歴代誌上16章28-29節 (旧651頁)
ローマの信徒への手紙11章34-36節(新291頁)
前置き
聖書には、主に栄光を帰すという言葉がよく出てきます。日本ではほとんどないかもしれませんが、アメリカや韓国のようなキリスト者の多い国では、年末の授賞式などで「この栄光を主に帰します。」というふうの感想を言うキリスト者の俳優や歌手もいます。私たちもキリスト者として生きながら、一度以上、主に栄光を帰すという言葉を口にしたことがあるでしょう。主に栄光を帰すというのはいったいどういう意味でしょうか。そして、主に栄光を帰す生活とは、どんなものなのでしょうか。今日は「主に栄光を帰す」という言葉の意味とその生き方について話してみたいと思います。
1. 栄光を帰すという言葉の意味
「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて御前に近づき、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」(歴代誌上16:28-29) 若いころの数多くの逆境と苦難を乗り越え、堂々とイスラエルの王になったダビデは、自分の宮殿を建てた後、一番最初に主なる神の幕屋と掟の箱を置く場所をもうけました。彼は主の掟の箱を自分の宮殿に運びながら、心から喜び踊りました。その時、ダビデは先ほどの讃美を歌いました。「主に栄光を帰せよ」と繰り返し歌いました。今までの危険の中で自分の歩みを守ってくださり、イスラエルの王に立たせるという約束を守ってくださった主なる神に最高の賛美をささげようとしたダビデの真心をこめた歌だったのです。ヘブライ語で栄光の語源は「重い」に由来しました。 漢字語のように栄誉ある光を意味するより、軽くなく厳粛で威厳のある価値により近い表現です。当時、ヘブライ文化では鉄のような重い金属が大きな価値を持っていたと言われます。その重さによって、その価値がさらに上がったそうです。ですから、「重いものは価値あるもの」という認識が一般的だったようです。そういうわけで主なる神の栄光も重いものではないかと思ったわけです。この世で一番重くて価値あるものが、主なる神の栄光であると思ったのです。
主なる神の栄光は、ひとえに主だけのものです。主はその栄光を誰とも分けられない方です。いや、分けようとしても、その栄光を受けて自分のものにすることができる存在は、この宇宙に存在しません。したがって、この主の栄光は、唯一主なる神だけが持つことができる栄誉なのです。主だけが持つことの出来るものを主に返すという言葉、罪によって汚され堕落したこの世の中で、数多くの偶像と自らを神とする数多くの罪人の間で、ただ、聖なる神だけを主と崇め、その方だけを万物の主として認めること、それこそが主に栄光を帰す人生のあり方ではないでしょうか。したがって、私たちの人生において、主に栄光を帰すということは、主なる神が主として完全におられるように、自分の人生のすべてを主中心に生きることを意味します。この世は、主なる神を軽んじます。主を無視し、認めようとしません。特にキリスト教の影響が著しく貧弱なこの日本ではなおさらです。しかし、私たちは主イエスのお導きと恵みによって、主の言葉を聞くようになり、御言葉によって主なる神という存在を認識し、信じるようになりました。それによって、私たちは主だけが私たちの真の主であり、父であり、私たちのすべてであることを知るようになりました。その主なる神の御言葉に従って御心のままに生きること。「主に栄光を帰しながら生きる人生」は、その主の御言葉に従順に聞き従うことから始まるのです。
2. 主に栄光を帰す生活
したがって、主の栄光は「主なる神が主らしくおられること」とも言えるでしょう。主なる神が主らしくおられることは、この世のすべての被造物が創造主である神を主に認め、ほめたたえることでしょう。自分の人生において、主なる神だけを唯一の主として認め、ほめたたえ、御言葉に従順に聞き従うことは、最も現実的な栄光の帰し方でしょう。マタイ福音書には、このように記されています。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16) 主の御言葉に従順に従う私たちの生活が、世の人々に光のように映る時、主なる神を知らない人々が 私たちの生活を見て、主の存在に気づき、認め、栄光を帰すようになるでしょう。御父は創造主として、御子は救い主として、聖霊は助け主として認められ、ほめたたえられなければなりません。私たちは全生涯を通して、三位一体なる神を自分の主に認め、その方の御言葉に従い、主の御心通りに生きなければなりません。そして、そのような私たちの人生に現れる良い影響によって、私たちの隣人も主の存在に気付き、認めるようになるでしょう。私たちにできる「主に帰す最高の栄光」は、まさにそのような人生からではないでしょうか?
しかし、ある人々は自分が何かを情熱に行い、良い結果を出し、他人より優れた者になることによって、主に栄光を帰せると誤解します。ですが、主は人間に栄光を帰してくれと、栄光を要求する方ではありません。主は被造物がなくても、彼らの助けや献身がなくても、十分主自らの栄光によって満ちておらえる方です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33-36) 今日の新約聖書の言葉のように、いかなる被造物も主を助けることが出来ません。したがって、私たちは自分の努力と行為を通して、主に栄光を帰そうと思ってはなりません。私たちは、ただ主にいただいた自分の人生を主の御言葉のもとに、謙虚に生きていくだけです。だから、主に栄光を帰そうという熱心と努力が、主に栄光を帰す手立てになるわけではありません。自分に託された人生を忠実に生き、主にあって感謝と喜びに生きる時、その平凡な日常がすなわち主に栄光を帰す人生になるのです。最も平凡な信仰の生き方が、最も望ましい、主に栄光を帰す人生になるということです。
締め括り 仕える者の心構え
この説教の後、長老と執事の任職式があります。長老と執事になるのに負担を感じる方もおられるかもしれません。長老や執事になると、何か他人より優れた者にならないととか、他人よりもっと仕えるべきではとかの気持ちで、長老や執事になるのをためらう方々もおられるでしょう。しかし、今日、お話ししましたように、私たちの行為や努力によって主が栄光をお受けになるわけではありません。教会に仕える者は、いつもの通りに、主への愛と感謝とで、安らかに自分に託された務めを素朴に果たすことで充分です。もっと頑張らなければ、もっと優れていなければという気持ちのため、自分を責めたり、苦しめたりしないようにしましょう。いったい誰が完璧に教会に仕え、主に仕えることが出来ますでしょうか? ただ、自分に任されたことを自分に出来る範囲で、最善を尽くすことで、主なる神は喜ばれるでしょう。だから、すべてを主に委ね、一日一日を喜びに生きる長老、執事になってください。そして、長老、執事でない方々も、同じく主を愛し、御言葉に従う人生を送り、感謝と喜びの人生を生きましょう。牧師、長老、執事、一般信徒を問わず、信仰生活に臨む心構えは同じだからです。重要なのは務めではなく、信仰の心です。主の御言葉に従い、主を愛し、兄弟姉妹と隣人を愛する人生こそ、主が望まれる真の栄光を帰す人生です。 そのような人生を生きる兄弟姉妹でありますよう祈り願います。