ローマ 1 章 1 節-7 節 小倉教会 金泰仁 伝道師
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と記されていま す。 パウロは、キリスト・イエスの僕として、身も心も全てキリストのものとされている、そしてそのことのゆえ に、召されて使徒となったと言っています。 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは、身も心も徹底的にキリストに所有される僕となり、 キリストから全権を委任されて派遣される使徒となったのです。 パウロが召されて使徒となったのは、「神の福音のために」です。福音とは、良い知らせ、救いの知らせとい う言葉です。しかし人間の感覚における良い知らせではありません。神により神からの「神の」福音です。
2 節に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」と記されています。 神は既に聖書の中で、預言者を通して救いを約束しておられます。その神の救いの約束が実現したという良い 知らせをパウロは告げ知らせているのです。良い知らせ Good News それが福音です。 その福音は「御子に関するものです」と 3 節に記されています。「御子」とは神の子である、イエス・キリスト のことです。 神が預言者を通して約束していた福音は、神の子であるイエス・キリストにおいて実現しました。ですから「神 の福音」とは、「御子イエス・キリストによる救いの知らせ」なのです。
3-4 節に、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力 ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と記されています。 ここには、神の御子である主イエスの誕生と復活とが示されています。「肉によればダビデの子孫から生まれ」 とは、主イエスが私たちと同じ人間として、肉体をもってこの世に生まれて下さったことを現します。 そしてその御子は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められ」ました。十字 架の死を経た主イエスの復活のことをパウロはここに示します。 「力ある神の子と定められ」と記されています。定められたとは、定めた方がおられることを意味します。 定めた方とは、主イエスを死の力から解放して復活させ、新しい命、永遠の命を与えてくださったのは神さま です。 救い主として私たちを救う神の力が主イエスの復活によって示されたのです。それは死に勝利する力、死の力 に捕えられ支配されている私たちを解放して、新しい命を与えて下さる力です。 私たちの人生を脅かしている最大の敵である死を、神の恵みの力が打ち破り、私たちに新しい命を与えて下さ る、その救いが、御子イエスの復活において実現したのです。これが福音です。 パウロはこの「神の福音」のために選ばれ、召されて使徒としての務めが与えられました。
5 節に「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵 みを受けて使徒とされました」と記されています。 原文の前半を語順通り直訳する、「わたしたちはこの方により、恵みを受けて使徒とされました」となります。 「この方」とは主イエス・キリストです。パウロはイエス・キリストにより、恵みを受けて使徒とされました。 「恵みを受けて」と記されています。ここも原文により忠実に訳すと「この方によって、恵みと使徒の務めと 2 を受けた」となります。「恵み」と「使徒の務め」とが、キリストによって与えられたものとして並べられていま す。パウロにとって、使徒とされたことは神の恵みを受けたことであり、恵みによってこそ使徒とされたのです。 パウロがそのように断言できたのは、彼がキリストを信じる者となり、使徒となった時の体験に基づいていま す。 主イエスに会う前のパウロはユダヤ教ファリサイ派の一員として、イエスを救い主キリストと信じるキリスト 教徒を迫害していました。 その当時の彼は、イエスが神の子、救い主であることを認めず、そのような教えは撲滅すべきだと考えていた のです。 彼は神が遣わした独り子主イエスを否定し、主イエスを信じる人々を迫害していました。それは、神に逆らう ことです。それゆえに彼は、救いようのない、滅ぼされるしかない罪人だったのです。 その彼は主イエスとの出会が与えられます。主イエスは彼を信じる者としてくださいました。さらに使徒とし て下さいました。それは主イエスが彼の罪を赦して下さり、彼を新しく生かして下さったということです。 そこにおいては彼自身の反省も努力も精進も、あるいは彼の思索などは、何の役割も果しません。 滅ぼされるしかない罪人である者が、何の反省も努力も精進もなしに、ただキリストの恵みによって赦され、 救われ、使徒とされた、これがパウロ自身の体験でした。
5節に、「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために」となります。 「御名を広めて」、この「広めて」という言葉は原文にはありません。あえて意訳すれば、「御名のため」、あるい は「御名ゆえに」と訳せます。 御名のため、御名ゆえに、パウロは、「すべての異邦人を信仰による従順へと導」こうとしています。 ユダヤ人たちは、自分たちだけが神に選ばれた神の民だ、という自覚を強く持っていました。だから神の救い にあずかるのは我々ユダヤ人であり、異邦人はそのままでは救いにあずかることはできない、割礼という儀式を 受けてユダヤ人の一員にならなければ救われない、と考えていたのです。 パウロも、かつてはそのような考えを強く持っていました。異邦人が異邦人であるままに、神の民に加えられ、 救いにあずかるなどあり得ないと思っていたのです。 しかし今彼は、異邦人にキリストの福音を宣べ伝え、異邦人がその救いにあずかるために使徒としての務めを 果しています。 それは、かつては考えもしなかった務めです。その大転換をもたらしたのも、彼が体験したキリストの恵みに よる救いです。異邦人は、血筋において神の民に属すること無く、律法を守ることもありません。犠牲を献げる 儀式も行うことのない異邦人には、神の救いにあずかる相応しさは全くありません。これがユダヤ人の一般的な 考えです。
しかしそのように全く相応しくない者が、ただ主イエス・キリストの恵みによって罪を赦され、神の民とされ ます。それが主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した神の救いです。 その救いは異邦人にも確実に及びます。パウロは救われるに、全く相応しくない罪人でした。しかし、ただキ リストの恵みによって赦され、救いにあずかった体験からそのような確信が与えられ、異邦人の使徒として召さ れ、遣わされているという自覚が与えられたのです。 パウロは福音を宣べ伝えることにより異邦人たちを信仰による従順へと導こうとしています。 そのパウロは、信仰には従順が必要だと言います。従順、神への従順とは、神に従うことです。信仰とは、神に 従うことです。神のみ言葉に聞き従うことなのです。 それは信仰者として、当然のことです。しかし、私たちは、信仰を持って生きていながら、神に従順であろう とせず、神のみ言葉に聞き従おうとしないことがあります。
例えば私たちが、苦しみや悲しみの中で、自分の願い、望み、希望を神に訴え、悩み苦しみを取り除くことの みを求めます。その様な時、私たちは神に従順であろうとしているのではなくて、自分の願いのために神を利用 しようとしているのです。 あるいは神を信じることにより自分の人生にどのような喜び、慰め、支えが得られるか、ということを考える ならば、それは私たちが自分に従順に仕える神を求めているということです。 私たちは自分の願いか叶うか叶わないかにより、神の福音を評価します。そこでは神への従順が全く忘れ去ら れています。信仰の根本に、神への従順がなければ、それは結局神を自分の人間側の都合のために利用すること にしかなりません。このことを私たちはしっかりとわきまえなければなりません。 ここに、私たちはキリスト者として「信仰の従順」と「神の福音」との関係性を明確に知らなければならない のです。
神の福音とは、神が御子イエス・キリストにおいて実現して下さった救いの知らせです。それはただキリスト の恵みによってのみ与えられた救いであり、私たちの反省や努力や精進によって得られるものではありません。 福音は、私たちの側の相応しさによってではなく、ただ神の恵みにより、罪人である私たちが赦されて救われ るのです。それこそが神の福音です。 異邦人を信仰への従順に導く、と記されています。もし、ただ単純に、神に従順に従うことによって救いが得 られるのであれば、その従順は救いを得るための人間の側の相応しさ、条件となります。 そのような条件を満たして相応しい者になれば救いが与えられるのではありません。ただキリストの恵みによ ってのみ罪人が赦され救われます。これが神の福音です。そもそも神の救いを得るに相応しいほどに従順な人、 正しく、聖い人などこの世には存在いたしません。
「信仰の従順」とは、十字架の死に至る主イエスの父なる神への従順、この従順が私たちの為だったことを認 め、その主イエスの従順により与えられた救いの恵みを信じて受け入れることです。 私たちの側には、救いを得ることができる相応しさなど何一つありません。神がただ恵みによって独り子イエ ス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちにも、死の力 からの解放と永遠の命を与えると約束して下さった、その神の福音を信じて受け入れることです。 それこそが、パウロがここで、全ての異邦人をそこへと導こうとしている「信仰の従順」なのです。 信仰の従順とは、従順になることにより救いに相応しい者となることではなくて、全く相応しくない、救われ る資格のない者が、主イエス・キリストのものとされることにより救われる、その主イエスの恵みを従順に信じ 受け入れることなのです。
7節に、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と記されています。 あなたがたは神に愛されて、そしてキリストの恵みによる救いへと召されています。それは、あなたがたの相 応しさによってではなく、キリストの恵みによって聖なる者、神に属する者とされているのです。 その恵みを信仰の従順により、その神の愛による召しを受け入れなさい、という招きです。 その招きは、ローマの教会の人たちにだけでなく、今ここで共に礼拝を献げる、私たち一人一人にも与えられ ています。 この信仰の従順への招きに私たちが応えるならば、7b に告げられた祝福の言葉、「わたしたちの父である神と 主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。この言葉が私たちのものになるのです 信仰の従順によって神の福音を受け入れるなら、私たちも神に愛され、召されていることを知ることができま す。 父である神と主イエス・キリストと聖霊なる神からの恵みと平和の内に生きることができるのです。 祈りましょう