民数記14章9節 (旧235頁)
ヨハネによる福音書 16章25-33節(新201頁)
前置き
今日はアドベントの1番目の主日です。今から約3週間後は神の子イエスが天の玉座を捨てられ、この地上に来られて、人の子としてお生まれになるクリスマスです。イエスはなぜ、この世に来られたのでしょうか?まさにこの罪深い世に生きているご自分の民、すなわちイエスを信じる者を救ってくださるためです。そのために主は私たちの代わりに死んでくださり、我々はイエス・キリストを通して救われました。アドベントは私たちのために喜んで死に、復活された主イエスのご生誕を記念する期間です。この期間を通して、私たちは主のご生誕と死について深く感謝し、思い入れるべきでしょう。
人々は、自分の死後に備えて、残される者たちに遺言を残します。遺言を通して、残された者たちが自分の遺志を受け継いで、この世に自分がもはや居なくなっても、代わりに自分の人生を引き継いでくれると願うからです。今日の本文は、民に与えてくださる、イエス様のご遺言です。「私はあなたがたから離れる。しかし、私は永遠にあなたがたと一緒にいる。私によって私の父があなたがたの父となる。私を通して私がいなくても、助け主、聖霊が、あなたがたの内におられる。」という遺言を通して、主を信じる者たちに平和と勇気を与えてくださいます。今日の御言葉は、今、この時代に生きていく私たちにも有効な言葉です。今、主イエスは、私たちの目に見える形ではおられません。しかし、主はご遺言のように、御父と聖霊を通して今日も私たちと一緒におられます。
1.神様を完全に信じることが出来ない人間の弱い信仰。
哲学では、生まれたばかりの人を自然人と言います。自然人とは、如何なる思想、文化にも影響を受けない、自然そのままの人のことです。自然人は割と良い語感を持っていると思いますが、信仰的には物足りない状態だと思います。まだ、神を知らない状態であるからです。誰も生まれる前から信仰を持つことは出来ません。今、キリストを信じている私たちも、初めは自然人でした。神様がそのような私たちをお選びくださり、信仰を与えてくださったのです。つまり、たとえ、今私達がキリスト者だと言っても、我々は元々自然人でした。そして、今も私たちの本能の中には自然人としての性質が残っています。私たちが神を信じ始めて、その信仰が深まるまで、多くの疑いや挫折を経験したことにはそのような理由があったのです。自然人として生まれた人間は本能的に、神を信じない存在です。神を知らずに生まれたからです。たとえ、信じると言っても100%信じることは不可能に近いと思います。自然人としての本能が残っているからです。本能的に神を100%信じることが出来ない人間。ですから、人間は生まれつき罪人なのです。
今日、イエス様はご自分を通して主の民が御父に愛され、助け主である聖霊も、民の生の中で常に共におられることを教えてくださいました。主イエスを通して人間が天の御父の赦しを得るものであり、その神の聖霊が人間を永遠に守ってくださることを教えてくださったのです。なぜ主はこのような遺言を残されたのでしょうか?イエス様が十字架で死に、復活され、昇天された後、地上に残される人々に自然人が持つ恐れと不信仰を乗り越える勇気と平和をくださるためでした。自然人として生まれ、ユダヤ人として生きて、キリストを通して信仰を得るようになった弟子たちが現実に屈せず、大胆にキリスト者として生きていくことが出来るように助けてくださるためでした。イエス・キリストによって、三位一体なる神が弟子たちと共に歩んでくださることを教えてくださるためだったのです。
しかし、残念ながら、イエス様が苦しみを受けるとき、主の弟子たちは恐怖によって、みんな逃げてしまいました。彼らの信仰があまりにも弱かったからです。もともと自然人として生まれた人間は、ある事実の証拠が目の前で消えると、その事実への信念を撤回したりします。人間は目に見えるまま、信じて生きようとする傾向が強いからです。民数記の10人の偵察者たちも、同じでした。神様がエジプトを滅ぼされ、エジプトの荒れ野を通過させ、カナンの入口まで無事に自分たちを連れて来られたことにも拘わらず、目に見えない神、触れることが出来ない神を信頼しませんでした。むしろ彼らは目に見えるカナンの先住民をそれ以上に恐れていたのです。結局、イスラエルの民は、神への不信仰によって罰せられ、40年という長い間を荒れ野で過ごすことになりました。このような人間の本能のような弱さのため、人間は神様への完全無欠な信仰を守りがたい存在です。多分私たちもそうかも知れません。表面的には、イエスを信じていますが、迫害と苦難が来たとき、信仰を諦めるかも知れません。人間は、このような弱い信仰を持って生きていく存在であるからです。
2.民の弱い信仰を守ってくださる神。
しかし、絶対変わらない事実があります。そのような人間の弱さと神との間には何ら関係がないということです。人間の弱さは、人間の弱さであるだけで、私たちが信じる神様の弱さではないということです。民数記の民がカナンの先住民を恐れていたとき、主はヨシュアとカレブの口を通して、今日の言葉をくださいました。 『主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。』(民数記14:9)いくら人間が畏れに震えていても、神にとって、カナンの先住民は、ただイスラエルの餌食のような存在でした。そして主はいつまでも民と共におられると約束されました。神の民が、どんなに弱くても、神は民の弱さに影響を受けない方です。むしろ民が神の強さに影響を受けるだけです。
なぜなら、神はいつも変わらず、どんなことがあっても揺れたり屈したりしない方だからです。今日の新約の本文でも、イエス様は言われました。『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』(ヨハネ16:32)イエス様は、人間は弱いので、主を捨てることを既に知っておられました。むしろ、イエス様は、ただ、変わらない神様だけを信じられました。人は変わっても、神は変わらない方であるからです。人は弱くても、神は強い方であるからです。イエス・キリストは、その神を信じ、苦難を克服し、ご自分のお務めを果たされました。神はこのイエス・キリストを通して主を信じる民にも揺るがない信仰を許してくださいます。私たちが信じる神様はこのように強くて、変わらない方です。
したがって、私たちの信仰が弱くなり、底を打つようなときも、私たちの信仰を守ってくださる神様だけは、絶対に変わらないことを信じましょう。どんなに私たちの信仰が弱まってきても、神だけはその信仰をしっかりと掴んでおられることを信じていましょう。私たちの信仰の状態とは関係なく、神様が私たちの信仰を守っておられるからです。私たちの信仰の弱さとは関係なく、私たちの信仰を守ってくださる、強い神を信頼することこそ、私たちの真の信仰なのです。人間は神を信じているにも拘わらず、時々失敗を経験します。意外と主の言葉に従って過ごしていない時が少なくないのです。しかし、たとえ、そのような失敗があっても、私たちの信仰を掴んでおられる主を信頼し、主の言葉に聞き従って、生きていきましょう。主が絶対変わらない神様として、私たちの内におられ、私たちの信仰を守ってくださるからです。主が世に勝っておられると仰った理由は、まさにこのためです。人間は弱く、世に屈し、信仰が弱まるかも知れませんが、神であるイエス・キリストは父なる神と聖霊を通して変わらず、堅固な信仰の保護者となり、民の信仰を守り、保たせてくださるからです。
3.すでに世に勝っておられる主。
したがって、私たちは、自分の信仰で世に勝つのではありません。この世の圧力や変化にも、変わらない神だけがこの世に勝つことが出来ます。私たちは、ひたすら神様の御守りのもとでのみ、世に勝つことが出来るのです。私たちが失敗して、世に屈する際にも、神様はその世に常に勝利しておられます。勝利者、神様は弱い私たちを助け起こしてくださいます。『わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。』(ヨハネ16:28)イエス・キリストは、このように世から何の影響も受けない神様だけを信じておられたのです。それによって、主イエスは、世からの恐怖を乗り越え、御父から与えられた使命を果たすことが出来ました。空中の勢力を持つ者、悪い霊に治められている、この世がいくら吠え哮る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回り、身悶えしていても、神様はただ嘲られるだけで、何の影響も受けられないのです。世はただ、神の手のひらの上で蠢いている小さな虫のような存在です。
このように世に勝たれた主の中で生きていく私たちは、この世を恐れる必要がありません。もちろん、この世に生きていく時、迫害を受け、殺され、嫌われることは覚悟しなければならないでしょう。この世が神を憎み、神に属している私たちは、依然として弱いからです。しかし、聖書は強く語っています。『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』(マタイ10:28)この世は、確かに恐ろしい存在でしょう。しかし、我々の最後を決める方は、この世ではなく、神様なんです。この世は、私たちの肉体は殺すことが出来るかも知れませんが、私たちの魂まで殺すことは出来ません。肉体も魂も裁かれる方は、神お一人だけだからです。世に勝たれた神は、世が犯せない、高い所におられる方です。
イエス・キリストはこのように遥かに高い所にいる神の玉座を私たちに引き下ろしてくださる方です。世があえて触れることが出来ない勝利の神様を私たちの内に招かれる方です。『今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。』(ヨハネ16:24)神様から来られたイエス・キリストは、ご自分の御名をかけて、神と人との間に繋がりを結んでくださいました。それを通して自然人として生まれ、罪の中に彷徨っている弱い民が御父の子供として覚醒し、自分の信仰を持つことが出来るようにしてくださいました。自分の力だけでは信仰が守れない弱い民のために、助け主、聖霊という信仰の先生をも遣わしてくださいました。それによって、イエス・キリストはご自分の勝利を民も享受出来るようにしてくださいました。強力な主の勝利を弱い民も分かち合えるように導いてくださったのです。
締め括り
復活して昇天されたイエスは、ご自分の民を孤児と寡婦のように見捨てられず、最後まで責任を負ってくださる方です。そしてこの世から勝ち取った勝利をその民にも分けてくださいます。この世は、主を憎んでいます。そして、神を信じる民も嫌っています。世はいつも神の民を脅かしています。しかし、世に勝たれたイエスは変わらず、自分の民を愛しておられます。また、民にもご自分の中で、世に勝って行けるように平和と勇気とを与えてくださいます。今日の言葉は、今の時代を生きていく私たちにも有効な主の遺言です。今、主イエスは、私たちの目に見えません。しかし、主は今日も私たちと一緒におられます。ご自分の御名を通して、神の子どもと呼ばれるアイデンティティと助け主、聖霊による力を与えておられます。私たちは、このイエス・キリストを通した三位一体の神と繋がり、今後も世に勝利するでしょう。イエス・キリストが私たちを守り、父なる神様が私たちを愛し、聖霊なる神様が私たちを導いてくださるからです。