大祭司の祈り。

民数記6章24-26節 (旧221頁) / ヨハネによる福音書 17章1-26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書13章から16章までは、イエス・キリストが十字架で死ぬことを準備されながら、弟子たちにお別れの説教をされる部分です。イエスはお別れの説教を始める前に、弟子たちの足を洗ってくださり、晩餐を施してくださり、彼らを慰めてくださいました。そして、弟子たちが神様のものであることを力強く認めてくださいました。また、弟子たちを捨てて置かれず、助け主、聖霊を通して、この世の終わりまで共におられることを教えてくださいました。そして、そのお別れの説教を確証でもするかのように、17章では、父なる神様に切に祈ってくださいました。私たちは、過去数ヶ月間、ヨハネによる福音書の言葉を通して、弱い者を見守ってくださる主、死者を生き返らせる主、罪人のために代わりに死ぬことを予告されるイエス・キリストに会うことが出来ました。今、イエス・キリストは、そのような公生涯とお別れの説教を終え、それを父なる神に告白するお祈りを通して、その教えを実践すると誓っておられるのです。 多くの人々にヨハネによる福音書、第17章は大祭司の祈りと呼ばれます。祈っておられるイエス・キリストを通して、いと高き所におられる栄光の神様と、最も低いところの罪の中に生きている人間の間に立ち、人間を守り、神の怒りを静める祈りを通して、旧約の神と民の仲を和解させる大祭司の姿がオーバーラップされるからです。特に主は3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを神様に捧げておられます。今日は本文の言葉を通して、イエス・キリストが私たちを如何に愛しておられるのか、キリストが私たちにとって、どのような存在なのかを話してみたいと思います。 1.イエス・キリスト、ご自身のための祈り。 イエスは民と人類のために祈る前に、まずご自分のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ先に他人ではなく自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、イエスが神様に、ご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、ここでの栄光を誤解してはいけません。これは、自分の欲望を満たし、肉体の必要を求める意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書に出てくる主の栄光とは、華やかな力や誉れではありません。イエス・キリストは、なぜ人間になって、この世に来られたのでしょう?それは、正に罪人のためにご自分の命を捧げるためでした。栄光を意味するギリシャ語のドケオーは『誰かが、本当に自分らしい状態』という意味です。罪人のためにご自分を犠牲にするために、生まれたイエス・キリストの栄光は、罪人のために犠牲になること、まさに十字架での死でした。栄光という言葉のイメージとは違って、あまりにも過酷で、屈辱的な苦難がキリストの栄光だったのです。 ところで、イエスは世界が造られる前に、すでにその栄光を持っておられたようです。『父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。』(ヨハネ17:5)ここで、私たちは、御父が創造の前から民を罪から救うために、御子の犠牲を既に準備しておられたということが分かります。父なる神様が罪人のために御子イエスを死へと導かれたことが御父の栄光であり、御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが御子の栄光であるという意味です。したがって聖霊の栄光は、その御子イエスが死んで罪人を救えるように助けてくださることでした。結局、三位一体なる神の栄光というのは、自らを犠牲にする苦しみと悲しみの栄光であります。そのような神の苦痛を伴う栄光の結果は、罪人への赦しと死からの復活でした。旧約聖書での神は、ご自分の栄光を誰にも与えられない方でした。神が痛みを伴う栄光をキリストに許されたというのは、キリストこそが、神だという意味であり、神ご自身だけが罪人への赦しを施される方だという証拠です。 イエス・キリストは、今日、このような栄光という名の苦難に勝ち抜くために神に祈られたのです。 『あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。』(ヨハネ17:2)この苦難の終わりで、イエス・キリストは信じる者に与えられる永遠の命をくださるために、見える世界と見えない世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせた、主イエスを復活させ、主イエスの栄光を完成されるでしょう。それにより、父なる神と聖霊も主イエスによって栄光を受けるものであり、最終的にこれは神を信じる、全ての民にも栄光となるでしょう。イエス・キリストのご自身のための祈りは、御父、御子、聖霊、そして神の民すべてに、輝かしい栄光を抱かせる十字架の死を誠実に行うためのイエス・キリストの切なる望みから始まるものでした。 2.弟子たちのための祈り 日本語辞書で弟子という言葉を引いてみると、『先生に教えを受ける人。』と記載されていました。教えを受けるということは、教育を意味します。教育とは、心と体の知識を得るための、すなわち知るために行う行為です。弟子はまさに『知るために。』先生に従う人です。また、聖書に戻りましょう。それでは、イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか? 『永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)使徒ヨハネは真の神とイエス・キリストを知るべきだと語っています。ところで、その知ることを通して何を得ることが出来るでしょうか?まさに永遠の命を得ることが出来ます。イエス・キリストの御教えを受けた者は、神様とは何方なのか?イエス・キリストとは誰なのかを、確実に分かるようになります。そして、それを知ることの結果は、永遠の命を得るということです。これはキリストの弟子たちだけが得ることが出来る神の恵みです。だから、真剣に神とイエスを知りたがっている人は、使徒ペトロやヨハネのような当時の弟子ではなくても、誰もがキリストの弟子になることが出来ます。したがって、今、志免教会で神を知っている私達、知ろうとしている私たちは皆、既にイエスの弟子です。 ヨハネ17:3での『知ること』というのは、単純な知識のことではありません。この『知ること』という言葉は、聖書の中では、夫婦関係に使われる言葉です。夫婦が他人は、絶対知らない深いところまでお互いに知り、それによって信頼するように、イエス・キリストを通して密接に神との関係を結び、信頼するのが、まさに神を知るということです。そのような神を知る知識、すなわち神とキリストとの関係を通して神を知るようになり、信頼するようになることによって、弟子たちは、神様が与えてくださる永遠の命に進むことが出来るのです。したがって、『神を知ること』とは、すなわち『神を信頼する。神を信じている。』という言葉に言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神であられる神様と、神のお遣わしになった者、イエス・キリストを信じることです。 そういうわけで、イエス様は2番目に弟子たちが神を知ること、すなわち彼らの信仰のために祈られたのです。『わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。』(ヨハネ17:8)主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。』(ヨハネ17:11)イエス・キリストを通して神を信じるようになった弟子たちを守ってくださることと、三位一体なる神様が一つになるように、弟子たちもお互いに一つになって、真の神とイエスへの信仰をしっかり守っていくことが出来るように、主イエスは弟子たちのために祈ってくださったのです。 3.全人類のための祈り。 また、主は、単に今、神の中にいる人々だけのためではなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。』(ヨハネ17:21)イエスは、排他的な御方ではありません。主を信じていない人は、皆、地獄に投げられ、主を信じる人だけに哀れみを施される方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主の夢だといっても過言ではないほど、イエス・キリストは主を信じていない人たちをも愛しておられます。『神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。』(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々は、イエスを信じることが出来る潜在性を持つ存在だからです。神がここに座っている私たちをお選びくださらなかったら、我々のうちの誰がキリスト者になることが出来たでしょうか?神様が私たちに信仰を与えてくださったため、私たちがイエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、三位一体の神を知ることが出来るようになったことを忘れてはならないでしょう。主は、世界のすべての人々がイエスを信じることを願っておられます。そして、イエス・キリストの中で、お互いに愛し合い、神の御前に来ることを懇願しておられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭となり、教会を通して伝えられた福音を聞いて、彼らが主に立ち返ることを望んでおられます。主はこのように十字架を目の前に置いて、ご自分の犠牲のために、弟子たちの信仰のために、人類が福音によって神に出てくることのために祈ってくださいました。罪人に生まれた人間には、到底出来ない祈りを大祭司であるイエス・キリストご自身がしてくださったのです。 締め括り 今日の旧約本文には大祭司アロンが神様の代わりに神の祝福をイスラエルの民に伝える場面が出てきます。 『主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。』(民数記6:24 26)大祭司イエスは、私たちに代わって神様にお祈りを捧げられました。神と人間の両方の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に重要な存在であります。神様はアーロンを用いられたように、イエス・キリストを通して私たちに祝福をくださり、私たちを守られ、私たちに恵みを与えられ、私たちに平安を賜ることを望んでおられます。そのような神の御心をイエス・キリストが、予め見抜かれ、神様の御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。 イエス・キリストのご降臨を記念するアドベントの期間です。イエスが何のために来られたのか、今日の言葉を通して、もう一度考え、神と民を繋げてくださる大祭司イエス・キリストの愛を覚えて過ごしましょう。私たちが、キリストを通して神と一つになる時、キリストを通して神を正しく知り、信じる時、神様の祝福と恵みは、さらに明るく輝くでしょう。イエス・キリストのお祈りが、今日も大祭司の祈りとして、私たちの中にあることを信じて行きましょう。今日も主は、私たちの大祭司になって、今日のお祈りのように、私たちを守ってくださるでしょう。神の栄光が輝くアドベントの期間、私たちのために、全人類のために祈ってくださる主を覚えつつ、この主イエスを私たちの隣人や家族に伝えて生きていきましょう。主の愛に満ちる一週間になることを祈り願います。