主の裁き。
詩編119編137-144節 (旧966頁) ローマの信徒への手紙 2章1節-16節(新274頁) 前置き 先週、私たちは、人間の罪がもたらす惨めさについてお話しました。人間を代表するアダムが神の御言葉に聞き従わない、最初の罪を犯した後、すべての人は、神の要求を満たすことが出来ない不義の存在となりました。ここでの不義とは、神様の要求に応えることが出来ないということ、すなわち、神を信じないということです。人間のこの不義は神に完全に聞き従うことが出来ない不完全さをもたらしました。また、人は、そのような不義により、引き続き神に逆らう罪を犯して生きて行くことになりました。ローマの信徒への手紙は、神がこのような人間の不義に対して怒りを現わされると証言しています。そこで神は、不義のため神に仕えず、むしろ逆らう罪人をその心の情欲のまま、放っておかれ、更に罪の中にとどまるようになさいました。捨てられた人間は、続けて罪を犯し、神の怒りを積み重ねて行くことになりました。 残念なことは、神が創造される時、被造物に神を知る知識を明らかに示されましたが、被造物である人間は、不義により、そのような神に対する微かな認識さえ歪めて、被造物を神として拝む偶像崇拝という更に大きな罪を作ってしまいました。結局、人は自力では罪を犯すだけで、その罪を解決することが出来ないことを、偶像崇拝を通して示したのです。自分の罪を清めることが出来ない人間は、神の怒りの中で、ただ恐ろしい裁きに向かって行くしかない惨めな存在です。したがって、神はこのように、神の怒りの中で、自らの罪を解決できない人間を救われるために、彼らの代わりに、神の要求を満足させるイエス・キリストを遣わしてくださったのです。罪と不義は恐ろしいものです。初めの罪が不義を呼び出し、不義によって新しい罪が生じるのです。これらの不義と罪の連鎖作用のため、人は神の裁きから決して切り抜けることが出来ない悲惨な人生を生きるしかありません。 1.神はすべての被造物を裁かれる。 それでは、神の裁きとは、果たして何でしょうか?私たちは、神の裁きについて漠然と地獄での甚だしい悲しみや苦しみを思い浮かべたりします。もちろん聖書にも、そのように記されています。『彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。』(黙示録20:13-15)しかし、聖書が語る裁きの、ただ文字的な意味を超えて、調べてみる必要があると思います。新約聖書が語る裁きという言葉は、ギリシャ語「クリノー」です。この『クリノー』は『定める、裁く、裁判する、判断する、批判する、告発する、治める。』等の様々な意味を持っています。ところで、このクリノーの最も基本的な意味は「定める。」です。つまり、裁きとは裁く人が裁かれる人の処分を定めるということです。裁判官が法律を持って被告人の処分を定めるように、神様は御言葉を持って被造物の処分を定められます。神の言葉によって造られた、すべての被造物は、終わりの日に厳重な神の御言葉によって処分が定められるでしょう。これは善と悪とを問わず、神によって造られた、すべての被造物に摘用される神の裁きです。 だから、この裁きというのは、単に罪人向きのものではありません。すべての被造物が神の定めとしての裁きを待たなければならないからです。これはキリスト者さえも、神の裁きについて『既に神の赦しを得、救われた。』という名目で、自分は神の裁きとは関係ないと思ってはいけないという意味です。世のすべてのものは終わりの日、キリストを通して神の裁きを受けるからです。もちろん、キリスト者は、キリストによって、神の御前で弁護されるでしょう。しかし、だからと言って、神が私たちの過去の行いと業について沈黙されるだろうとは言えません。その日、私たちは、必ず神に私たちの生涯について自供をしなければなりません。ウェストミンスター信仰告白33章では、これを明らかにしています。 『地上に生きたことのある全ての人が、彼らの思いと言葉と行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、彼らが体をもってなしたことに応じて、報いを受けるためにキリストの法廷に立つことになる。』神は裁かれるお方です。神はすべてのものを造られた創り主でいらっしゃいますので、終わりの日、全ての被造物に対する権威を持って裁かれるでしょう。 2.ローマ教会へのパウロの警告。 東洋文化圏に生きる私たちは、基本的に仏教の世界観の影響を受けます。なので、裁きを考えるとき、地獄について漠然と考えたりします。ところが、仏教で語られる極楽と地獄のイメージは、仏教が生じる、ずっと前に古代近東で栄えたゾロアスター教という宗教の教義から渡って来たものです。ギリシャの王アレキサンダーがペルシャを征服した後、東西が融合したヘレニズム文化が生まれ、地中海全域には、これら善悪と天国、地獄の概念が広がり始めました。これらの思想は、インドにも伝えられ、仏教に影響を与えました。しかし、旧約聖書は、天国と地獄を語っていません。死後、すべての人は陰府に降り、すなわち死後の世界に入るということです。その後は神の領域ですので、人間としてははっきり知ることはできないというのが、旧約の来世観です。新約聖書が天国の喜びと地獄の裁きを話す理由は、その時代の人々がそのような善悪、天国地獄の概念の中に住んでいたからです。神の裁きは地獄のように恐ろしいということを教えるためでした。ここで確実に知れることが二つあります。すべての人は、死んで、神の御前に行かなければならないということと、天国と地獄よりも重要なことは、私たちが必ず神に裁きを受けるということです。 しかし、多くの人々が、特にすでに神を信じると考えているユダヤ人やキリスト者は、勘違いしやすいです。『私は神の民だから・私はキリストに既に救われたから、彼らとは違う。』しかし、今日の聖書は言います。『すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 』(ローマ2:1)この言葉は、ローマの信徒への手紙を受けたローマ教会の人々だけでなく、現代を生きる私たちにも訴えています。ひょっとしたら「私は神を信じているので、私はキリストの中にいるので、罪のために惨めになった彼らとは違う。」という思いが私たちの心の中に少しはあるんじゃないでしょうか?このような思いの根本には、罪人を判断する姿が隠れています。彼らと自分を分けて、自分は違うと思うからです。 パウロがローマの信徒への手紙を書いた当時、ローマ教会は、ユダヤ人とギリシャ人が一緒に仕える教会でした。自らが神の選ばれた民族だという自負心を持っているユダヤ人と、ユダヤ人ではないけれど、キリストによって救いを受け、信仰を持っていたローマのギリシャ人のキリスト者は、ローマ人の堕落を眺め、彼らは簡単に判断したりしたかも知れません。しかし、彼らに使徒パウロは、神の裁きの本質を教えてくれます。 『全ての人は、神の裁きの下にある。罪人を見て判断するならば、それは結局あなたがたの中にも同じ罪が潜んでいるという証拠である。あなたがたは、神の裁きから自由ではない。キリスト者であるあなたがたも安心せず、更に主の御心を察して、謙遜しなさい。』これがパウロが今日の言葉を通して、ローマのキリスト者、そして今日、この言葉にあずかる私たちに訴える教えであります。 3.神は正しくお裁きになる。 ローマ2章2節でパウロはこう語ります。『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 』(ローマ2:2-3)パウロは信徒たちに『罪人を裁きながら、同じことをしている者よ』と話しています。ローマ教会の信徒たちが堕落して不義の生活をしていたから、このように責めたのでしょうか?そうではないと思います。ローマ1章8節は、ローマ教会の信仰が全世界に言い伝えられていると証言しているからです。それでは、一体なぜパウロは『君らも同じものだ。』という風に話したのでしょうか?これは、2節の『正しく。』という言葉から意味を見つけることが出来ます。 まず、2節の『正しく』という表現は直訳すれば、『真理通り』という意味です。古代ローマで真理という言葉は、東洋人が理解する真理とは、かなり異なる意味深い表現です。私たちは、真理を話す際に、主に偽りの反対語だと思う傾向があります。日本語の辞書にも『本当の事。間違いでない道理。正当な知識内容。』と書かれていました。ところが、ギリシャの思想では、この真理の反対語を「現象」と言いました。現象とは表に現れるものであり、真理は表に出なく隠れている実在を示すものだというです。難しい言葉だと思いますので、聖書から例え話を引いて見ましょう。 『わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』(マタイ5:28)人々は女性を見て淫らな思いを持っても、実際に犯していなければ、罪ではないと思います。この世の法律のことです。しかし、イエスは淫らな思いを持つ時、既に淫らな罪を犯していると語られました。表に現れる『女を犯す。』というのが現像であれば、心の中にある『淫らな思い』は真理だという意味です。人間は現象だけをみることが出来ます。しかし、神は真理までご覧になります。そして真理について裁かれ、それに応じて現像をも裁かれるでしょう。そのため、ローマ書は、神の裁きが真理通り、厳正になされると話しているわけです。 1節に「裁き」という言葉が3度も出てきます。ここでの裁きは、先に申し上げましたギリシャ語「クリノー」と同じ言葉です。ところで、私はその「クリノー」が神の裁きの原語だとお話しました。裁きは神だけの権限です。人が敢えて侵すことが出来ないものです。つまり人が人を裁くということは、神の領域を奪おうとする仕業と同じです。それは1章で、パウロが話した数々の不義を産んだ罪に基づくものです。人が裁いてはならないのは、人は真理と現像の間で何が真理であり、何が現象なのか分からないからです。人は表だけ見て中身を見ることが出来ないからです。真理と現像への完全な理解は、神だけがなさることです。ですから、私たちは人を裁いてはいけません。私たちが、イエスを信じているから、既に赦されたからといって誰かを裁けば、我々は最終的に神の御前で他の罪人と同じような罪を犯すことになると、パウロは語っています。神の裁きは、私たちの心の中の思いから表の行いまで一つ一つつまびらかにするからです。 締め括り 『あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。』(ローマ2:4)神は御哀れみをもって、私たちを赦しておられます。神様が私たちに対して何もなさらないからといって、私たちに罪がないわけではありません。神のお赦しを知っているにも拘わらず、引き続き、他人を裁き、自分自身は違うという考えを持っていれば、神はそれを、私たちの頑なな思い、悔い改めようとしない思いだと判断され、怒りの正しい裁きを下されるでしょう。『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)ですから、私たちは他人への裁きを止めて、ただ神の御言葉に聞き従うことによって、御言葉通り実践する人生を生きるべきでしょう。 19世紀のアメリカ、身なりが非常にみすぼらしい老人がハーバード大学長を訪れました。人々は彼がお金を乞うために来たと思いました。学長は彼を門前払いし、職員たちも、彼に冷たい態度を取りました。結局、老人は追い出されてしまいました。彼は帰っていくとき、職員にこのような質問をしました。『こんな大学を立てるには、どのくらいのお金が必要ですか?』 その後アメリカ大陸の反対側に良い大学が出来たという便りが伝わってきました。追い出された、みすぼらしい老人の名前はリーランドスタンフォードでした。ハーバードに肩を並べる有名なスタンフォード大学の創設者です。ハーバードは奨学金寄贈のために来た彼を、見かけだけを見て、追い出してしまったのです。人は真理を知ることが出来ません。神だけが真理を御存じです。したがって、我々は表だけ見て判断する前に、自分自身を顧み、神にその判断を委ねるべきです。誰かを裁くことなく、私たち自身の罪や悪いところを反省し、へりくだって主の道に従って生きましょう。