メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

日本キリスト教会所属の志免教会
日曜礼拝メッセージ​

担当:金東佑

聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか?

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神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き なぜ、私たちは主日ごとに教会に出席して説教を聞いているのでしょうか? それは聖書に記された主なる神の御言葉を説教を通じて聞くためです。説教は説教者個人の知識を自慢する手立てでも、説教者の思想を広める手立てでもありません。説教は新旧約聖書に記された神の御言葉を(説教する当時の)聞き手が聞き取れる言葉で宣べ伝え、数千年前に記録された主の御心を、現代の言葉に教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要によって主の言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、説教を聞きながら神の言葉が歪曲される可能性があり、心配です。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書の解釈者になって説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は、聖霊によって生命を得て、今も生き生きと働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話してみたいと思います。

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草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1.

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新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-7節(旧1152頁) マルコによる福音書2章18-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 という言葉があります。「新しい発想を実現したり、世代交代を進めたりしようとする時、それに応じる新たな形式や環境を促す」ために、よく使う表現です。ところで、この言葉は、実は新約聖書の「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの御言葉に由来します。しかし、聖書の言葉を真似したこの表現は聖書の本当の意味を見落とした表現であるかもしれません。もともと、この表現にはイエスを信じる者にふさわしく生きろという意味が含まれているからです。イエスは、なぜ、この言葉を言われたのでしょうか?

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聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか?

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神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き なぜ、私たちは主日ごとに教会に出席して説教を聞いているのでしょうか? それは聖書に記された主なる神の御言葉を説教を通じて聞くためです。説教は説教者個人の知識を自慢する手立てでも、説教者の思想を広める手立てでもありません。説教は新旧約聖書に記された神の御言葉を(説教する当時の)聞き手が聞き取れる言葉で宣べ伝え、数千年前に記録された主の御心を、現代の言葉に教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要によって主の言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、説教を聞きながら神の言葉が歪曲される可能性があり、心配です。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書の解釈者になって説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は、聖霊によって生命を得て、今も生き生きと働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話してみたいと思います。

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草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1.

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