罪がもたらす惨めさ。

イザヤ書59章1-2節 (旧1158頁) ローマ信徒への手紙 1章18節‐32節(新274頁) 前置き 中世後期のヨーロッパに、現在、チェコ共和国と呼ばれるボヘミアで生まれたモラビアン教会という宗派がありました。彼らは非常に情熱的な宣教で有名な団体でした。彼らは主にアフリカ、中国、極地などに入って、その国の文化、言語などを熱心に学び、服装もその文化に合わせて着るなどして、宣教を行う人々でした。そのモラビアン教会の、ある宣教師が北極に近いグリーンランドに派遣されました。彼はそこに入って地元の人々と積極的に交わり、高いレベルの言語を話し、深い文化理解を持って、伝道に力を尽くしました。後日、彼の評判は非常によくなり、多くの先住民が、彼と親しい交わりを持つことになりました。ところで、その宣教師には一つ悩みがありました。 17年も宣教に尽力しましたが、誰一人もイエス・キリストを信じないということでした。その宣教師と友達になり、隣人になりましたが、彼らは依然として神を信じていませんでした。 そんなある日、近所の先住民が宣教師を訪れたことがありました。親しかった二人は、お茶を楽しみ、色んな話を分かち合いました。そうするうちに、ふとイエスの生涯に話題が変わりました。彼らは人の罪と、イエス・キリストの死と罪の赦しと栄光の復活について話をするようになりました。その日、宣教師を訪れた先住民は、自分の罪を悟り、衝撃を受け、真にイエスを信じ、悔い改めることになりました。それにより、その地域の本当の宣教が始まり、多くの先住民が、神を信じ、イエス・キリストを救い主として認めることになったと言われます。罪への警告と罪の赦しの恵みを教えることは、福音の最も大事なメッセージであります。それを教える説教が宣べ伝えられる時こそ、福音は本当にその力を現わすことが出来るのでしょう。今の例え話は、そんな事実を明らかに示していると思います。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。この世での富と名誉のための宗教でもありません。瞑想や自己省察のための宗教でもありません。キリスト教は、キリスト・イエスを通して天地を創造された造り主と再会、和解し、彼と一緒に生きていくための宗教であります。例えば、父に逸れた孤児が父と再会して、父と一緒に父の家に少しずつ歩いて行く様子。そのように神と同行する宗教であります。そのような創り主である神と歩んで行く途中、神によって時には幸せを経験したり、時には不幸を乗り越えたりしながら、最後まで神様と共に進む宗教であります。その同行の結果の一つが、正に、死後天の国に行くということです。それは目標ではなく、ただ、神の贈り物の中の一つに過ぎないのです。造り主、神と共に行くこと、そのものが既に私達の天国が始まったということであり、私たちの救いが成し遂げられはじめたという意味です。 ところが、この神に出会うことを妨げる深刻なものがあります。それはまさに人の罪であります。今日の旧約聖書の言葉を見てみましょう。『主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。』(イザヤ59:1-2)罪により、造り主から離れた人間が本当に救いを得るためには、必ず造り主、神様の御前に居なければなりません。御前に居るということは、神と共に歩むという意味です。しかし、罪というものがある限り、我々は神の御前に居ることが出来ません。いや、許されません。罪が神と我々の間を隔てているからです。 実に神様は、どんな状況にあっても、私たちを救える充分な力を持っておられます。しかし、人が罪を持っている限り、主は人をお救いになることが出来ません。主の手が短いわけでもなく、主の耳が鈍いわけでもありません。にも拘らず、神は人に罪がある限り、その人をお救いになりません。お出来になれないわけではなく、救ってくださいません。なぜなら、罪は神の性質に正反対のものだからです。罪は神と人間の間の巨大な隔てをもたらします。罪は人間に向けて恵みと哀れみをくださる神の御顔を隠すものです。罪は神の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人間が神に救われることが出来ないようにする結果、人間が神に見捨てられるしかない悲惨な結果をもたらします。人が自分の罪を解決していない以上、その人は絶対に救いを得ることも、神と共に歩んで行くことも許されません。 2.罪の悲惨さについて。 ギリシャの哲学者、ソクラテスは「無知は罪なり。」と言いました。ソクラテスはキリスト者ではないですが、彼のこの言葉には真理が隠れているように思えます。罪から生じる惨めさの一つは無知です。罪を持っている人は、自分にどのような罪があるのか、何が問題なのかを絶対分からないということです。分からないので解決が不可能であり、解決が不可能であるため、救いに至ることが出来ません。今日新約本文であるローマの信徒への手紙は罪人がどれだけ悲惨さの中にいるのかを詳しく説明しています。『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 』(ローマ1:20)世界を創造される時、神様はすべての被造物が神について悟ることが出来るように、神の神性を被造物の間に示してくださいました。だから、罪のない状態の被造物は、何であっても神の存在を感じ、知ることが出来ます。しかし、罪によって神のその神性を見つけられないようにされた人間は、自らの力では、神様の存在を悟ることが出来なくなってしまいました。 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23)人は本能的に、神の神性が感じられます。人間の本能がそれを証明します。『誰なのか詳しくは分からないけど、きっと全能者はいるかも。』という人々の漠然とした予想は、よくあるものでしょう。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、歪んだ人間の罪のため、人間は、自分が願うものを神だと思います。木を、石を、獣を、人を神にしたりします。日本は国の名前からも分かるように、古くから太陽を神と崇めて来たそうです。それによって生まれた存在が天照大神、太陽の女神です。太陽をお天道様と呼ぶことにも、そのような文化が溶け込んでいるからではないかと思っています。しかし、創世記1章は、きっぱりと太陽を含むすべてのものが、ただ神の創造物にすぎないと話しています。人間の罪は罪を悟れないようにするだけでなく、とんでもないものを神として仕える心を与え、真の神様を冒瀆する偶像崇拝の罪までもたらします。 『彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。』(ローマ1:28)罪の中に生きている人間への最も致命的で、悲惨な神の裁きは、神が彼らを自分らの罪の中に放って置き、救いの道を許されないということです。本文の『渡す。』という表現はギリシャ語『パラディドーミ』の翻訳ですが、『見捨てる。』という意味です。『してはならないことをするように。』すなわち、神様がどのような形の憐みも下さらず、引き続き罪を犯すように放っておかれ、赦されずに、裁きを下されるということです。これを神学的な用語で、神の遺棄と言います。『捨てるために残す。』という意味です。そのような人たちからは29-31節までの数多くの罪が現れます。罪が罪を産み、罪が罪を増やし、罪によって人間が神から永遠に捨てられるという意味です。これが罪の持っている恐ろしさであり、私たちが神に赦しを請うべき最も悲惨な呪いであります。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。 未信者がキリスト教信仰を持とうとするとき、最も難しいことの一つは、自分自身に罪があることを認めなければならないということです。もちろん犯罪者は、比較的、容易に納得するかもしれませんが、盗んだことも、人を殴ったことも、嘘をついたこともない善良な人々は、自分が罪人であることを納得することが、あまりにも難しいでしょう。しかし、聖書はこのように語っています。『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。』(ローマ3:23)旧約聖書の創世記で人類を代表するアダムとエバが神を裏切って離れた後、人々は罪の中に生きることになりました。アダムとエバの話は時空間の超え、私たちに教えを垂れています。神を裏切って離れ、罪の中に生きるようになるという最も基本的な罪を私達も犯すかも知れないということを示しています。 罪とは矢と的との関係と似ています。矢が的に当たらない場合、スコアが出ないように、罪は罪人が神が定められた基準を満たせない場合に生じます。したがって、神が定められた法則、律法に従って『神の御心に聞き従うこと、神と一緒に歩むこと』を満足させないとき、私たちの人生で、引き続き新しい罪が生じるようになります。しかし、人は皆、すでに罪を持っているので、自分の力では、神の御心に適うことが出来ません。そして、赦してくださる神を知ることも出来ません。つまり、人間は自ら罪を解決することが出来ないということです。だから、人は自然に罪の中に生きるしかありません。そして、その罪は続けて別の罪をもたらします。最終的に罪人は罪によって神に見捨てられ、永遠の死を迎えるしかありません。 イエス・キリストが私たちのところに来られた理由は、まさにこの罪の問題を解決するためです。私たちが福音を福音と言う理由はこのためです。自力で解決できない罪を、解決する御方がいらっしゃるという良いニュースだからです。神から来られたイエス・キリストは、罪を赦してくださる方です。そして人が満たせない神の要求に代わって、満足させる方です。私たちは、このイエス・キリストの罪を赦す力、神の要求を満たす力を、私たちを救ってくださるキリストの贈り物として信じるとき、神に赦しを得ることができます。私たちの果たせないことを、キリストが代わりにお果たしくださり、自分の赦しのため、何も出来なかった私たちが、キリストによって赦されたということを信じるとき、私たちは神様に赦されることが出来ます。イエス・キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決するために、私たちに代わって十字架につけられ、死なれ、死から私たちを救い、私たちのために神から新しい命を受けてくださいました。イエス・キリストだけが私たちの罪を赦してくださる、神から遣わされた唯一の救い主でいらっしゃいます。罪の結果は甚だしい惨めさですが、その悲惨さの中、私たちを救ってくださるキリストの存在のため、私たちは希望を持つことが出来ます。 締め括り パウロは今日の本文を通して私たちにも罪があることを教えています。私たちは、すでに救われ、主の中にとどまっていると思いますが、罪ある人間ですので、誰かを憎み、悪いことを行い、神の御心に適わない時が、時々あるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じているからです。私たちは、キリストの罪の許しによって日々新たにされる者でしょう。そして、主を信じる我らは、主のお導きにより、その罪から立ち戻り、神に喜ばれる善を行う生活の方向に進むことが出来ます。私たちの罪は私たちを惨めにし、神に見捨てられるように働きますが、イエス・キリストは私たちが悔い改めるとき、その罪をいつも赦してくださり、私たちが神と一緒に同行することが出来るよう導いてくださいます。志免教会の皆さんが、このようなキリストの恵みに感謝し、毎日の罪を告白し、悔い改め、罪を遠くして、罪の惨めさから自由な民、キリストに聞き従う良い民として生きて行くことを願っています。