まことの信仰の告白 

イザヤ書45章5-6節(旧1135頁) マルコによる福音書8章22-9章1節(新77頁) 前置き 前回の説教では、イエスが弟子たちにファリサイ派とヘロデのパン種に注意させられた物語について学びました。いくらイエスの弟子であるといっても、イエスの御心に気付くことができず、世の流れのままに従って生きる人は、ファリサイ派やヘロデのパン種のような人生を生きる人になってしまいます。ここで、ファリサイ派とヘロデのパン種とは何でしょうか。自分の価値基準に陥り、神と隣人に仕えず、自分自身を中心として生きる、主の御言葉への実践がない生き方です。イエス·キリストを信じる人は、キリスト教という宗教の儀式や教理、そして自分の価値基準だけにはまり込んで生きるのではなく、私たちが属しているキリスト教の教えと教理のまことの源であるキリストに倣い、主イエスの価値基準を受け入れ、神と隣人への愛を追い求め、実践して生きるべきです。つまり「キリスト教」の「教」を強調するのではなく「キリスト」を強調して生きる人なのです。それこそがキリスト者のあり方であり、真に目覚めている人の生き方なのです。今日は、私たちが追求すべき真の信仰告白とは何か、前回の御言葉とつなげて考えてみたいと思います。 1.信仰に目覚める段階 前回の新約本文の最後には、イエスがベトサイダの村で盲人の目を治してくださる出来事が記してありました。時間の関係で、短く取り上げましたので、今日はもう一度、盲人の物語について探ってみたいです。「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、何か見えるかとお尋ねになった。」(23)イエスが盲人を連れ出して、目につばをつけ、按手をなさると盲人の目が見えるようになりました。ここで「目につばをつけた。」という表現は、ややともすれば、迷信的な治癒行為に見えるかも知れませんが、一部の学者は、つばをつける行為を「主が盲人の罪をとがめられる象徴的な行為」と理解しました。つまり、盲人の悔い改めを促す象徴的な意味合いだったということです。悔い改めと罪の赦しがない限り、主が癒してくださるといっても、その真の意味を生かすことができないからです。盲人の目に唾をつけてから、主は盲人の目に両手を置かれ、治してくださいました。ところが、なぜか盲人の目はいっぺんに見えることにはなりませんでした。主はたった一度の按手で目を治せる方だったはずですが、どうして何回にもわたって盲人の目を治してくださったのでしょうか。「すると、盲人は見えるようになって、言った。人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24) ここで「見えるようになった。」という表現を直訳すると「見上げる」という表現となります。目が開いた盲人が、世界を見るようになったという意味です。ところが「木のような何かが歩いているように見える」だけで、明確には見えませんでした。 ここで「見あげる」と訳されたギリシャ語は「アナブレポ」です。何の悟りも伴わず、ただ何かを「見あげる」という意味なのです。「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(25)主がもう一度、按手をなさったとき、彼の目は「よく見える」ようになりました。これは「ディアブレポ」というギリシャ語です。これを直訳すると、「見抜く」という意味になります。そして最後に、「はっきり見える」という表現は「エムブレポ」です。直訳すると「見分ける」という意味となります。つまり、24-25節の盲人の目が治る際に、それぞれ違う意味の3つの「見る」というギリシャ語が使われたということです。私は、それらを通して、信仰の目覚めの三段階について考えてみました。主を主として信じず、ただの偉人としてだけ認識する「アナブレポ」、主の御言葉を聞いて信仰を込めて求める「ディアブレポ」、主の御心に気付き、答えて生きる「エムブレポ」。私たちの信仰はこれらの三つの段階を経て成長していきます。教会に通い、礼拝に出席し、主の御名を唱えて祈るからといって、私たちの信仰が完全になるとは言えません。イエスの御心とは何かを見抜き、見分け、悟って、主への信仰で、その御心を受け入れ、実践して生きる段階になってからこそ、真の信仰者として認められるでしょう。私たちの信仰はいかがでしょうか? アナブレポ、ディアブレポ、エムブレポのうち、私たちは、どの段階に立っているでしょうか。 2.主イエスとは誰なのか? ベトサイダで盲人を癒してくださった後、イエスは弟子たちと再び異邦のフィリポ・カイサリア地方に足を運ばれました。主はそこで弟子たちにお尋ねになりました。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに人々は、私のことを何者だと言っているかと言われた。」(27) これまで弟子たちは、主の御旨にそぐわない行動を少なからずやってきました。異邦人を差別し、主の御心に気づかず、ファリサイ派の人々のように本質から外れた愚かな姿を見せてきたのです。イエスの弟子として呼び出され、主と常に連れ立った者たちでしたが、彼らの姿はイエスの弟子にふさわしくない状態でした。今日、主は、そのような彼らの信仰と認識を試してみようとされました。「弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28) まず弟子たちは、「世間の人々がイエスをエリヤ、洗礼ヨハネ、旧約の預言者と言っている。」と語りました。エリヤは旧約の最も代表的な預言者であり、マラキ書で、また遣わされると預言された者です。つまり、人々はイエスがエリヤのように神からの偉大な預言者であると認識していたのです。しかし、マラキ書で預言されたエリヤとは、主ではなく、主の道を準備する洗礼者ヨハネを示すことでしたので、この認識は間違ったものです。 人々はイエスについてはっきり分かっていなかったということです。 そこで、主は弟子たちの考えを尋ねました。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」(29)すると、ペトロが答えました。 「あなたはメシアです。(油注がれた者、キリスト、救い主)」 今、私たちが生きているこの世では、イエスはどのように理解されているでしょうか?おおむね、この世ではイエスを世界三大聖人の一人としてよく認識しています。(イエス、孔子、釈迦)それでは、私たちはイエスを、どのように告白しているでしょうか? 私たちは毎週、使徒信条などの信仰告白を通して、主が救い主、すなわちキリストであることを告白しています。ペトロの答えは正解です。「主はキリスト」です。マタイによる福音書では、もっと詳しく書いてあります。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16) 私たちもペトロのようにイエス・キリストへの正しい信仰の告白をするべきです。ところで、今日の本文に一つ不思議な点があります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(31-33) ペトロが見事な信仰の告白をしたにもかかわらず、主は彼をサタンと叱られたのです。 3.正しい信仰には知識と実践が伴うべき。 ペトロはよほど悔しかったに違いありません。主をメシアと告白し、主の身柄を案じただけなのに、主に叱られたからです。サタンだなんてひどすぎでしょう。しかし、私たちはここでのペトロの心中をよく見分けるべきです。ペトロは主に「諫め」ました。 この「諫める」という表現は「エピティマオ」というギリシャ語で「非難する、とがめる、戒める、禁じる、問い詰める。」などの意味です。つまり、ペトロは、主の御心を受け入れられず、自分の思いに主の御心を合わせようと、主に向かって「エピティマオ」したわけです。「あなたは旧約聖書に預言されたメシアだ。本当のメシアならイスラエルを回復させ、ローマ帝国を破り、世界の支配者になってほしい。我らはその力強いメシアの弟子としてここにいるのだ。なのに、あなたが死ねば、私たちはこれからどうする? 我が家族はどうする。イスラエルはどうする。 あなたは死んではいけない。私のために生きてほしい。」おそらく、こういう思いではなかったでしょうか。つまり、「あなたの思いではなく、私の思い通りにならせてもらいたい。」ということ、これがさまにペトロの心に隠れていた本音ではなかったでしょうか。ペトロの告白は完璧でした。しかし、その思いは純粋でなかったでしょう。それがペトロの問題でした。主はそれを見抜かれたのです。 おそらく、他の弟子たちもペトロと、それほど変わらなかったはずです。それぞれにとって、自分が求める私的な意図が込められていたはずです。そして、そういう心は私たちにもあるかも知れません。そのような心に主イエスは警告なさったのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエスが十字架にかけられなければ、この世の罪の問題は永遠に解決できなくなります。罪人が神の御前に進む手段が無くなります。神のより大きな御心、この世を罪から救われること、そのためにはイエスが死ぬしかすべはありません。それが、神の摂理であり、計画であるのです。つまり、弟子たちは主の御心を正しく理解していなかったのです。 ただ、主イエスを利用しようとしたということです。これがまさに先週、お話ししましたファリサイ派のパン種のような生き方であり、今日、私たちが学んだ「アナブレポ」つまりイエスをただの聖人ほどに見なした信仰のレベルなのです。主イエスの弟子と呼ばれるに値する人なら、自分の思いではなく、主の御心に気付いて生きるべきです。 ファリサイ派のパン種のような生き方をを脱ぎ捨て、「アナブレポ」の信仰から脱し、「ディアブレポ」ひいては「エムブレポ」の信仰にまで至るべきです。「主はキリストであり、生ける神の子です。」という聞こえのよい言葉だけが、私たちを証明するわけではありません。私たちの信仰告白と、私たちの信仰の生き方や行為が釣り合う時、私たちは真の信仰告白的な人生を生きるようになるのです。 締め括り 「私が主、ほかにはいない。私をおいて神はない。私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。私のほかは、むなしいものだと。私が主、ほかにはいない。」(イザヤ45:5-6) 主は、旧約イザヤ書で、民が主を知らなかったときにも、力を与えてくださいました。そして、主はご自分の権能で、主を知らない民が主を知るようにしてくださると約束されました。その結果が私たちが主イエスの民となったということです。すべてが主の御導きによることです。というわけで、主への信仰告白は、まったく主の導きによる恵みです。 主への信仰の告白に、我々の知識や知恵や力は、何の意味をも持つことが出来ないということです。主が教えてくださったからです。ですので、私たちは主への信仰に自分の意図や思いを込めてはいけません。ただ、謙遜に主に従うだけです。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(34) 私たちが自分のために勝手にしかける信仰ではなく、主に導かれる謙遜な信仰。これを告白し、従って生きるときにはじめて、私たちの信仰告白は完全なものとなるしょう。そういう信仰を追い求める志免教会を目指したいと思います。

神の摂理は揺れ動かない。

創世記30章1-24節(旧48頁) フィリピの信徒への手紙1章15-18節(新361頁) 前置き 前回の創世記29章で、私たちはヤコブとラバンという二人のずる賢い人たちによって、レアという無辜の女が苦しんだことを聞きました。残念なことに、この世では、ずる賢い指導者によって無辜の人々が苦しめられることがまれではありません。最近のウクライナとロシアの戦争も、そのような脈絡で説明できるものでしょう。世の人々が、ずる賢い指導者の肩を持つことは多いものの、彼らに苦しめられる弱者のためには(ただ同情するだけで)積極的に肩を持つことはあまりありません。だから、弱者はさらに苦しみがちです。米国と欧州がウクライナの肩を持つ理由も、ウクライナのためではなく、自国の利益がかかっているからです。この世は徹底的に力の論理で操られるものです。しかし、主は世の中とは違って、その苦しむ者たちの痛みを憶え、慰めてくださり、一緒にいてくださる方です。主は力の論理ではなく、愛と公平の摂理で世を見守っておられるからです。レアは苦しんでいましたが、彼女には主が一緒におられました。神は彼女に多くの息子をくださり、彼女の痛みに応えてくださいました。神は弱者を大切に愛してくださいます。私たちが弱い時、神に慰められる理由は、その主が弱い私たちを愛しておられるからです。今日は30章の物語を通してヤコブの家族の話をもっと探ってみたいと思います。 1.信仰の不在 – 争いと葛藤をもたらす。 お姉さんや妹さんがおられる女性の皆さんは幼い頃、姉妹たちとどう過ごされましたか? 子供の頃、物心のつく前には、お菓子やおもちゃなどで揉めることもあったと思いますが、多くの場合、お姉さんや妹さんと仲良くされたと思います。ままごと、あやとり、せっせっせ、縄跳びなどの素朴な遊びでも、小さなことにおいても、楽しく幸せに過ごされたと思います。聖書には記してありませんが、おそらくレアとラケルも、そのような子供の時を一緒に過ごしたでしょう。ところが、そうだったはずのレアとラケルは、悲しいことに一人の男のせいで、互いに憎み合う敵(かたき)となってしまいました。その一つの理由は、ラケルの弱い信仰のためでした。もちろん、ラケルが理解できないわけではありません。姉は息子を4人も産んだのに、自分は1人の子供も産めなかったので、劣等感や悲しみに包まれたのは当然のことでしょう。それが人間の本能だからです。しかし、人力で解決できない、妊娠の故に、ラケルはお姉さんを憎むばかりでなく、主なる神にも不信心を犯してしまいました。 「ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、私にもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、私は死にますと言った。 」(1)どうしようもない状況で、神の民に求められるのは忍耐と信仰です。しかし、ラケルはそうしませんでした。 姉レアは愛されない女でした。夫のヤコブはいつもラケルだけを愛しており、父のラバンはレアにそんなに関心が無かったと思われます。 おそらく、彼女は一人ぼっちだったに違いありません。しかし、彼女には主への信仰があり、悲しい時にも賛美し、祈ったと思われます。レアの4番目の息子の名前が「賛美する」という意味のユダであることから、その点が推測できます。その反面、ラケルは何でも自分が望むものを何とか手に入れようとする人だったと思われます。ラケルは、自分の思いのままにならないと、夫に怒り、死ぬと脅かし、かわいそうな姉レアを憎みました。そして、姉に勝つために、自分の召使を通して息子を儲けようとしました。「そのときラケルは、私の訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、私の願いを聞き入れ男の子を与えてくださったと言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。」(6)「そのときラケルは、姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)ついに勝ったと言って、その名をナフタリと名付けた。」(8) 彼女はすべてにおいて、主への信仰ではなく自分の感情を中心としました。召使が生んだ息子たちの名前も、争いを示唆する表現だからです。問題はそのようなラケルの弱い信仰のせいで、信仰に生きたレアも不信心に陥っていくことです。ラケルの競争心理に巻き込まれ、レアも競って自分の召使を夫に与えたからです。ラケルの不信心は、争いと葛藤だけを残したのです。 2.恋なすびについて。 そしてラケルの不信仰は、今日の恋なすびの物語で、その極みを見せてくれます。「小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、あなたの子供が取って来た恋なすびを私に分けてくださいと言うと、レアは言った。あなたは、私の夫を取っただけでは気が済まず、私の息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょうとラケルは答えた。」(14-15)恋なすびとは、中東で育つ、男の性機能と女の不妊治療に良い植物と言われます。今日の本文でレアの息子ルベンが、その恋なすびを取ってきたのですが、ラケルはそれが姉の手に入るかと気になって自分が取ろうとしました。レアの恋なすびを横取りし、レアの妊娠を防ぎ、自分が使おうと、ねたんで手に入れようとしたわけです。ところで、面白いことは、姉の恋なすびを取るために、ヤコブと自分の夫婦関係の順番を売ったということです。当時でも今でも中東には一夫多妻制が存在します。そして、夫には妻たちと順番を定めて床を共にする義務があり、妻たちにも夫に定期的な夫婦関係を要求する権利があると言われます。それは誰にも譲れない大事な妻たちの権利であり、神に与えられた大切な行為とされていると言われます。ところで、ラケルは姉へのねたんで、その権利を恋なすびと引き換えてしまったのです。 ラケルは、姉への妬みに目がくらみ、神にいただいた大事な妻の権利をおろそかにしてしまいました。ある学者は「ラケルがヤコブとの夫婦関係を売ったことは、エサウが長子の権利を売ったことに比べられるほどの深刻なことだった」と主張しています。結論的に、恋なすびを手に入れたにもかかわらず、ラケルは子どもを儲けることが出来ませんでした。皮肉なことにラケルがヤコブをレアに譲った日、レアはまた子どもを身ごもることになったのです。ラケルの不信心は姉を憎むようにし、姉のものを欲しがるようにし、神に与えられた大事な権利である夫婦関係までも投げ捨てるようにする、大きな罪になりました。しかし、その結果は気の毒にも、姉にだけ子供ができ、自分には何も出来ない正反対の状況になったということです。ヤコブの祖父アブラハムは「信仰」によって義とされました。ここで信仰とは、すべてが主の御心通りに成し遂げられると信じ、主のお導きを待ち望むことを意味します。もちろん、これは「全てのことが主の御手の中にあるから、自分は何もしなくていい。」という意味ではありません。世の流れの中でも主の導きがあることを信じ、有益な時も、無益な時も、主に感謝し、託された人生を誠実に生きることを意味します。主の民が信仰を持って生きる限り、主は必ずご自分の時に民の信仰に答えてくださるからです。残念なことにラケルにはそれができず、ヤコブの家族は彼女の不信心によって争いと葛藤に巻き込まれたわけです。 3.人間の葛藤に揺るがない主の摂理。 ところで、私たちの姿もラケルとあまり違っていないかもしれません。私たちに罪がある限り、ラケルのように不信心から完全に自由になることが出来ないからです。人間は誰もが不信心を持っており、その不信心の根源は、人間の中心にある罪からもたらされるからです。信仰の完成期である今の皆さんは、罪を警戒し、常に悔い改めておられるでしょうが、若い頃を思い起こされると、これまでの私たちの欲望と罪の歩みが振り返られるでしょう。もしかしたら、今でも私たちは、このラケルのような者であるかも知れません。しかし、にもかかわらず、一つの希望があります。それは、私たちの信仰が弱くても、私たちが他人との争いを起こしても、私たちが欲望に浸っても、主の御前で恥ずべき罪を犯しても、いかなる状態であっても、神の摂理に全く影響を及ぼせないということです。レアとラケルがあれほど揉め、争ったにもかかわらず、神の御目に、それらのことはヤコブの子供たちが増える過程であり、神の計画が成就していく道のりであるにすぎませんでした。 当時はヤコブの家の大騒ぎだったのかもしれませんが、結局、そのすべての葛藤と対立が、イスラエル民族を形成していく最も早い道のりになったのです。神は実に人間の不信心さえも、主のご計画を成し遂げるための道具として用いられる全能な方であるのです。神の摂理は人間が持っているいかなる罪、争い、障害にも全く揺れ動かないものだからです。 私たちは今後も神に召される日まで、罪を犯し続けるかもしれません。自分が意識して犯す罪でなくても、知らず知らず犯す罪がきっとあるはずです。知らず知らず隣人ともめ、知らず知らず神に逆らう時もあるかもしれません。しかし、そのすべての私たちの失敗にもかかわらず、主なる神のご計画とご意志と摂理は決して変わること無く成就されていくでしょう。ここに私たちの希望があるのです。なぜ、死ぬべき罪人である私たちがキリストの功績によって、正しい者として、救われた者として認められるのでしょうか? 私たちの罪と愚かさが、キリストの御救いにちっとも影響を及ぼせないからです。狭い私たちの視野からヤコブの家を見れば、めちゃくちゃと見えるでしょう。神の民としての価値が無いと思われるかも知れません。しかし、広い神の視野から見ると、ヤコブの家の無茶苦茶なさまは、かえってイスラエルという民族の基礎を固める絶好の機会と見えるでしょう。私たちの人生も同様です。差し当り、私たちの人生がめちゃくちゃに見えるかも知れない時でも、神の御目には私たちの人生が一番良い方向に進んでいる状況であるかも知れません。神は私たちの状況によって影響を受けられず、むしろ私たちの状況を超えて、私たちを一番良い方向に導いていくことが出来る方でいらっしゃるからです。ですから、今日の悲しみや辛さにつまづかないようにしましょう。神への希望を持って生きて行きましょう。それがまさに私たちの持つべき信仰なのです。 締め括り 「他方は、自分の利益を求めて、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリピ1:17-18)おそらく、当時のキリスト者の中には、パウロへの妬みで競争心を持った人々がいたようです。彼らは福音伝道のためにローマ帝国によって投獄されたパウロを侮辱し、苦しめるために、競って伝道活動を行ったようです。しかし、パウロは、彼らの行為に怒るどころか、かえって先のことを深く考えて喜んだのです。パウロは、自分への彼らの妬みと競争心が、福音伝道のための神の道具になると思ったわけです。私たちは、このようなパウロの目線から世界を見つめるべきです。教会、もしくは、私たちの人生に遺憾なこと生じる可能性は高いです。しかし、そのすべては神のご計画や御導きに何の悪い影響も及ぼすことが出来ません。私たちは変わらず主の御心通りに導かれ、主は最後まで私たちを御心のまま、導いていかれるでしょう。神の摂理に揺れ動きは決してありません。私たちはこの神の民として生きているのです。だから、私たちに困難がある時、恐れないようにしましょう。ただ、神を信じ、祈り、主の摂理を待ち望みましょう。主はすべてのことを必ず正しく成し遂げていかれるからです。

目を覚ましなさい。

ヨナ書4章10-11節(旧1448頁)  マルコによる福音書8章11-26節(新76頁) 前置き 前回の説教では、イエスが異邦の地域での最後の奇跡として、七つのパンと小さい魚少しとをもって4000人に食べ物を与えてくださった出来事について話しました。6章での5000人に食べ物をくださった奇跡がユダヤ人への恵みであれば、8章での4000人に食べ物をくださった奇跡はユダヤ人ではなく、異邦人への恵みでありました。これを通して、私たちは主がユダヤ人だけでなく異邦人をも、差別なく愛しておられる方であることが分かりました。イエスはすでに選ばれた者だけの主ではなく、この世の全ての存在の主でいらっしゃいます。そして、主はすべての存在を公平に愛してくださる方です。主のからだなる教会が教会員同士だけでなく、周りの未信者をも愛し、仕えるべき理由は、まさにこの理由があるためです。今日の本文は、4000人に食べ物をくださった出来事の後、ガリラヤに戻ってこられたイエスが、弟子たちに霊的な目を覚ますことを促される物語です。今日の本文を通して、主イエスは弟子たちに何を教えてくださるでしょうか。 共にみ言葉に聞きましょう。 1.今の時代のファリサイ派は誰か? 「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(11-12)イエスは異邦の地域からガリラヤに戻って来られました。イエスが到着された時、イエスを待っている者たちはファリサイ派の人々でした。彼らは、すでに前からイエスとしっくりいっていませんでした。 彼らにとってイエスはユダヤ教に逆らう異端者でした。イエスがユダヤ教が禁ずる不浄な者たちと付き合い、弟子たちに伝統的なユダヤ教の儀式である断食をさせず、安息日に働き、昔の人の言い伝えを守っておられなかったからです。そして、今回はユダヤ人が嫌がる異邦人4000人に食べ物を与えられました。そのため、ファリサイ派の人々はイエスを律法を乱す者と見なしていました。そういうわけで、彼らはイエスに「あなたが本当に律法的に正しい者なら、天からの証拠を見せなさい。」と要求したわけです。しかし、彼らが嫌がっているイエスの行為は、律法の大事な価値である愛の実践に基づくことでした。イエスは誰よりも律法に熱心だったのです。その反面、ファリサイ派の人々は愛の実践には関心がなく、ただ自分たちの宗教的な儀式を重んじるだけでした。 ここで「天からのしるし」とは、「神からの証拠」を婉曲に表現した言葉です。伝統的にユダヤ人たちは、直接、神の御名を口にしません。聖なる神の御名を罪深い人間が口にすることが神への無礼だと考えているからです。しかし、神の証拠を求めること自体が、神へのさらに深刻な無礼なのです。宗教儀式として「無礼を働かないために神の御名を呼ばないこと」と、「神に認められた正しい人を自分が認めたくないから、神の証拠を求めること」のうちで、どちらが無礼なのでしょうか? ユダヤ人たちは自分たちの宗教儀式はよく守っていましたが、実質的な神の御心である愛の実践を行っておられるイエスのことは理解していませんでした。信仰のある者たちは、イエスが神からの方であることに気付いていました。イエスの言葉と行為が、神から来られたことの証拠でした。しかし、ファリサイ派の人々は自分たちの伝統と基準だけを重んじ、主イエスが神の人であることを見分けられませんでした。私たちは聖書を読みつつ、ついファリサイ派を批判しがちです。また、私たちは彼らとは違うと思うかもしれません。しかし、目に見える宗教行為や教理などを強調するだけで、神の御心に従わない人は、ファリサイ派の人々と異なるところがないでしょう。宗教的、神学的なことだけを強調し、人生の中で少しも愛の実践がない、知識と行為がかけ離れた人生、それこそが、まさにファリサイ派的な人生なのです。 2.ヨナの物語 今日の本文でイエスは、このようなファリサイ派の人々にいかなるしるしも見せてくださいませんでした。それで、今日の本文の平行本文であるマタイによる福音書12章を参照してみました。「イエスはお答えになった。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイ12:39) ここでヨナのしるしについて考えてみたいと思います。マタイによる福音書の12章40,41節に、ヨナについての二つの話がすでに記してありますが、今、私が話すのは、それらとは別の話です。預言者ヨナは旧約聖書ヨナ書の主人公でありますが、登場するのはヨナ書のみではありません。「イスラエルの神、主が、…預言者…ヨナを通して告げられた言葉のとおり、…イスラエルの領域を回復した。」(列王記下14:25)列王記下にもヨナは預言者として登場しています。ヨナは旧約のイスラエル民族の預言者として、イスラエルの復興を熱望する愛国者であり、民族主義者でした。ところで神は彼に、当時の強大国であったアッシリアの首都ニネベに行き、神の御裁きを宣べ伝え、悔い改めさせることを命じられました。しかし、愛国者であったヨナは、敵国のアッシリアにまで御憐みを示される神が、到底理解できませんでした。 彼は「イスラエルの神が、なぜ敵国のアッシリアまで憐れんでおられるのだろうか?」と思ったのです。そこで彼は船に乗って反対方向のタルシシュに逃げました。その途中、彼の船は台風にあい、結局、ヨナは巨大な魚に呑み込まれてしまいました。 その後、ヨナは神によって劇的に救われ、ニネベにたどり着きました。ヨナは結局、仕方なく神の御裁きをニネベの人々に宣べ伝えることになったのです。ところが、意外とニネベの人々は素直に、しかも徹底的に悔い改めました。実は、ヨナは敵国アッシリアが滅びることを願っていました。しかし、神は、あのアッシリアも愛しておられたのです。それでもヨナはアッシリアの滅びを望んで、ニネベの東側の、とうごまの木の生い茂った場所からニネベを眺めました。その夜、神は虫でとうごまの木を枯らし、翌日、日差しと暑い風に疲れたヨナは神に怒りました。すると、神はお答になりました。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:10-11)ひょっとしたら、このようなヨナの姿がイエスの当時のファリサイ派の人々の姿ではなかったでしょうか? 神の御言葉を研究し、敬虔な宗教人として生きていると言うものの、自分の価値基準に妨げられて、神の御心が聞き取れず、御言葉通りに生きられず、宗教儀式的な情熱だけに閉じ籠っている人々。主イエスがおっしゃったヨナのしるしという表現には、こういう意味もあったのではないかと考えてみました。 3.自分中心から逃れ、神の御心に目を覚ましなさい。 再びマルコによる福音書に戻って、ファリサイ派の人々と論争されたイエスは、その場を離れて弟子たちに次のように戒められました。 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)すると、弟子たちは自分たちにはパンがないと論じ合っていました。イエスはファリサイ派の人々と当時の指導者であったヘロデの悪、つまり主の御心である律法の精神から離れ、ただ、自分の見た目だけ、自分の権力や欲望だけを大事にし、他人を愛しない悪い姿をパン種にたとえて仰いましたが、弟子たちは、 主の意図に気付くことが出来ませんでした。弟子たちはイエスの御心が分からず、異邦人を嫌がり、ファリサイ派の人々の生き方を踏襲していました。実際、イエスの弟子というタイトルを持っていたにもかかわらず、彼らはイエスよりもファリサイ派やヘロデの価値観に近い姿でした。つまり、イエスはご自分の弟子たちがファリサイ派の人々とヘロデのような自己中心的な見方から脱して、主の御心を学び、主のように律法の精神である愛の実践を為遂げる存在になることを願っておられたのです。その後、イエスは、ある盲人に出会い、彼の目を癒してくださいました。主と一緒にいるにもかかわらず、まだファリサイ派の人々のような霊的な盲人である弟子たちの前で、主はまさに「霊的な目を覚ましなさい」というしるしとして、盲人の目を治してくださったのではないでしょうか? 「5000人に食べ物を与えてくださった主は、ユダヤ人を愛される方でした。そして、4000人に食べ物を与えてくださった主は、ユダヤ人だけでなく異邦人も愛される方なのです。ユダヤ人か異邦人かを問わず、差別なく愛を実践することが、主イエスの御心であり、律法の真の精神であるのです。 もし、私たちが自分の好きな存在だけを好み、愛して生きるなら、私たちもヨナ、ファリサイ派、ヘロデ、今日の本文の弟子たちとそんなに違いの無い者になるかもしれません。我々は霊的な目を覚まして、イエスの心と業に倣って生きていくべきです。 聖書をたくさん読むからといって、祈りを長く頻繁にするからといって、膨大な神学的な知識を持っているからといって、神の御心に適っていると思わないようにしましょう。隣国の韓国の教会には聖書を100回も読み、一日に数時間を祈っていると威張る牧師たちが少なくありません。しかし、彼らは韓国社会で認められず、教会内部の権力を貪り、他の宗教に配慮せず、かえって嫌悪したりしています。聖書をただ一回読んでも、そこに記してある律法の精神とイエスの御心に倣い、神と隣人を私自身のように愛し、神の御旨を追い求めなければ、そのすべての(聖書の)読書と祈りと宗教儀式は無駄になるだけです。私たち自身を顧み、ますます実践していく生き方が大事です。我々の中に弟子たちの愚かさ、ヨナの憎しみ、ファリサイ派のパン種はありませんでしょうか。 締め括り 志免教会に来てから3年間、数え切れないほど、神と隣人への愛を力強く説教してきました。しかし、時には、自分自身に愛以外に説教の素材が足りないのだろうかと問い掛けたりします。しかし、不思議なことに、聖書を読めば読むほど、一番多く目に付くのは、この愛の実践なのです。この間、水曜祈祷会で聖書を読む時も、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(コリントⅠ13:1-3)という言葉が出て来ました。おそらく、これからも私は愛の実践について、絶えず説教していくでしょう。宗教儀式だけに気を遣い、頭でのみ考え込んで、実践のない人生はファリサイ派のパン種のような人生です。主はそこから脱して、本当に主の御心に目を覚ます人生を望んでおられます。愛を実践して生きましょう。御言葉によって神の愛を悟り、悟った愛を実践して生きる時に、神は私たちを喜び、祝福してくださるでしょう。これからも変わることなく、愛を実践する共同体「志免教会」として生きていくことを心から祈り願います。

主の慰め

創世記29章14b-35節(旧47頁)  コリント信徒への手紙二1章3-7節(新325頁) 前置き 兄が受ける長男の祝福を奪ったヤコブは、兄の恨みを避けて700kmも離れていた母の実家へ向かいました。彼は旅路に野宿をすることになったのですが、夢で天と地をつなぐ階段の上におられる神に出会いました。目を覚ました彼は、記念碑を建てて、そこをベテルと名付けました。「兄の祝福を横取りしたヤコブが一番先に経験したことは、世間の言う心身ともに安らかな祝福ではありませんでした。むしろ見知らぬ所での苦難と孤独でした。しかし、その苦難と孤独は神がヤコブを成長させてくださるための一種の訓練でありました。キリスト者はイエスを信じるようになってからも苦難と孤独に遭う場合があります。多くの苦難と孤独はあるものの、ヤコブは成長していきます。そして、彼は最終的にイスラエルという新しい名前を得、神に認められた民となります。今日は、そのヤコブの人生の中で、彼の結婚とその結婚によって苦しめられた一人目の妻、レアについて考えてみたいと思います。 1.ヤコブとラバンの性格 まず、ヤコブとラバンという二人の性格について考えてみましょう。(今日の本文は14節から35節ですが、説教では29章全体の内容を取り上げたいです。)「ヤコブは言った。まだ、こんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。すると、彼らは答えた。そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」(7-8)中東では水の管理が本当に大切です。古代中東では、ある部族が族長を中心にして、乾季には深い地下貯水槽を掘り、雨期には雨水を貯め、その水で1年間を生活したと言われます。つまり地下水の井戸ではなく、雨水を溜めて使ったということです。イスラエルでアブラハムの時代に造られたと言われる貯水槽に入ったことがありますが、深さは20メートルにも達するほど大きな貯水槽でした。そして、大きな岩でその貯水槽の口を塞ぐ、人がただで使えない構造になっていました。「まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。」(3) 3節のすべての羊の群れを集める理由も、そういう事情があるからです。公の物ですので、みんなで一緒に貯水槽の蓋石を運び、水を分配するのです。「ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り、石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。」(10) ところで、前の7~8節で貯水槽を勝手に使ってはいけないという話を聞いたにもかかわらず、10節でのヤコブは何の許可も得ずに貯水槽の蓋を勝手に開けて水を飲ませました。これはヤコブの配慮のある働きだったかも知れませんが、明らかに勝手な振舞いでした。もしヤコブがラバンの甥でなかったら、ヤコブはここで命を失うか、ひどい目にあったのかもしれません。(ラバンはその地域の族長と思われます。) この短い文章を通して、私たちはヤコブという人の性格が間接的に分かるようになります。自分の目標を何としても成し遂げようとする身勝手な振舞い、自分がすべての中心になって自分の欲望のために生きる人間。それが若いヤコブの性格なのです。その後、このヤコブはおじラバンに会い、母の故郷であるハランで暮らすようになります。ところで、このヤコブのおじのラバンも、ただ者ではありませんでした。「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(25-27) ハランにたどり着いたヤコブは、その後、ラバンの次女であったラケルを愛することになりました。ヤコブは、このラケルと結婚することを願うようになりました。ラバンはその点を見逃しませんでした。 「ラバンはヤコブに言った。お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」(15)おそらく、ラバンはヤコブがラケルを愛していることを利用して、意図を持って、このような提案をしたのかもしれません。これに対してヤコブは「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます。」と言い、ラバンは「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」と答えました。ここで「お前に嫁がせる方が良い。」という表現を、あえて日本語的に翻訳すれば「お前の方が他人よりは増しだろう。」という表現になります。 意図を含んだ表現なのです。ラバンはこのように自分の娘を口実に7年間、こき使いました。7年後、ヤコブはラバンにラケルとの結婚を要求しました。しかし、ラバンは、あの欲望としつこさのヤコブを見事に欺きました。 結婚初夜にヤコブの愛するラケルではなく、長女のレアを新婚の部屋に行かせたのです。 2.「レアの悲しみと神の慰め」 このように騙す者ヤコブは、そうして血肉のラバンに騙されてしまったのです。不思議なことにこの世は、こんな人間たちによって牛耳られたりします。 あの有名な『三国志』では、曹操という英雄が登場しますが、人々は彼を「奸雄」と呼びます。ずる賢い英雄という意味です。今回のウクライナとロシアの戦争も、「侵略しない」という過去の約束を破ったロシアによる戦争です。そういう意味でプーチン氏も奸雄と言えるでしょうか。 歴史上、このようなことは数え切れないほどたくさんありました。そして、いつも、そのずる賢い人間たちによって世界は苦しみを受けました。いつか神はそのすべての悪人を必ず厳しく滅ぼされるでしょう。ところで、ヤコブとラバンという二人によって、誰かが苦しむことになりましたが。それはヤコブの1人目の妻であり、ラバンの長女であるレアでした。「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(25-27) この説教を準備する際に、妻とこう話しました。「レアがとてもかわいそうだ。彼女は夫から充分に愛されていない。」この世の中で夫に愛されない妻ほど悲しい人がいるでしょうか? もし、ただの恋人だったら、いつでも別れて終わりですが、夫婦関係なら別れにくいでしょう。現代では、割と「バツイチ」が、そんなに恥じではないと思われるでしょうが、この当時は数千年前の古代です。女なら無条件に、父、夫、息子に依存するしかない時代です。なのに、レアは自分に全く心もない男に、それも抱き合わせ販売のように嫁がせられてしまったのです。実際、レアはヤコブに愛されず、悲しい気持ちで生きていかなければなりませんでした。「ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。」(30)他人を配慮しない人たちが自分だけのために生きていく世の中は、このように誰かを地獄のような痛みの中に落としてしまいます。 こういう様(さま)は神が希望しておられる世界ではありません。 皆さん、我々は自分の欲望に気をつけなければなりません。自分自身の欲望が誰かに拭えない傷になり得ることを忘れてはいけません。私たちは蛇のように賢く、鳩のように素直に生きなければなりません。なぜなら、蛇のように賢い者が、蛇のように生きていくと、誰かが必ず、その毒に苦しんでしまうからです。 「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」(31) しかし、夫と父の間で苦しんでいたラケルにも一筋の光はありました。それは神の慰めでした。 古代人の認識において子供が多いということは、神の祝福であり、神に愛されている証拠でした。レアは夫の愛を十分受けることはできませんでしたが、神の愛によって多くの子どもを儲けることになりました。レアは全部で6人の息子、つまりイスラエル12部族の祖先の半分を産み、中にはキリストの祖先であるユダもいました。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンが彼らです。ルベンは「神が顧みてくださる」シメオンは「神が聞いてくださる」レビは「結び付いてくださる」ユダは「神を賛美する」イッサカルは「報酬をくださる」ゼブルンは「一緒に暮らす」という意味です。ラケルが2人、レアとラケルの女奴隷らが、それぞれ2人を産んだので、レア1人で3人の女性と同じ数の息子を産んだわけです。夫と父、2人の欲望の強い人によって苦しんでいたレアは、すべてのことを知り、すべてを導いてくださる神の恩寵によって大きな恵みを受けたのです。そして最終的にレアが神に召される時に、ラケルも葬られることが出来なかったアブラハム家の墓に葬られるヤコブの唯一の妻として聖書に記されるようになりました。神が彼女をヤコブの本妻として認めてくださったからです。 締め括り 信頼する父と愛する夫に何の存在価値も認められなかったレアは本当に悲しい女でした。しかし、彼女には神がいらっしゃいました。神はもちろんヤコブの他の妻たちにも子供をくださいましたが、神は誰よりも、この一人の女の痛みをよく分かってくださり, その痛みを慰めてくださいました。私たちは有名でもなく、力も弱く、何も変えることができない群れです。しかし、この世を創造なさった、歴史上、最も有名な方が、我々と共におられ、我々を慰めてくださいます。今日の本文を通じて、私達はこれを必ず心に留めて生きるべきです。誰も私たちの肩を持たない時、神だけは私たちの味方になってくださるということです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」今日の新約本文コリントの信徒への手紙二1章3-5節の御言葉のように、神は私たちを慰めてくださる父なる方です。今日、レアを慰められた神のことを覚え、誰も私たちを認めてくれない時、神お一人だけは覚えてくださることを信じていきましょう。慰めの神の愛が志免教会の上に満ち溢れることを祈り願います。

異邦人に食べ物を与えられたイエス

エゼキエル書34章23-24節(旧1353頁)  マルコによる福音書8章1-10節(新76頁) 前置き イエスは7章のシリア・フェニキアのギリシャ人女の娘を癒してくださって以来、引き続き、異邦人の地域を巡っておられました。イエスは異邦地域に来られ、シリア・フェニキアのギリシア人の女に出会い「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(7:27)と非常に侮辱的な話をされましたが、それは主の本音ではありませんでした。それは異邦人である彼女に救われるに足る信仰があるかどうかを試みる一種の試練でした。それに対してギリシャ人の女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)との答えで、主に自分の謙遜と信仰を示し、彼女の信仰を確認された主は、快く彼女の娘を癒してくださいました。主イエスは異邦人を犬のように扱われる方ではありません。主はユダヤ人、異邦人を問わず、主の愛をお伝えになる方です。今日の出来事も、その差別のないキリストの愛の物語です。今日は、4000人に食べ物を与えられた物語を通して、異邦人を愛される主について学び、教会の在り方について考えてみたいと思います。 1.イエスの差別のない愛。 今日の出来事は、マルコ福音書の6章に出てきた5000人に食べ物を与えられた物語と非常に似ています。前回の6章の説教では、五つのパンと2匹の魚で5000人に食べ物を与えられた出来事について考えてみました。その時、私たちは ヘロデ・アンティパスというガリラヤ地域の邪悪な王とイエスという神から遣わされた善い王を比較し、5000人に食べ物を与えられた出来事を真の王であるキリストの正しい統治と結び付けて説教しました。しかし、その時、言及しなかった内容があります。それは5000人に食べ物を与えられたことが、ユダヤ人のみを対象にする出来事だったということです。ローマの支配層とユダヤ人の有力者だけを相手にして、一般の民には暴政をしいていたヘロデ・アンティパスとは違い、ユダヤ社会に疎外されていたユダヤ人の群衆を哀れみ、食べ物を与えることで、キリストは主流以上に、非主流を愛されるイスラエルの真の王であることを語りました。今日の本文の4000人に食べ物を与えられた出来事は、前に5000人に食べ物を与えられた出来事と非常に似ていますが、その対象が異なります。今日の本文の最後には「弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」(10)という言葉がありますが、ここで言うダルマヌタ地方はガリラヤ湖の西側、つまりユダヤ人の地域です。それから、主はシリア・フェニキアの女の娘を治してくださって以来、異邦の地域で活動を続けておられたことが分かります。そして、その異邦での活動の終止符として4000人の異邦人たちを食べさせてくださったのです。 5000人に食べ物を与えられた出来事と4000人に食べ物を与えられた出来事は非常に似ている話で、何人かの学者たちは、この二つの物語が同じ言い伝えから派生した可能性があると考えています。現代の聖書学者たちは、聖書が一つの場所で、また一人によって記されたとは思いません。昔のユダヤ人の言い伝えによって伝わってきた話が、誰かによって一つの文章に編集されたと思います。そのため、5000人に食べ物を与えられた出来事と、4000人に食べ物を与えられた出来事が、ある同じ話から派生した可能性があると思ったわけです。確かに二つの話は非常に似ています。ですが、その対象が明らかに異なるゆえに、2つの物語が持つメッセージも異なると思われます。重要なことは、同じ物語から派生したかどうかではなく、2つの物語がそれぞれ何を表しているのかということです。神はユダヤ人、異邦人を問わず、すべての人種を同一に愛し、憐れんでくださる方です。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(2)ここで、イエスがおっしゃった「かわいそうだ。」という表現は5000人に食べ物を与えられた出来事にも言われた言葉ですが、その原文は「スプランクニゾマイ」というギリシャ語です。この表現は「内臓が切れるほど、痛みを感じる」という意味です。つまり、主がかわいそうに思われたことは、他人への同情ではなく、主ご自身の問題とされたということでしょう。ところで、イエスが6章でユダヤ社会から疎外された貧しいユダヤ人たちに感じられた感情を、異邦人たちにも同じく感じられたということです。 旧約聖書において神は、おもにイスラエル民族を対象にし、彼らを選び、成長させ、彼らの罪を裁き、彼らを再び回復させてくださいました。そういうわけでユダヤ人たちは自分たちのみが神に選ばれた特別な民族だと思いました。しかし、旧約聖書には、イスラエルだけでなく、異邦の民族までも愛してくださる神に対する描写が、いくつでも見つかります。ユダヤ人たちは異邦人を無視し、汚れたと考え、差別するだけでなく、ユダヤ人の中でも貧しい者、病んでいる者、失敗した者を差別し、憎んでいました。しかし、真の神の福音を持って来られたイエスは、その全ての差別を打ち砕き、ユダヤ人と異邦人とを区別なく愛してくださる方です。そして、その愛を通してご自分の命を捧げ、ご自分のことを信じる者なら、誰でも救ってくださることを望んでおられる方なのです。今日の言葉は、その差別のないイエスについての重要なエピソードなのです。神はすべての存在の神です。言い換えれば、神はこの世の全ての存在の主でいらっしゃるのです。だから神は教会だけを愛する方ではありません。神は、この世のすべての存在を愛する方です。我々がイエスを信じて救われたからといって、神がイエスを信じない他の人々を憎んでおられるという意味ではありません。むしろ、神はすべての人がイエスを信じて救いに至ることを切に願っておられるのです。 2.私たちの姿はどうでしょうか。 イエスが異邦人に、このような奇跡を起こそうとしておられた時、イエスのユダヤ人の弟子たちは、どのように考えていたでしょうか? 「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。弟子たちは答えた。こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(3-4)イエスが、異邦の群衆の飢えを心配された時に、弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と言いました。この日本語の表現には「どのようにして」という直接的な表現が見えませんが、原文には「果たしてどのようにして異邦人であるこの人たちを食べさせることができるでしょうか。」という表現が隠れています。それは異邦人を食べさせたくないという意味が含まれている表現です。弟子たちは今まで主イエスの数多くの奇跡を目撃し、主の御言葉を聞いて、その方と一緒に生活して来ましたが、ユダヤ人が否定的に取り扱う異邦人までも、愛しておられる主の心を到底納得することができませんでした。「ユダヤ人だけが神の民ではないか?異邦人は神の呪われた存在ではないか?」という思いが彼らの心の中にあったのです。マルコによる福音書の著者は、マルコによる福音書全体を通して弟子たちが、どれほど愚かな存在だったのかをよく示しています。そして、その弟子たちの愚かさを通して、我々には弟子たちのような姿はないか、その都度、顧みさせます。 私たちは時々、自分も知らないうちに自分と異なる存在に壁を築いているのかもしれません。まずは自分から、まずは我が家族から、まずは我が教会から、まずは我が国から、すべてにおいて自分のことを中心にし、自分と異なる何か、誰かに向かって隔てをつけているかも知れません。しかし、我々の主イエスは、内と外、身内と他人を問わず、大切に思い、愛してくださる方です。神の哀れみと愛は差別なく公平です。なぜなら、そのすべてが主がお創りになった主の被造物であり、神はそのすべてを主イエス・キリストに託してくださったからです。 イエスはイスラエルの先住民であるユダヤ人だけでなく、すべての人類を同じく愛しておられる方です。すべてが神のものだからです。キリストはそのすべての存在がご自分を通して救われることを望んでおられます。だからこそ、福音なのです。したがって、主の愛の対象は、今イエスを信じている私たちだけでなく、まだ主を知らないすべての人でもあります。イエスを信じて主のからだとなった私たちは、その主の心に倣い、自分と異なる他人、外の人にも喜んで仕え、愛して生きるべきです。私の主イエスが彼らを愛しておられるからです。 村八分という言葉があります。江戸時代に村落共同体内の規則や秩序を破った者に対して集団が加える制裁行為です。2021年に大分県の宇佐市で元区長ら3人が中心となり、帰村した一人を集団的にいじめる現代版 村八分事件があり、147万円の慰謝料を求める訴訟がありました。依然として日本社会には、こうした外からの人を差別することが時々あるようです。アメリカではコロナ以降、無作為に東洋人にリンチを加えることが、頻繁に起こっていると言われます。世の中には、このようなケースが本当に多いです。「私と違うから、私の気に入らないから、誰かを憎む。」ということです。しかし、イエスは、そのすべてのものを越えて、愛して仕える行為を今日の物語を通して見せてくださいました。「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、7籠になった。」(8) 聖書での3、4、7、12、144、1000、144,000などの数字は完全数だと言われます。主がユダヤ人と異邦人を区別されず、彼らに食べ物をくださった時、その残りは完全数の12籠と7籠でした。私はこれが主の愛がユダヤ人、異邦人を問わず完全であることを示す意味だと思います。神の愛は内と外を区別しません。むしろ神の愛は、誰にでも公平なのです。 締め括り 「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」(エゼキエル34:23-24)このエゼキエル書の言葉は、明らかにイスラエル民族向けの宣言です。異邦人のための宣言ではありません。しかし、現代のキリスト者たちは、この言葉を自分への御言葉だと信じています。厳密に言うと、日本出身、韓国出身、ニュージーランド出身、中国出身の私たちはみんなユダヤ人ではなく異邦人です。しかし、我々はこのエゼキエルの言葉を自分への言葉だと受け止めています。なぜなら、我々はキリストによって霊的なイスラエルとなったキリスト者だからです。神の御心には差別がありません。すべてがキリストの愛のもとにあります。私たちはこの重要な事実を忘れてはいけません。自分と違う人々を愛し、彼らもまた神から愛される存在であることを忘れないようにしましょう。キリストによる福音は、世のすべての存在に与えられたものだからです。そういう愛を持って生きる時、人々は我々の生活から愛の神を見つけることが出来るでしょう。生き生きとした愛の共同体、志免教会でありますように。

神様とヤコブの出会い。

創世記28章10-22節(旧46頁)  ヨハネによる福音書1章43-51節(新165頁) 前置き 前回の説教の本文である創世記27章には、イサクの次男ヤコブが、父をだまして兄エサウが受けるはずであった長男の祝福を奪う出来事が記してありました。イサクは信仰の父アブラハムの相続人であり、神の民と認められた人でありましたが、彼の家は何か不健全な状態でした。父のイサクは霊的な目が暗くなっているゆえに神の御心が見分けられず、母のリベカは自分の計略を達成するために夫を欺き、長男のエサウは神の祝福を軽んじ、末子のヤコブは自分の欲望のために卑怯な行動をいとわなかったのです。しかし, それにもかかわらず、神は彼らの失敗の中でもご自分の計画を着々と成し遂げていかれました。残念なことに家庭の不和によってヤコブが父の家を去らなければならないようになりましたが、その家庭の不和によって、イサクの家とヤコブへの神のご計画は本格的に始まったのです。実に神は人間の失敗から、神の成功を導き出す方でいらっしゃいます。今日の本文からはヤコブの物語が本格的に展開されます。ヤコブの物語もアブラハムのように長くて波乱万丈です。主はヤコブの歩みをどのように導いてくださるでしょうか。ともに覗いてみましょう。 1.万事が益となるように共に働かせる神 ヤコブは兄が受けるべき長子の祝福を奪ったゆえに、住み慣れていた故郷を離れるようになりました。表向きではカナンの異民族ではなく、同族の娘をめとるための旅のように見えましたが、それは明らかに長子の祝福と権利を奪われたエサウの仕返しを避けるための逃亡でした。父のイサクは霊的に暗んでいる状態でしたが、ヤコブにくだした長子の祝福を翻さず、旅に立つ彼のために、もう一度祝福をしてくれました。「どうか、全能の神がお前を祝福し、アブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」(28:3-4中)たとえ、ヤコブが卑怯にも長子の祝福を奪ったとしても、父のイサクは息子が生まれた時、神が言われた御言葉を思い起こし、祝福を認めたのではないかと思います。そしてヤコブは、いよいよ父の家を後ろにし、親元を離れ、荒々しい世の中に進んでいくことになりました。人生には、常に罪と不条理があり得ます。その結果、本人も他人も苦しみと痛みを味わうことになりがちです。人生にある多くの苦痛の理由の中には、自分や他人の罪によって生じることも多々あります。そして、人間にある罪の性質は、そのような苦痛を絶えず生じさせます。しかし、全能なる神はそのすべての人生の問題までも用いられ、神の善いご計画を成し遂げていかれ、何があっても成就なさる方でいらっしゃいます。 イサクの霊的な暗さ、リベカの偏愛、エサウの憤り、ヤコブの貪欲が生んだ家庭の破綻は、本当に心の痛い出来事でありますが、このような悲劇があったからこそ、神がアブラハムに言われた計画、つまり「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)という神の預言が実現するようになったのではないでしょうか。家を離れたヤコブがパダン・アラムで4人の妻をめとり、12人の息子を儲けるようになったからこそ、一人のアブラハムの子孫が、数万のイスラエルという民族になったのではないでしょうか。また、そのイスラエル民族を通してイエス·キリストという救い主が来られるようになったのではないでしょうか。偉大な神はイサクの家庭の問題を、一介の家庭の問題ではなく、神の聖なるご計画を成し遂げる踏み石として用いられたのです。今現在、自分の人生がうまくいっていないと、暗くて長いトンネルの中に閉じ込められていると、絶望に陥っている必要はありません。神はそのような状況さえも用いられ、一番良い時に一番良い方法で主の御心通りに私たちの人生を導いていかれる方だからです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)実に、このローマ書の言葉のように、我々キリスト者の人生の中で起こるすべての出来事は、神の御手によって主のご計画の成就のための道具として用いられるでしょう。それを信じ、主のお答えを待ち望みつつ、生きることこそがキリスト者の信仰の在り方なのです。 2.孤独と苦しみの中に現われる神。 しかし、不正に長子の祝福と権利を奪ったヤコブが行き当たった現実は、決して美しいものだとは言えませんでした。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」(創28:10-11)現在、ベエル・シェバとハランとして推定している二つの場所の直線距離は約730kmです。志免教会から名古屋までの直線距離が、それくらいですのでかなり遠いのです。ところで、ヤコブはその道のりを歩いて行かなければなりませんでした。しかも石の砂漠でした。創世記の描写によると、一緒に行く僕もいなかったと思われます。何年前か、イスラエルの荒野に行ったことがありますが、昼間は本当に乾燥して、夜になると非常に寒くなる所でした。長子の祝福を横取りしたヤコブでしたが、彼が経験した祝福の始まりは、華麗な何かではなく、むしろ孤独と苦難でした。もし、ヤコブが長子の祝福と権利を欲していなかったら、彼は父の保護の下で、楽に暮らしていたでしょう。ヤコブは貪欲によって兄の祝福を横取りしましたが、その祝福は孤独と苦難として返ってきたのです。私たちは、これを通して神の祝福について、はっきり知っておくべきです。神の祝福とは、ただ身と心が安らかになることを意味しません。神の祝福は、そう簡単な問題ではありません。神の祝福とは、祝福を受けた者が神のお導きに聞き従って生きる時に働き、そのような人生には孤独や苦難が伴うこともありえます。 先週も孤独について言及しましたが、時々、神の民は、神の祝福の中に生きる途中、孤独や苦難にさらされることもあります。古代中東には寄留者歓待法という慣習法があったと言われます。砂漠や荒野で旅人がくたびれないように、彼が誰であっても寄留者を招いて休ませる仕来りです。しかし、ヤコブはそういった寄留者歓待法による助けを受けることもできず、野宿をしなければならないほど、徹底的に孤独と苦しみの道を歩まなければなりませんでした。ですから、神の祝福を甘く考えてはいけません。神が考えておられる祝福と我々が考えている祝福との間には、大きな違いがあることを忘れてはなりません。それにも関わらず、神の御心通りに生きる時、孤独と苦難で始まった辛い祝福は、真の祝福へと変化していくでしょう。明らかなことは神が孤独と苦難だけを与えられる方ではないということです。その孤独と苦難の中で、神は必ずご自分の御手を差し伸べてくださる方だからです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」(12-13) ヤコブが置かれた孤独、寒さ、恐ろしさの中で、彼が枕にしいた石は、そのような現実で自分を守るための唯一の物でした。非常に粗末な石に頼って眠っていた孤独と苦難の中のヤコブ。彼がすっかり独りぼっちになった時、はじめて神は彼の夢に現われたのです。神は天と地をつなげている階段の上(本文では「傍ら」とあるが、原文では「上」)に立ってヤコブに言われました。「私は、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」ヤコブに与えられた本当の祝福は、ただ心身ともに安らかになる状態ではなく、どんな孤独や苦難があっても、絶対に変わらず共にいてくださる神ご自身だったのです。ヤコブの心には貪欲、罪、愚かさなどがありましたが、神はそのすべてを意に介さず、永遠に彼と共におられ、彼の祖父と父との約束を必ず守ると約束してくださいました。それこそが、まさにヤコブに与えられた神の真の祝福だったのです。「君に罪と問題があっても、私が赦し直してあげる。だから君は私についてきなさい。」とのことです。我々の人生に孤独と苦難が襲ってくる時、絶望しないようにしましょう。差し当たり恐れることは避けられないかもしれませんが、その時こそが神が私たちと共にいてくださる時です。ヤコブの石枕は頼りにもならないほどのみすぼらしい物でしたが、神が現れた時、その石枕は神とヤコブとの関係を証明する記念碑となりました。そしてヤコブは、そこを神の家、すなわちベテルと名付けました。 3.アブラハムとイサクとヤコブの神。 私たちは「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉をよく耳にします。なぜ、神は、ご自分のことを罪人であったアブラハムとイサクとヤコブの神と呼ばれたのでしょうか? それは、神がこの三人と結ばれた契約を必ず守るという約束を記憶しておられるためではないでしょうか? 神はアブラハムとの約束を孫のヤコブの時まで固く守ってくださり、ヤコブとの約束をキリストの時まで固く守ってくださいました。そして、キリストの手柄によってアブラハムとイサクとヤコブの霊的な子孫となったご自分の教会の時まで、その約束を守ってこられました。その約束は現代の教会である私たちにも当たるものです。階段の夢を通してヤコブがいただいた神からの約束は、ヨハネ福音書1章の主イエスの御言葉によって成し遂げられました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)神は、ご自分の約束を必ず守られる方です。その約束が守られる道のりで、民が孤独や苦難を経験する場合も、絶望や悲しみを感じる場合もあるでしょうが、神はその民との約束を必ず守ってくださる方です。神は今日も聖書を通して、自らを「アブラハムとイサクとヤコブの神」と証言されます。 そして、その神はイエス·キリストを通して、「キリストと教会とあなたの神」とご自分のことを証言してくださるのです。 締め括り これから、当分の間、旧約説教はヤコブを中心にすると思います。彼は祖父アブラハム以上に波乱万丈の人生を過ごすことになります。今日の本文の最後の箇所に、このように書いてあります。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」(20-22) ヤコブはやっと神に出会いましたが、彼は自己中心的に神を取引の対象として扱います。しかし、彼は神と共に歩む年月を経て徐々に神の民に生まれ変わっていきます。「さあ、これからベテルに上ろう。私はその地に、苦難の時、私に答え、旅の間、私と共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(35:3) 貪欲と愚かさのヤコブは、どのようにして神の民に変わっていくでしょうか。これから引き続きヤコブの人生と神のお導きについて探り、志免教会が歩むべき道について学んで行きたいと思います。

エッファタ(開け)

イザヤ書6章9-10節(旧1070頁)  マルコによる福音書 7章31-37節(新75頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教では、ティルスという異邦の町でシリア・フェニキア出身のギリシア人女とイエスの間に起きた物語について話しました。古代地中海世界でフェニキア人は歴史的、文化的に由緒ある誇りの高い民族でした。それにもかかわらず、ユダヤ人イエスの前で謙遜に振舞っていたフェニキアの女は、その謙遜な信仰により、悪霊に取り付かれた娘を救うことができました。これによって、私たちは謙遜こそ信仰者に求められる信仰の本質であり、神が謙遜な者をいかに愛されるのかが分かりました。今日は、主が、ある耳が聞こえず舌の回らない人を直してくださる物語です。今日の言葉を通して私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか? 一緒に話してみたいと思います。 1.孤独‐主と私との1対1の時間。 「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」(32-33)今日の本文でイエスのところに群衆が来た時、彼らはある「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れてきて、治してほしいと願いました。ところで、主はその人をその場で治さらず、彼だけを群衆の中から連れ出されました。なぜ、イエスは群衆の中で彼を治してくださらず、その人だけを連れ出されたのでしょうか? 何人かの学者たちは「奇跡を起こすための特別な行為である。」「イエスが自分の奇跡を隠すためにその場を離れた。」「情熱的な取り巻き連中を避けるための措置である。」など、様々な仮説を提示しました。ですが、そのすべてが仮説に過ぎず、私たちには、その明確な理由が分かりません。しかし、確かなことは、この事を通して、その人は自分が属していた群衆を離れ、主イエスと1対1で向き合うようになったということです。人々は一生の間、よく孤独を経験することになると思います。時々、この世に自分一人だけが残されているような孤独の中で、人々は恐怖を感じたり、その状況から抜け出そうとしたりします。この間、インターネットで面白い文章を読んだことがあります。日本のドラマや映画でよく見られる典型的なセリフに関する文でした。それは「タダイマ、オカエリ」でした。 例えばある映画で、恋人同士が長い葛藤を乗り越え、相手を理解するようになった時、男が「タダイマ」と言えば、目頭を熱くしていた女が「オカエリ」と答え、二人が強く抱き合って映画が終わります。両者の対立が終わり、元の状況を回復したということです。このような場面は「和を大事にする日本人にとって、本来の自分の居場所(所属)を取り戻したかのような安定感を与える。」との興味深い文章でした。そういう意味から、もしかしたら私たちは、独りぼっちの孤独を自分の居場所から逸れている異常な状態だと、つい考えてしまうかも知れません。しかし、キリスト教信仰においての孤独は世の感覚とはだいぶ異なります。旧約のヤコブ、モーセ、ダビデ、エリヤ、エレミヤといった信仰の人物は、孤独の中ではじめて、神と向き合うことが出来ました。主イエスも公生涯を始める前に孤独の中で試練を経験されました。この世の感覚においての孤独とは、恐ろしくて苦しいものであるかも知れませんが、キリスト教信仰の感覚においての孤独とは、神と自分という二人の存在が真っ向勝負する場なのです。(比喩です。創世記32章の神の天使とヤコブの格闘を思い起こしましょう。)今日の本文においても耳が聞こえず舌の回らない人は群衆を離れ、主と自分の二人きりの時に、自分を一生苦しめてきた障害から自由になることが出来ました。我々は孤独をどのように理解しているでしょうか。キリスト者にとって孤独は、神と出会える絶好のチャンスです。孤独の中におられる神を見つける時、その時はじめて主は私たちのそばに、いつも共にいおられることを教えてくださいます。 2.イエスの独特な行為 「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」(33)耳が聞こえず舌の回らない人と二人きりの場所を設けられたイエスは、彼の両耳に指を差し入れ、唾をつけてその舌に触れられました。ある人々は、この行為を古代の宗教儀式に見られる呪術的行為だと思いました。しかし、以前のイエスは呪術的な行為なしに、御言葉だけで多くの病者たちを治してくださいました。そして、イエスは迷信のようなまじないをする呪術師ではありません。世界を御言葉によって創造なさった創り主であるからこそ、御言葉で病人を治される方なのです。今回の説教を準備する際に参考にした解説書の著者は、このような行為を「ヘレニズム(ギリシャ文化)的脈絡」に従って行われた行為だと言いました。これはいったいどういう意味でしょうか?事実、マルコによる福音書は、ユダヤ人より異邦人向けとして記された可能性が高い書です。マルコ福音書はローマ帝国の迫害にさらされたキリスト者たちを励ますために書き残された書であると言われています。つまり、主な読者層が異邦人である可能性が高いということです。そして今日、本文の登場人物も異邦人のように描写されています。ですから「ヘレニズム的脈絡」とは当時のギリシャ文化圏の異邦の読者たちが読んで理解できる「ギリシャ文化的背景」を意味するものだと思います。 例えば、イタリア料理の中にスパゲッティとピザがありますが。もし、イタリア人が江戸時代の日本人に、今まで見たことも、食べたこともないスパゲッティとピザを説明しようとしたら、どうすれば効率的な説明が出来るでしょうか? スパゲッティはまぜうどんのような麺料理で、ピザはお好み焼き(起源は安土桃山時代と知られている。)のような料理だと説明すれば、おおまかに理解できるようになるでしょう。このように「ヘレニズム的脈絡」とは、当時のギリシャ文化圏であるローマ帝国に住んでいた異邦人たちが理解できる方式で、ご自分の御業を説明するために、イエスが独特な行為を加えたということを意味します。神はイエスを通して、人間が理解できる方法によって、ご自分のことを教えてくださいます。昨年の大信仰問答の学びでも「神の啓示」について話しました。主イエスは天から来られた神ですが、人間と一緒におられる人間でもあります。主は必要な時に人間が理解できる方法で、人間の目線に合わせて、ご自分のことを示してくださる方です。主イエスは指を両耳に差し入れず、唾をつけて舌に触れられなくても、ただ、命じるだけで彼を治せる方でした。しかし、主は今日の本文に登場する異邦の群衆のために、わざわざ、このような行為をされたと思います。主は弱い人間の目線に合わせて、ご自分のことを見せてくださる、人間を愛する方だからです。 3.エッファタ(開け) 「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、エッファタと言われた。これは「開け」という意味である。」(34-35)「ヘレニズム的脈絡」の行為である「指を両耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れる行為」により、ご自分の御業を異邦人の群衆に見せてくださった主は、今度は深く息をついて「エッファタ(アラム語)」と言われました。ここに出てくる「深く息をつく」という表現も「ヘレニズム的脈絡」による行為の一つとして見られます。つまり、古代ギリシャ文化圏にあった「呪術的な治癒行為のための叫び」あるいは「無我の霊的興奮の状態」などと同様な脈絡だということです。異邦人たちは、その行為を見てイエスが治癒のために何かを行っていると理解したわけです。しかし、当然、主はそのような古代の呪術的な行為をする方ではありませんでした。多くの聖書学者たちは、この行為を祈りだと考えました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」(9:29)主は9章でも、祈りの重要性を語られました。私たちは今日の本文を通して、異邦人が認識できるような方式で、イエスが治癒を施されたことが分かります。異邦人の目線に合わせた主イエスのこの行為によって、耳が聞こえず舌の回らない人は癒され、群衆はイエス・キリストという存在について確実に認識することになったのです。 イエスは、私たちが理解できる方式で私たちを呼んでくださった方です。人生の数々の出来事を通して、私たちが認識できる方法で私たちを呼び出されたのです。まるで、今日の本文で独特な行為を通して人々が主を認識できるようにしてくださったように、我々の人生の中でも私たちが理解できる方法で私たちにご自分のことを示してくださったのです。旧約聖書のイザヤ書には、こういう言葉があります。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと。」(イザヤ6:9)神が預言者を通して、いくら真理を伝えようとなさっても、人々は自分の罪のゆえに真理、つまり主の御言葉が聞こえない状態です。もし、聞こえるといっても聞こうともしません。人間が持っている罪のためです。この言葉は、そういった人間の罪への糾弾なのです。しかし、神の真のメシアであるイエス・キリストが来られてからは、聞くべき者は聞けるようになり、見るべき者は見られるようになりました。イエス·キリストがおられなかった時の我々は、聞いても聞けず、見ても見られない、まるで今日の本文の耳が聞こえず舌の回らない人のような存在でした。しかし、イエス·キリストのお導きによって我々は聞くことが出来、見ることが出来るようになったのです。主イエスは、今日も神の右に座しておられ、ご自分の民のために祈りつつ、呼び守ってくださり、癒してくださる方です。そして私たちの耳を開き、聞けるように助けてくださる方なのです。主イエスは今日も私たちの間におられ「エッファタ」と命じてくださる方なのです。 締め括り 今日の本文を通して、私たちは自分自身について顧みる機会を持つべきです。我々は、いつも聖書の登場人物の立場に私たち自身を適用する必要があります。私たちは、時には主の弟子たちのような存在であり、時には今日の耳が聞こえず舌の回らない人のような存在であり、また時には主の癒しを目撃した群衆のような存在であるかもしれません。主は今日の本文の出来事を通して、弟子たちにも、耳が聞こえず舌の回らない人にも、群衆にも、神が孤独の中に一緒におられる方であり、人々の目線に合わせてくださる方であり、耳と口を開いてくださる方であることを教えてくださいました。今日も主はエッファタ、つまり「開け」と命じられるのです。今を生きる我々は、何を開いて生きるべきでしょうか? 主の御言葉の前では耳を開いて聞き取り、人々の前では口を開いて主の福音を宣べ伝えて生きるべきではないでしょうか。私たちと一緒におられる主から聞き、喜んで、その方の御言葉を宣べ伝える私たちになりたいです。そのような志免教会の上に主の恵みが豊かに与えられると信じます。この一周間も主なる神の恵みが豊かに注がれますように。

志免教会の主。

イザヤ書43章1-7節(旧1130頁)  コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章4-11節(新302頁) 前置き 本日は、2022年の総会の日です。就任してから初めての総会の司式ですので緊張していますが、主のお導きと皆さんのご協力がありますので、無事に終わると思います。総会を迎えて、今日は普段分かち合ってきた創世記、マルコによる福音書の言葉ではなく、キリスト教の教会論について話してみたいと思います。何だか「論」という字がつくと、学問的な感じがするかもしれませんが、聞きやすい内容ですので、お気軽に聞いてください。 教会とは何であり、教会に属している私たちは、どのように生きるべきなのかを考える時間になれば幸いです。 1.不完全な教会と完全なキリスト コリント教会には数多くの問題がありました。信徒の間の葛藤、教会員同士の紛争でこの世の法律を教会の中に引き入れてしまう問題、性的な堕落、無秩序、無配慮など、解決困難な問題が、繰り返して起こる教会でした。しかし、コリント書Ⅰの著者パウロは、それにもかかわらずコリント教会を「教会」と呼んでいました。教会の主、イエス·キリストは完全な方で、欠点の無い方です。けれども、コリント書Ⅰはそういった主の教会にも問題があり得ると語りました。教会はキリストの身体と呼ばれる共同体ですが、決してキリストそのものではありません。イエスそのものでなく、罪を持っている人間の集まりであるゆえに、大なり小なりの問題が生じうる集団なのです。しかし、そういう問題があっても、イエスは、この教会をご自分の体だと認めてくださり、決して見捨てられません。目に病気があるからといって、自分の目を抉り出す人がおらず、手に怪我をしたからといって手を切り取る人はいません。むしろ目と手を治すために私たちは医者に診てもらいます。イエスもそのようにご自分の教会を愛して下さり、治療することを望んでおられます。そのために、主はご自分の御言葉と聖霊を通して教会の治療者になってくださり、長く忍耐しつつ教会を導いてくださる方なのです。 当時のコリント教会の問題点の一つは、信者たちが党派を作って対立することでした。当時、コリントは旧ギリシャの都市の一つだったため、ギリシャ文化の痕跡が非常に濃厚に残っていました。町の高いところにはアフロディテ神殿があり、多くの人々が自分たちの好むギリシャの哲学思想や信仰に従って学派に加わりました。そして各々の学派は広場などに集まって一つのテーマで討論、あるいは論争をしました。ところで、コリントに住んでいたコリント教会の信者たちも、そうした姿に倣って、教会の中でも党派を作ったわけでした。ある人々はパウロ派、ある人々はキリスト派、またある人々はアポロ派に加担しました。教会と世の価値観は違うにもかかわらず、彼らは世間と同様に党派を分かれて紛争を起こしたのです。そんな時にパウロは自分の手紙を通して、教会とは何かしっかり教えてくれます。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(コⅠ3:6-7)ほかの誰でもない神だけが、コリント教会を成長させてくださる方だということです。手紙には、またこういう言葉もあります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(11)この教会の土台が、他ならぬイエス·キリスト、たったお一人だけだということです。 2.教会は主イエスのもの 教会を意味するギリシャ語はエクレシアと言います。エクレシアは「外へ」という意味の「エク」に「集める」という意味の「カレオ」を併せた言葉です。もともと古代ギリシャでは民会という名で最初に使われた表現ですが、ギリシャ文化の影響下にあった初代キリスト者共同体も、自らの集いを表すために、このエクレシアという表現を借用しました。ある意味、教会はキリストによって世間から呼び出されて(エク)作られた共同体(カレオ)でもあります。我々はこの世の中で生きていますが、イエスによって世の外へと呼び出され集められた存在です。それゆえに、私たちは各々日本出身、ニュージーランド出身、中国出身、韓国出身の者として、この世に生きていますが、世の外へ呼び集められた存在として、同じ「キリスト者」なのです。そして、我々を一つに集めてくださったイエスが、我々の共同体、教会の代表者(かしら)です。 そのため、教会はキリストの御言葉を法のように考えつつ生きなければなりません。世の中にある、様々な価値観、理念ではない神の御言葉が、私たちの生活の基準となるのです。そして、その御言葉は、神の御言葉そのものであるイエス·キリストによって我々に与えられた大事なものです。ですから、私たちは主の御言葉を最も尊重して生きていくべきです。民族主義、資本主義、自由主義など、我々の周りには数多くの主義があります。しかし、私たちはキリストの共同体であるという自覚を持って、神の御言葉に従って生きるべきです。 「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ43:1)イザヤ書43章は、罪のために滅ぼされた旧約のイスラエルを、救おうとなさった神による希望のメッセージです。神に不従順に振舞い、偶像を崇め、神の怒りを買ってしまって、悲惨にも滅ぼされたイスラエルでしたが、それでも神はご自分の民であるイスラエルを、再び導くと宣言されました。教会も旧約のイスラエルのような共同体です。教会を成す我々は罪人として生まれ、罪の中で生きる惨めな存在でしたが、それでも神は我々を選んでくださり、我々をご自分の民として呼び出してくださいました。私たち一人一人が生まれる前から、私たちの名を呼んで選んでくださり、主の所有としてくださったのです。しかし、神は我々が優秀な存在であるから、民にしてくださったわけではありません。神ご自身であるイエスの贖いと功績のゆえに、我々を呼んでくださったのです。そのため、私たちが神に愛されることは、すべてイエス・キリストのおかげです。このイエスが私たち志免教会の頭だからこそ、我々は神に愛されるようになったわけです。教会は主イエスのものです。そして教会を導いてくださり、成長させてくださる方はキリストを通して私たちを愛してくださる神ご自身なのです。 締め括り、我々に託されたもの。 本日の総会を通して、2022年の方針についてみんなで話し合い、教会に仕える者を新たに決めることになります。決意、投票、挙手は私たちがするかも知れませんが、その裏には教会の主であるキリストの御心があると思います。教会の主は牧師でも、長老でも、執事でも、教会員でもなく、ただ神がお遣わしになったキリストなのです。私たちは、それをしっかりと心に留めて、教会に仕えるべきです。しかし、私たちの主の教会ですから、私たちは自分のことのように教会を大事にすべきでしょう。教会を自分の職場や家庭のように大切にし、兄弟姉妹を自分自身、自分の家族のように大切にすべきです。我々には、主イエスだけが現れる健全な教会づくりという使命があります。今年も主イエスの教会の意義と、その教会の一員である私たちの使命を思い起こし、主の教会を愛し、仕える私たちになりますように願います。2022年度も神の祝福が志免教会の上に豊かに注がれることを祈ります。

人間の愚かさを超える神の摂理。

創世記27章1-45節(旧42頁)  コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章23-25節(新300頁) 前置き 今日の本文は、神の民アブラハムの息子のイサクとその妻リベカ、そしてイサクの二人の息子をめぐる人間の愚かさについての物語です。また、その愚かさの中で、神の摂理がどのように顕わされていくのかを描いています。キリスト教の歴史上、いくら信心深く賢い者だといっても、人間の歩みには罪と愚かさによる悲劇がありました。アブラハムが、今日のイサクが、ヤコブが、モーセ、ダビデ、イスラエルの諸王たち、イエスの弟子たち、そして歴史上の教会、また今日の我々に至るまで、人間はいつも神の知恵と人間の愚かさの間に生きる存在でした。しかし、神はいつも人間の、その愚かさに全く妨げられることなく、完璧にご自分の御業を成し遂げて行かれました。神の摂理という言葉自体が、そういう意味ではないでしょうか。摂理を解き明かすと「引き寄せて治める」という意味になります。つまり、主は何かに引っ張られる方ではなく、引き寄せてご自分の御手のもとで治められる方なのです。この言葉から、神はどんなことにおいても、神のご意志どおりに導いていかれる方であることが分かります。今日はそのような神がご自分の摂理を通して、人間をどのように導いていかれるのかを考えてみたいと思います。 1.霊的に暗くなったイサク 「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。」(1)年を取ったイサクは目がかすんでよく見えない状態でした。旧約聖書で「目がかすんだ。」という表現は「霊的に暗くなっていること」を示す場合が多いです。「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」(申命記34:7)申命記では死ぬ直前までモーセの目がかすんでいなかったことを通して、モーセの健在ぶりを示しています。古代中東において「目」とは、人間の気力、賢さ、霊的、肉的な状態を表す媒体でした。例えば、創世記29章にヤコブの1人目の妻レアについての描写がありますが、「レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。 」(29:17)と記してあります。ここで「目が優しい」という表現は、「目つきが穏やかだ。」という意味ではなく「目が悪い」つまり、レアがラケルより綺麗ではなかったことを説明する表現です。時々、テレビで古代エジプト関係のドキュメンタリーを放送したりしますが、皆さんもそのような番組をご覧になったことがあるでしょう。その時、エジプトの壁画を見ると、王族の目が非常に濃く描いてあることが分かります。なぜかというと、当時の王族が賢明で強力な者だったということを、壁画の濃い目つきを通して表現しようとしていたからです。したがって、旧約聖書で登場人物の目あるいは視力についての表現がある時は、その人の霊的な状態を説明すると理解しても問題ないと思います。 そういうわけで、イサクの霊的な状態は暗くなっていたのです。つまり、霊的な判断力もくもっていたという意味でしょう。エサウとヤコブが生まれた時、神は明らかに「兄が弟に仕えるようになる。」(25:23)とリベカに言われました。おそらくイサクはリベカからその話しを聞かせてもらっていたでしょう。もし、聞かなかったとしても、イサクに神との霊的な交わりがあったら、神の御心に気付き、息子たちの将来を予測していたでしょう。なのに、イサクは霊的な目がかすんでしまい、神の御心が読めず、自分の思い通りに、つまり弟ではなく兄を祝福しようとしていたのでした。霊的に鈍っていたイサクは、人間の罪の本性によって神の御心ではなく、自分の思いのままに振舞っていたのです。「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。上の息子のエサウを呼び寄せて、息子よと言った。エサウが、はいと答えると、イサクは言った。こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」(1-4)もともと、望ましい祝福の仕方は神の御心によって授けるものです。人間の意志ではなく、神のご意志に従って祝福をするべきなのです。しかし、霊的な目がかすんでいたイサクは神のご意思ではなく、自分の思いどおりに祝福を与えようとしていました。 2.イサクの家庭を覆っていた霊的な愚かさ 家長イサクの霊的な暗さは、彼の家族全体に悪影響を及ぼしていました。イサクとエサウの話しを盗み聞きしたイサクの妻リベカは、長男より、次男のヤコブをもっと愛していました。そのため、リベカは夫の思いに頷かず、ヤコブが長子の祝福を受けるように計略を立てました。彼女は家で育てた子山羊を取って料理を作り、エサウの晴れ着と子山羊の毛皮を用いてヤコブをエサウのように変装させました。そして大胆にヤコブをイサクに送って、兄エサウの代わりに長子の祝福を受けるようにしました。古代中東社会において、族長の権威とその祝福は、現代には想像も出来ないほどの大きな効力を持っていました。法的な整備が行き届いていない古代の遊牧民族社会において、族長の一言一言が法律に値する重みを持ち、長子の祝福はその中でも絶対的な力を持っていました。ですので、もしヤコブが無事に祝福を受けられれば幸いですが、騙したことがばれてしまったら、それに相当する大きな呪いを受けるに違いなかったのです。「お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」(12)このようなリベカの行動から、私たちはイサクの家庭に何か問題があったことが分かります。イサクは神の御言葉に気付けない霊的に暗い状況で、リベカは夫が信頼できず、ともすれば騙すことも出来るという有様でした。 「…兄エサウが狩りから帰って来た。彼もおいしい料理を作り…わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。…イサクは激しく体を震わせて言った。では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。…エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。イサクは言った。お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。…エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。…必ず弟のヤコブを殺してやる。」(30-41)以後、狩りから帰ってきたエサウは、弟に長子の祝福を奪われたことを知り、彼を殺そうとしました。ですがエサウは、すでに25章でパンとレンズ豆の煮物で長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。今日の出来事は既に予見されていることでした。一方ヤコブはあえて長子の権利を欲しがり、自分のものでないにもかかわらず奪おうとしました。いくら神が「兄が弟に仕える」と言われたといっても、自分の貪欲のために兄が受けるべき権利を奪おうとしたことは紛れもない罪なのです。イサクの霊的な暗さとリベカの偏愛と長子の祝福を軽んじたエサウの不注意と生まれつきのヤコブの貪欲は、イサクの家庭に拭えない傷と痛みを残してしまいました。そして彼らの愚かさは、結局ヤコブがイサクの家を離れなければならない、別れの種になってしまいました。このように神の民と呼ばれたイサクの家庭にも、人間の罪と愚かさによる惨めな出来事があったのでした。 3.人間の愚かさを超える神の摂理 今日の本文は創世記27章全体とも言えます。そして、そのすべてを詳しく説教しようとすれば、少なくとも3時間はかかると思います。ですので、今日の説教では27章の大まかな内容を探り、これが聖書全体において、どういう意味を持つのかを考えてみることが望ましいと思います。私は個人的にイサクの信仰が父アブラハムの信仰にまさるものではないと思います。アブラハムの信仰の物語が、その数々の浮き沈みにもかかわらず、望ましく成熟していくことを示しているのであれば、イサクの信仰は目に付く前進を示しておらず、むしろ晩年になっては、がっかりせざるを得ない姿だけを見せていると思うからです。それにもかかわらず、神は聖書の様々な箇所を通して、進んで「私はアブラハムとイサクとヤコブの神」とご自分について紹介してくださいます。イサクが立派な信仰者であれ、がっかりすべき不信心の者であれ、それらが大事なことではなく、神が彼のあらゆる状態を超越して、彼の主になってくださったこと、それこそが大事なことだからです。これにより偉大な神の本質を知ることが出来ます。それは神は何があってもご自分の計画を成し遂げる方であることです。今日の出来事以降、ヤコブはパダン・アラムにある母リベカの実家に赴くことになります。イサクをはじめ、家族の罪と愚かさによって、家庭に破綻が生じ、イサク夫婦の信頼が崩れ、兄が弟に殺害意志を感じたといっても, そのすべての悲劇の中で神はいっぺんの戸惑いもなく着々とご自分の御業を成し遂げていかれたのです。 確かに今日の出来事は、イサクの家庭から見れば、悲劇だったでしょう。しかし、見方を変えて、神のご計画から見れば、ヤコブに長子の特権と祝福が譲られる一番安全な道ではなかったでしょうか?仮にイサクが霊的に明るくて神の御心に気付き、ヤコブに長子の祝福を与えようとしたとしても当時の社会の仕来りが、それを素直に認めたでしょうか。もし、そういった社会の仕来りを乗り越えてヤコブに祝福しようとしたとしても、エサウが長子の祝福による権威と財産を簡単に諦めたでしょうか。もし、リベカが何の不満も持たず、すべてにおいてイサクに従順に従っていたら「兄が弟に仕える。」という物語の始まりは成り立ったでしょうか? もし、ヤコブに何の野望もなかったなら、ヤコブはパダン・アラムに行って自分の妻たちに出会い、12人の族長たちを産むことが出来たでしょうか? イサクの家庭の問題は、27章当時には紛れもない悲劇でしたが、聖書全体から見るとイスラエルという民族が生まれ、またイエスという救い主が降臨するための必然的な出来事でした。今日の本文は、人間の立場では事がうまくいかなくても、神の立場では絶好の機会になり得るという大事な教訓を教えています。「人の間違いによって, 神の計画が台無しになってしまう。」ではなく、「人がいくら大きな間違いを犯してしまっても, 神の計画には何の衝撃もない。」ということが、確実に分かる本文だからです。 締め括り コリントの信徒への手紙Ⅰにはこういう言葉があります。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントⅠ1:25)コリント教会内で党派を作って分裂を起こす者たちに、「神の教会は党派の教えや勢力ではなく、ひとえにキリストへの信仰によってのみ健全に立つ。」というパウロの教えです。いくら優れた人が教会にいるといっても、教会を正しく立てることは、その人ではなく神の力によってのみ出来る事柄です。神には一抹の愚かさもありませんが、もしあるとしても人間の賢さより、神の愚かさがはるかに教会を正しく導けるからです。私たちの人生も同じです。私たちの人生に数多くの出来事があっても、それらが人間の人生を作っていくわけではありません。それらが人間の人生に、ある程度の影響を及ぼすかもしれませんが、そのすべてを用いて人間の人生を導いてくださる方は、神のみです。今、我々が直面しているすべての事柄は、今、我々にとって、とても大きな障害かも知れません。しかし、それらが我々の人生を導いていかれる神のご計画を妨げ、歪めることは出来ません。むしろ神は私たちの成功と失敗、そのすべてを用いられて、神の御心通りに寸分の狂いもなく私たちを導いてくださるでしょう。ですから、我々は一喜一憂する必要がありません。ただ、神を信じるべきです。 何も心配せず、祈って、主のご計画に謙虚に従っていきるべきです。そういう信仰の中で、神は主の民を正しい道に導いてくださるからです。

謙遜と信仰

詩編22編23-29節(旧853頁)  マルコによる福音書7章24-30節(新75頁) 今日はマルコによる福音書7章24-30節の言葉を通して、主が我々に求められる謙遜と信仰について考えてみたいと思います。その前にマルコによる福音書5章の内容について手短に触れてみましょう。5章でイエスはガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ地方に行かれました。ゲラサとはデカポリスに属する地域で、ローマ帝国が立ち上がる前に、ギリシャ帝国によって立てられた10の都市国家の一つであり、ユダヤ人には異邦の地と呼ばれるところでした。イエスは、そこで「レギオン(軍隊)」という名の悪霊に取り付かれた人に出会われました。主はその人を癒してくださった後、彼を遣わされつつ、ゲラサ地域で神の福音を宣べ伝えよとされました。この出来事から得られる重要な教訓は、イエスはユダヤ人と異邦人を差別なさらず、世のすべての民族が救われることを望んでおられるということでした。さて、今日の物語も、このような異邦人への宣教と係わる内容です。本文でイエスは、もう一度異邦の地域(ティルス)を訪れられます。そして、偶然シリア・フェニキアの女に出会い、彼女の信仰を試みられることになります。主は彼女の信仰をご覧になり、ユダヤ人ではなく異邦人であるにもかかわらず、その願いを成し遂げてくださいます。今日はイエスとシリア・フェニキアの女をめぐる物語を通して、望ましい信仰の姿勢である謙遜について考えてみたいと思います。 1.シリアのフェニキア人。 今日、主に出会った女はフェニキア出身のギリシャ人でした。シリア・フェニキア人は、シリア地域のフェニキア民族の人という意味で、イスラエルの北の海岸にある、とても古い民族でした。一説によるとフェニキア文明は紀元前40世紀前も存在していたと言われます。フェニキアはアルファベットで有名ですが、大昔からフェニキア人は地中海全域を掌握し、貿易を通して令名をはせてきました。そのため、早くから文字、数学、航海術が発達したと言われます。フェニキア文字の影響で西のギリシャ語も発展し、またそのギリシャ語によってラテン語、ヨーロッパの諸言語、英語も発展していきました。東南部のヘブライ語やアラビア語もフェニキア文字の影響下にあります。つまり、シリア・フェニキア文明は、地中海地域の文化全体に大きな影響を及ぼした中東・西洋文化の起源の一つといっても過言ではないほどです。またフェニキアは軍事的にも強い民族でした。紀元前3世紀から2世紀頃、ローマが本格的に大帝国になる前、ローマの海の向こうにはカルタゴといった海洋民族がありました。彼らは地中海の支配権をめぐってローマと雌雄を争いました。西洋史で有名なポエニ戦争が、このカルタゴとローマの戦争です。ここでカルタゴはフェニキア民族に由来した国です。このようにフェニキアは、文化的、経済的、軍事的に非常に由緒ある民族だったのです。 というのは、フェニキア人には文化的、経済的にユダヤ人より優れたという自負があったということでしょう。たとえば、中国には、日本や韓国、ベトナム、あらゆるアジア諸国より歴史的、文化的にすぐれたという中華思想があるようです。中国がアジアの中心だということでしょう。もちろん他国からは認められないようですが、彼らは今でも、そういう文化的な優越感を持っています。このように、シリア・フェニキア人はユダヤ人を自分たちより劣等な民族だと見なしていた可能性が高かったと思われます。これが当時のシリア・フェニキア人、つまり本文で、主が訪れたティルスの人々の認識だったということです。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(24)そういった歴史と文化に自負を持っているフェニキア人でしたが、その中にも貧しくて弱い人々が存在し、藁にも縋る思いでイエスのところに来る人たちがいました。彼らはどんな病気でも治し、どんな悪霊でも追い出し、5000人でも腹一杯食べさせる「奇跡の男」イエスに会うために押し寄せて来ました。今日、登場するシリア・フェニキアの女も、そういう人たちの一人でした。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(25) 2.イエスの試み。 しかし、イエスを訪ねてきたからといって、イエスの近場にいるからといって、皆がイエスに対して真の信仰を持っているとは言えませんでした。ある者たちは本当の信仰で、ある者たちは好奇心で、またある者たちは別の欲望で、各々の意図をもってやって来ました。代表的な人物が12弟子の1人であったイスカリオテのユダでした。彼はイエスを政治的なメシアだと思って従ったのですが、自分の思い通りにうまくいかず、結局、裏切ってしまいました。ここで一つ考えてみたいことがあります。私たちは、なぜイエスを信じているのでしょうか? 去年もいくつかの説教で、同様な質問をした記憶があります。私たちは、なぜキリスト者と名乗り、教会に通っているのでしょうか? 主に対する本当の愛のためか、それとも他の理由があるためか、我々の信仰について自らを顧みる必要があると思います。「わたしに向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)我々はこの言葉に耳を傾けなければなりません。多くの群衆の中でイエスを訪れた女は、果たしてどんな気持ちでイエスを訪れたのでしょうか? 「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」(26) シリア・フェニキアの女の娘は、悪霊に取り付かれていました。新約聖書で「悪霊に取り付かれた。」という言葉は、実際に悪霊に取り付かれて狂ってしまったという意味でもありますが、「神に逆らう、汚れた世の邪悪な支配のもとで苦しんでいる。」という意味にも解釈できます。おそらく、この女性は占い師、医師、宗教家など、多くの人々に頼んだはずです。しかし、誰ひとり、この世の支配から娘を自由にすることが出来ませんでした。結局、彼らもこの世の支配に属していたからです。ひとえにこの世の支配の外で、その支配を退けられるイエスだけが、その苦しみから娘を自由にすることが出来るものです。ユダヤ人も、ギリシャ人も、如何なる存在もイエスによってのみ世の邪悪な支配から自由になることが出来ます。ところで、女がイエスに声をかけた時、イエスのお答えは、私たちの予想とは全然違うものでした。「イエスは言われた。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)イエスが女性を小犬に比喩されたからです。当時ユダヤ人は自分たちは神の子どもであり、異邦人たちは「犬」と呼んでいました。滅ぼされるべき無益な存在だという意味で、非常に侮辱的な悪口だったのです。つまり、イエスがこの異邦の女を侮辱したも同然の状況でした。 先ほど、私はフェニキア民族の由来について説明しました。彼らは長い歴史、由緒ある伝統、優越な文化を持っていました。フェニキアはローマ帝国の植民地の一つでしたが、そのローマの文化がフェニキアから大きく影響を受けたことは否定できない事実でした。また、女はギリシャ人、つまり文化人でした。当時のギリシャ人とは野蛮人でない人という意味であったため、女の民族的、文化的なプライドは高かったはずです。しかし、主は彼女を「犬のような人間」と扱われました。数多くの人々がイエスを訪れましたが、その中に真の信仰を持っている人は何人だったでしょうか。イエスの弟子たちさえも、不信心に陥る時もあるほどでした。つまり、イエスはこの女の信仰を試みられたのです。本当に信仰を持ってきたのか、それとも他の人たちと同じように好奇心や欲望だけのために訪れたのかを計り知るためでしょう。しかし、彼女は驚くべき水準の信仰で、イエスにお答えしました。「女は答えて言った。主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28) つまり、言い換えれば、こういう意味でしょう。「もし、あなたが私を犬と呼ばれるなら、私は犬のように扱われても良いです。しかし、犬のような私でも、ひとえにあなただけが私を助けてくださる方であることを信じています。」彼女はまるでこのような返事をするかのように、主に反応したわけです。 3.謙遜と信仰 「そこで、イエスは言われた。それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(29-30)もちろん、イエスは心から彼女を犬だとは思っておられなかったでしょう。主はすべての存在の主であり, その愛は人種を選り分けません。主は彼女の信仰を試そうとされたことでしょう。そして彼女は見事にその試みを乗り越えました。民族、文化、歴史的な優越感ではなく、イエスという存在と自分という一人の人間の間にある、あらゆる妨げを乗り越えて、主との関係にのみ集中する、その立派な信心を、シリア・フェニキアの女は証明したのです。そして、その証明の根源は彼女の謙遜にありました。「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩編22:27)今日の旧約本文の27節には「貧しい者」という表現が出てきます。この「貧しい」の原文は「アナブ」というヘブライ語で、解釈次第で「謙遜である」という意味にもなり得ます。つまり、27節は「謙遜な心を持って主を追い求める者は豊かに恵まれるという意味でしょう。」優れた文化と伝統のフェニキア人、しかもギリシャ人と呼ばれていたシリア・フェニキアの女。彼女はみすぼらしい人間の姿でおいでになった、真の神を謙遜な心によって見つけたのでした。主は謙遜を通してご自分の姿を表されます。今日の本文は、その点を非常に重要に語っています。 締め括り 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)今日、本文の原文に照らすと、あの有名な山上の垂訓のこの言葉も再解釈できると思います。つまり、「謙遜な者は幸いである、御国は彼らのものである。」とのことでしょう。我々の信仰の基礎は謙遜にあります。「自分ではなく、主のお手柄によってのみ救われる。私ではなく、神の力によってのみ祝福を受ける。」という我々の信仰自体が、謙遜に基づくものでしょう。このようにキリスト者の信仰において謙遜とは、美徳ではなく、必要不可欠な本質です。志免教会に赴任した時は、本当に心配でした。「志免教会の皆さんが、韓国からの牧師をどのように思われるだろうか?」ということでした。志免教会の何人かの方がお生まれになった時は、まだ、韓国は日本の植民地状態でしたので、私の心の中に言い知れぬ負担があったのです。しかし、志免の兄弟姉妹たちは謙遜に韓国の牧師を受け入れてくださり、今では日本人でも韓国人でもない、ただ、主イエスとキリスト者の群れがいるだけです。きっとキムという人間ではなく、神の御心にへりくだって聞き従ったからでしょう。私は志免教会の、その謙遜を主が喜んでおられると信じます。また、その謙遜を貫いて生きる時、主はますます私たちを祝福してくださるでしょう。謙遜に生きていきましょう。 その謙遜の中で、主は我々一人一人と交わってくださり、導いてくださるでしょう。