祈るときには。金泰仁 伝道師(小倉教会)
ルカによる福音書11章1-10節(新127頁) 弟子たちの求めに応えて主イエスが、具体的な祈りの言葉でとして「主の祈り」を教えて下いました。祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主が、それを補足するように5節に、「また、弟子たちに言われた」と記されています。口語訳では、「そして彼らに言われた」と訳されています。原文には「弟子たち」という言葉はなく、「彼ら」と言う言葉が用いられています。ここに記されている、「彼ら」とは、1節に弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言う願いに、主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と言われて、主が祈りを教えて下さいました。ですから「彼ら」とは弟子たちのことであり、内容的には「弟子たちに言われた」と訳しても間違いではありません。 「弟子たちに言われた」という訳では、主イエスが弟子たちに新たな教えを語り始められた、ということになります。しかし原文は「彼ら」と言っているのであって、4節までの主イエスのみ言葉を聞いた、その彼らに対してさらにこのことが語られているのです。5節の冒頭にある接続詞を(英語で言えばandに当る言葉)は「また」、「そして」、「すると」、「ところが」など様々に訳せる言葉です。その違いは、この接続詞が前の文と後の文をどのように結びつけているのかによります。「また」と訳すと、それまで語られてきたことの並列的な別の内容であることを意識させます。「そして」と訳すと、さらに話が続き、発展していくことを意識させます。ですから、5節では、「そして」の方が相応しいと思います。「彼ら」という言葉から、それまでと別の新しい話を始めているのではなくて、その前の話の続きなのです。「また、弟子たちに言われた」は、文法的には間違っていませんが、語られていることを正しく理解することを妨げています。「そして彼らに言われた」事らの方が本来の意味を表している訳だと私は思います。細かいところですがとても大切なところです。 主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、というたとえです。別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったから、そのように真夜中に友達にパンを求めたのです。当時の社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなしていたのです。なぜなら、当時の旅行は、危険な荒れ地を命がけで通らなくてはなりません。荒れ野では、水や食料を補給することは容易ではありません。空腹や渇きによって行き倒れてしまう人も多くいました。客人をもてなすとは、歓迎してごちそうを振る舞うのではなく、飢え、渇いている旅人の命を助けるという意味であり、旅人をもてなさず、受け入れなければ、その人は死ぬことになります。つまり、間接的な殺人になるのです。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことです。 7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。と記されています。真夜中に、客人をもてなすパンの無い人が、近くの家に助けを求めたときの、友人のあきらかに迷惑そうな対応が記されています。8節に、「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。と記されています。主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることの中心がここにあります。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という教えをお語りになったのです。 これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えて下さったのです。私はここに、いくつかの疑問を覚えます。一つには、真夜中に友人の家にパンを借りにいくこの話が、祈りについてのたとえであるとするなら、この友人が神様のことだということになります。そうであるならば、神様が私たちの祈りに応えて下さり、祈りを聞いて下さるのは、「しつように頼めば」、私たちが神様の迷惑を顧みずにしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、仕方なく聞いて下さるということなのか、という疑問です。 さらにもう一つの疑問は、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。 ここに、祈り求めればそれは必ず与えられ事が示されています。しかし、祈り求めてもかなえられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しています。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多く有るのです。11-12節に、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。と記されています。親は、魚を欲しがる子供に蛇を与え、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしません。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいません。13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」とは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間でも、ということです。 私たちは、神様をないがしろにし、隣人を愛することできない罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供は愛し、良い物を与えます。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を見つめさせることを通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。7節の友人の姿は、神様ではなくて、私たち罪ある人間の姿を表しています。私たちは、友人だからという純粋な愛によってでは無く、しつこく言ってきてうるさいく迷惑だからと言う理由で、人のために動くような者です。それが、「悪い者である」私たちの姿とも言えます。しかし天の父は、様々な状況や動機によってではなく、喜んで、あなたがたに良い物を与えて下さる、主イエスはそのように語っておられるのです。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。これは、求めれば得られることになっている、とう法則を示すものでは無く、天の父である神様が私たちに対してどのようなみ心を持っておられるのか、どれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを示しているのです。 13節に、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記されています。マタイでは、「求める者に良い物をくださる」と記されています。天の父なる神様が私たちの祈りに答えて与えて下さる良い物とは聖霊であるのです。ローマ書8:14-15に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。と記されています。 聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。聖霊は、私たちを救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちをも神の子とし、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈る者として下さるのです。天の父が求める者に与えてくださるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神様は私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神様が私たちに与えて下さる「良い物」です。二つ目として、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるのだろうか、という疑問です。私たちは祈り求めるものは何でもその通りに適えられる、と理解します。そんなことはありません。このみ言葉は、神様は父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちは、子の求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりのままに与える、ということではありません。 子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。そのような関係なしにこの言葉を読むと、神様を人間の欲望を何でも適える便利な物、内出の小槌と見なしてしまうことになるのです。主イエスは1-13節を通して祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、神様の子とされて生きる恵みを味わいます。 その恵みの中で私たちは、神様のみ名こそが崇められることを求める者となります。神様のご支配の完成、御国の到来を求めこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。神様に対して罪を犯し、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。 私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされます。つまり、主の祈りを心から祈る者とされるのです。主の祈りは祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。この祈りを祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。8節の「しつように頼めば」という言葉は、「恥を知らないことによって」とも訳せます。神様は、私たちが、恥知らずなぐらいに祈ること