イスラエルと呼ばれる。 

創世記32章23-33節(旧56頁) コリントの信徒への手紙二4章14-18節(新329頁) 前置き 前回の説教で、神はパダン・アラムを離れて故郷に帰るヤコブに御使いたちを遣わしてくださいました。 ヤコブは彼らを見つけ、マハナイム(二組の陣営)と名付けました。神は、なぜ二組の陣営の御使いたちを通してヤコブのところに来られたでしょうか。それはヤコブの所有、つまり二組の陣営(創32:11)を守ってくださるための、神の繊細な配慮と愛のためでした。しかし、ヤコブはマハナイムを見ても別に反応をしませんでした。神は彼の家路を守ってくださるためにマハナイムを送ってくださったのですが、ヤコブはただ他人事のように通り過ぎるだけでした。帰郷するヤコブを苦しめたのは兄の仕返しへの恐怖でした。ヤコブは昔、自分の行いによって兄の怒りを買ったことがあり、それが恐ろしかったわけです。マハナイムの神が自分と共におられるにもかかわらず、ヤコブは神への信頼よりは、自分の恐怖に執着するだけだったのです。そんな状況の中でも、ヤコブは神ではなく、自分の不完全な対策だけを頼りにしていました。結局、彼は一番最後になってようやく神の御助けを探し求めたのです。神はいつもご自分の民と一緒におられる方です。しかし、多くの人々は、このヤコブのように、神よりは自分の考えに捕らわれがちだと思います。前回の説教ではこのようなヤコブの姿を通じて、私たちの信仰について顧みました。 1.ヤコブ的な人生の結果-恐怖。 ところで、ヤコブはなぜ兄を恐れるようになったのでしょうか。それは、過去にヤコブが犯した不義があるからです。ヤコブはヘブライ語の「アカブ」に由来する名前です。アカブは基本的に「かかとをつかむ」という意味の動詞ですが、状況によっては「だます、ごまかす、あざむく」という意味を持つ場合もあります。ヤコブは生まれた時、兄のかかとをつかんでいました。生まれつき、嫉妬が強く、競争的で自分の必要のためなら、どんなことでも企める性格の人だったということです。彼の野望は結局、兄に与えられるべき、長子の権利を欺き、奪い取ることにまでつながりました。最終的にヤコブは長子の権利を不当に騙し取ることに成功しますが、むしろ、それによって故郷から逃走するかのように離れ、ラバンによって奴隷同然にこき使われるようになり、今日の本文では兄の仕返しを恐れ、苦しみと憂いの中で日々を過ごすことになってしまいました。罪は人の平安を奪います。罪を犯した当時は(まるで、ヤコブが長子の権利を奪い取ったように) 良い結果につながるかのように見えるかもしれませんが、必ず、その罪によって、以後さらに大きな苦しみがもたらされます。もし、この世で苦しい報いを受けなかったとしても、正義の神によって死後必ずその罪が裁かれるでしょう。自分に与えられた神の祝福と導き以外のものをむさぼる時、人は罪を犯すようになり、その結果は惨めさ、憂いと思い煩い、結局は霊的な死に至ることになります。 新約聖書のヤコブの手紙は、こう語っています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15) ヤコブの野望は欲望から生まれたものです。彼は幼い頃、聞いたアブラハムとイサクへの神の祝福を欲しがっていたかもしれません。双子に生まれたのに何分違いで弟になったのが悔しかったかもしれません。だからといって、自分の野望どおりに父と兄を欺き、不当に長子の祝福と権利を横取りすることは明らかに罪でした。罪は罪です。いかなる美辞麗句を散りばめても、罪は罪として、その報いを受けることは決まっています。今日のヤコブの恐怖は、まさにその罪への報いに基づきます。神は彼を長子としてくださり、アブラハムとヤコブの祝福を受け継がせてくださる方ですが、彼の罪についてうやむやに終わらせる方ではありません。ヤコブは自分の罪への報いを受けているのです。世の中には自分の欲望のために、他人を欺き、奪い取る場合が本当に多いです。「自分、自分の家族、自分の共同体、自分の国」のために他人や他団体、他国を苦しめるということです。しかし、それは明らかに罪なのです。「自分」が中心となる人生は、差し当たり、幸せであるかもしれませんが、その結果は辛いでしょう。それがまさにヤコブ的な人生なのです。これは、人間なら誰もが持っている欲望に由来するものです。果たして、私たちはヤコブ的な人生から自由だと断言できるでしょうか。「自分」ではなく「みんな」、「自分だけ」ではなく「他人も」の人生を生きたいものです。 2。神とヤコブ、二人きりの格闘。 そうした思い煩いの中で、ヤコブは兄の怒りを鎮めるために人間にできる数多くの対策を講じます。「その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった。」(14-16)(現代で言えば莫大な財物)ヤコブはエサウに数多くの家畜を贈り物として送り「また、先頭を行く者には次のように命じた。兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、こう言いなさい。『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」(18-19)また先頭の僕に、自分を極めて低くしてエサウに言い伝えるよう命令しました。しかし、それにもかかわらず、ヤコブの思い煩いは消えませんでした。結局、神が介入してくださらなければ、何も解決できない状態になってしまったのです。人間にできるすべての努力を尽くしたにも関わらず、ヤコブの悩みは全く解けませんでした。結局、彼は家族と財産のすべてをヤボクの渡しから向こう側に送り、独り後に残って夜を過ごすことになりました。その時、何者かが来て、ヤコブと夜明けまで格闘しました。彼が誰なのか聖書は明らかにしていませんが、文脈上、神の御使い、あるいは神ご自身であるでしょう。 聖書には格闘と書いてありますが、原語的には「レスリング」に近い、互いに取り組んで力比べをするイメージの闘いです。ある学者たちは、この状況を神の御導きと御守りを願い求めるための壮絶な祈りとして理解しました。自分としてはこれ以上何もできないほど無力になった時、自分のすべてをかけて神と談判をするということです。彼は生き残るために神の御使いに絶対に負けないよう最後まで持ちこたえつつ、去らせませんでした。時々、神はご自分の民を人生の新しい段階に導かれる時、暗闇と孤独の中に一人きりにさせられる場合もあります。そして、その一人きりの民のところに来られ、神と民の1対1の状況を作り、民を祈りの場に導かれます。徹底した無力さと、すべてが失敗したという絶望感を覚えさせ、神以外にはいかなるものにも頼れない悲惨な状況まで追い込まれ、神だけを求め祈るようになさるのです。このような神はひどい方なのでしょうか。いいえ、そうしなければ、人間はけっして神に帰ってきません。苦難があるからこそ、主を探し求めはじめるのです。皮肉かもしれませんが、それは神の祝福のもう一つの姿なのです。今までのような罪深い神なき人生を諦めさせ、神との歩みに招かれることだからです。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10) 3。ヤコブがイスラエルと呼ばれる。 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」(26)ヤコブと格闘していた神の御使いは、ヤコブの切実さによって自分が勝てないことを見て、ヤコブの腿の関節を打ちました。ここで、腿とは「ヤレク」というヘブライ語で、状況によっては「男性の生殖器」あるいは「最も重要なもの」を意味する場合もあります。神の御使いがヤコブとの格闘の時、つまり壮絶な祈りの時、ヤコブの最も重要なものを打ったということです。いかに皮肉なことなのでしょうか。神の御助けを切に願い求める者の最も重要なものを、神が打たれるということです。しかし、ここに逆説的な神秘があります。「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、ヤコブですと答えると、その人は言った。お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(28-29)神の御使いを離さなかったヤコブ、神に祝福を強く求める(27)ヤコブに、神は彼がもうこれ以上、神から離れられないように、彼の最も重要なものを打たれたのです。そして最も重要なものが無力になったヤコブ、神の他に拠り所がなくなったヤコブに「お前は神と人と闘って勝ったからだ。と言われたのです。(イスラエルの語源は、ヘブライ語「サラ」競う、優れる、権力を握る。すなわち、「神と競う、あるいは神が治める。」という意味。) 今まで、ヤコブは自分が自分の主のようになって生きてきました。自分が願うものを手に入れるために生きてきたのです。ヤコブの人生は、まるで、力比べのような人生でした。彼はいつも人生という力比べに勝利するために生きてきたのです。長子の権利のための力比べ、ラケルを得るための力比べ、ラバンから抜け出すための力比べ、自分の利益のために力比べのような人生を生きてきたのです。しかし、その終わりに、何があったでしょうか。それは兄への恐怖だけでした。 もし、兄との関係がうまく解決されても、彼はきっとまた別の心配で生きていったはずです。しかし、神の御使いと闘った彼は、自分が一番重要にしていたものを打たれる神を見つけました。自分の最も重要なものをあきらめて、神だけを頼りにして生きる時に、真の平和があることに気づき始めたのです。自分が中心となるヤコブ的な人生は、常に不安が支配します。しかし、自分の中心を神にささげる時、ヤコブの人生には真の平和が訪れました。ヤコブとして生きてきた彼がイスラエルに生まれ変わったのです。「ヤコブは、わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きていると言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(31)ヤコブは、この格闘の出来事を神との対面として理解しました。聖書によると神の御顔を見ると人は死にます。しかし、ヤコブは生き残ったと思ったのです。神と対面して生き残った彼にとって、もうこれ以上兄の仕返しは、大したことではないでしょう。「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。」(32)彼が神と対面した時、彼の人生に本当に明るい太陽が昇ったということです。 締め括り 聖書が語る勝利は、「万事が自分の思い通りになる」という意味ではないでしょう。むしろ、「主の御心にあって生きる人生」に近いのです。神の御心通りに、我らの主イエスは十字架で息を引き取られました。この世の基準でイエスは敗北者だったかもしれません。しかし、神はイエスの死を通して罪を裁き、再び復活させられることで、その死を勝利にしてくださいました。ヤコブは御使いとの格闘で腿の関節がはずれましたが、主と対面して真の平和を得、これ以上自分勝手に生きることができない存在になりましたが、それよりも大事な主の祝福をいただきました。神と一緒に歩む者の人生は一見自分の思いのままに生きられないと見えるかもしれませんが、いっそう深い恵みの人生に変わっていくでしょう。 新約聖書の言葉が思い出されます。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16) 神の御導きに従って生きる時に、私たちは外的には、自分中心の人生から遠ざかるかもしれません。しかし、私たちの内面は主によってますます新たにされていくでしょう。この逆説的な聖書の真理が、私たちを真の勝利と栄光へと導くでしょう。神の御導きによって、私たちが重要だと思っていた物事をあきらめる時に、私たちは本当に勝利する人生を経験することになるでしょう。主がヤコブにくださった逆説の勝利を憶え、キリスト者の人生について悩み、顧みる一週間になることを願います。

いちばん偉い者はだれか?

詩編147編6節(旧987頁) マルコによる福音書9章30-37節(新79頁) 前置き 前回の説教では、高い山から地上に降りてこられたイエスと3人の弟子たちの物語と、町に残っていた弟子たちが悪霊に取り付かれた子から悪霊を追い出せず、ユダヤ教の律法学者たちと議論ばかりしている物語について話しました。それらを通して私たちは、キリスト者がいるべき所、キリスト者の信仰と祈りについて聞きました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネといった3人の弟子たちを連れて山に登られたイエスは真っ白に輝く姿に変容されました。そして、旧約の偉大な人物であるモーセ、エリヤとお話になりました。また、雲から神の声が聞こえ、弟子たちは畏れと共に素晴らしさを感じました。しかし、イエスは再び弟子たちを連れて素晴らしい山の上ではなく、悲しみと苦しみに満ちた山の下に降りてこられたのです。これを通じて私たちは、キリスト者は世の中とかけ離れた、素晴らしい宗教を追求する存在ではなく、山の下の世界、すなわち低いところに仕えて生きる存在になるべきであることを学びました。そして、信仰がなくて悪霊を追い出すことができず、議論ばかりしている残りの弟子たちの物語を通じて、主による信仰の実践が、悪に満ちたこの世を変える動力であることをも学びました。最後に私たちは、この世を変える本当の祈りとは、そのような信仰によって神のお導きに反応することであることをも学びました。 1.ご自分のことを隠されるキリスト。 「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活すると言っておられたからである。」(マルコ9:30-31) マルコによる福音書を読みつつ到底理解できない場面があります。それは主がご自分のことを隠される場面です。マルコによる福音書には、何箇所も主が自らを隠される場面が登場します。「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」(マルコ3:12) 主は、ご自分のことを言いふらそうとする汚れた霊どもに、主を表さないよう警告されました。「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」(マルコ5:43) 主は会堂長のヤイロの娘を生き返らせた後、それを隠されました。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。」(マルコ7:36) 耳が聞こえず舌の回らない人を癒してくださってからも、そのように命じられました。また「ペトロが答えた。あなたは、メシアです。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マルコ8:29-30) 主をメシアだと告白したペトロにも話さないように命じられました。そして、今日の本文でも、主はご自分の死と復活を隠すように命じられたのです。 主は、なぜご自分のことを隠すように命じられたでしょうか。これについては、学者たちの様々な主張や仮設がありますが、それでも、なぜ主がご自分のことを隠されたのかについては、明確な正解がありません。ただ、これかも知れないという学者たちの仮説があるだけです。しかし、明らかなことは、主がご自分のことを弟子たちには隠さず、むしろ明確に教えてくださったということです。主はこのように言われました。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:23) 主イエスの福音は、世の中の全ての人が聞けるものではありません。響き渡る音としての声ではなく、その福音に隠されている御言葉を信仰によって受け入れる者だけが分かり、信じることが出来る霊的な秘密なのです。人々に主の福音を聞かせようとしても、皆がそれに気づくわけではありません。耳に聞こえてきても、福音はまるで秘密のようにその真理を簡単には与えません。主は十字架での死と復活以来、これ以上隠さず弟子たちと聖書を通して、ご自分について明白に教えてくださいました。それにもかかわらず、世のすべての人がイエスの福音に気づくことはできませんでした。今日、私たちが主の御言葉を聞いて悟ることができるというのは、誰にでも与えられるありふれた恵みではありません。しかし、十字架での死と復活前には秘密だったこのキリストの福音が、今では私たちに秘密ではなく良いお知らせとして常に教えられています。この主の福音を聞いて悟ることが出来る私たちになることを心から祈ります。 2.弟子たちの「いちばん偉い者」についての論争 主は8章でペトロが主への信仰を告白した後、高い山から降りてくる時、そして今日の本文で何度も、ご自身が「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」と言われました。しかし、弟子たちは「その言葉が分からなかったが、怖くて尋ね」ることが出来ませんでした。イエスを信じる者には、誰にでも理由があるでしょう。人が理由もなく、何かをするということは普段ないからです。おそらく、弟子たちにもイエスを先生として招き学ぼうとする理由があったはずです。しかし、その一番大きな理由は、やはり主がメシアだと思ったからでしょう。当時「メシア」という言葉には極めて政治的な意味がありました。例えば、日本は歴史的に他国に征服されて植民地になったことはありません。もちろん、太平洋戦争でアメリカに負けたことはありますが、アメリカは早く日本を同盟国としましたので、植民地や敗戦国としての屈辱が他国に比べては少なかったと思います。しかし、36年間、日本に支配された韓国は、はなはだしい民族的なプライドの傷を経験しました。そういうわけで、反日の底にはプライドの傷があるということでしょう。(これは自民党の石破茂氏の見解です。当事者として一理あると思います。)このようなプライドの傷は、イエスの時代のユダヤ人にもあったようです。そのため、この世を裁き、変えてくれる「メシア」の存在は、イスラエルを独立国に導く軍事的、政治的な救い主として受け入れられる傾向がありました。 弟子たちは、おそらくそういう存在としての「メシア」イエスに集まったかもしれません。ところが、そうであるべき「メシア」イエスが自ら死ぬと断言しておられるのです。そして、3日後によみがえると、到底分からないことを話していおられます。そういうわけで弟子たちはイエスのその言葉が怖く、あえて避けようとしていたでしょう。主の復活以後、聖霊のお導きで福音を聞く耳が開かれた後になってから、ようやく弟子たちは主がどのような「メシア」として、この地上に来られたのかを悟ったでしょう。とにかく、今日の本文当時の弟子たちはイエスを政治的、軍事的なメシアとして理解していたことが明らかです。そのため、誰がイエスの右腕になってイスラエルの指導者になるだろうか、あるいはもう少し進んでイエスが亡くなったら、誰が主の後継ぎとしてイスラエルを統治するだろうかと、互いに論争したのかもしれません。「偉い者」本当に耳に良い言葉です。子供たちが素晴らしい学校に進学し、医療職、法律家、政治家になって世の中で尊敬される立派な人になったら、いかに誇らしいでしょうか。私たちも、たぶんそのような考えから自由ではないでしょう。しかし、自ら死ぬと断言する不思議な「メシア」イエスは、弟子たちの考えとは全く違う教えをくださいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35) 3。世の価値観の反対側に行く福音 主は「いちばん偉い者は、すべての人の後で、他人に仕える者」とおっしゃったのです。イエスの御言葉は本当にあり得ない不思議な論理でした。当時の偉い者といえば、他人の上に君臨し、支配し、一番先に立つ者であることが当然でした。弱肉強食の法則は現代とあまり違いがなかったのです。しかし、人権という概念がない時代でしたので、さらに過激だったのです。「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(36-37)また、主は幼い子供一人を抱き上げられ、この子供のような弱い者を受け入れるのが、まさにイエスを受け入れることと同じようなことだとおっしゃいました。当時、幼い子供は人間以下の存在とされていました。現代では、子どもの人権が大事な時代になりましたが、当時は大人に比べて病気ですぐ死んだりすることが多く、大人になる前は認められない社会的な弱者だったのです。しかし、主はそのような最も低い存在である子供を取り上げ、このような何でもない者に仕えることこそが、御国では最も偉い者の在り方であることを教えてくださったのです。 主のお教えはこのように、この世とは全く異なる価値観に基づきます。これは単なる謙遜の美徳を身につけろという倫理道徳的な意味とは違います。メシアとしてこられたイエスは自ら死ぬと予告されました。当時、イスラエルが考えた「メシア」という概念はイスラエルを勝利へと導く者のことでした。そして、「キリスト」という概念はローマ皇帝だけに捧げる最高の賛辞でした。ところで、ヘブライ語の「メシア」に当たる、ギリシャ語がこの「キリスト」であるだけに、メシアは普通の人が享受できない権力の中心を意味する表現だったのです。しかし、主は権力ではなく犠牲、君臨ではなく奉仕、高さではなく低さのために来られたのです。神の御国はこの世とは反対側に行くものです。低いところの人々を高め、強い者は自らを低くし他人に仕え、金持ちは貧しい者を助け、力を誇示するよりは他人を生かすことに使います。すべてが世の中とは正反対、つまり逆説的です。イエスの死は、罪人を生き返らせる命の死でした。人に命を与えるために、主はご自分の命を死と変えました。しかし、神はそのイエスの死を真の命に変えてくださいました。これがキリスト教の逆説的な価値観です。自分の命を捧げて他人を死から生かす、そして神がそれを報いてくださる、この世の破壊的かつ強圧的な価値観とは全く正反対の生命と仕えの価値観なのです。 締め括り 自ら自分を低くすることは、本当に難しいものです。自己中心的なプライドを捨てて、他人に仕えることを喜び、自分が損をする人生を自ら求めて生きるという意味です。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マタイ5:39-42) しかし、主イエスはキリスト者の生き方について、このように教えてくださいました。自ら低くする人生は本当に難しいですが、我々の主がそのように生き、民たちにもそれを命じておられます。「主は貧しい人々を励まし、逆らう者を地に倒される。」(詩編147:6)「貧しい」に訳されたヘブライ語「アナブ」は謙遜な者、自らを低くする者を意味する場合もあります。こういう人は神に「励まされる」と記してありますが、原文的に「主が力強く持ち上げる」という意味もあります。自ら低くする者は神によって高くなるという意味でしょう。このような逆説が神の神秘なのです。自らを低くし、他人に仕えて生きる時、私たちは主によって高められ、真の偉い者になるでしょう。このような神の法則を信じて謙遜と仕えを実践して生きる私たちになりたいものです。こういう生き方を追い求める、真に偉い者である志免教会になることを祈ります。

マハナイムの神に出会う。

創世記32章2-13節(旧54頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 叔父であり、義父であるラバンによって、20年という長い歳月の間、奴隷のように利用されてきたヤコブ。しかし、神はヤコブがラバンにだまされ、ただ、こき使われている状況の中でも、着々とご自分の計画を進めつつ、彼の人生を導いてこられました。人間の目から見ると、ヤコブはラバンという障害物のような存在の下で、自分の将来も備えられず、ただ無力で受動的に歩んできた失敗者のように見えるかもしれません。しかし、神の御目から見ると、ヤコブは苦労と絶望の中でも、それとは別に主のご計画の中に守られていたのです。もしかしたら、ラバンの存在自体さえも主のご計画の一部であるかもしれなかったのです。私たちの信仰と人生において、一寸先も見えない絶望と悲しみの状況の中でも、神は私たちとは異なる見方で私たちの人生を見守っておられます。私たちの絶望と悲しみの時さえも、神のご計画の一部であって、神が私たちを導いておられることを信じる信仰者になりたいものです。結局、ヤコブは主の御助けによって、大家族を成し、金持ちになり、主の決定的な恵みでラバンの手から自由になって帰郷することになりました。 1。神のご予定と人間の行い。 以前、ヤコブは自分の計略で、祝福の相続人になりました。しかし、それはあくまでも人間中心的な解釈です。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(創世記25:23)ヤコブの生まれる前から、神はヤコブがアブラハムとイサクの相続人になることをすでに知っておられました。だからといって、神はヤコブが父と兄をだまして相続者になることを容認されたわけではありません。また、ヤコブに悪いことをさせられたわけでもありません。神の民にとって、結果だけでなく過程も大事です。「過程は悪いけど、結果さえ良ければ大丈夫だ。」という主張は望ましくありません。正義に満ちた公正な生き方で過程を経て、また主の御心に適う良い結果が出るように誠実に人生を生きるべきです。 福音書はイエス・キリストの御言葉を通して、キリスト者の望ましい生き方について教えてくれます。キリスト者は、何事においても「蛇のように賢く、鳩のように素直に」生きるべきです。しかし、ヤコブはそのような人ではありませんでした。結果だけに執着して過程には失敗しました。それにもかかわらず、神はヤコブをご自分の御心にふさわしい者に養っていかれました。 そして、ヤコブはその主の養いの中で、まことの約束の相続人として成長していきました。 ヤコブの人生を通して、キリスト教の重要な教えである「神の予定」について、そしてその「予定の中での人間の生」について考えてみたいと思います。予定とは、「全能の主が世のすべてを予め定めておられる。」という概念です。しかし、「すべてが定まっているから、人間は適当に生きても構わない。」と理解してはなりません。「ヤコブが悪いことをしたことも、成功したことも、世の中のすべてのことも結局、神ご自身がお定めになった予定によるものだから、人間はただ適当に生きれば良いんだ」というような理解は、人生の過程と結果への正しい姿勢を妨げます。主は人間に「選びの自由」をくださいました。主は全宇宙を創造し導かれる「経綸と摂理」(週報参照)の中で人間が主の御導きに反応し、主の御心に従って生きようとする「選び」の自由を与えてくださったのです。 その「選びの自由」を誤って利用した代表的な存在が、まさに「知識の実を貪ったアダムとエヴァ」なのです。主はご予定に従ってヤコブを約束の相続人にしようと計画されました。しかし、ヤコブは自分の「選びの自由」を誤ったやり方で使い、不正に相続者の権利を奪ってしまったのです。しかし、それよりもっと大きい神のご恩寵は、そのようなヤコブを鍛えて、主の御心に適う人として養っていきました。神の予定とは、いかなる障害があっても、全能なる神は妨げられず、その御心のままに成し遂げていかれるということを強調する概念なのです。 2.マハナイム– 神の二組の陣営 世の数多くの宗教は「自らの善行によって救いに至る」という基本的な救いへの見方を持っています。しかし、キリスト教での救いへの見方は徹底的に神の主導的な恵みと理解されています。神はご自分の主導的な予定の中で、民を敬虔に養成していかれる方です。そして神の絶対的な権能で彼らを救いにまで至らせてくださいます。つまり、人の行いではなく、神の恵みによって人間を救うということです。私たちはその恵みによって、一方的に救われ生きているということを忘れてはいけません。「ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。ヤコブは彼らを見たとき、ここは神の陣営だと言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。」(32:2-3) 今日の本文で神は、ご自分の計画の中でヤコブを導いていかれることをもう一度示してくださいました。本文に出てくるマハナイムという単語には、「二組の陣営」という表現がついています。マハナイムはヘブライ語の双数で記されたものです。マハナイムの原型は「マハネ」で、その意味は「陣営、軍隊」です。この「マハネ」に「イム」がつくと「マハナイム」という双数となり、二つの軍隊という意味になります。ところで、どうして「二組の陣営」なんでしょうか? 「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。」(32:8-9) 帰郷するヤコブは恐れていました。以前、父と兄をだまして長子の祝福を奪った時、兄エサウが自分を殺そうとしたことが思い起されたからです。今では、エサウが自分の地域で権力者に成長しており、もしかしたら、帰っていくとき、兄の仕返しですべてを失うかもしれないと思ったのです。自分の不正な行為による兄の怒りが恐ろしかったわけです。そこで、ヤコブは極めて人間的な自分なりの妙策を思いついたのですが、それは自分の所有を二組に分けて、もし一組がエサウに攻撃されたら、残りの一組は避難できるようにしたのでした。しかし、そのような人間的な知恵の案出にも関わらず、ヤコブの恐怖は止まりませんでした。しかし、神はすでにヤコブの心を見抜かれ、神がヤコブと一緒におられることを示してくださいました。まさに二組の陣営を備えてくださったのです。ヤコブの群れを守る神の二つの軍隊。神はヤコブの弱い信仰にもかかわらず、彼との契約を守るためにヤコブの群れを守る神の二組の陣営を備えてくださったのです。人間がいくら自分の知恵で対策を立てても、人間の知恵では、完全に自分を守ることができません。一つを守ったとしても、一つは諦めなければならない現実が、人間の最善の知恵であるのです。しかし、神は主ご自身が選ばれた民のために、ご自分の御手によって守ってくださり、避ける道を与えてくださる方なのです。 3. 一番先に主の御助けを求めよ。 しかし、ヤコブは神の軍隊を見ても特に反応しませんでした。ただ「ここは神の陣営だ」と言い、そこをマハナイムと名付けるだけでした。旧約聖書のヨシュア記5章にも、これと似たような出来事があります。「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。」(ヨシュア記5:13)モーセの後継ぎであるヨシュアが民を率いてヨルダン川を渡り、カナンに入ったとき、そして主のご命令に従ってエリコを攻撃する直前に、彼の前に剣を手にした、ある男が現れました。ヨシュアは彼に「あなたは味方か、それとも敵か」。尋ねました。すると彼は言いました。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」(ヨシュア記5:14)すると、ヨシュアは、急いで彼の前にひれ伏して反応しました。神は主の軍の将軍を遣わされ、エリコとの戦いに主の導きと助けがあることを示し、ヨシュアはそれにひれ伏すことで反応したわけです。しかし、ヤコブはヨシュアのような反応はしませんでした。主が一緒におられることを意味する二組の陣営を自分の目で見ても気付けなかったのです。彼は神に感謝も祈りも反応もせず、ただ兄のことで心配ばかりしていました。 ヤコブは9節でようやく神を探し始めます。「ヤコブは祈った。わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与えると、どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(32:10、12)主の深い恵みを受け、そのご命令に従って帰郷することになったヤコブ。しかし、彼の信仰は依然としてもの足りない状態でした。神は二組の陣営を通して彼の群れを守ってくださり、過去の契約を通して彼との約束を覚えてくださり、また、すべてを備えてくださって、ヤコブに故郷に帰れと命じられたのですが、ヤコブはその神の命令より、自身の過去の経験と考えと不信仰に捕らわれて一人で思い煩い、結局、いちばん最後に神に祈り始めたわけです。キリスト者は一番先に神を探し求めなければなりません。何が起ころうとも、最初から祈りの座に出なければなりません。祈りを通じて神に自分の事情を申し上げ、謙虚な心で神の御心を待ち望みつつ、それから自分ができることを模索すべきです。神が本当に自分と一緒におられると信じるなら、私たちはひとまず神の御前にひれ伏し、祈りの座に進むべきです。 締め括り 結論的に次の本文で、神はヤコブを最も良い方向に導いてくださり、エサウとの問題も丸く治めてくださいます。しかし、今日のヤコブの信仰については、実に残念です。私たちが神の民として選ばれて救いを得て、その方の経綸と摂理、予定のもとに生きていることを信じるならば、私たちはもっと神への積極的な信頼と感謝を持って生きるべきでしょう。 神はイエス•キリストを通して私たちにこう言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 主の救いと恵みを信じて、神と一緒に歩む者に、主は必ず共にいてくださる方です。私たちの信仰がヤコブより優れているとは言えないかもしれません。しかし、私たちの信仰が弱い時も、神は私たちを最後まで見守ってくださるでしょう。したがって、ヤコブの過ちから私たちの過ちを見つけ、日々信仰の改善を目指して生きていきましょう。主がいつも私たちと一緒におられることを信じて、感謝と賛美とで、今週も生きていくことを心から願います。

信仰のない時代に。

創世記15章6節(旧19頁)  マルコによる福音書9章14-29節(新78頁) 前回の説教で、イエスは3人の弟子たちを連れて、ある高い山に登られました。主は山の上で真っ白に輝く姿に変容され、旧約の偉大な預言者であるモーセ、エリヤと語り合いました。ペトロはその姿にうっとりとして「私たちがここにいるのがすばらしいから」と言って山の上にいることを望みました。その時、みんなは急に雲に覆われ、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」神は山の上で主イエスの神聖さを示してくださったわけです。偉大なメシアとしての権力者イエスを望んできた弟子たちは、主が華やかに輝く姿に変容した山の上に、ずっといたかったでしょう。しかし、雲が消え、弟子たちのそばには誰もおらず、ただイエスお一人だけがおられました。私たちは華麗で素敵な主を期待して信仰生活をしているかも知れません。しかし、主は高くて華やかなところではなく、低いところに目を向けておられる方です。そして、その低いところで人の思いとは全く異なる神の御心によって、この世を治めておられる方なのです。前回の説教では、そのような人の思いとは異なる神の御心について話し、その神に従順に従うことこそ、真の信仰ではないかと分かち合いました。 1.山の下で。 「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」(14) 主と3人の弟子たちが、山から降りてきた時、ほかの弟子たちは律法学者たちと論争をしていました。主イエスがその姿を見て、何を議論しているのかと尋ねられると、ある者が言いました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(18) その人の息子が悪霊に取り付かれましたが、イエスの弟子たちがその霊を追い出せなくなると、それを見ていた律法学者たちと神学的な論争を繰り広げるようになったのです。私たちはこの状況を見て、2つを考えることができます。第一は3人の弟子たちは山の上で主の栄光を目撃しましたが、彼らの居場所は山の下であったということです。第二は言葉だけの信仰者には主による権能がないということです。数時間前までペトロ、ヤコブ、ヨハネは、主と一緒に高い山の上にいました。彼らは輝く聖なる主も見たし、偉大な旧約の預言者たちにも出会い、栄光の雲の中で神の声も聞きました。しかし、今日の本文で彼らは再びこの地上におり、惨めな現実を目の前にしています。しかも悪霊に苦しめられている人々と、その人を直すことができないユダヤの宗教指導者たち、そしてイエスの弟子たちが互いに論争している情けない現実です。 人それぞれ、信仰の体験が違うでしょうが、ある人々は幻を見たり、夢を見たり、超自然的な経験を通して、派手に神に出会ったりすることもあります。そのように主に出会った人々は、すぐにでもこの世が大きく変わるようになるかもしれないと期待することになります。神がこの世をまるでひっくり返されるような気がして胸を弾ませることもあります。明日すぐに主が再臨なさるような気がして華やかな主の到来を待ち望むことになるのです。しかし一日、一週間、一ヶ月が経っても世の中は変わりません。世の中は変わりなく今までと同様に流れていきます。そして結局、神にがっかりする場合もあります。恥ずかしいですが、私がまさにそのような人でした。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ3人の弟子たちは、わずか数時間前に華やかな姿に変わったイエスを目撃しました。しかし、彼らはまた以前と同じ世の中に戻ってきました。世の中は依然として病気、悪霊、悲しみに満ちているところでした。弟子たちはがっかりしたかもしれません。私たちは世の中を生きつつ、まるで神がいらっしゃらないような経験をしたりします。貧しい人々は相変わらず貧しく、善良な人々が苦しみを受け、悪い人々が富貴を享受して生きていくことをあまりにも頻繁に目撃します。考えとしては審判者であられる主が、直ちに世を裁かれることを望んでいますが、主はそうされませんので、あまりにももどかしい時が多いです。しかし、大事なことは神は、そういう現実の中でも世の中で苦しんでいる者と一緒におられるということです。 ここで私たちは神のご関心がどこに向っているかが分かります。多くの人々が宗教を持つ理由の一つは、世の中での苦しみと悲しみから解放され、幸せな人生を営んで生きるためでしょう。しかし、キリスト教は盲目的にそれだけを求める宗教ではありません。部分的にはそうでもあるでしょうが、私たちの主イエスは、いつも世の中の苦しみと悲しみにさらされている人々とおられ、共に苦しみと悲しみを受ける方なのです。 主はおっしゃいました。「何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。」(マタイ11:8) 主イエスが肉体となってこの世に来られた理由は、苦しくて悲しい人たちと共におられ、彼らを救って神に導かれるためです。ですので、主は世の中から離れて暮らす仙人ではないのです。したがって、主のご関心はいつも最も低いところにあります。主イエスを信じる私たちが、主に従って生きる存在ならば、私たちも山の上の華やかなイエスではなく、罪と苦しみ、悲しみに満ちている、この世におられる主を見つけるべきです。イエスはこの世の罪人と一緒に過ごすためにおいでになった方です。主は御父の右に座しておられる方ですが、聖霊を通して常にこの世の罪人の間で一緒に生きておられる方なのです。だから主を信じる、主の体である私たちがいるべき場所は、高くて華やかな山の上ではなく、辛くて貧しい、低いところなのです。 このイエスがおられる、この世を生きていく私たちは、主が与えてくださる力を持って、世の苦しみと悲しみにうめいている、我々の隣人たちと一緒に歩むべきなのです。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」イエスの時代の律法学者たちも、イエスの弟子たちも、世の中で苦しんでいる隣人たちには、あんまり関心がありませんでした。彼ら自身なりの追求するものがあり、願うものがあったでしょうが、それが主の御旨に適うものだったとは言えないでしょう。結局、神の御心に適合しなかった彼らは、神から力を得ることが出来ず、悪霊を追い出すことも出来なかったわけです。彼らはただ議論するだけでした。つまり、言葉だけで主からの権能はない存在だったのです。ある者の息子が悪霊に取り付かれたということは、この世の様子を示してくれるイメージだと言えます。福音書に悪霊が出てくる理由は、悪霊に象徴される世の悪の支配から、この世が自由でない状況を示す劇的な象徴なのです。イエスが山から戻ってこられた時、この世への悪の支配を意味する悪霊は追い出されました。私たちは今教会で主日の礼拝と水曜日の祈祷会を熱心に守っています。また聖書と教理書を学んでいます。しかし、私たちの生活の中でこの世の悪に対抗し、勝利する姿があるでしょうか? 頭の中に知識はありますが、その知識が行いとして現れているでしょうか。私たちは議論ばかりしている弟子たちと違う人生を生きているでしょうか。 3.信仰のない時代に。 今日の本文で、主はそのような弟子たちと周りの人々に言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(19) 悪霊を追い出すことができず、互いに論争ばかりしている者たちを、主は信仰がないと見なされたのです。つまり、キリスト者の真の権能は、言葉や仕草ではなく、その人の信仰から生まれるものとも言えるでしょう。マルコによる福音書の序盤にイエスはこうおっしゃいました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15) ひょっとしたら、マルコによる福音書の始まりから、主のご関心は信者の信仰にあったのかもしれません。主を信じて、主の御力と主の御業を待ち望み、主に従って生きるのです。その主への信仰がある時にはじめて、主の民は悪に支配されるこの世に勝利して生きることができるのです。しかし、私のような者には、自分の信仰があまりにも弱く自身がなくて、このような聖書の言葉が相当な負担と感じられがちです。しかし、今日の本文はこのような信仰の悩みを持っている者たちに大きな慰めと希望を与えてくれます。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。その子の父親はすぐに叫んだ。信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(22-24) 私たちの信仰が弱くても、主を信じると告白して主に寄りかかって生きれば、主が助けてくださるということです。 主が私たちに望んでおられるのは、偉大な信仰の人物になることでも、強い信仰ですべての聖書の言葉を守ることでもありません。それらが出来れば最も良いでしょうが、罪人として限界がある私たちにそれらは不可能に近いものです。主はそのような私たちが主の御前にひれ伏して主の御心と御導きと御助けを求める姿をご覧になり、私たちを助けてくださる方です。完璧な信仰がなくても、主を信じるために主の御前に進む私たちの姿を主は喜んでくださるのです。そして私はこのような信仰のある者の望ましい姿が祈りから見つかると思います。「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうかと尋ねた。イエスは、この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだと言われた。」(28-29)祈りでなければ、このような悪霊を追い払うことが出来ないという主の御言葉を通して、私は祈りとは何かについて考えてみました。今日の本文は、この祈りの意味をよく教えてくれる箇所だと思います。信仰の弱い、この父親が「信じます。」と、謙虚に主の御助けを求めたその姿がまさに祈る者の在り方ではないでしょうか。「私は信仰が弱いです。私にはできません。信仰のないわたしをお助けくださり、主の御心によって導いてください。」という、今日の悪霊に取り付かれた子の父親の謙虚な願いが、まさに祈りの真の姿ではないでしょうか?そして、それが信仰者の在り方ではないでしょうか。 締め括り 主が信仰のない時代、つまり、この世に望んでおられるのは、もしかしたら神の御前に自分の弱さを告白し助けを求めることであるかもしれません。そして、私たちが追い求めるべき信仰も、まさにその自分の弱さを告白し、主の御助けを求める謙遜な信仰ではないでしょうか。 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6) 創世記15章で神はアブラハムに「私があなたの子孫を天の星々のように多くする。」とおっしゃった時、アブラハムはその神の御言葉を信じました。自分には出来ないが、神にはお出来になると自分の力とは別に神の権能を信じ込んだのです。その時、主は彼を正しい者と認められました。 「私には出来ないが、主はお出来になる。だからこそ主に助けを求めてひれ伏す。そして、祈ったとおりに主を信じ、信仰に生きる。」これがまさに祈る者、すなわち信仰のある者の望ましい在り方なのです。私たちは依然として華やかな主ではなく、低い所にいらっしゃる主と共にこの世に生きています。しかし、主は私たちを離れずにいつも私たちと一緒におられる方です。その主に私たちのすべてを吐き出し、御助けを求めること、そのように主の御心に従順に聞き従うこと。それこそが、まさに私たちが追求すべき信仰の姿だと思います。主と共に低いところにおり、主に私たちの弱さを告白し、一緒に歩む志免教会になることを祈り願います。

ヤコブの逃走

創世記31章1-21節(旧51頁)  前置き 前回の説教は、ヤコブが伯父のラバンの所であるパダン・アラムを離れ、生まれ故郷に帰る前にあったことを話しました。ヤコブは20年間伯父であり、義父であるラバンにだまされ、未来が一寸先も見えない不条理な状況下にいました。しかし、神はそのような不条理の中でもヤコブを一族の長にふさわしく育てられ、結局は超自然的にラバンの財産を取ってヤコブに与えてくださいました。本日、取り上げる創世記31章は、前回の説教の延長線とも言えます。ヤコブが家路に本格的につく場面だからです。実は、31章の内容は、前の説教と大きい違いはありません。そして内容もとても長くて多いので、端的な教訓を得ることも容易ではありません。ですので、今日はこの31章のいくつかの箇所から、25章から始まったヤコブの人生について語り、神がヤコブをどのように導いてくださったのかを、もう一度考えてみる機会にしたいと思います。実は今日の説教のタイトルを「ヤコブの逃走」としましたが、正式なタイトルは「ヤコブにとっては逃走、しかし神はいつも一緒におられた。」としたいです。ヤコブの人生において神はいつも彼を見守ってくださったからです。 1。今までのヤコブの生涯を振り返る。 ヤコブの父のイサクは、生まれる前から神に選ばれた人でした。ヤコブの祖父アブラハムは、カルデア・ウルの偶像職人でしたが、神の導きによって主の民となり、生まれ故郷、父の家を離れてカナンに来た信仰の第1世代でした。神はアブラハムに「あなたとあなたの子孫を祝福する。」と約束されました。イサクはそのアブラハムの真の相続人、つまり祝福された信仰の第2世代だったのです。そのイサクはいとこのリベカと結婚し、双子を儲けました。兄はエサウ、弟はヤコブでした。兄は狩人で野の人に育ち、ヤコブは穏やかな(静かな)人に育ちました。しかし、ヤコブには野望がありました。兄を押しのけて自分がイサクの長子になろうとしたのです。しかし、ヤコブはイサクの長子になるということが、どういう意味なのか分かっていませんでした。それは神に選ばれた信仰の3代目になるという厳重な意味でした。しかし、ヤコブは、ただ父の相続人になって父の財産のすべてを自分が受け継ぐという世俗的な考えだけだったのです。そのため、ヤコブはパンとレンズ豆の煮物一杯で長子の権利を買い取りました。以後、父を欺いて長子の祝福を奪い取ったヤゴブは、兄の怒りを避け、はるかに遠い母の故郷であるパダン・アラムに身を寄せるようになりました。そして、彼はパダン・アラムに赴く途中、アブラハムとイサクの神に出会うことになりました。 しかし、長子の権利と祝福を横取りしたヤコブを待っていたのは、祝福どころか、最初から苦しみだけでした。誰も彼を歓待せず、労苦と孤独の旅路だったのです。そんなある夜、石枕で野宿していた彼の夢に神が現れました。天と地をつなぐ階段の上に神がおられたのです。神は彼に「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」と言われました。夢の中で神の祝福を受けることになったヤコブは、そこを神の家という意味のベテルと名付け、自分を無事に帰らせてくださったら神に供え物を捧げると約束しました。つまり、ベテルは神とヤコブの契約の場だったのです。無事にパダン・アラムにたどり着いたヤゴブは、いとこのラケルに出会い、伯父のラバンの家に行きました。ヤコブは故郷で騙す者と呼ばれたんですが、ラバンは彼を上回ってけち臭い者でした。ヤコブはラケルを愛していましたが、ラバンの計略に騙されて姉のレアと結婚することになり、伯父に抗議したら、ラバンはそれを口実にラケルと女奴隷たちまで与え、その対価として、14年間(結婚前7年)の労働を求めました。さらに羊飼いの6年まで、ラバンは20年間、ヤコブを奴隷のようにこき使いました。しかし、神はヤコブといつも一緒におられました。ヤコブに家族ができ、経験が積み重なり、ヤコブの独立の時に際して、神は彼に財物を与え、ラバンの家を離れるように導いてくださいました。 2。神がヤコブと一緒におられた。 ヤコブがラバンの家を立ち去ることを決めたとき、神は彼の夢に現れて言われました。「わたしはベテルの神である…今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」(13)神は、ヤコブが長子になることをすでに知っておられました。ただ、長子の権利をヤコブ自身の計略で奪い取ることは正しくない行動でした。しかし、このようなヤコブの罪と過ちにもかかわらず、神は彼を孤独、不条理、苦しみ、悲しみの中で鍛えられ、彼が一族を支えられる族長の器になった時、何よりも彼がアブラハムとイサクの後を継ぐ者として、成長し始めた時、神のご計画どおり彼を導いてくださいました。過去に人間的な欲望で長子の権利を欲しがった彼でしたが、20年という厳しい歳月を積み重ね、ヤコブは少しずつ神が自分と一緒におられることに気づいたのです。「わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。」(5)すなわち5節は、まだ神への完全な理解も足りず、信仰的にも弱いヤコブでしたが、それでも神が自分と一緒におられると告白する一種の信仰告白なのです。神はその信仰の告白どおりに13節に現われて神とヤコブの契約を守ってくださるためにヤコブに帰郷を命じられたのです。ヤコブが生まれる前から、また彼の人生のすべてにおいて、神は彼と一緒におられ、いつまでも一緒にいてくださる方でした。 ヤコブは妻たちと相談し、ラバンの家をこっそり離れようとしました。ラバンは彼を最後まで捕まえておき、奴隷のようにこき使うつもりでしたが、神もヤコブもそれを望んでいませんでした。「ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった。ラバンは一族を率いて、七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドの山地でヤコブに追いついたが」(22-23)ラバンはヤコブの家族を捕まえるために彼らを追いかけました。しかし、ヤコブと一緒におられる神は、ラバンの夢の中に現れて警告されました。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」(24)神は露骨にヤコブを偏愛され、ラバンは神を恐れてヤコブとその家族をひどい目に合わせることができなくなりました。神がヤコブと一緒におられることを端的に見せてくれる場面です。ヤコブに追いついたラバンはヤコブを叱りましたが、彼を傷つけることはできませんでした。彼を無理やり連れて帰ることもできませんでした。神がヤコブと一緒におられることをラバンはよく知っていたからです。「わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」(42)結局、神のご介入により、ヤコブは無事にラバンから離れ去ることが出来たわけです。 3。「ベテルの神に帰る」の意味 このように神はヤコブを守ってくださり、静かに彼の成長を待ってくださり、神の時が来た時に自由を与えてくださいました。しかし、神がヤコブに自由をくださったことは、これからお金持ちになって自分勝手に生きていいという意味ではありませんでした。「わたしはベテルの神である。」ヤコブが名付けたベテルという表現を、神が進んで使われたように、神はヤコブとの契約を覚えておられました。神がヤコブに自由を与えてくださった理由は、これからベテルの神に立ち返って主との契約を遂行しろという意味だったのです。特に13節で神はヤコブに「あなたの故郷に帰りなさい。」とおっしゃいましたが、それはアブラハムとイサクの所に帰れという、ヤコブの本当の居場所に復帰しろという命令でした。つまり、神とヤコブが結んだ契約は、ただのヤコブ個人の契約ではなく、過去アブラハムとイサクが神と結んだ契約の延長線だったのです。このように神がヤコブを故郷に行かせてくださった理由はアブラハムから始まった神の祝福がヤコブを通して継承されていることを示す強力な証でした。長子の祝福を持っていたヤコブは苦難を通して成長し、神のご介入を通して自由を得、神の御導きを通して、その方(かた)の民に育てられていきます。ベテルに帰れという意味は、神の契約を記憶し、神の民らしく生きろという意味だったのです。 しかし、ヤコブには一つの不安要素がありました。それは愛する妻ラケルから始まります。「ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。」(19)守り神の像とは、テラフィム(士師記17:5)のことで、当時のパダン・アラム地域の偶像でした。これは古代の時計、青銅の偶像、偶像の絵、息子の首を切ってその皮を塩漬けにした置物など、いろいろな口伝えがあります。いずれにせよ、古代カナンではこのような偶像を作る風習があったようです。ところで、問題はラケルがその守り神を盗んだということです。昔、あるラビはテラフィムが話せると主張しました。彼はラケルがテラフィムを盗んだ理由も、テラフィムが自分たちの逃走をラバンに言いつけるかと怖がったからだと主張しました。偶像が話せるなんてとんでもないですが、古代人の想像力ですから理解しましょう。さて、最も有力な仮説は、ラケルが自分のためのお守りとして父のテラフィムを盗んだのではないかということです。神はヤコブを契約のベテルに導かれましたが、ヤコブは自分の家族を取り締まることができず、最愛の妻が偶像テラフィムに頼ることをも阻まなかったのです。つまり、ヤコブは神を信じてはいましたが、偶像を容認する不完全な信仰の人物だったのかもしれません。そんな家風だったから、妻が守り神を盗んだのでしょう。そのような不完全な信仰のためか、その後、ヤコブはベテルに行かず、他の所に落ち着いてしまい、大きな不幸に見舞われてしまいます。その内容は、創世記34章で話しましょう。 締め括り 今日の本文には、特に新しい内容はなかったと思います。前の説教で取り上げたことを、もう一度整理する気持ちで説教しました。それでも、今日の説教を通して憶えておきたいことはあります。第一に、神がご自分の民であるヤコブとの約束を大切にされ、まだ不完全な信仰のヤコブでしたが、彼といつも一緒におられ、偏愛するほど守ってくださったということです。主はその民であるキリスト者ともこのように一緒におられる方でしょう。第二に、神とヤコブの契約がヤコブだけの事項ではなく、神と祖父と父との契約を引き継ぐということです。私たちの信仰は私個人だけの信仰ではなく、神とキリストの契約よってなされ、保たれるのです。第三に、神を信じてはいますが、私たちは依然として不完全だから、いつも自らを顧み、悔い改める準備をしていなければならないということです。今後、ヤコブはパダン・アラムを離れ、神の約束の地に帰ります。これから主はどのようにヤコブを導いてくださるでしょうか。神の御導きを期待しつつ次の本文もともに聞きましょう。ご自分の民といつも一緒におられる主を賛美し、この一週間を生きていきましょう。

イエスだけが一緒におられた。

出エジプト記3章2-5節(旧96頁) 列王記上19章9-13節(旧566頁) マルコによる福音書9章2-13節(新78頁) 前置き 前回の説教で、イエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか。」とお尋ねになりました。世の中の人々はイエスを「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と言っていましたが、主は弟子たちがご自分のことをどう思っているのかお試みになったのです。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシアです。」ペトロの答えは正解でした。その答えをご確認なさった主イエスは、待っておられたかのように、メシアであるご自身が苦難を受けて死ぬことになると予告されました。するとペトロは、それを納得せず激しくいさめ始め、主はそんなペトロに「サタン、引き下がれ。」と厳しく叱られました。なぜ、主の死を止めさせようとしたペトロは、主に叱られたのでしょうか。信仰告白とは、知識だけを意味するものではありません。知識としてのペトロの信仰告白はこの上なく完璧でしたが、信仰としてのペトロの告白は不完全でした。主の御心ではなく、自分の思いをより強く主張したからです。真の信仰告白は知識だけで完成するものではありません。知ることと信じることがひとつになる時、すなわち知識(教理)に実践(信仰)が伴う時、信仰告白ははじめて真の信仰告白として成り立つものなのです。前回の説教は私たちに信仰に対する真の意味を教えてくれます。知ることと信じることが一つになること、私たちが追い求めるべき信仰の価値なのです。 1.高い山で変化された主。 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9:2)それから6日後、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。時々、聖書では「山」を神の栄光が現れる場所として描いたりします。今日の本文に登場するモーセとエリヤは、それぞれ自分の時代に神の山である「ホレブ(シナイ)」で神に会い、神はイスラエルの歴史上、最も偉大な王であるダビデにエルサレムのシオンという山をくださいました。また、主イエスが悪魔に3つの試練を受けられた時、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行って誘惑しました。このように聖書においての山は「神のご臨在の場所、聖なる場所、超越的な場所」などを意味する場合があります。(聖書に登場するすべての山がそのような意味を持つわけではないので解釈に注意すること)「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:2-3)実は、今日の本文に登場する高い山が、正確にどこの山なのかは知られていません。 しかし、イエスが山の上に登られた時、主はこの世にはあり得ない輝かしい姿に変化されました。イエスの服が真っ白に輝くようになったということは、イエスの神聖さが表れたという象徴的なことを意味します。今では人間の世界で肉体を持った人間として生きておられますが、もともとキリストは本質的に神で、聖なる方であり、罪のない方であり、正しい方であり、偉大な方であることを示してくれるのです。また、イエスは山の上で旧約の代表的な2人の人物であるモーセとエリヤと会われましたが、彼らは旧約の始まりと終わりを意味する偉大な預言者として、旧約マラキ書の最後に記してある人たちでした。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ4:4-5)すなわち、イエス•キリストは神のご臨在の場所で、神としての神聖さを見せ、旧約時代の代表的な預言者2人に会い、ご自分が真の神であり、真の主であることを示してくださったのです。前回の説教で、自分の思いのためにイエスをいさめたペトロは、このような主の姿を見てどう思うようになったでしょうか?イエスは、自分の手ではどうすることもできない超越的で偉大な方であることを悟ったでしょうか。 2.モーセとエリヤとお会いになった主 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マルコ9:5)しかし、ペトロはそう簡単に変わりませんでした。数日前には、メシアの苦難と死という神の御心を自分の思いに合わせようと主をいさめた彼は、今日は神性を見せたイエスとモーセとエリヤの姿を見てうっとりして、ずっと山の上にいたがっていたのです。ペトロは、実は恐れを抱きました。それでどう言えばよいのかも分からないほどでした。しかし、その中でもペトロは数日前にもそうだったように、今回も自分自身の思いのうち良いものを見出そうとしました。もしかしたら真っ白に輝く厳めしいイエスは、自分が望んできた強力なメシアの姿だったのかもしれません。その時、彼らは雲に覆われ、神の声を聞くことになりました。「これは私の愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)マタイによる福音書では、弟子たちがその声を聞いて、ひれ伏して恐れたと記されています。第二ペトロ1章17-18節にも、この話が記されています。自己中心的に信仰を理解し自分の思いのままにしようとしたペトロは、おそらくこの状況を経験しつつ、神がご自分でイエスの道を導いておられることを、だからこそ、主は人間の手によって左右されないことを改めて悟ったのかもしれません。 信仰の主導権は我々にはありません。我々の信仰の主は神だからです。今日の本文にはモーセとエリヤという旧約の2人の人物が登場します。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出3:2)エジプトの王子として育ったイスラエル人モーセは、ある事件によって40歳の時にエジプトから逃げ、ミディアンで80歳まで羊飼いとして生きました。彼はもう若い年ではありませんでした。40代の頃、血気盛んで権力があった時に、神は彼を召されませんでした。しかし、年を取って彼が力の弱い80歳の年寄りになった時、神ははじめて彼をお呼び出しになったのです。羊を飼っていた彼が神の山であるホレブに登った時、神は燃え上がる柴の炎の中で彼に出会われました。炎の柴は燃え尽きずにあり続けました。その中で神はモーセにエジプトに行って主の民を救えと命じられました。神は燃え上がる柴を通して強いけれども弱いように、弱いようでも強いというように、ご自分を示してくださいました。神は人間の認識ではとうてい理解できない方でした。神は熱くて強烈な炎のさまと、弱くて燃え尽きてしまう柴のさまを通して、猛烈だけれど焼き尽くさず、弱いけれど滅びない、逆説を示し、人間の常識を超える神という存在の神秘を教えてくださいました。 また、数百年後、モーセが神に出会ったホレブ山で預言者エリヤも神に会います。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)当時、邪悪な王アハブと王妃イゼベルに対抗していたエリヤは、命の脅威を受けつつ神の山までたどり着くことになりました。エリヤが神の御前に自分の困難を吐き出したとき、神は彼の前で、激しい風、恐ろしい地震、猛烈な火を見せてくださいました。しかし、主はそれらにはおられませんでした。むしろ、主はその後の静かにささやく声の中におられたのです。以降、主はエリヤを導き、ご自分の御手で邪悪な王と王妃をお裁きになりました。もしかするとモーセとエリヤは、神の強力な姿を望んでいたかもしれません。しかし、神は二人の考えとは全く異なる形でご自分を示してくださいました。神はモーセとエリヤの思いではなく、ご自分の思い通りにお働きになったのです。主はご自分の民の信仰を主権的に導かれる方です。私たちの信仰の主は私たち自身ではなく、まさに主なる神であります。 3。しかし、ただ主だけが一緒におられた。 「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ8-10)神の声に恐れてひれ伏すことになった弟子たちが再び立ち上がった時、雲も神の声も、モーセも、エリヤも消え、ただイエスだけが、彼らと一緒におられました。聖なる神の声、輝くイエスの姿、偉大なモーセとエリヤ。弟子たちはその素晴らしさの中で永遠に過ごすことを望んだのかもしれません。しかし、神はペトロと弟子たちに自分の思いではなく、御子イエスの御言葉を聞くことを彼らに命じられました。そして一瞬、そのすべてが消え、イエスだけが弟子たちと一緒におられるようになったわけです。山を下りるとき、主は再びご自分が死に、復活することを教えてくださいました。しかし、もうこれ以上ペトロは主をいさめず、ただついていくだけでした。彼の心の中に主の死と復活がどんな意味なのか、自分の思いとは全く異なる主の御心があることをぼんやりでも悟ったからでしょう。結局、弟子たちは自分たちの思いと主の御心が違うということに気付き始めたでしょう。 締め括り 神は、誰よりも華やかで強力に、ご自分の御心のままに、この世界の支配がお出来になる方です。しかし、主はこの世のやり方とは全く違う方法でこの世界を治められる方です。最初、ペトロと弟子たちは現実的な権力と名誉を持っているメシア(軍事、政治的な権力者)としてイエスを理解し、また、その権力者メシアの右腕としての自分たち(弟子)という概念で、イエスとその務めと自分たちの立場を理解していたかもしれません。しかし、主は華麗な形ではなく、素朴だが確かな計画を持って、主の御業を成し遂げていかれました。私たちの信仰はこの主の素朴だが確かなご計画を信じ受け継いで、その主に従順に聞きしたがって生きることです。もしかしたら、日本のキリスト教人口が、全人口の5割くらいになり、教会の数も多く、教師も十分にいるのが、私たちの望みであるかもしれませんが、神はご自分の御心によって少ない人口、少ない教会数、少ない教師数であっても日本の教会を大事に保たれるのではないでしょうか。規模が大きいからといって正しいとは言えないからです。私たちの思いとは全く違いますが、神はその御心によって、今も後もこの日本の教会を愛し導いてくださると信じます。今日の本文を通して、他のどんなものでもなく、いかなる状況下であっても私たちと一緒におられる主イエスだけを仰ぐことを願います。私たちにとって本当に大事なことは大きさと華やかさではなく、イエス•キリストに聞き従う真の信仰であるからです。どんなことがあってもイエスだけが私たちと一緒におられ、その御心によって我々sを導いてくださいます。

日常においての復活を考える。

イザヤ書60章1-3節(旧1159頁) ヨハネによる福音書11章25-26節(新189頁) 今日は主イエスの復活を記念する復活節です。今日、私たちはイエス・キリストの復活を記念し、一緒に喜ぶためにここに集いました。 私たちが主と崇め、告白するイエス·キリストは死から復活された方です。その方は罪のため、苦難を受け、死んでいくべきすべての罪人のために天から来られ、その罪人の代わりに神の罰を受け、死に、人間の罪と苦しみと死を担ってくださいました。イエスの死によって罪人は罪と死の苦しみから自由になり、神の恵みと救いを得ることができるようになったのです。そしてイエスはその死からよみがえられ、その方を信じるすべての者に死の権能に勝利する信仰と希望を与えてくださいました。この復活のイエスを喜び、私たちにも復活を与えてくださった主を覚えて生きていきたいと思います。 1.死 人間はひょっとしたら死ぬために生まれるのかも知れません。すべての人が年を取って老いていき、いつか必ず来る自分の最期を悩むということがそれを証明します。あの有名な一休宗純(1394~1481)はこう語りました。「世の中は起きてフンして寝て食うて後は死ぬるのを待つばかりなり。」この室町時代の有名な僧は、人の人生がこのように無駄なもので、結局、死んで終わるということを一行の文章で表現したのです。いくら一生懸命生きるといっても、結局、死によって人生が終わるのは定まっているからです。 7年くらい前、昭和時代の文化に深い興味がわき、1970-80年代の日本の歌手や俳優について探求したことがあります。その中でも1980年代の「セーラー服と機関銃」という歌と映画で有名だった薬師丸ひろ子さんが特に好きでした。1978年にデビューして一時かなり人気の俳優兼歌手で、去年は紅白歌合戦にも出演しました。「さようならは別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束」この歌をご存知の方もおられるでしょう。そんなある日、番組で50歳を過ぎてコンサートを準備している彼女を見ることになりました。もちろん50代はまだ若いとは思いますが、薬師丸さんの少女の姿だけを覚えていた私は、彼女の中年の姿を見て、かなりショックを受けました。時が経ち、かわいい少女は中年の女性になっていたのです。 その時、私は老いていくということについてじっくり考えさせられました。人がいくら熱心に生きていっても結局は年を取って老いてゆき、100年にも至らない短い人生を経て、死の問題を解決できず死んでいくということが本当に悲しく思いました。そういう意味で、この世は喜劇というより悲劇に近い舞台かもしれないと思いました。文学で喜劇と悲劇を区切る目安は、悲しい物語、楽しい物語ではなく、主人公が問題を解決できず死んで終われば悲劇、主人公が生き残って問題を解決すれば喜劇だと言われます。いくら悲しい物語だといっても主人公が生き残れば喜劇、いくら楽しい物語だと言っても主人公が死ねば悲劇になるのです。そういう意味で人間は死という人生最大の問題を解決できないまま、結局その死によって生を終える悲劇の主人公であるかもしれません。いくらお金持ちで、権力者で、名誉のある者であるといっても、人間は結局、死を迎えるからです。聖書もこの死を人生の最大の問題として指し示しています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:2) つまり、人は無条件に一度は死ぬしかないということです。ところで、聖書は死についてそれ以上のことを語ります。死んでも生きている人がいれば、生きていても死んでいる人がいるということです。 2.聖書が語る死と生命 「その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) 聖書は人が一度死ぬことは定まっていると言います。しかし、それだけで終わりません。その後には神の裁きが残っていると語ります。私たちは裁きという言葉を聞くと裁判所を思い浮かべ、つい恐ろしさを感じがちです。しかし、「裁き」のギリシャ語の語源は「区別する」という意味を持っています。聖書で裁きと訳された原文は法定用語としても使われますが、日常用語としても使えるものです。つまり、すべての人が死んだ後、神の公正な区別のもとで、死後の歩みが定まるということです。聖書はここで、神に正しい人として区別された者は死後にも神と一緒に生き、正しくない人として区別された者は死後に見捨てられると語ります。聖書は、真の死は肉体の死だけを意味するのではなく、世のすべてを区別なさる神に見捨てられることであると述べているのです。したがって、死は老いて衰えて死ぬ肉体の死だけを意味しません。神を離れて神なしに生き、主への信仰も、主との交わりも持たず、神と一緒に歩まず生きていき、結局、神に「私は君のことをまったく知らない」と見捨てられることが、まさに聖書が語る本当の死なのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26) 今日の本文でイエスがご自分に対して「私は復活であり、生命である」と言われたのには、まさにこのような意味が含まれているのです。聖書によると、人の生と死をお裁きになる神は、イエスという「神と人の間におられる唯一の仲裁者(仲保者)」を送ってくださったと言われます。神を知らない人や、神に逆らって生きてきた人でも、神から遣わされた仲裁者であるイエスを信じ、その方と一緒にいれば、神の正しい判断によって彼は正しい人として区別されるのです。聖書はこれを救いと言います。そして、ここで「正しい」という意味は、神の御旨に適うという意味です。また、イエスと神への信仰で生きる人は、死後にも真の喜びを持って神と一緒に生きていくでしょう。そして、最終的に神がお定めになった終わりの日にはイエス・キリストが死から復活されたように、イエス・キリストを信じる人も最も完全で美しい姿で死から復活するでしょう。聖書が語る本当の死とは、肉体の死を超える神との関係が断絶した状態を意味します。そして、聖書が語る命とは神との関係が回復し、生きても死んでも神と一緒に歩んでいくことです。イエスはこの永遠の命、神と人の和解のためにこの地に来られ、その和解をご自分の死と復活を通して成し遂げてくださいました。したがって、イエスを信じる者は死んでも生きている者として神に認められ、いつかイエス•キリストのように死から復活して永遠に神と生きていくでしょう。 3。日常においての復活を考える。 今日の説教はここで終わってもいいかもしれません。聖書が語る死、命、救い、そして復活について語り尽したと思うからです。しかし、皆さんと一緒に日常を生きている牧師として、神学的かつ哲学的な話ばかりすることでは、何だか物足りないと思います。もっと実践的な話をして説教を終わりたいです。イエスによって死に勝ち抜き、命を得て終わりの日に復活するという話は本当に重要な教えです。しかし、それだけで満足して生きることには、果たしてどういう意味があるでしょうか。日本キリスト教会の大信仰問答には、復活についてのこういう箇所があります。「問97:イエス・キリストの復活を通して、この世に何がもたらされましたか。答:罪によって死んだ者を生かし、始祖の堕落によってまったく損なわれてしまった神のかたちを、再び創造されることによって、新しい時代を来たらせてくださいました。」私はここで「新しい時代を来たらせてくださる」という表現に注目しました。イエス·キリストの復活がこの世に新しい時代をもたらすということです。つまり、イエスの復活は、死後に私たちに与えられる新しい命と幸いだけを意味するものではないということです。聖書と説教を通して、復活について学び信じるようになったら、私たちは必ずその聖書の言葉を自分の人生に適用し、主のお導きに従って実践して生きるべきです。そういうわけで、今日の説教の題も、命と救いと復活だけで終わるのではなく、「日常においての復活を考える」なのです。 イエス·キリストへの信仰によって死の恐怖から逃れ、命を得て、復活の希望を抱くことになった者なら、この世の普通の人たちのようにただ自分の欲望にだけ従って生きてはなりません。イエス·キリストが私たちを死の恐怖から救ってくださり、私たちに命の喜びを与えてくださり、私たちに復活の希望を与えてくださったように、私たちはイエス·キリストの手と足となって、この世で愛を実践し、イエスの復活による新しい時代がこの世で成し遂げられるように、キリストの民にふさわしく生きていくべきです。イエス·キリストの到来を告げ知らせた洗礼者ヨハネは、このように語りました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3:8,11)彼は実践的な信仰を強調したのです。真の復活のある人生は、ただ復活を信じることで終わりません。 御言葉を通して、私たちにくださる聖霊のお導きをよくわきまえ、神と人を愛し、キリストにならって主の忠実なしもべとして生きていくのです。キリストによる復活を信じる人なら、キリストによる復活の命にふさわしい人生を生きていくべきなのです。私はそのような生き方がまさに復活のある人生の真の意味ではないかと思います。 締め括り 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:1-3)神は旧約の民であったイスラエルに、起きて光を放てと命じられました。つまり、主の民にふさわしく正しく生きることを命じられたということです。この命令は、今を生きている私たちにも同様に当てはまる言葉です。特に、旧約のイスラエルと比べものにならないほど、キリストによって恵まれた私たちは、さらに光を放って生きるべきです。イエスの民として神と隣人を愛し、善を追い求め、悪を退けることで、私たちは一生を通して復活の権能を輝かして生きるべきです。この復活節の礼拝が、そういう人生を誓う機会になりますようにしたいものです。主の復活を喜び、復活のある人生を誓って生きる皆さんに三位一体なる神の豊かな愛と恵みが満ち溢れますように。主の祝福を祈り願います。

十字架のイエスを仰ぎ見る。

イザヤ書53章1-7節(旧1149頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19下-20節(新345頁) 前置き 今日から受難週が始まります。多くのキリスト者が、この受難週を通してキリストの苦難を思い起こし、自分の罪を悔い改め、栄光の主の復活を記念します。しかし、私たちは主の苦難を記念していても、その苦難についてよく理解していません。それは、人間が想像できるレベルの苦難ではなく、言葉では言い表せないほどの苦難であり、被造物が計り知れないほどの大きく、深く、広い意味を持っているからです。主の苦難を説教している私さえも、主の苦難を完全に理解することはできません。もしかすると、私はイエスの苦難がまったく分からない人であるかもしれません。しかし、それでも我々は主の苦難を理解できる範囲で学び、記念していくべきでしょう。私たちが主イエスの苦難をすべて理解するすべはないでしょうが、それでもその苦難の理由は、ほかの誰でもない私自身という罪人の救いのためだからです。今日の説教を通して主の苦難を学び、黙想して過ごす一週間になることを心から願います。 1.イエスの苦難について 説教を始めるにあたり、まず主がなぜ苦難を受けられることになったかを考えてみたいと思います。初めに神が天地を創造された時、神はその完成をとても喜ばれました。また、ご自分にかたどって人間を創り、何よりも満足されたのです。この世の創造そのものが、神の形を持って創られた人間への贈り物のようなものだったからです。しかし、人は自分の欲望のために神を裏切って罪を犯し、その罪の結果、神との関係が絶えるようになってしまいました。永遠の命である神と断絶することになった人間に訪れたのは永遠の死であり、まさにその永遠の死から人間の苦難は始まったのです。神と一緒に生きるために創造された人間が、神から離れることになったため、人間の苦難は必然的なものでした。神に背いた者に幸せはあり得ません。ただ苦難が待っているだけです。けれども、神は苦難の中の人間を見捨てられず、その人間を赦してくださるために自ら人間の姿で来られました。私たちはその方を私たちの主イエス•キリストと信じています。イエスは罪人を苦しめる永遠の死による苦難、つまり神との断絶という苦難を自らの体で代わりに背負って、罪人を救うためにこの世に来られたのです。 そういうわけで、キリストは罪人が担うべき苦難と侮辱と断絶を代わりに担当してくださいました。三位一体なる神は、三つにいまして一つなる神です。御父、御子、聖霊は、永遠の昔から永遠の未来まで、一つであり、絶対に断絶できない関係でおられます。お互いへの信頼と愛にあって、この世を導いていかれる方なのです。しかし、肉となって来られた神、御子が人間が担うべき苦難を、代わりに背負い、十字架で死んでいかれた時、神は人間の救いのために三位一体の関係から御子を断ち切って地獄のような苦難に投げかけられました。「陰府に下り」という使徒信条の告白は、このような神とキリストの断絶による苦難を言い表す表現なのです。私たちもこの世を生きつつ、苦難に遭う時があります。心の苦難、肉体の苦難など、数多くの苦難が私たちの人生にあります。しかし、我々の苦難と主の苦難は質的に全く異なるものです。神は私たちの苦難に対しては、イエス•キリストという仲保者をくださり、私たちと一緒にいて守ってくださいますが、イエスの苦難に対しては、徹底的に背を向けて死へと導かれました。我々の苦難には、仲保者がいますが、キリストの苦難には仲保者はいません。つまり、主イエスはすべての苦しみと痛みを徹底的に経験してくださったという意味です。罪人のために、そのすべての苦難を経験なさったキリストは、最終的に死の権能に勝利され、我々の救い主となってくださったのです。 ここで、私たちが誤解してはならないことがあります。イエス•キリストの苦難を、ただの肉体の苦難として受け止める誤解です。イエスの苦難は聖晩餐の後、オリーブ山でローマ兵士に逮捕された時点から始まったものではありません。キリストの苦難は、父がキリストをこの世に送ろうと計画された時から、キリストが飼い葉おけの赤ちゃんに生まれる前から、もしかしたら人間が堕落して神に追い出された時から始まったのであるかもしれません。神が人間になることそのものが、まさに苦難なのです。それだけに主は罪人を愛し、進んで苦難を受け、命を捧げられたのです。したがって、イエス•キリストの苦難は、私が受けるべき苦難であり、イエス•キリストが神に見捨てられたことは、私の代わりに見捨てられたということを、私たちは必ず覚えておくべきです。そして、そのすべての苦難を乗り切って復活されたイエス•キリストは永遠に変わらない私たちの仲保者として、今も後も私たちと一緒におられる方なのです。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6) 2.十字架-苦難が栄光になった象徴。 キリストが、このように私たちの代わりに苦難を受けられたことにより、もはや私たちの苦難は、私たちを滅ぼす死の脅威としての苦難ではなく、キリストの御守りと御愛の中で乗り越えることが出来る苦難となりました。新約聖書では、こういう苦難(キリストの支配下で受ける苦難)を栄光のための必須要素としてまで描いているほどです。キリストはすでに死の苦難に打ち勝ち、主の恵みのもとで我々と一緒におられます。ですので、私たちの苦難は私たち自身を成長させる訓練にはなるものの、私たちを滅ぼす死の道具にはなれません。主が苦難の概念を変えてくださったからです。私たちはこれを十字架から学ぶことが出来ます。元々十字架はローマ帝国の処刑道具だったと言われます。 特に、ローマ皇帝や政権を脅かす政治犯や、ローマ市民を殺そうとしていた奴隷に下された残酷な刑罰で、長い時間、苦痛を与えつつ最大限に死なないようにし、人間の精神的、肉体的な限界まで追い詰めた後殺す、最もひどい刑罰でした。これからの内容はけっこう残酷ですので、ご理解をお願いします。まず、十字架刑に処せられる死刑囚は、気絶するまで厳しくムチに打たれました。この時、ムチの先端には動物の骨片や、鋭い鉄片などがついていて、一度打つたびに罪人の肉片が剥がれ落ち、周りは血まみれになるほどでした。3世紀の歴史家エウセビオスの記録によると、このようなムチ打ちによって、ひどい場合は血管や筋肉が剝きだされ、さらにひどい場合は腹が裂かれて死ぬこともあったと言われます。 そのため、死刑囚の家族はムチを打つ執行人に賄賂を渡すほどだったそうです。優しくしてほしいという意味ではなく、苦痛を減らすために早く死なせてほしいという意味でした。すでにぼろぼろとなった死刑囚は、18-50Kgの横型の大きな木の棒を背負って刑場まで歩いていきました。その時も、ムチ打ちは休まず続きました。刑場に到着した死刑囚は、5-7インチの金釘に手首とかかとが刺されました。背負っていた木の棒は、その後、さらに大きな縦型の棒に固定され、死刑囚は十字架につけられることになります。すると、死刑囚は体重を支えるために体を動かし、その時、手首とかかとから血が噴き出します。この時、感じられるめまいは想像を超え、同時に激しい苦痛がして死刑囚が気絶することもあると言われます。そんな状態で、死刑囚は死ぬまでパレスチナの乾燥した気候にさらされ、徐々に枯れていくかのように死んでしまいます。そして最終的に死刑囚が死んだら生死を確認するために足の骨を折りますが、その場合、生きている死刑囚も足の骨が折れるショックによって絶命するのです。残酷な描写で申し訳ございませんが、これが実際にローマ時代に行われた十字架刑でした。何の罪もない主イエスは、罪人の救いのためにこういう十字架に処せられ、死んでくださったのです。 ところで、この十字架刑は旧約の焼き尽くす献げ物に非常によく似ています。イスラエルの民が焼き尽くす献げ物のため神殿に上る際、傷のない献げ物(雄牛、雄羊、雄山羊、鳩)を持ってくると、祭司は彼の手を生け贄の頭に乗せ、彼の罪を犠牲に転嫁し屠らせました。そして、犠牲の血をとった祭司は、その血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出し、肉は完全に焼き尽くして神に捧げました。それは民の変わりに犠牲を屠り、民の罪を贖う意味を持っていたのです。主イエスもご自分の民の贖いのために、ご自分の血を流し、十字架につき、まるで燃え尽くされるようにパレスチナの乾燥した気候の中で死んでいったのです。もともと十字架は呪いと恥の象徴でしたが、主イエスはこの十字架の上で人類のすべての罪を担われたのです。その後、時が経ち、キリスト教はローマ帝国の国教となり、十字架も処刑道具からキリストの贖いと恵みの象徴と変わったのです。つまり、イエスは十字架で罪人の代わりに苦難を受け、焼き尽くす献げ物のように死んでくださいました。この意味が変わった十字架のように、主はご自分の苦難を通して、私たちの苦難を主の栄光に変えてくださったのです。主の苦難は、ただのロマンチックな救いの物語ではありません。 私たちの救いのための主の壮絶な犠牲と愛の物語なのです。 締め括り 「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) キリストは、私たちの救いのために苦難を受けて死に、私たちの平和のために復活されました。そして、キリストは私たちを主の苦難と十字架にお招きになります。キリストはすでに十字架で苦難を受け、救いを成し遂げられましたので、もはや我々の苦難は死に至る苦難ではありません。そして、十字架はもはや恥と死の十字架ではありません。私たちは主の苦難と十字架を黙想し、主の苦難から学び、主と共に生きていきます。私たちが苦難に遭った時、主はその苦難の中におられ、私たちが十字架を仰ぎ見る時、一緒にその十字架を背負ってくださるでしょう。主の苦難が私たちを正しい道へと導き、主の十字架は私たちの義を証明するでしょう。今年も受難週が始まりました。私たちはこの一週間をどう生きていくべきでしょうか。今日の本文を憶えて、苦難と十字架の主を謙遜と愛をもって従って生きたいと思います。

主イエスの苦難を記念して。

ヨエル書2章12-14節(旧1423頁) マタイによる福音書26章17-30節(新52頁) 前置き 今年の復活節も、もう2週間後になっています。そして今日はレント、つまり四旬節の5週間目です。私たちは、毎年の四旬節と復活節を通して、イエス•キリストの苦難と復活と救いを記念します。主イエスが私たちのために苦難を受けられたということは、どういう意味でしょうか? また、主の復活は何を意味するでしょうか。そして、私たちのための救いとは何でしょうか? 復活については復活節記念礼拝を、救いについては今後の多くの説教を通して、また考えてみる予定ですので、今日は主イエスの苦難と、その苦難を記念するいくつかの理由について話してみたいと思います。付け加えて、私たちが今日、あずかろうとしている聖餐の意味についても部分的にでも考えてみましょう。   1.主の時を記念する。 「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうかと言った。イエスは言われた。都のあの人のところに行ってこう言いなさい。先生が、わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をすると言っています。」(17-18)過越祭と除酵祭は出エジプト記の有名な物語である、神の十の災いの中の「長子の裁き」(エジプトへの神の最後の災い)からイスラエルだけが救われたことを記念する旧約の祭りです。 過越祭と除酵祭はイスラエルの暦においてのニサンの月(現代の3、4月頃)の14日目と15日目の日のことで、連続している2日間です。イスラエルは一日が始まる時が、前の日の日の入りからであると見なしていたため、過越祭の夕方は、即ち除酵祭の始まりを意味していました。そいうわけで、人々は過越祭を除酵祭の一日目のように考える傾向があったと言われます。「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。」(出12:7-8)人々は、過越祭に生贄の羊をほふって、その血を入り口の二本の柱と鴨居に塗って神の裁きを免れ、その肉は日没後、除酵祭になった時、酵母のないパンと一緒に食べました。我々の主であるイエスは、まるでこの過越祭の羊の血と肉と除酵祭の酵母のないパンのように、主を信じる民の救いのためにご自分のすべてを与えてくださった方です。我々が聖餐を大切に守る理由も、このような主の苦難と救いを聖餐を通して記念するためです。 イエスは、この過越祭が終わって除酵祭が始まる時、ご自分のすべてをくださるために弟子たちと最後の晩餐を持たれました。その前に主は「わたしの時が近づいた。」と言われました。ここで言う「時」とは、単なる物理的な時間を意味することではありません。ギリシャ語には2つの時間に関する概念があります。それはクロノスとカイロスです。クロノスとは、私たちが意識している物理的な時間を意味します。本日の礼拝は10時15分から始まっており、11時20分頃に終わる予定です。このような単純な意味としての時間が、クロノスです。カイロスとは、例えば皆さんが大切な人に出会った時など、人生にあって特別な意味の時間、つまり決定的な瞬間としての時間を意味します。今日、主イエスが言われた「私の時」とは、どの時間を意味するでしょうか? それはカイロスです。このカイロスは消滅する時間ではありません。「今は午前10時半だが、次は夜10時半である」というような流れる時間ではなく、人が恋人や配偶者や子供と初めて出会った時に感じた特別な記憶が、何十年後にも特別な記憶として残っているように、カイロスは変わらない意味を持つ特別な時間なのです。神はご自分の決定的かつ特別なカイロスのために主イエスをお遣わしになりました。そして、神のカイロスが到来した時、イエスを十字架の生け贄としてくださり、ご自分の民、つまり私たちを救ってくださったのです。 イエスは神がお定めになった、そのカイロスの時間がやってきた時、人類の罪を赦してくださるためにご自分の尊い命を進んで捧げてくださいました。これによりイエスは、私たちの過去と現在と未来の、すべての時間に存在する、恐ろしい罪をご自分の時間、カイロスの中で解決してくださいました。そして、主のカイロスは人間のそれとは違い、決して変わらない絶対的な時間ですので、今後も永遠に変わりません。だから、主イエスの苦難による、私たちの救いは永遠に変わらないものです。イエスは2000年前におられた古代の方であり、私たちは現代を生きる現代人であると、かけ離れて感じられると思います。しかし、イエスはそのカイロスという絶対的に変わらない決定的な時間の中で私たちの救いを守り、保たせてくださいます。ですので、主は終わりの日に私たちが主によって復活させられ、神と永遠に生きる時まで、私たちを絶対に諦められず導いてくださるでしょう。主を信じる私たちは、すでにイエス・キリストの絶対的かつ変わらない永遠な時間であるカイロスの中で生きているからです。四旬節はこのような主の時間を記念する期間でもあります。主の苦難によって、私たちが主の時間の中で生きるようになったということ、そのために私たちの肉体が死んでも、私たちの存在は主の懐にあり、最後の日にまた生き返るだろうということ。四旬節の期間、私たちはその永遠の命を与えてくださったキリストと、その方のカイロスを記念するべきです。 2.「イエスが主であることを記念する。」 「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。弟子たちは非常に心を痛めて、主よ、まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた。 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、先生、まさかわたしのことではと言うと、イエスは言われた。それはあなたの言ったことだ。」(21-25) 主イエスは過越祭の食事の途中、弟子の中の誰かがご自分を裏切るだろうと言われました。その時、弟子たちは「主よ」という表現をしました。しかし、そのうちのイスカリオテのユダだけは「先生」と表現しています。私たちは「主」という表現を、まるで口癖のように何気なく使用したりします。しかし、主と先生とは全く違う重さを持っています。主とは「キュリオス」というギリシャ語で「皇帝、王、絶対者」の代名詞として使う呼称です。しかし、先生はヘブライ語で「ラビ」です。皆さんは私をキム先生とは呼んでおられますが、私を「主なるキムさま」とは呼ばれません。当たり前でしょう。私は聖書を教える牧師ではありますが、人を救う主には絶対になれないからです。主と先生の違いはこれほど、明白なのです。多くの人々がイエス•キリストを知ってはいますが、主に主として仕える人は少ないのです。私たちは、主イエスに「私の主」として仕えているでしょうか? それとも「私の先生」として仕えているでしょうか。イエスを適当に偉大な先生として扱う私たちではなく、私たちのすべてとも代えることの出来ない、かけがえのない大切な存在として、私の救い主、私の王、私の主としてイエスを記念する四旬節の期間にしたいものです。 3.霊と肉の救い主であることを記念する。 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26-28) 私たちは、なぜ聖餐の杯とパンを「食べる」のでしょうか? キリスト教は霊的な宗教であり、ヨハネの福音書によると神は霊ではありませんか。しかし、神は霊と肉と両方とも創造された方です。神がこの世を創造なさった時、主は世の中の秩序を正されると共に肉体を持った物質的な存在をも創造されました。そして、その最後には、人間という肉体を持った存在を造られたのです。そして神はその被造物すべてをご覧になって善しとされました。我々は、神の御手によって霊と肉を持った存在として生まれました。そういうわけで、神は私たちの肉体も大事にされます。たとえ、人間の罪によって人間の肉体が欲望を追い求めたり、悪に流れやすくなったりしても、神はご自分が、その御手で造られた肉を大事にされるのです。もちろん、その前提は、主に赦され、罪から解放された存在としての肉のことです。 その罪を赦してくださるために、神は自ら肉となって、キリストとして来てくださり、その肉体を持ったキリストを通して、肉体を持って生まれた私たちを罪から解放してくださったのです。主が私たちに「食べる」という行為を通して、主イエスを記念させられる理由も、このような理由があるからです。神は霊だけを大事にし、肉は不浄に扱われる方ではありません。霊と肉、両方とも主に創造されたからこそ、神は私たちの霊肉ともに大事にされるのです。私たちは、食べる行為である聖餐を通して、神が私たちの霊だけをお救いになった方ではなく、肉体をもお救いになった方であることが分かり、信じるようになるのです。神は私たちのすべてを主イエスを通して救ってくださったのです。ですから、私たちはイエスを霊的な救い主としてのみならず、肉の救い主であることも信じるべきです。つまり、霊と肉を含む私たちの人生のすべてにおいて、主が愛し、導き、救いを望んでおられることを忘れないようにしたいものです。主に救われた私たちは、死後に楽園に入ることだけを考えてはなりません。肉体を持って生きている今この瞬間も、私たちは主と共に歩む神の国を生きていることを肝に銘じて生きるべきです。だからこそ、四旬節を通して、今、私たちの日常について顧みる時間を持つべきでしょう。私たちの霊と肉は、いずれも主によって救われたからです。 締め括り 「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(29) 時間の関係上、やや飛躍的な説明になってしまうでしょうが、主イエスがおっしゃった29節の言葉の意味は「これから私はあなたたちの救いのために死ぬ。」と解釈が出来ます。主イエスは私たちの罪を赦し、私たちを新たにしてくださるために死んだお方です。そして、主はぶどうの木に象徴される、まことの喜びの中で私たちを復活させ、永遠に治めてくださるでしょう。この四旬節の期間が、その主の苦難と救いを憶える時間であることを願います。「主は言われる。今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」(ヨエル2:12-13)この期間を通して形式的な宗教行為から脱し、真に自分自身を振り返って、罪を痛感し、悔い改め、主イエスの苦難と救いを黙想する時間としたいものです。主の苦難があったからこそ、我々の救いもあるという、変わらぬ真理を憶えて生きたいと思います。神の恵みがレントを通して、主を愛する民の上に豊かにありますように。

家路に就かせてくださる主。

創世記30章25-43節(旧50頁) エフェソの信徒への手紙1章11-12節(新352頁) 1.今、私たちに与えられた状況の意味について。 伯父ラバンのためにヤコブは長い歳月の間、働きました。ヤコブは、まるで無料奉仕のような労働を20年もしなければなりませんでした。ヤコブは当初、ラケルをめとるために7年間の働きを約束しましたが、伯父ラバンは結婚の当日に、次女ラケルの代わりに長女レアをすり替えてしまいました。結局レアと結婚するようになったヤコブは再びラケルをめとるために、さらに7年間を働くことになりました。そして31章41節によると、ヤコブは2人の妻だけでなく、ラバンの羊のためにも、6年間を働いたと記してあります。しかし、気の毒にも彼に与えられた物質的な財産は、とても少なくみすぼらしかったのです。兄の長子の祝福を横取りしたヤコブの人生は祝福というより労働による疲れと適切な報酬のない呪いのような不条理なものになっていました。しかし、それでも彼は一生懸命働きました。彼は伯父にだまされ、家族の問題で思い煩い、正当な報酬が得られませんでしたが、それでも彼は自分に任された務めに最善を尽くして生きたのです。その結果、「わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。」(創世記30:30)ヤコブの労働により彼の伯父ラバンは栄えていきました。 ヤコブの足がいたるあらゆるところに神が祝福を及ぼしてくださり、その祝福がラバンにも行き渡ったわけです。 ヤコブへのラバンの行動は、明らかに指摘されるべき悪行でした。しかし、そんな不条理の中でのヤコブの人生にも、意味がありました。彼は責任を負わず、家族を捨てて逃げることも出来るはずでしたが、最後まで家族を守り、伯父との不条理な約束を守り、伯父の財産が豊かになるまで仕えました。彼は自分の状況に屈せず、任された務めをやり遂げて生きてきたのです。その結果はヤコブを通した神様の祝福でした。この本文を読みつつ、宗教改革者ジャン·カルヴァンの職業召命観という概念を思い出しました。神は、主の民それぞれがあらゆる活動に携わる中で、自分の召命を記憶し、神からの召命を尊重して生きることを命じられる方です。そして、私は職業だけでなく、私たちの人生のすべてにおいて神からの召命があると思います。つまり、今、私たちに託された状況は、主が私たちにくださった召命の一部だということです。確かに、ヤコブの20年は疲れと不条理の時間でしたが、主がヤコブにその状況を許してくださったことには理由があるのです。不当に感じられたその年月の間、ヤコブは自分の家を治める知恵を得、後を引き継ぐ子供たちが生まれ育ち、生まれ故郷にはヤコブの場所が設けられました。そして何よりも、自分のことだけを考えたヤコブが、もはや一種族を治める族長にふさわしく成長しました。今、私たちに許された全ての状況は神からの召命の一部です。私たちに与えられた現在の人生には神のご計画と御心が必ずあるのです。そして、主はこの我らの人生を通して、私たちを一層正しく導いてくださるでしょう。 2.この世の執拗さ。 したがって、私たちは今現在、自分の状況がうまく行かなくても、盲目的に不満を吐き出したり、すべてを諦めたりしてはならないのです。たとえ悪い状況だとしても、きっと神の御心と御導きがあるということを忘れてはいけません。今、皆さんの状況はいかがでしょうか? もしかして、到底納得できない状況下にいる方はおられませんか? しかし、いくら辛い状況の中だと言っても、それも神からの召命の一部であることを憶えて生きたいと思います。不条理や困難に無条件に我慢せよというわけではありません。不条理や困難の中でも自分に何ができるのか、また神が何を計画しておられるのかを顧み、すべてが主からの召命の一部であることを認識し、絶望せず主に尋ねつつ祈りの時間を持って乗り切っていくことを願いたいです。さて、伯父ラバンの不条理の中で生きてきたヤコブに、とうとう神の時が訪れました。「ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」(25-26) ヤコブがラバンとの約束を全うし、ついに生まれ故郷に帰ることを決心したということです。まだ末っ子のベニヤミンが生まれる前ですが、イスラエル民族を成す、ほとんどの息子たちがある程度成長し、ヤコブ自身にも自分の一族を導けるほどの知識と経験が出来たからです。 そして何よりも、神がアブラハムとイサクに与えてくださったカナンの約束の土地が、いまや神からいただいた自分の居場所であることに気が付いたからです。25節の「生まれ故郷」という表現の原文の意味は「自分が立っているべき場所」つまり自分が受け継いだ土地という意味です。異郷での不条理な20年の人生が、ヤコブに自分のまことの居場所を教えてくれたわけです。人の苦難と逆境はその人の居場所を示す人生の表示板なのです。苦難があるからこそ私たちの居場所である主のふところを憶えることが出来るのです。しかし、ラバンは優しい言葉で彼を手なずけました。「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ。」(27) ラバンは偶像を崇拝する者でした。彼は異邦の神の前で占いをし、その結果、ヤコブの主なる神が自分に祝福をくださったことに気づきました。しかし、彼は異邦の神を離れませんでした。ヤコブの主なる神と自分の異邦の神が別々の存在であり、ラバン自らが主なる神に属した者ではないことを示したわけです。先日、県庁の宗教係から連絡が来ました。宗教法人の代表者名義変更の件でしたが、牧師、教派など教会関係に馴染んでいないようでした。日本ではキリスト教はやや異質的な宗教であり、時には怪しく思われる時もあるようです。ヤコブもまたラバンの家でそんな存在でした。 もうこれ以上、ラバンの家はヤコブの家族がいるべき場所ではありませんでした。価値観が違い、ヤコブが受け継げない土地でした。それに気づいたヤコブに残されたのは、神が約束なさった自分の所、つまり約束の土地に帰ることしかありませんでした。しかし、ラバンはヤコブが離れないように口車に乗せて懐柔したのです。「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」(28)ラバンはヤコブの労働力を再び搾取するため、自分の貪欲のためにヤコブを送り出そうとしませんでした。「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」という言葉も、懐柔のための偽りに過ぎなかったと、何人かの学者たちは解釈しています。つまり、ヤコブはこれ以上ラバンの家にいることはできません。今、彼は断固としてラバンの懐柔を断ち切り、神が約束してくださった自分の土地に帰らなければなりません。私たちが生きているこの世も同様です。神への信仰のために新しい人生を生きようと誓う時、新約聖書ヨハネの手紙Ⅰの言葉のように「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ手紙一2:16)が私たちの回心を阻みます。しかし、私たちが神のもとに帰っていこうと悟り決めた時、確実に向き直って神のもとに進むべきです。世の甘い誘惑には新しい人生がないからです。帰らなければ、残るのはこれまでと同じ罪人としての憐れな人生にすぎないからです。 3.一方的な神の恵み 29節から43節までの物語は、時間の関係上、手短に説明させていただきます。ラバンが「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と言った時、ヤコブは一つの提案をしました。それはラバンの家畜の中で、ぶちとまだら、黒みがかった家畜(以下、色のある家畜)を自分のものにしたいとのことでした。すると、けちくさいラバンは、表ではよろしいと言いましたが、その家畜をすべて息子たちの手に任せ、遠くに送ってしまいました。ラバンの貪欲さが垣間見える場面です。それでもヤコブは失望せず、白い羊から色のある羊が生まれるようにし、結局は豊かになりました。ところで、面白いことは、ヤコブが、白い羊と山羊が水を飲む時、皮をはいだ木の枝を彼らに見せると、彼らが色のある子を産むようになったということです。実は白い家畜と色のある家畜の違いは、遺伝学で言われる優性と劣性の違いから生まれる事柄です。白い家畜は優性遺伝子が強いと言われ、色のある家畜は劣性遺伝子が強いと言われます。しかし、白い家畜にも劣性遺伝子がありえますし、色のある家畜にも優性遺伝子がありえますので、白い家畜からも十分色のある子が生まれることが出来るのです。こういう概念は西暦19世紀に入ってから明らかになりましたので、ヤコブが生きていた古代には、家畜の親の色によって子の色が決まると信じていたのです。そのため本文に出てくる皮をはいだ木の枝は、家畜に何の影響も及ぼすことが出来ません。ただ、ヤコブの願いが込められた象徴的な物ではなかったでしょうか。 とにかく重要なのは、白い家畜の中から数多くの色のある家畜が生まれたということです。神が古代人が認識できなかった羊や山羊の遺伝子を用いられて、ヤコブに多くの羊や山羊を与えてくださったのです。「こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにラクダやロバなどを持つようになった。」(43) このことを通して、ヤコブはラバンにもらえなかった20年間の報酬を、神の介入によって、満ちあふれるほど受け取ることができました。人間の常識と理解を超える神の恵みが、ヤコブという存在を貧しい労働者から、一族を導くに値する族長として格上げさせたのです。ヤコブはラバンの家に来て途方もない苦労をしました。しかし、その経験を通して彼は多くのことを学び得ることができました。家族、子供、財物ができ、自分の部族を導くリーダーシップを養うことができました。そして、一番大事なことは、自分が神の約束の相続人であり、自分に必ず帰るべきところがあるということをしみじみと痛感することになったということです。このすべてが20年以上、ヤコブの人生を見守ってこられた主なる神の一方的な恵みだったのです。つまり、ようやくヤコブは神の祝福の実現を見届けることになったということです。 締め括り 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) 今日の新約の本文のように、神はキリストを通して、その御心のままに一方的な恵みで、ご自分の民を導いていかれる方なのです。どんな苦難がご自分の民の生の中にあっても、主なる神は必ず民を見守り、結局は一番正しい道に導いてくださる方なのです。今日、私たちが分かち合った点は3つでした。第一、いかなる状況下でも、今の私たちの人生が神からの召命の一部であることを認め、神の御導きに信頼して生きるべきであること。第二、この世からの執拗な罪の誘惑と懐柔の中でも神からの召命を悟った主の民は、断固として神の方に向き直っていくべきということ。 第三、私たちの人生のすべてが、神の一方的なご恩寵のもとで、神の御導きによって進められているということ。それらの三つを忘れないようにしましょう。これからもヤコブは、多くの失敗を経て成長していきます。私たちの人生にも失敗があるものです。しかし、明らかなことは何があっても、神は私たちといつも一緒におられ、私たちを導いてくださるということです。今日の説教の題のように、主は私たちをまことの故郷、主のふところに導いてくださるでしょう。その神に信頼し、主を憶えて生きる私たちになっていきましょう。主なる神の豊かな恵みを祈り願います。