イエスは命と復活の主。
詩編16編8-11節 ヨハネによる福音書 11章17‐27節 前置き イエス・キリストが罪人を救い、彼らに新しい命を与えるためには、必ずエルサレムに上られ、ご自分の命を捧げる十字架での死が必要でした。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)ローマ書の言葉のように、イエスの死と共に罪人が死に、イエスの復活と共に罪人も新しい命を得て復活するからです。そのため、イエスの死は、すでに定められた死であり、この死は逆説的にも、死に勝利するための第一歩でした。 人間にとって、死というのは、すべての終わりに等しいです。人間は死を克服する何の力もないからです。人間が死に至れば、肉体は土になって消え、魂は神に呼び出され裁かれます。しかし、イエスの死は、それとは異なります。その死は必ず復活を前提としている死であり、その復活が前提された死は命が終わる死ではなく、死を終えるための死であります。そういうわけで、イエス・キリストに於いて、死というのは終わりではなく、新たな始まりを意味します。ここに私たち、信者の希望があります。今日のラザロの死も、このような視点から見なければならないでしょう。死により、悲しみに満ちたところから、むしろ、その死を通して、復活の希望を見せてくださるキリストの恵み。私たちが、死に接する姿勢も漠然とした恐怖ではなく、死に打ち勝つキリストへの希望であるべきではないでしょうか? 1.復活は知識ではありません。 ラザロを蘇らせたしるしは、イエス様のエルサレム入城前の最後の奇跡でした。イエスは、ヨハネによる福音書の10章までの御教えとしるしを通して、民と共におられる神、民を赦してくださる神、民を愛しておられる神を示されました。しかし、このラザロを蘇らせたしるしからは、単なる教えとしるしではなく、イエス様ご自身が、ご自分の命を捧げ、神と民との間の壊された関係を治し、ご自分の死を通して民の罪を赦し、ご自分の復活と民の復活を成し遂げる真の救いの始まりを示してくださいます。イエス・キリストは思想家ではありません。革命家でもありません。単に知識を伝える理論家でもありません。イエスは、これまでの教えを網羅する完全な実践のためにエルサレムにいらっしゃって、自ら十字架にかかり、『救いを教える神』を超え『救いを行動する神』としての姿を見せてくださったのです。 大勢の人々が御救いについて知識としてだけ知り、復活を信仰の問題として考えています。しかし、イエスは、より実践的で、現実的な復活を示すことを望んでおられたのです。イエス様がラザロが病気にかかったという便りに接せられた時、彼の死についてこう語られました。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』(ヨハネ11:4)そして、しばらくして『私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。』(ヨハネ11:11)と言われます。弟子たちはこれまで、イエスの多くのしるしを見てきたにも関わらず、イエスの言葉に懐疑的な態度をとります。『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。』(ヨハネ11:12)この言葉を通して、類推してみると、弟子たちは、いくらイエス様だといっても、死者についてはどうしようもないという考えを持っていたようです。イエスは、他の福音書を通して何度も、ご自分の死と復活を教えられました。イエス様こそが死に打ち勝つ方であるという事実を教えられました。しかし、ラザロの死の前で人々は、イエス様が命の持ち主であることを信じていませんでした。死ねば終わりだと思っていたのです。ただ知識としての教義については、主の言葉として喜んで頂きましたが、実際に死に勝利する主イエスの権威は信じていなかったということです。 そのような教義的な知識は、ラザロの妹であるマルタからも、そのまま示されます。『イエス様がここにいてくださいましたら、兄は死ななかったでしょう。私は今でも、イエス様が神に願ってくだされば、何でも神はかなえてくださると、知っています。しかし、私は終わりの日、復活の時に兄が復活することを知っています。』イエスは今や彼を蘇らせようとされたのに、むしろ彼の妹マルタは、イエスの力を信じているように言いながらも、現実を否むような姿をとっています。『将来、私たちがまだ知らない、いつか兄が復活するでしょう?私はそれを信じています。』 一見、マルタの信仰はとても成熟して合理的に見えます。イエス様を苦しめることもなく、自分の信仰も守ります。しかし、彼女は間違っていました。自分の前に、実際に人を蘇らせる方がおられることを見落としたのです。彼女はイエスを固く信じていました。しかし、彼女は自分の宗教的な知識に限って、イエスを信じていたのです。 2.復活とは何でしょう? そのような彼女の知識を破る出来事が起こります。イエス様が実際にラザロを蘇らせたことです。『イエスはラザロ、出て来なさいと大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。』(ヨハネ11:43-44)そのラザロの復活を見て、多くのユダヤ人がイエスを信じるようになりました。おそらく、マルタもイエス・キリストが、単に教義的な救い主、知識的な先生ではなく、実際に死に勝ち、生命を与えてくださる復活であり、命の主であることを信じるようになったのでしょう。神様がラザロを蘇らせるために主イエスをお遣わしになった理由は周りにいる群衆のためであり、彼らに信じさせるためでした。単に知識としてイエスを信じるのではなく、本当にそのイエスがご自分の言葉を成し遂げる力を持っておられることを教えてくださるためでした。そして、その御言葉のように、イエス様が十字架につけられて死に、実際に復活されることによって、主を信じる全ての人に永遠の命を与えてくださるということを予告されるためにラザロを蘇らせたのです。イエス・キリストがラザロを蘇らせたしるしは、教義的な知識に、実質的な体験を与えてくださる、知識と経験が一つになる本当の信仰を与えてくださる出来事になりました。 私たちは、人が復活するということについて、どういう考えを持っているでしょうか?もちろん、 キリスト者なら誰でも最後の日、イエスが再臨されると、自分も復活するという信仰を持っているのでしょう。しかし、今まさに、誰かが復活するということには簡単に頷けないでしょう。死んだ人が蘇ることは有り得ないことだからです。頭では信じるとしても、実際に起こるとは信じられないからです。しかし、主イエスは言われました。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』(ヨハネ11:25-26)イエスは、復活について、実際に存在しているものであり、私たちの中でも起こると言われました。しかし、イエス様が語られた復活はラザロのしるしとは別の概念です。それは永遠に再び死ぬことのない、復活を意味します。ラザロは永遠に生きることになったでしょうか?もし、そうだったら、今でもイスラエルには2000何歳のラザロが生きているはずでしょう。おそらくラザロは再び死んだでしょう。彼が再び蘇ったのは、永遠の命を与えてくださるイエス・キリストの復活の予告でした。彼を通して人間に復活と命をくださる方が、正に主イエスであるという教えを示すためだったのです。ですので、ラザロの復活は不完全でした。本当の復活は永遠に生きることであるからです。おそらく最後の日には、ラザロも完全に復活し、永遠に神と生き、二度と死を経験しないでしょう。 それでは、我々は、果たして復活について、どう考えるべきでしょうか?しばらく、原文を参照して言葉について勉強してみましょう。 25節に出てくる『私を信じる者』の「信じる」は、継続的に信じることを意味します。一度だけ信じて、やがて信仰を止めることではなく、主イエスへの絶え間ない信仰、どうなっても信じ込む信仰、ただ主イエスだけが唯一の拠り所であり、神様であるという信仰、そのような信仰を意味します。そんな者こそが『死んでも生きる。』者です。そして、その『死んでも生きる。』という文章での死はたった一度だけ死ぬことを意味します。物理的に一度死んでも、神は彼を永遠に覚えられ、死に置かず蘇らせてくださることを意味します。これは、イエスが再臨される時に起こる、体の復活だと考えてもいいでしょう。ところで、26節の言葉がちょっと気になります。 26節では、 26節では、生きている時イエスを信じた者が、継続的にその信仰を守れば、永遠に死ぬことはないという意味として記されています。 人は一度死ぬことが決まっている存在であり、最後の日に復活するというのは信じているのに、永遠に死なないというのは一体何の意味でしょうか?イエスを信じれば、1000年も生きるという意味でしょうか?それについて、ある神学者は、25節の言葉は、伝統的な復活を示す終末論的な復活を意味すると語りました。そして、26節の言葉は、イエスを信じる人は、その魂が神様から切られてしまう霊的な死から自由になり、永遠に神から見捨てられず、永遠な魂の命を得るという意味です。死んでも神様に守っていただくという意味です。そして、25節と26節の内容が一つになり、最後の日には体も、魂も新しく生きるようになるという意味です。 3.復活とは、神と連れあって歩むこと。 今日の旧約本文を詳しく見てみたいと思います。『私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。』(詩篇16:8)『あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。』(詩篇16:10)ダビデは、生前、何度も死に瀕する経験をしました。しかし、そのたびに主がダビデを助けてくださり、結局、彼を王にしてくださいました。ダビデは、死ぬほどの恐れと苦しみの中でも、彼を助け、愛してくださる神様を信じました。神はそのような彼を陰府に捨てられず、最後まで守ってくださり、ダビデはその神を信頼し、自分に「命の道」を教えてくださると喜び、褒め称えました。私たちが主イエスを信じ、彼からいただく永遠の命は、このようなものじゃないかと思います。常に死が私たちを脅かし、いつ私たちが消えてしまうかも知れない状況で、唯一の主イエスだけは、私たちの魂をご存知で、私たちと共に歩んでくださり、私たちを守ってくださる方だと信頼すること。もし、主イエスがいらっしゃらなければ、私たちの死後に何の希望もないはずだったけれど、イエス・キリストを通して神が私の命を召され、最後の日の復活の時まで、私たちの魂を大切に守ってくださるということ。復活は、このように神から離れないように、主イエスによる神の御守りが私達と共にあるということではないでしょうか? いくら蘇るといっても、再び死ぬなら、それは完全な復活ではないでしょう。また、死に決まっている復活ならば、真の復活ではないからです。むしろ主は、イエス・キリストを信じる信仰を通して得る希望、つまり神様がくださる永遠の命の希望を持って、誰でも経験しなければならない一度の肉体の死から、しばらく蘇らせられることにより、神から完全に見捨てられる魂の死、完全な死から自由になることこそが、真の復活であり、命であると言われているのではないでしょうか? 聖書は語ります。主イエスを信じて、主と共にいる私たちは、すでに復活を得た存在であると。今日、イエスは言われました。 『私は復活であり、命である。』イエス・キリストは、私たちの復活のために死なれた方です。彼の死は、死に勝つための死でした。彼はすでに死に勝利され、彼と一緒にいる人は、その死の影響圏の外で生きていきます。私たちは、日増しに老いていくでしょう。死に近づいていくでしょう。しかし、私たちの魂は、日増しに右にも左にも揺るがず、神様に向かって進んでいくでしょう。そして死に会う日、死を乗り越え、神様に一歩近付く喜びと感動をもって神様と対面するでしょう。その日まで、私たちと絶えずおられる神の恵み、私たちを守ってくださるイエス・キリストの恵みが私たちと共に歩むでしょう。これが私たちの真の復活であり、命ではないでしょうか? 締め括り 母親の胎内にいる、胎児は何を考えているでしょうか?『ここを離れるとどうなるか?』という漠然とした不安を感じていることではないでしょうか?しかし、生まれてみると青空があり、広々とした海があり、暖かい日差しがあり、何よりも愛する人たちがいます。多分、私たちも、そんな胎児のように、死後に対する漠然とした不安を持って生きていくかも知れません。しかし、私達の長い生が終わり、神様に召される日、それ以来、むしろ今よりも遥かに美しく、幸せな主との歩みが繰り広げられると聖書は証言しています。ラザロが生き返った事件は、イエス・キリストの真の復活の予告でした。そしてラザロの復活を通して、私たちは、ただ知識的な信仰を経験的な信仰に変えてくださるイエス・キリストに会うことが出来ます。そして、ラザロを蘇らせた後、ご自分の民の復活のために自ら死に向かって行かれるイエス様に会うことも出来ます。明らかなことは、このイエス様がすでに復活され、死を征服されたということです。だから、イエスを信じる私たちは、死への永遠の恐怖から自由になることが出来ます。イエスが再び来られるその日、私たちは最も美しく、完全な姿で復活するでしょう。それからは、死は無くなり、神様は御自分の民とご一緒に永遠におられるでしょう。今日のラザロのしるしを通して、イエス様が私たちに示してくださった、この復活について深く考えてみる時間になることを願います。