メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

日本キリスト教会所属の志免教会
日曜礼拝メッセージ​

担当:金東佑

右にも左にも

ヨシュア記1章1~9節(旧340頁) コリントの信徒への手紙一 16章13節(新323頁) 前置き 出エジプト記で、モーセを用いられ、エジプト帝国からイスラエルの民を解放してくださった主なる神は、その昔イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地にイスラエルの民を導いてくださいました。しかし、イスラエルの民は主のお導きを完全には信頼できず、数多くの不信心の罪を犯しました。その結果、主はイスラエルの民をすぐにカナンの地に入らせられず、40年という長い年月、荒野をさまようようになさいました。(彼らの信仰を訓練させるため)

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私の亜麻布を

イザヤ書53章5節(旧1149頁) マルコによる福音書 14章50-52節(新93頁) 前置き 最近、家庭礼拝歴の執筆依頼があり、マルコによる福音14,15章を研究することになりました。そのうち、印象的な箇所を見つけました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、

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ベトザタにて

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 人間は老若男女を問わず自由を追求します。しかし、自由は簡単に得られるものではありません。人は自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富、権力、名誉への欲望による束縛のため、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きやすいです。「皆と異なったらどうしよう。独り負けになったらどうしよう。」と恐れ、結局、今の生活に妥協し、自ら、世の束縛からの自由をあきらめてしまう場合もあります。このような現代を生きる私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通じて、真の自由とは何か。その自由を束縛するものとは何か。そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストについて考えてみましょう。 1.ベトザタ

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右にも左にも

ヨシュア記1章1~9節(旧340頁) コリントの信徒への手紙一 16章13節(新323頁) 前置き 出エジプト記で、モーセを用いられ、エジプト帝国からイスラエルの民を解放してくださった主なる神は、その昔イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地にイスラエルの民を導いてくださいました。しかし、イスラエルの民は主のお導きを完全には信頼できず、数多くの不信心の罪を犯しました。その結果、主はイスラエルの民をすぐにカナンの地に入らせられず、40年という長い年月、荒野をさまようようになさいました。(彼らの信仰を訓練させるため)

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私の亜麻布を

イザヤ書53章5節(旧1149頁) マルコによる福音書 14章50-52節(新93頁) 前置き 最近、家庭礼拝歴の執筆依頼があり、マルコによる福音14,15章を研究することになりました。そのうち、印象的な箇所を見つけました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、

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ベトザタにて

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 人間は老若男女を問わず自由を追求します。しかし、自由は簡単に得られるものではありません。人は自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富、権力、名誉への欲望による束縛のため、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きやすいです。「皆と異なったらどうしよう。独り負けになったらどうしよう。」と恐れ、結局、今の生活に妥協し、自ら、世の束縛からの自由をあきらめてしまう場合もあります。このような現代を生きる私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通じて、真の自由とは何か。その自由を束縛するものとは何か。そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストについて考えてみましょう。 1.ベトザタ

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