取り上げました。そしてユダヤ人と律法について、ディアトリベーという方式をもって話しました。この言葉は、単にユダヤ人だけへの話しではありません。パウロがユダヤ人にした話は、実は自分が神を信じていると思っている者なら、誰でも注意しなければならない内容です。律法のことも同じです。これは旧約の律法だけを意味することではなく、神を信じる者なら、当たり前に守るべき、神の言葉としての意味を持っています。私たちは、新約と旧約の律法と福音の言葉を、ただ知識として受け入れ、それだけで喜んでいるのではないでしょうか?私たちは本当に律法と福音が絶えず語りかけてくる、神と隣人への愛を誠実に守っているのでしょうか? 今日のユダヤ人と律法の話を通して、神を信じている自分自身と自分が理解している神の律法と福音について、もう一度、顧みる時間になることを願います。