人の子の栄光

ダニエル7章1-14節(旧1393頁) マルコによる福音書10章32-45節(新82頁) 前置き これまでの私の説教には、私たち自身の現実の生活を振り返り、「どうすればキリスト者らしく生きることができるだろうか」という質問が多かったと思います。そのため、私たちの人生の在り方。すなわち、「しなければならないこと」と「してはならないこと」に関する言及が多かったと思います。もちろん聖書を通じて生活の教訓を得ること、実践を追い求める教えを得ることは、とても重要なことだと思います。これからも私の説教では、そのような趣旨の内容が続いて伝えられるでしょう。しかし、今日の説教だけは、徹底的にキリストだけについて学ぶ時間になってほしいと思います。私たちが何をして、どのように生きるべきかについての実践的な説明よりは、キリストがなぜご自分のことを「人の子」と呼ばれたのか、「人の子」とは、どういう存在なのか、その「人の子」の「栄光」とは何であるか、私たちが「人の子」であるキリストの「栄光」に加わるということは、どういう意味なのか、そのような多少キリスト論的な内容を中心に話したいと思います。 1.人の子とは誰なのか? 今日の本文の始めには、イエスの死についての予告が出てきています。主は8章、9章、10章を通じて、ご自分の死について3回にわたって言われました。ところが、その度に弟子たちは戸惑いを覚えたように見えます。彼らが考えてきたメシアは政治的、軍事的にローマ帝国を圧倒する強力な存在であるべきだったのに、イエスは繰り返し自ら死ぬと断言されるからです。イエスを強力なメシアだと期待していた弟子たちにとって、イエスの死はあり得ず、あってはならないことだったからです。それにもかかわらず、イエスはご自分の死をますます強調し続けられたのです。マルコによる福音書8章でペトロは言いました。「あなたは、メシアです。」(8:29) マルコによる福音書には記録されていませんが、マタイによる福音書でイエスはその言葉を肯定されました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)すなわち、福音書全体から見れば、主イエスはご自身がメシアであることを知っておられたに違いありません。それにもかかわらず、なぜイエスはメシアらしくなく、自らの死を認められたのでしょうか。それはまさにイエスが死ぬために来られたメシアだったからです。主はおっしゃいました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45) 私たちはこの本文を通じて、主の奉仕について目を注ぎがちです。そして、それを根拠に私たちの他人への奉仕と善行の実践について強調しがちです。もちろん、そのような解釈をしても問題ないでしょう。確かに主は人類に仕えるために来られたからです。しかし、本文の場面は十字架の苦難を受けるためにエルサレムに上っている状況であることを見逃してはなりません。主は他者への奉仕とともに、その仕えの極みである贖いの死のために来られたからです。ところで、この本文で目立つ表現があります。それは「人の子」という表現です。主は福音書のあちこちで自らを「人の子」と呼んでおられます。それでは、この人の子はどういう意味を持っているでしょうか?そのために私たちは、まずダニエル書を確かめる必要があります。「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)ダニエル書は、世界を治めるメシアの出現を「人の子のような者」と表現しているからです。人の子とは、ダニエル書7章に先立って登場する「四頭の大きな獣」と対比される存在です。獣がどんなに強力であっても、万物の霊長である人間を越えることは出来ないように、人の子は恐ろしい獣たちを圧倒する神的な存在なのです。「天の雲に乗り」という表現がこれを裏付けています。 聖書で「天、雲」は神の栄光と臨在を意味する表現であるためです。イエスが自らを人の子と呼ばれた理由には、まさにこのようなメシア的な意味が含まれているからです。普通、今日の本文の「四頭の大きな獣」は、当時のアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ帝国を意味するものとして知られています。しかし、人の子であるメシアはその全てを圧倒する強力な存在として、神の御前に立つのです。しかし、人の子の働き方は人間の漠然とした望みである「すべてを圧倒する強力なメシア」そのままではありません。なぜなら、聖書で言う人の子は「人間の息子」という意味としても使われるからです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8編4節)この詩篇の言葉の他にも、聖書で「人の子」という表現は、メシアの意味ではなく、ある一人の人間を意味する場合もあります。つまり、「人の子」には両面性があるということです。イエスは自らを「人の子」と呼ばれました。しかし、イエスは強いメシアとしての「人の子」であると共に、殺されうる弱い人間としての「人の子」でもある方なのです。ここで、私たちは神の働き方を見つけることができます。神は主イエスの弱さと強さ両方とも用いられ、神の御業を成し遂げていかれるのです。主イエスの弱さと死で、ご自分の民の強さと命を造り出していかれるのです。 「人の子」イエス•キリストは、そのような存在です。もともと誰も近づくことの出来ない神そのものである方でしたが、弱い人間の体を持ってお生まれになったので、死にうるようになった方です。もし、イエスが強いばかりの方なら、どのように人間の罪を償うために死ぬことが出来、もし、イエスが弱いばかりの方なら、どのように人間を死のくびきから救い出すことが出来るのでしょうか。神はこの「人の子」という表現の中にある、弱さと強さを適切に用いられ、ご自分の御業を完璧に成し遂げていかれるのです。神である主イエスは自ら「人の子」になり、罪人の側にあって弱くなられました。そして罪人に代わって死んでくださいました。また、主は自ら「人の子」になり、神の側にあって強くなられました。そして罪人を救い出し、命を与えてくださいました。したがって聖書で、この「人の子」という表現を見る度に自ら弱くなって罪人の傍らに立ったイエス、自ら強くなって神の傍らに立ったイエス、そして、それらの弱さと強さの間で神と人を執り成されたイエス・キリストを覚えてください。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)この言葉を必ず覚えておきたいです。 2.栄光とは何か? 今日の本文で「人の子」と共にもう一つ考えてみたい表現がありますが、それは「栄光」です。本文で、ヤコブとヨハネ兄弟はイエスに大きな無礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:35-37) 主イエスに、主の栄光の時に権力をくださいとわがままに要求したのです。主はご自分の死を語っておられましたが、なぜ、この二人の兄弟は自分たちの未来の権力に執着したのでしょうか。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23) このように、主はご自分の死を栄光と表現されました。おそらく彼らは今まで主イエスと同道しながら、主の死と復活の時に栄光をお受けになるという話を何度も聞いてきたでしょう。つまり、彼らは主が栄光の中で死んで復活し、また、この世を支配する真の栄光のメシアになり、ローマ帝国を倒すだろうと思ったでしょう。もし、そうだったら、彼らは主の栄光を完全に誤解していたと言えます。もしかしたら私たちも「主の栄光」を誤解しているかもしれません。栄光の漢字語自体が私たちを誤解させます。「栄の光」のような意味に感じられるからです。しかし、聖書が語る栄光は、そんな意味とは異なります。「栄光」のギリシャ語は「ドクサ」と言います。「ドクサ」は「意見、見解、考え、思い」などの意味の名詞ですが、その語源である動詞「トケオ—」は「ーについて考える。–と見なされる。」という意味です。 そして、聖書で使われる文法は「-について考える。-と見なされる。」という意味を超えて、「-に対する正しい見方を持つ。-という見方に影響を及ぼす。」という意味にまで展開されます。つまり、聖書が語る「主の栄光」とは、「主への正しい見方を持つ」という意味です。ただ、主の栄えた光を意味するのではなく「主イエスの存在理由を正しく知る」という意味です。先ほど「人の子」イエスは死ぬために来られたと話しました。イエスが人間の体を持って来られた理由は、罪人の代わりに死ぬためです。死んでこそ救うことが出来るようになるからです。イエスの復活も栄光ですが、復活のために死ぬこともイエスの栄光、すなわち「人の子」イエスが存在する理由なのです。それを正しく知ることから、はじめて主に栄光を捧げることが出来るようになるのです。聖書が語る栄光とは、ある存在が自分の存在理由に合わせて確実に生きていく時に成し遂げられるものです。御父は神として存在される時に栄光をお受けになります。つまり、父なる神は常に神であるため、神の栄光はすでに存在し、存在しており、これからも存在するでしょう。イエスは十字架で死に、復活して民をお救いになる時に栄光をお受けになります。主イエスはすでに民のために死に、再び生き返って栄光の中におられる方です。聖霊はキリストの教会を導かれる時に栄光をお受けになります。変わることなく教会を導いていかれる聖霊は、すでに栄光の中におられる方です。それなら人間の栄光は何でしょうか。造り主であり、救い主である主なる神を正しく知り、信じて、従う生き方、つまり創造摂理に忠実なことこそがまさに人間にとっては栄光なのです。 締め括り 今日の説教を通して、人の子についてはある程度説明が出来たと思いますが、時間の関係で、栄光については説明が少し足りなかったと思います。しかし、いつか、また「栄光」について話す機会があるでしょう。今日、私たちは「人の子」について、そして「栄光」について学びました。栄光の主イエス•キリストは、主の栄光のために、私たちのために、私たちの罪と共に死んでくださった弱い「人の子」であります。そして、その弱い主は、私たちの救いのために死から私たちの命と共に復活された、強い「人の子」でもあります。私たちはこのような弱いが強く、強いが弱い、そしてそのすべてを用いられて私たちの救いを確証してくださるイエス•キリストの民です。このイエスを正しく知り、その方の存在理由を常に心に留めて生きることこそが、まさに私たちキリスト者の栄光なのです。もし、今日の説教が難しく感じられたら、ホームページの説教文をもう一度確認してください。そして、もし説教原稿が必要でしたら教えてください。イエス•キリストについてより深く学び、悟っていく私たち志免教会になることを願います。この一週間も栄光の人の子であるイエス•キリストの恵みにあって生きていくことを祈ります。

ヨセフの夢

創世記37章1-11節(旧63頁) テモテへの手紙第二2章15節(新393頁) 前置き 前回の創世記の説教では35章の言葉を通じてベテルという場所について話しました。なぜ、ヤコブはベテルに行かなければならなかったのか、現在の私たちにとってベテルとはどういう意味を持つのかについて学びました。ヤコブがベテルに行かなければならなかった理由は、そこが神とヤコブの約束の場所だったからです。また私たちがベテルを大事にすべき理由は、イエス•キリストによる神との和解、罪への悔い改めを象徴する場所だからです。キリスト者である私たちは、常に神との関係の中に生きるべき存在です。キリストの救いを通じて、神の所有となった私たちは、もはや「私自身」が主ではなく「神」が主となった存在だからです。私たちは毎日の自分の生活を振り返り、今、自分の中心となった存在が自分自身であるか、それとも神であるかを考えつつ生きる必要があります。私たちは常に神が中心にいらっしゃる神の家、つまり「ベテル」を憶え、追い求めて生きるべきです。そこに私たちの主である神が私たちを待っておられるからです。 1.35章の後半と36章について。 もともと今日の説教は、引き続き35章の残りの箇所について取り上げる予定でした。しかし、ベテルに立ち戻ったヤコブの物語を最後にヤコブの話を一段落したいと思います。そこで、35章の後半は手短に触れることで終わりたいと思います。また、36章の内容はエサウの系図の話であるため、別に言及せずに進みたいと思います。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。」(創世記35:5) ヤコブは神の一方的なお助けによって無事にベテルに到着しました。神を憶え、立ち戻ることを望む者、神の御前に出て悔い改めることを願う者には、誰も邪魔することができません。神はご自分に帰り、悔い改める主の民を憐れんでお迎えくださる方だからです。私たちが悔い改めて神に帰ろうとする時、神は誰にも邪魔されないように私たちを守ってくださいます。そして、そのような私たちを祝福してくださるでしょう。神は主の民の悔い改めを何よりも喜ばれる方だからです。「神は、また彼に言われた。わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」(創世記35:11-12) そして神は主の下に帰ってきたヤコブに祖父と父に与えた約束と祝福をもう一度確かめてくださいました。 神はご自分の民との約束を絶対に忘れずに守ってくださる方です。神はアダム(創世記1:28)、ノア(創世記8:17)、そして、アブラハム(創世記15:5)にくださった祝福の約束の宣言を、ベテルの神の下に帰ってきたヤコブにもしてくださいました。今後、神はヤコブとその子孫を通して神の約束を成し遂げていかれるでしょう。新約時代を生きる私たちは、神がヤコブとお結びになった約束の成就であるイエス•キリストの民として生きていく存在です。また神はキリストを通じて、私たちに救いの約束をくださいました。イエスの救いの中に生きる新約時代の民である私たちは、移り変わりのない主イエスの約束によって、神の愛と導きの中に生きているのです。35章には3人の死が記録されています。ヤコブの母であるリベカの乳母デボラの死(8節)、ヤコブの妻ラケルの死(19節)、ヤコブの父イサクの死(29節)であります。ヤコブは野望と欲望で生きる人でした。自分の目標のために父と兄をだましたり、しつこく欲を張ったりする存在だったのです。しかし、そんなしつこい生き方にも関わらず、結局、身内の死を防ぐことはできませんでした。死を目の前にして人間の欲望は、どういう意味を持つでしょうか。私たちはいつか私たちを訪れてくる死の前で、人生の真の意味について考えてみるべきです。「ヤコブは、キルヤト・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクのところへ行った。そこは、イサクだけでなく、アブラハムも滞在していた所である。」(創世記35:27)最後にヤコブはいよいよ父イサクの地、主が約束された土地にたどり着きました。 2。御言葉をくださる神。 では、37章の言葉を見てみましょう。「ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。」(創世記37:1) ヤコブはついに自分の居場所に住むことになりました。 1節にはヤコブの父イサクが、カナン地方に「滞在」していたと記されています。しかし、ヤコブはそこに「住んで」いたと記されています。「滞在」と「住む」は大きな違いを持つ表現です。辞書的な意味も全然違います。滞在は「よそに行って一定の期間そこに留まること。」住むは「居所を定めて、そこで生活する。」と説明しています。原文はどうでしょうか?イサクの「滞在」は「マグル」という表現で「宿泊」の意味を持っています。ヤコブの「住む」は「ヤシャブ」という表現で「安定的に居住する」という意味を持っています。父のイサクにとっては滞在の地であったカナンが、息子のヤコブにとっては住いとなったということです。神は約束をお忘れにならない方です。かつて主は滞在者だったアブラハムとイサクにその土地を与えると約束されました。そして神はその孫であるヤコブをアブラハムに約束された土地に住ませてくださいました。つまり、神はその約束に基づいて必ずヤコブの人生への責任を負ってくださるという意味です。なのに、ヤコブは約束を信じず自ら自分の人生を守ろうとしました。そんな理由で神の御心からはずれたりする時もありました。結局、彼はシケムでひどい目に遭ってしまいました。悔い改めてベテルに立ち戻ったヤコブに与えられたのは、祖父、父にとっては滞在の地であったカナンが、ヤコブ自身にとっては住いの地となっていたという事実でした。 確かに、しばらくしてヤコブは大飢饉を避けてエジプトに向かうことになります。しかし、神はその400年後にヤコブの住いだったカナンの地に、彼の子孫イスラエルをまた呼び集めてくださったのです。そこは神がアブラハム、イサク、ヤコブと約束された契約の地であるからです。神のご計画は一点一画も誤りなく完全です。そして神の民はそのご計画にあって生きるべきです。この言葉を誤解してはいけません。神の計画にあって生きなければならないから、自分は何もやらなくても良いという意味ではありません。私たちは変らず熱心に自分の人生を生きていかなければなりません。しかし、その人生の歩みが神の計画と御心において進んでいるかどうかを点検し、常に主の御言葉を通じて私たちがいるべき場所を確認しつつ生きるべきであるという意味です。私たちの居場所は神の計画、御心、そして約束の中でなければなりません。ヤコブが神の御心に従ってベテルに向かい、結局約束の地にたどり着いて住み始めた時、主はその息子ヨセフを通して主の御言葉を示す夢を見せてくださいました。主の民が主の御心にしたがって生きる時、神は御言葉をくださいます。主の民が主の御言葉を通じてより正しい道を歩んでいけるように主は御言葉をくださるのです。神の御言葉をいただきたいですか。それなら神の約束の中にお住まいください。神の御心を常に求め、「どのように生きれば、神の約束の中に住むことが出来るか」を考え抜きつつ生きていきましょう。そのような民に主は必ず答えてくださるでしょう。 3.言葉を預かった者は謙虚に生きなければならない。 「ヨセフは言った。聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(創世記37:6-7)今日の本文を通して、私たちはヨセフがまだ分別がなく、未熟な人だったということが分かります。兄たちの過ちを父親に告げ口して兄たちの気に障る姿が見られます。そして自分の夢を偉そうに言いふらして親兄弟に失礼な言動をすることが分かります。しかし、彼の夢は数十年後に実際に起きることをあらかじめ見せてくれる一種の神の啓示(言葉)でした。なぜなら、ヨセフは実際に当時の巨大な帝国エジプトの宮廷の責任者(総理)になり、人々にひれ伏されるからです。神は未来に起きる実際のことをヨセフの夢を通して啓示(言葉)されたのです。しかし、分別なく未熟だったヨセフはそれを配慮なく言い表してしまい、他人の心を傷つけてしまいました。つまり、ヨセフは神の御言葉を預かった者でした。しかし、彼の愚かな言動によって、大切な神の御言葉は周りの人々に伝わりませんでした。神の御言葉を預かった者は謙遜でなければなりません。牧師、教師はもとより長老、執事、そして私たち皆が神の御言葉を預かった者です。私たちは神の御言葉の源であるイエス•キリストの体なる教会だからです。私たちには生ける神の、生き生きとした御言葉が共にあります。私たちの謙虚によって神の御言葉が広く伝えられることもあり、私たちの高慢によって神の御言葉が妨げられることもあります。 使徒パウロは、自分の愛弟子であるテモテにこう言いました。「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」(Ⅱテモテ2:15) 私たちは若いヨセフのように軽んじて神の御言葉を取り扱ってはなりません。御言葉を預かった私たちは、御言葉を大事にし、自らをわきまえて、恥じるところのない働き手と認められた者らしく、神の御前に生きるべき存在です。私たちキリスト者の一歩一歩が、神を知らない隣人への神の御言葉であることを憶え、謙虚に生きていくべきです。最後に「夢による啓示」についての一言で説教を終えたいと思います。新約時代を生きる私たちは、新旧約聖書が唯一の神の啓示(言葉)であると信じています。しかし、聖書の記録される前、例えば創世紀の時代やイスラエルが堕落した時代、新約聖書の完成前などの時は、夢や幻などで神の啓示が伝えられたりもしました。しかし、今は違います。教会が立っているところであれば、どこでも神の御言葉である新旧約聖書を読み、その言葉による説教を聞くことができます。従って、今の時代の日本には夢による啓示がほとんどないと言っても過言ではないでしょう。神の啓示は個人に密かに伝えられるものではありません。誰か自分の夢を通して神が啓示されたという人がいたら、まずは疑いましょう。そして牧師に問い合わせてください。「真理の言葉を正しく分別」して啓示を私的に使おうとする者に注意してください。 締め括り これから創世記はヨセフが主人公として登場するようになります。ヨセフも曽祖父、祖父、父のように間違いの中で彼の歩みを始めました。しかし、主はこの未熟で取るに足らないヨセフを通して、偉大な主の歴史を作っていかれます。今日の説教で大切なこととして取り上げたのは、「一つ、神は悔い改める者を必ず守ってくださる。」「二つ、神の約束に従ってヤコブはカナンの滞在者ではなく、住人になった。」「三つ、御言葉を預かった者は謙虚に生きるべきである。」でした。いろいろありましたが、この三つが最も大事だと思います。これから繰り広げられるヨセフの物語を通じて神のご恩寵と御愛を味わっていくことを願います。創世記ももう後半です。残りの箇所も頑張りましょう。今週一週間も主の約束の中に、謙虚に生きる志免教会になりますように祈り願います。

まことの富とは何か。

詩編49編7-9節 (旧882頁) マルコによる福音書10章13-22節 (新81頁) 前置き マルコによる福音書の説教を始めてから、もう1年半が経ちました。最初、マルコによる福音書の説教を始めた時、私はローマ帝国の迫害の下で苦しんでいたキリスト者たちを慰め励ますために、この福音書が記録されたと話しました。マルコによる福音書1章でイエスが最初におっしゃった言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。」でした。つまり、マルコによる福音書は、苦難と迫害にさらされているキリスト者たちに「神の国」という理想的な世界が、キリストによってまもなく到来することを宣言する、希望のメッセージだったのです。そのためかイエスはマルコによる福音書の所々で神の国について言われるのです。今日の本文も例外ではありません。したがって、今日の本文も、その「神の国」という観点から取り上げる必要があります。特に、今日は「富」と「神の国」とを結びつけて話しています。人間の一生において、富とはとても大事な事柄です。適切な富がなければ、私たちは飢えるか他人に迷惑をかけることになるでしょう。しかし、私たちがキリスト者である限り、この世が追い求める貪欲に染まった富の価値観に、そのままついていくわけにはいきません。私たちキリスト者にとって、真の「富」とは何でしょうか。今日の本文を通じて富について考えてみたいと思います。 1.子供のような者–神の国を所有する者。 10章1節では、イエスがユダヤ地方に行かれたと記されています。当時のユダヤ地方といえば、エルサレムを中心とするイスラエルの中心部を意味します。比喩で言うと東京23区のような所だったでしょうか。つまり、イスラエルの宗教、政治、経済、社会の中心部であり、物質的にも、精神的にも最も豊かな地域だったということでしょう。ところが、そこに行かれたイエスが初めて体験されたことは、前回の説教でも取り上げた間違った結婚観によるファリサイ派の人々の質問攻めでした。当時ユダヤ人は結婚と離婚をあまりにも軽んじているだけでなく、宗教指導者たちさえも結婚に関する律法の教えを誤って理解していました。ユダヤ地方は物質的だけでなく、精神的にも最も豊かであるべきユダヤ教の中心地だったのに、むしろ宗教の中心地という華やかな表だけで、精神的な貧困によって聖書の本来の意味さえも、まともに理解できずにいたのです。表向きは裕福そうな地域でしたが、心の中は貧弱極まりない状況だったということです。そして今日の本文は、そのようなユダヤ地方の状況を改めて想起させる物語なのです。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(13) ところで、今日の本文を通じて、私たちはイエスの弟子たちも当時のファリサイ派の人々と大差ない姿を見せることが分かります。彼らもまた、ファリサイ派の人々のように目に見えることだけを見て、本当に重要な価値に気付かずにいたのです。 なぜかというと、弟子たちが「イエスに触れていただく」ことを願って子供たちを連れてきた人々を叱ったからです。ここで「触れる」を意味するギリシャ語「ハプトマイ」は「所属する、関わる」という基本的な意味を持っています。自ら主に帰属するために来た存在を、主の弟子たちが外見だけを見て叱り、追い出したわけです。その時、主は弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とおっしゃいました。当時、子供たちは大人の思いに左右される存在でした。大人たちの言葉をそのままに受け入れ、従順に従わなければならない存在だったのです。しかし、それだけに子供たちは、ずる賢くなく純粋でした。イエスはそのような子供たちを貴いとされました。単純に弱い者であるからだけでなく、純粋で謙虚に大人に従う彼らの生き方を愛されたからです。主は子供たちの中に神に従順に聞き従うべきキリスト者の在り方を見つけられたでしょう。そして、主はそのような子供たちのように主に従う者たちこそが、神の国を所有することができると教えたのです。表では裕福そうでしたが、裏では神の言葉である律法を、まともに理解できなかったユダヤのファリサイ派の人々より、表面的には弱いが、そのままに主の御言葉に聞き従う子供のような者たちが、真に神に愛される存在であることを、子供たちを受け入れることで見せてくださったのです。ここで、私たちは神の国を所有することができる、真の裕福な者とは子供のように神の御言葉に純粋に聞き従う者であることが分かります。 2.永遠な命とは何か? 子供たちが去った後、イエスの所に、ある金持ちの男が訪ねてきました。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(17) そして彼はイエスにどうすれば永遠の命を得ることができるかについて質問しました。ところで、ここで永遠の命とは何でしょうか。ただ長生きすることでしょうか。もし、人が死なずに数千年、数万年も生きるとしたら果たして幸せでしょうか?もしかして退屈にならないでしょうか。私たちはキリスト教が語る永遠の命について、正しい理解を持たなければなりません。今日の本文の永遠の命のギリシャ語は「ゾエン・アイオニオン」という表現で、「アイオニオン」は「常に、いつも」を、また「ゾエン(ゾエ)」は「命」を意味する表現です。つまり、常に命にあって生きることを意味します。しかし「ゾエ」は単純に生物学的な命を意味する表現ではありません。英語には「バイオ(BIO)」という単語があります。バイオは生物学的な命、つまり肉体の命を意味します。そういうわけで、生物学をバイオロジーといいます。ところが、このバイオという表現はギリシャ語の「ビオス」に由来します。ギリシャ語には生物学的で物理的な命を意味する「ビオス」と、根源的な(霊的な)命を意味する「ゾエ」が区別されています。今日の本文で永遠の命には「ビオス」ではなく「ゾエ」という表現が使われました。つまり、聖書が語る永遠の命とは、肉体の命を超え、それより深い意味を持つ根源的な命を意味するのです。 言い換えれば「ゾエ」は、根本的で霊的な命を意味します。そして神に由来する命をも意味します。聖書はその「ゾエ」の源が神であると証ししています。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩編36:10) 神がこの世の中を創造されたのも、この神の「命(ゾエ)」を世の中に表したものです。キリスト者が、主によって救われ、真の命を得たという表現も、単純に「ビオス」的な表現ではなく、真の「ゾエ」を得たという意味です。したがって、聖書が語る永遠の命とは、神に「命(ゾエ)」を得て限りなく根源的な命を享受することになったという意味です。つまり、命の源である神と、いつも、常に一緒に生きるようになったという意味です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3) そしてさらに聖書はこの永遠の命はイエス•キリストを通じて得ることになると証言しています。そのような意味として、今日の、イエスの前に出てきて「触れていただく」ことを願った子供たちは、真の永遠の命を見つけた存在であったかもしれません。そして、彼らこそが神と一緒に生きる、真の裕福な者だったのかもしれません。永遠の命とはいつも神と一緒に生きることです。永遠の命は神を信じ、その御言葉に従順に生きる人々に与えられる神の贈り物なのです。今日の御言葉は、その永遠の命を持った者こそが、まさに真の裕福な者であることを私たちに教えてくれるのです。 3.真の富とは何か? 今日の17節に登場するイエスのところにやってきた金持ちの男は、一見、永遠の命を探求する者と見られます。最初の質問が永遠の命についての問いだったからです。またイエスを善い先生と告白し、律法もよく守る者です。どこから見ても理想的な信仰者です。そして金持ちです。もし、このように信仰を追求し、御言葉に真剣であり、イエスに友好な金持ちの人が、志免教会に来たら、私たちは皆その人を疑わずに大歓迎するでしょう。彼は教会に活気を与え、毎週の献金も目立って増えるでしょう。しかし、イエスもそう考えられたでしょうか。イエスは人の外見だけをご覧になる方ではありません。もちろん主は本文の金持ちの男の情熱を慈しんでおられます。しかし、イエスはそこで留まらず、彼の最も弱い部分を見抜かれて鋭く掘り下げられました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21) 主にこう指摘された金持ちの男は、自分の多くの財物のため、悲しみながら主のもとを立ち去りました。何も持っておらず、力の弱い子供たちが主の御前に無邪気に出てきたのとは反対に、彼は自分の力でイエスの前に出てきて、自分の思い通り信仰にも熱心に生きてきましたが、彼の財物を標的とした主の鋭い指摘の前で崩れてしまったのです。彼は自分の持ち物を諦めることができず、真の富であり、永遠の命であるキリストとの歩みを逃してしまいました。 聖書が語る富は、非常に霊的な事柄です。これは単純な財物の多寡の問題ではありません。イエス•キリストに人生の希望を置いて神の国を待望する者は、貧富を問わず、実際には裕福な者です。財物、名誉、権力など、神以外のものを追求するために神の国への待望も、期待もない者は、いくら富裕と言っても実際には貧しい者です。イエスの前に出てきた子供たちは低くて貧しい存在だったかもしれません。けれども、彼らは主の祝福を限りなく享受する真の富を持った存在でした。主と歩むことが出来る永遠の命が彼らにはあったかもしれません。しかし、多くの財物を持っている金持ちの男は、もしかしたら自分の財物を守るために主との歩みを諦めてしまった霊的に貧しい者だったのかもしれません。聖書が語る富の基準は、神に属することを望むか否かの問題です。人間は貪欲に満ち、満足を知らない存在です。今日、主イエスがおっしゃった「天に富を積む」という言葉の意味は貪欲を捨て、神の完全なご支配に自身のすべてを委ねるという意味です。(多くの献金をしなさいという意味ではない。) もし神を最も大事な方とし、すべてを神に委ねることが出来るならば、その人は真の裕福な者であり、永遠の命を享受する者であるでしょう。しかし、神以外の自分の物事のために神の御心に聞き従えない者は、真の貧しい者であり、永遠の命から遠い者であるでしょう。今日の物語は私たちに、富に対する霊的かつ根源的な基準について教えているのです。 締め括り 「どうして恐れることがあろうか、財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」(詩編49:7-8) 詩編は富の虚しさについてこう話しています。いくら多くの財物を持っていると言っても、人は皆死んで神のところに戻らなければなりません。いくら多くの財物があると言っても、一人の魂を救うには、とても足りません。真の富とは私たちが持っている財物ではなく、主への私たちの信仰にかかっています。主への信仰こそが私たちの魂を救いに至らせる唯一の道だからです。神の国では財物の多少ではなく、神への純粋な信仰だけが真の富と認められます。確かに私たちに、ある程度の富は必要です。家庭を守るために、子供を育てるために、老後の生活のために、私たちは富を積まなければなりません。つまり、富そのものは悪ではありません。しかし、それが私たちにとって真の富ではないことを常に念頭に置いて生きるべきでしょう。私たちの真の富は主なる神への私たちの信仰と従順に従う人生そのものです。私たちの心があるところに私たちの富もあるのです。この世の富ではなく、神の国で認められる富が、私たちが追求すべき真の富であることを憶え、この世の財物より、神への信仰をより大切にする私たちになることを願います。そのような生き方に主は真の富を豊かに与えてくださるでしょう。

祈り

歴代誌下7章14節(旧679頁) マタイによる福音書6章5-8節(新9頁) 前置き  祈りとは何でしょうか。私たちは、祈りによって礼拝を始め、祈りによって礼拝を終わります。また、祈りたけのために水曜祈祷会を守り、常に個人の祈りをし、中会、大会の時も祈りによって始まります。そして、聖書も祈りについて、非常に大事に扱い、主イエスも生前に祈りの歩みを歩かれました。このように祈りはとても大事なキリスト者の信仰の行為なのです。今日は、聖書の御言葉を通して、この祈りというものについて一緒に考えてみたいと思います。 1.旧約時代の祈りの場-神殿 「あなたは天からその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。(歴代誌下6:35)」歴代誌下6章にはソロモンの祈りが記してあります。エルサレムの神殿が完成された日、ソロモンは神殿で祈りました。彼は神がご自分の民を哀れみ助け、最後まで導いてくださることを願いました。ソロモンはイスラエルの神だけがイスラエルの主であり、助けてくださる全能者であると祈りました。すると、神はその夜にソロモンの夢に現れ、今日の旧約本文のように言われました。 『もし、私の名をもって呼ばれている私の民が、跪いて祈り、私の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、私は天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。』(歴代誌下7:14)神はソロモンが捧げた神殿をご自分の民の祈りを聞かれる場所にしてくださいました。「今後この所で捧げられる祈りに、私の目を向け、耳を傾ける。今後、私はこの神殿を選んで聖別し、そこに私の名をいつまでも留める。私は絶えずこれに目を向け、心を寄せる。」(歴代誌下7:15-16)イスラエルの神殿は特別な場所でした。神殿に当たる概念は出エジプト記の時代にもありました。その時は幕屋と呼ばれる仮小屋でしたが、それは主がくださった十戒の石板が入った契約の箱が置かれる場所でした。契約の箱は神の足台とも呼ばれましたが、それは神がこの地上に直接関わっておられるという意味でした。幕屋は人間の罪のゆえに神との関係が崩れたこの世に、神が積極的に関わられ、特に神に選ばれた民と一緒におられることを示す、神のご臨在の象徴でした。ところで、ソロモンはその幕屋をいっそう大きくアップグレードして、神が「主の名をもって呼ばれている神の民」と共におられることを望んだのです。しかし、それは単にイスラエルの民だけに限られることではありませんでした。他民族が神殿に来て主を認め、謙遜に祈る時、彼らも受け入れてくださる、異邦への主の救いの象徴としてもしようとしたのです。 神殿で祈る時、神は祈る者を助け、癒してくださると約束されました。しかし、残念なことに現代のエルサレムに神殿はありません。西暦70年にローマ軍によって破壊されました。それでは、神殿の新約時代に、私たちはどうすれば良いでしょうか?単刀直入に 旧約聖書の神殿は、新約のイエス・キリストを意味する重要な象徴であります。これは新約聖書からも知ることが出来ます。『イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。』(ヨハネ2:19-21)旧約の神殿は、神がご自分の民と会ってくださる場所でした。神の民も、神を認める異邦人も、この神殿で神の御前で祈ることが許されたのです。そして、新約時代はキリストにあって神に会い、祈ることが出来ます。もちろん、イエス・キリストは建物ではありません。しかし、この旧約の神殿のようにイエスを通じて、私たちの祈りが神に捧げられるのです。神殿は祈りの家でした。そして、 現代においては、神が神殿として認めてくださったイエス・キリストの、御名によって祈ることが出来るようになりました。私たちが祈りを終える時、いつも「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と唱えることには、このような意味があるからです。昔の神の民は神殿で祈りました。つまり、私たちは新約の真の神殿であるイエス・キリストにあって祈るべきということです。別の名を通じては、私たちの祈りが父なる神に届くことが出来ません。神が「私の名をもって呼ばれている私の民」と言われた部分を記憶したいと思います。私たちが神にいただいたその名、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは、あの旧約の神殿での神の民の祈りのように神にささげられるのです。 2.祈りは調律。 今日の新約本文は、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださる前の物語です。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)イエスの時代には、ラビや宗教指導者が広場や神殿の庭で他者に目立つように大声で祈る場合があったと言われます。そのような祈りを通して、「私はこんなに素晴らしい祈りをする。律法についてよく知らない君たちより、私の方がはるかに正しい人である。私は君たちとは違う。」ということを見せて、自分の義を自慢するためでした。しかし、イエスは、むしろ小部屋に入ってひそかに祈ることを命じられました。祈りは他者に見せるために、あるいは自分自身の欲望を満たすためのものではありません。 祈りは調律です。演奏者は、演奏の前に基準音に合わせて調律をします。オーケストラの公演に行くと、公演を始める前に、オーボエ奏者が『ラ音』を出すそうです。この音に合わせて全ての楽器は調律します。これが基準音です。祈りは、神の基準音、すなわち、神の御心に信徒が自分の基準を合わせる行為です。祈りを通して神の御心を基準音とし、それに従って生きていくということです。ですので、私たちは、調律の祈りをするべきです。自分自身の欲望と罪を神の御前で抑え切って、神の御心に沿って行くことを求める行為です。だから、自分の願いを叶えようとする意図だけでは、完全な祈りを捧げることは出来ません。もちろん、私たちは、経済、子供、健康、人間関係のために祈る必要があると思います。しかし、その祈りは私たちの弱さを告白する祈りとなる必要があります。自分が金持ちになり、権力者になって、欲を満たす祈りではなく、自分の祈りを通して、経済、子供、健康、人間関係への自分の弱さを告白するということです。叶えてくださるにせよ、拒まれるにせよ、神に自分の事情を打ち明けることが大事だということです。そして、神が与えられるお答えに応じて、願いが叶っても感謝し、叶わなくても感謝することが重要です。そして、そのような祈りの中で最も重要なことは、神の御心とは何かを悟り、それに自分の心を共に重ねていくことです。イエスはこのような調律としての祈りを強調されたのです。 3.主イエスの御名によって祈る。 神はイエス・キリストを現代の神殿にしてくださいました。私たちが主イエスの名によって祈る時、その祈りを聞いてくださいます。この会堂は神殿ではありません。ただ建物に過ぎないのです。この会堂が無くても、私たちは公園で礼拝することが出来ます。志免教会の始まりは、この会堂ではなく、家庭礼拝からでした。誰かの家での集いも主イエスによって教会になるということでしょう。主の御名によって集まる所が教会そのものだからです。しかし、神がくださった真の神殿であるイエスの御名がなければ、私たちの祈りは、御父に届くことが出来ません。また祈りは神の御心に自分の心を合わせていく行動です。主イエスが父なる神の御心に合わせて、ご自分の命を捧げられたように、祈りは自分のことを神の御心に合わせる行為なのです。神が望んでおられることを自分の基準にし、それに合わせることです。その基準に合わせて、神は私たちの願いを叶えられるか拒まれるのです。しかし、その神の御心に従って叶っても感謝、叶わなくても感謝する成熟した信仰を持っている私たちになりましょう。 イエス・キリストの名によって祈りましょう。そして、その祈りを自分の欲望と必要だけのためにではなく、神の御心とは何か?自分がどのように神の御心に気づいて行くべきだろうかのために祈りましょう。『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイ6:8)神は、すでに私たちの必要を知っておられる方です。神の御心に合わせて、私たちに必要な祈りを聞かれ、その願いを叶えてくださると信じます。しかし、時には、自分の思いが神の御心に合わない場合、拒まれるかも知れません。それでも絶望せず、神の正しさを信じて従って行きましょう。神は、主の民を愛しておられます。神は、主の民が最も良い道に行くことを望んでおられます。私たちに良いものを与えてくださる神を信じて、何のために祈って行くべきかについて、毎日、主に伺って行きましょう。その時、神は私たちに最も必要なものを喜んで答えてくださるのでしょう。 締め括り 今後の祈りを通して、私たちの人生を通して、神が許されたイエス・キリストの御名によって、神に自分を捧げて、神の御心に自分を合わせて、へりくだって真実な祈りを捧げる志免教会になっていきましょう。常に神の御心に聞き従い、その御心を私たちの基準として生きていく志免教会になることを祈り願います。

ベトザタの奇跡

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 1.慈しみの家 – ベトザタ。 ベトザタとはイエスの時代、当時のユダヤ人たちが使っていた大規模の貯水槽で、このベトザタには、病院のような施設がありました。その意味は「慈しみの家」でした。病人の治療にきれいな水が必要だったので、大きい貯水槽があったわけです。そのベトザタには不思議な噂がありました。今日の本文を読むと3節の次に4節がありません。ヨハネの福音書の最後に、その4節の言葉があります。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』これは、最初に記されたヨハネによる福音書には無かったのですが、後で加えられたと知られています。「後で」といっても、大昔のことですので、聖書としての権威はあります。 ベトザタには主の御使いが、時々水を動かすという噂があり、その水が動いた直後に入る人には、どのような病気でも癒される奇跡があったようです。これが本当か噂かは分かりませんが、大勢の人々が自分の病気を癒すために、そこに集まっていたのは事実でした。その中には、今日の本文の38年間の病人もいました。この話を聞くと、欠けた箇所の 『主の使い』という表現が気になります。愛の主がなぜ、こんなにけちをしていたでしょうか。ベトザタは「慈しみの家」なのに、なぜ皆を治してくれず、一番だけを治したのでしょうか、人々に虚しい希望を与える主なんて、本当に神だったでしょうか。それでギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書では『主の』の部分が一冊も無く、英語聖書ではあるのもあり、ないものもありました。おそらく、『主の』という表現は原文を翻訳する時の誤解によるものだったかもしれません。 イエスの時代のエルサレムはローマ帝国の植民地としてギリシャ、ローマの宗教と文化も混ざっている場所でした。イエスの当時のミシュナーというユダヤの文献によると、このべトザタはローマの神々のための場所だったと言われます。古代のアスクレピオスという神はギリシャ、ローマの医術の神でした。ところで、近代の考古学者たちによって、このアスクレピオスと思われる像が、べトザタの跡で見つけられたのです。べトザタは慈しみの家でしたが、その慈しみは、私たちが信じる三位一体の神の慈しみではなく、ローマの神々の慈しみだったかもしれません。病人たちは、この異邦の神の使いが、水を動かしてくれると信じていたわけです。慈しみの家という名の場所で、わずか一人のみに施されるケチな慈しみを待ち望みつつ、一生を過ごした病人たち。実際にローマの神の使いが来て、水を動かしたかどうかは分かりませんが、人々は病気からの自由を望んで、一生偽りの神を待っていました。その偽りの神による自由は、非常に限定的で、競争的だったのです。それは一番だけへの慈しみでした。 2.ベトザタの束縛された者。 ベトザタの病人たちは、イエスの時代の最もどん底に束縛されている弱者でした。その時、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。ダビデの子孫、ユダ系列の人ではなく、異民族出身のヘロデ王家に支配されており、彼らの権力でさえも、ローマ帝国によるものでした。宗教も純粋さを失っていました。イスラエルの神からの託宣は現れず、ユダヤ教の宗教指導者たちの富と力と誉れのための宗教でした。社会も、純粋ではなかったのです。お金持ちはさらに富み、貧乏者はますます貧しくなりました。イスラエルは孤児や寡婦のようになっていました。それだけに病人や障害者は、さらに疎外され、呪われたと蔑視されていました。そんな彼らには真の慰めと自由と慈しみが必要でした。権力者が彼らに興味がなかったことは言うまでもありません。極めて弱い彼らに何の助けもありませんでした。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きるに決まっていました。 彼らは二つの束縛に置かれていました。一つは一番でない限り、抜け出せない社会的な束縛でした。病気によって苦しんでいる者が治るためには、まず水に入らなければならないという前提がありました。スリを働く途中、けがをした人が足早に水に入ると治されたということです。暴力を振ってけがをした人も、先に入ると癒されたということです。しかし、生まれつき足が不自由な人、気の毒な事故によって盲人になった本当の弱い者は治されなかったということです。いくら悪人でも一番なら、治されるシステムでした。社会は本当の弱者のために何もしてくれませんでした。ただ噂を信じろという傍観と、偽りの神への信仰の強要だけで、何の希望も与えなかったのです。 また、宗教的、文化的な束縛もありました。38年もなった病人が、イエスに癒されても、ユダヤ人たちは祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分たちの教理を突きつけ、『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と無慈悲な対応だけでした。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸せは何の意味もなかったのです。苦しむ病人の回復なんて大事ではなく、ただ彼らに重要なのは、自分たちの既得権だけでした。彼らはむしろ、弱者を助け、治されたイエスを迫害しました。正しくない世で、何の慰めも得られなかった弱者の命を、誰も大切に扱っていなかったということです。ベトザタの束縛は、ただの個人の問題ではなく、社会の問題であり、束縛でありました。ベトザタの病人は、そのような束縛から絶対に逃れない存在でした。 3.ベトザタの解放者。 そんなに地獄のような現実、一番だけに機会が与えられるベトザタの池、そして、そのべトザタの池の不条理から目をそらした指導者たち、そこから抜け出しても、情けの無い基準をあげて判断し、非難した宗教人たち。もはやベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化の地獄のような所だったかも知れません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように見捨て、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておくゴミ箱だったかも知れません。そこは慈しみも、公平さも、希望も無い墓のような所でした。しかし、そこに神の御子が臨まれました。皆が高い所、明るい所に憧れたとき、主イエスは、誰も注目しない最も低い所、暗い所、ベトザタおられたのです。 そして、どうしても一番になれない38年の病人に手を差し出されました。『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。』(ヨハネ5:6)イスラエルのゴミ箱のような低いところに臨まれたイエスは、その中でも一番弱い者に注目されたのです。そして言われました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は治されることを求めませんでした。ただ、自分の惨めさを告白するだけでした。誰も自分を助けてくれなかったことを話しています。すると、イエスは彼の話をお聞きになり、最も低いところで苦しんでいた彼を治してくださいました。その時、彼は38年の長くて苦い病気から自由、ベトザタという一番だけを覚える地獄から解放されました。政治、社会、宗教、文化から見捨てられた人が、イエス・キリストの慈しみによって新しい人生を始めるようになったのです。  しかし、彼の回復を、人々は喜んでくれなかったのです。むしろ安息日に律法を犯したと叱りました。誰が安息日にそのようにしたのかと問いただしてイエスを迫害し、殺そうとします。しかし、イエスは言われました。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』(ヨハネ5:17)いくら世の不条理と悪が暴れても、イエスは堂々と言われました。「君たちがいくら暴れても、私は私の父が今もなお働かれるように働く。」イエス・キリストは、束縛と抑圧の下で苦しんでいる人を、ご自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、ご自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛されている者を、喜んで回復させたイエス・キリストを通して、神の真の慈しみが、その日、ベトザタに臨んだのです。最も低いところで、いつも働いておられた神の豊かな恵みが主イエスを通して、その地に臨んだのです。 締め括り 今日の旧約本文はメシアの働きを示す箇所です。国を失って束縛の中で苦難を受けたイスラエルに神は言われました。『彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、湧き出る水のほとりのような自由へ導かれるということです。そういう意味で、メシアとして来られるイエス・キリストは解放者です。イエスは、罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる、真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きることが出来る真の自由です。そのような人間らしい生活を施すために、イエス・キリストは遣わされたのです。このイエスを信じる私たちの在り方について、どう生きるべきなのかについて今日の本文は問うているのです。

なぜ、ベテルなのか

創世記35章1-7節(旧59頁) ヨハネの黙示録2章4-5節(新453頁) 前置き ヤコブは創世記32章で、神にイスラエルという新しい名前をいただきました。それによって、彼はもはや過去のような、騙して奪いとる存在ではなく、神と共に歩む人生を生きなければならない存在となりました。しかし、彼の人生はそう簡単には変わりませんでした。神の恵みによって兄エサウとの問題が解決されるやいなや、ヤコブは神の望まれるところではなく、自分の目で見て好むところに行ってしまったからです。兄との問題で恐れ戦いていた時は、神に寄りかかって離さなかったのに、神が問題を解決してくださると、彼は神の御心ではなく再び自分の思いのままに振舞ってしまったのです。前回の説教では、それをイスラエル的な人生ではなく、ヤコブ的な人生に戻ってしまったと表現しました。そしてその結果、創世記34章で、ヤコブはあまりにも悲惨な状況に置かれてしまいます。そんな彼に神は再び現れ「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。」と言われました。なぜ、神はヤコブをベテルに呼び出されたのでしょうか?今日の物語を通じて、キリスト者の人生と神の導きについて話してみたいと思います。 1.34章のあらすじ-惨めで残酷な人間たちの物語。 まず、33章後半と34章全体のあらすじを話してみましょう。33章で兄と再会したヤコブは、幸いにも兄と円満に和解することができました。エサウはヤコブの家族と群をエスコートして自分の場所であるセイルに一緒に行こうとしましたが、ヤコブはいろいろな言い訳をし、嘘までついて兄をセイルに行かせました。(33:12-16) そして彼は兄の家とまったく違う方向であるシケムの町に向かいました。(ヤコブとエサウが再会した場所からセイルは南、シケムは西)当時シケムは、その地域の商業、宗教、政治の中心地である大きな町でした。ヤコブは、その近くに自分の天幕を張って、その土地の一部をシケムの父ハモルの息子たちから買い取りました。ここで、土地を買い取ったのは、そこに長く留まるつもりだったという意味です。ヤコブは若い頃、パダン・アラムに向かう時、神に誓願を立てたのに(28:20-22) ベテルに帰らず、自分の目に良く映ったシケムの町に長く留まるために土地を買ったのです。そして自分勝手に祭壇を築き、「神はイスラエルの神」という意味の「エル・エロヘ・イスラエル」と呼びました。(33:17-20) 絶体絶命の瞬間にしばらく神に頼るようになっていたヤコブは、危機が消えると、すべて忘れたかのように、神の御心ではなく、自分の思い通りに生き始めたのです。彼は神によってイスラエルと呼ばれる存在となりましたが、全くイスラエルらしく生きなかったのです。 ところで、34章からヤコブの家に問題が生じ始めます。ある日、ヤコブの一番目の妻であるレアから生まれた娘ディナが、その土地の娘たちを見に出かけました。(34:1会いに行くではなく、見に行くの方が原文に忠実)ここで「その土地の娘たち」という表現にも「見に行く」という表現にも、神とは関係ない存在、神の御心に適わない行為のニュアンスが含まれています。そして、彼女はシケムの町の族長ハモルの息子であるシケムに強制的に辱められました。(34:2) それを聞いたヤコブは、愛していないレアが生んだ娘だったからか、彼女のために真剣な対応をしませんでした。ただ牧畜をしている息子たちが帰ってくるのを待つだけでした。(34:5)その後、息子たちが帰ってきた時、彼らは非常に嘆き憤りました。(34:7) ディナを恋い慕うようになったシケムは、父ハモルを通じて、ヤコブの息子たちにディナを嫁としてくれと言いました。するとヤコブの息子たちは「割礼を受けていない男に、妹を妻として与えることはできません。そのようなことは我々の恥とするところです。」と言い、その提案を断りました。(34:14)すると、ハモルとシケムは町の人々と話し合い、割礼をすることにしました。しかし、シケムがディナと結婚しようとする理由も割り切れません。もちろん、シケムがディナを恋するようになったのは事実のようです。しかし、この結婚を通じて、ヤコブの家族と併合し、その財産を自分の部族に吸収しようとする純粋ではない思いもあったようです。(34:20-25) 三日後、シケムの男たちが割礼の痛さのため、何も出来ない時、ヤコブとレアの息子たちであり、ディナの実の兄たちであるシメオンとレビはめいめい剣を取ってセゲムを奇襲し、男たちをことごとく剣で殺し、シケムを略奪しました。神と民の聖なる契約を意味する割礼を敵を討つための殺人の手段として使ったのです。彼らは家畜と財物を奪い、子供と女性たちを捕らえました。(34:35以下)この話を聞いたヤコブは「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」と言いました。ヤコブはこのような状況の中でも息子たちの罪と、娘の傷には一切触れずに、ただ自分と家族(おそらく、ラケルとヨセフ)の安全だけを心配していたのです。結局、このすべての残酷な出来事は、ヤコブがシケムに行って生じたことであり、ヤコブがエサウのために感じた恐怖よりも、はるかに深刻な結果として襲ってきました。34章をよく読んでみると、「神、主」などの表現が一つもないことが分かります。つまり、34章は神と全く関係のない人生を生きていたヤコブと、その家の問題、そして神のない人生の罪と悲惨さをよく示しているのです。もし、ヤコブが神との約束を記憶してベテルに行ったとすれば、イスラエルになったヤコブが家族を信仰の道にただしく導いたとすれば、こういうことはなかったでしょう。神の民が、神なき人生を生きる時、彼の人生には悲惨さと残酷さが残るだけです。 2.ベテル-お待ちくださり、お呼びくださる神 35章に入って、神はヤコブが直面している最悪の状況をご覧になり、すぐヤコブに仰せになりました。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(35:1) ベテルという場所は、神が祖父アブラハムと父イサクの神ではなく、ヤコブ自身の神としてヤコブと出会ってくださったところなのです。彼にとって自分の家族の神、自分の知り合いの神ではなく、まさに自分自身の神になってくださったところだったということです。「彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 13見よ、主が傍らに立って言われた。」(創世記28:12-13) ヤコブがどんな人生を生きてきたのか、どんな性格の人間なのか、そのような条件による選びではなく、全能なる神が一方的な恵みでヤコブに現れ、彼と一緒に歩むヤコブの神になってくださった場所です。そして、そこはヤコブ自身が神への誓願のために再び戻ってくると約束したところでもあります。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(創世記28:20-22) たとえ、当時のヤコブが「主がわたしの神となられるなら」という条件的な表現で話したとしても、すでに祖父アブラハムの時からヤコブをお選びくださった神は、ベテルでのヤコブの誓願を記憶され、ヤコブの神として彼の全生涯の中でいつも一緒にいてくださったのです。創世記34章では、神という表現が一度も出てこなかったように、創世記34章でのヤコブは神のない人生の極みを見せてくれました。神にイスラエルと呼ばれるようになったにもかかわらず、彼の人生は依然として神のない人生だったのです。しかし、それにもかかわらず神は彼の歩みを一瞬も見逃されず、彼に神が最も必要な時に現れ、最も正しくて安全な道に彼を導いてくださったのです。ヤコブの娘は神のない世の中の歓楽に憧れ、ヤコブの息子たちは世の中の人々でさえやらないような残酷な虐殺と略奪を犯してしまいました。ヤコブ自身も神の民という自分の立場を知っているにもかかわらず、神を無視して自分の思い通りに生きようとしました。もし神が当時のカナン人が崇拝していた異邦の神々のような存在だったら、ヤコブは悲惨に最後を迎えることになったでしょう。しかし、神は機会をくださり、ヤコブと家族が生きる道を教えてくださいました。それは「ベテルに上ること」でした。 「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」(創世記35:2-3) その時やっとヤコブは神の御心に気づき、自分の家族が持っていた不浄な偶像崇拝の道具を捨てさせ、悔い改めさせて自分が若い頃に誓願したベテルの神に向かって進み始めました。ベテルに上るということは、神のない人生を辞めるという意味です。ベテルに上るということは、自分の罪を神に告白し悔い改めるという意味です。ベテルに上るということは、ひとえに神のみを自分の主と認め、お導きに自分の人生を委ねるという意味です。ベテルに上るということは、初めて神に出会った時、神にいただいた恵みを憶え、追い求めて生きていくという意味です。神はベテルという最初の約束の場所から、少しも離れられずにヤコブを守りつつずっと待っておられたのです。「こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。ヤコブはやがて、… ベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。」(創世記35:5-7) そして、ヤコブがベテルに着くまで彼の道を守ってくださいました。 締め括り 「あなたは今シケムに立っているか?ベテルに立っているか?」今日の本文は私たちにこう問うています。個人の差があるでしょうが、神様は各々の民に相応しい方法で出会ってくださいます。ある人とは静かに、またある人とは激しく出会ってくださいます。しかし、共通点は神がイエス•キリストを通して私たちの神になってくださるということです。神との初めての出会い以後、世の中に出ると神と遠ざかったり、神を忘れたりする場合もしばしばあります。そのような人生を生きていれば、私たちは自然に神との初めての出会いを忘れて神のない人生を生きることになりえます。しかし、神は必ずご自分の選ばれた民を憶えられ、また会いに来られます。ただし、神のない人生の中で思いがけない困難に置かれる可能性もあります。そして、その困難によって私たちは神を再び憶え、帰っていくことになります。その時、私たちはシケムではなく、ベテルに足を運ばなければなりません。自分のことを振り返り、悔い改めつつ神に進まなければなりません。もし、そのようなことがあれば、神が待っておられるベテルに上りましょう。主イエスはヨハネの黙示録を通してこう言われました。「悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:5)現代を生きる私たちにとって、ベテルに上るということは悔い改めて主への信仰を回復するということです。自分勝手の生き方から、神の御言葉による生き方に立ち戻るということです。今の自分の人生がうまくいかないと思われるなら、自分の心や行いを顧みてください。自分がシケムに立っているか、ベテルに立っているか、反省しましょう。そして、主の御心とは何か推察しましょう。なぜベテルなのでしょうか。そこに私たちの主がいらっしゃるからです。

神が結び合わせてくださった。

申命記24章1-4節(旧318頁) マルコによる福音書10章1-12節(新80頁) 前置き イエスはマルコによる福音書9章で、神の国においての生き方について教えてくださいました。3人の弟子たちと山の上に登られ、変容した姿を見せられながら、神の御心が人の思いと違うことを示してくださいました。下山の後には弟子たちが追い出せなかった悪霊を追い出され、神の国は口先ではなく信仰の実践によって成り立つということを教えてくださいました。また、自分を低くして他人に仕える者こそ、神の国では本当に偉い者であることを教えてくださいました。最後に他人を排除せず、お互いに理解しあい、仕えあって生きることが神の国の法則であることをも教えてくださいました。神の国を生きるということは、この世の法則とは正反対に行うということを、主イエスは教えてくださったのです。そしてイエスは今日の本文で、この世のやり方とは反対に行く、神の国の法則を結婚という主題を通じて、もう一度教えてくださいました。 1。ファリサイ派の人々が離婚について質問した理由。 今日の本文の冒頭には、イエスを目の敵のように思っていたファリサイ派の人々が、再びイエスを訪ね、主を困らせようと試みる姿が描かれています。「ファリサイ派の人々が近寄って、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうかと尋ねた。イエスを試そうとしたのである。」(マルコ10:2) 当時、結婚と離婚の問題はイスラエル社会において、非常に敏感なことでした。昨年、マルコによる福音書6章の説教でお話ししましたように「ヘロデ・アンティパスとヘロディア」の不正な結婚を戒めた結果、斬首刑で殺された洗礼者ヨハネに関する問題が、世間で話題になっていたからです。ヘロデ・アンティパスは、当時ガリラヤ地域の支配者で、彼はヤコブの兄エサウの子孫でした。そのため、彼はユダヤ系の血を引いた女、つまり兄弟の妻であり、自分の姪であるヘロディアと無理やりに結婚しました。その過程で二人は元の配偶者との離婚を押し切りました。そういうわけで、彼の離婚と結婚について一言でも発言すると、洗礼者ヨハネのように殺される可能性がありました。だから、皆が言動に非常に注意していたはずです。ファリサイ派の人々は、その点を用いて、イエスの見解を悪用しようとしたのかもしれません。今日のファリサイ派の人々の質問は、単なる宗教的な質問ではなかったのです。 ところで、主はファリサイ派の人々が尊敬している、ある人の名前を取り上げられ、彼らの計略に陥れられずに主の見解を示してくださいました。その尊敬する人とは、律法の重要な人物である「モーセ」でした。「イエスは、モーセはあなたたちに何と命じたかと問い返された。」(マルコ10:3) このモーセという名前が出てくるだけで、ファリサイ派の人々はイエスを告発することが出来なくなってしまいました。モーセという名前が出た以上、これは政治の問題ではなく、ユダヤ教の宗教的な問題になるからです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」(マルコ10:4) 主がモーセの命令について問いかけられた時、彼らは申命記24章1-4節の言葉を思い起こしたでしょう。今日の旧約の本文、申命記24章1節をお読みします。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」ここで「恥」とは何でしょうか?ヘブライ語の直訳としては「裸、脱いだ下半身」という意味で、象徴的には「汚れ、恥」を意味します。(創世記9:21裸のノアに使われた表現)つまり、妻にこのような「汚れ、恥」がある場合、律法では「離縁状を書いて、妻を捨てることができる」と記されていたのです。 2。結婚を軽んじる世。 「イエスは言われた。あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(マルコ10:5) しかし、主はこの旧約の言葉の本当の意味について改めて語られました。それは「恥ずべきことを理由に、勝手に妻を捨てても良いという意味ではない。むしろ男たちの頑固さにより、女たちが無分別に捨てられないように、また、女性が新しく嫁げるように、神が特別に配慮してくださったのだ。」という意味なのです。なぜなら、ユダヤ人が考えた「恥ずべきこと」にはとんでもないことが多かったからです。保守的な解釈で、この「恥」という言葉は「妻の性的な堕落」を意味する表現でしょう。しかし、その場合、ユダヤでは石に打たれて死ぬに決まっていました。家から追い出されるくらいの恥は、性的な堕落以外のことだったということです。「ヒレル派」というラビの学派では、この「恥」について、こう解釈したと言われます。「妻との関係で満足がないこと」「妻の料理がおいしくないこと」「妻が隣の妻よりきれいでないこと」つまり、恥ずべきことというのが、夫の気に入らないすべてのことだったという意味です。このように、当時イスラエル社会では、あまりにも簡単に妻が離縁されることが多かったようです。そして追い出された妻たちは、日常生活が不可能になり、結局は本当に堕落して売春につながったりあるいは乞食となったりしたのです。しかし、離縁状がある場合は、また別の人と結婚ができたようです。 それだけでなく、特別な場合は、妻が夫を離れることもあったようです。この場合は権力と財産のある富裕層の女性たちにあったと言われます。ローマの詩人であるデキムス・ユニウス・ユウェナリスという人のある詩には、このような語句があると言われます。「前々に合意したでしょう。あなたはあなたの好きなことを、私は私の好きなことをしても良いと。」ここで、好きなこととは自由な性生活のことです。このように、ローマの裕福な女性たちの間では、自由な婚外の性関係、夫の浮気に合わせて自分も浮気をすることが少なくなかったと言われます。おそらく、ヘロデ・アンティパスと再婚するために元夫と離婚したヘロディアも、このようなローマの文化の影響を受けたのかもしれません。いずれにせよ、ローマ時代にも現代人の考えを超える奇想天外なことがあったようです。男が妻を追い出そうが、裕福な女が不倫をしようが、このような姿は主イエスにおいて、神の創造の摂理と合わないものでした。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9) 神は離婚を許されなかったのですが、世の中は結婚と離婚をあまりにも軽んじていたのです。 3。離婚が問題ではなく、離婚をもたらす人の罪が問題だ。 人生において、結婚の重要性は、言うまでもないことです。しかし、生きながらやむを得ず、離婚しなければならない場合もあります。結婚10年目に、自分が同性愛者だと打ち明けた夫に離婚された人、妻の不倫によって離婚された人、配偶者の過度なかけ事や株式投資、事業拡張による金銭的な問題のため離婚した人、配偶者の暴力によって離婚した人など、実際に残念な事情を持った人が少なくありません。このように配偶者の過ちによって離婚される場合まで、罪に定めることは現実的に無理だと思います。しかし、家庭をまともに守らない者、浮気で配偶者を捨てる者、配偶者に暴力を振るう者、結婚を軽んじる者、自身の欲望を理由に家庭を壊し、離婚にまで至らせる者は、明らかに罪を犯した者で、神に判断されるでしょう。結婚は大事なものです。神はこの世での人間の歴史をアダムとエヴァという男と女の結婚から始められました。神は夫婦を一心同体として召されました。だから、主はこう言われたわけです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 厳密に言えば、今日の主題は離縁についての話ではありません。離婚をもたらす人の罪に対する警告の言葉なのです。わたしたちの教会の場合、50年近くの結婚生活を続けてきた方々がおられます。今までのように、これからも配偶者を愛し、幸せに過ごしてください。やむなく独身でおられる方々も、今後の神の計画がどうなるか分からないので、まず今の周りの人々を大事にして過ごしていきましょう。いつも配偶者の立場から考えて生きましょう。配偶者は神がくださった最も近い隣人です。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(Ⅱコリント11:2) パウロはコリント教会への自身の伝道について、純潔な花嫁を花婿であるキリストに婚約させたことと表現しました。つまり教会は妻であり、キリストは夫であるということです。主イエスはご自分の花嫁である教会のために命を捧げられました。また、歴史上の教会は時々堕落したとしても、必ず夫であるキリストに立ち戻りました。このような主と教会の関係に照らして、夫婦は最後まで互いを見捨ててはならず、愛によって生きるべきです。それがまさに夫婦に向けた神の御心なのです。 教師の働きを始めてから10年が経ちました。この10年間、未信者の主人と結婚した女性信徒さんたちと数多く会ってきました。志免教会にもご主人が教会に通っていない方がおられます。しかし、クリスチャン・ホームでないからといって、あまり失望しないでください。実はその結婚も神が結び合わせてくださった関係だからです。その中で、配偶者に仕え、信仰を守って生きる皆さんの姿を、神はきっと喜ばれるでしょう。自分に許された結婚を大事にして、配偶者を愛することが主の御心であることを忘れないようにしましょう。今日の主題は簡単明瞭です。主がお許しになった結婚を自分の使命と考え、大事にして生きる時、主は褒めてくださるでしょう。そのような生活の中で教会をご自分の花嫁のように守ってくださるイエス•キリストの愛を見つけたいと思います。そして、そのような人生が、この地上において神の国を生きる聖徒の人生の一部分であると信じます。今週も神様の恩恵が志免教会の歩みと共にあることを祈ります。

イスラエルとなったヤコブ、しかし

創世記33章1-20節(旧56頁) 前置き 前回の創世記32章の説教では、故郷に帰るヤコブの姿が描かれました。 20年間の奴隷のような生活を終えたヤコブは、神の恵みによって老獪(ろうかい)なラバンに財産を奪われることなく無事に故郷に帰ることができました。しかし、ヤコブには依然として心配がありました。それは20年前、兄に犯した過ちに対する恐怖でした。全能なる神がすべてを備えられて故郷に帰れと命令されたのに、ヤコブは神の導きより、兄の報復をより恐れていたわけです。神はそのようなヤコブにご自分の御使いを遣わされ、夜通し格闘をさせられました。つまり、神がヤコブと格闘されたということです。夜明け頃、神はヤコブを祝福し、これからヤコブではなくイスラエルであると新たに名付けてくださいました。その出来事を通じてヤコブは神が自分と一緒におられることを悟ったのです。ヤコブはその出来事を「主の顔を見たこと」のように思い、神と闘った場所を「ペヌエル」すなわち「神の顔」と名付けました。 1.神との格闘-祈り 前回の説教の内容について、もう少し話してから、今日の本文に入りたいと思います。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」(創世記32:24) 神は民と格闘をされる方です。前回の説教で格闘と訳されたヘブライ語は「レスリング」のような力比べのイメージを持っていると話しました。倒れそうで倒れない、互いに制圧しあい、力を競うかのような模様が、まさにヤコブと神の御使いがした格闘のイメージなのです。これによって、私たちは神がご自分の民と力比べをする方であることが分かります。現代のキリスト者にとって、神との力比べとはどういう意味でしょうか。それは単刀直入に言えば祈りです。なぜ全能なる神が、まるで力比べをするかのように民と祈りという格闘をされるのでしょうか。ヤコブが兄のゆえに思い煩う時、御使いを遣わされ「すべてのことを私に任せ。君は恐れずに故郷に帰れ!」と一言だけ通報してくださったら、ヤコブも気楽に帰郷したのではないでしょうか。それがより効率的ではないでしょうか。考えてみたら、私たちの人生にもこんなことが少なからずあります。 私たちの家庭や職場に困難なことが生じて切実に祈る時、主が一言だけ答えてくださればよさそうですが、事実、そういうことはありません。牧師に相談しても「一緒に祈りましょう。」という答えが全てです。 一体、神はなぜ速やかな答えではなく、祈りという遠回りを選ばれるのでしょうか? それは神がご自分の民を尊重される方だからです。 神学校時代に「聖霊論」という授業を受けた時の教授の話が思い起こされます。「聖霊は聖なる恥ずかしさで働かれる方である。」聖霊なる神が恥ずかしがるなんて一体どういう意味でしょうか? それは神が全能者だからといって独善的に支配されないということ、ご自分の民への礼を失されず、尊重してくださるという意味でした。神は民の人生と選びが無理やりに侵されないように慎重にその人生に介入される方です。民を束縛して、勝手に引っ張る暴君のような方ではありません。むしろ祈りという力比べによって少しずつ、しかし、変わることなく一緒に歩んで行かれる方なのです。ヤコブの人生には愚かなことがたくさんありました。また、私たちの人生にも愚かなことが少なくないと思います。しかし、主は絶対に無理やりに民を引っ張られる方ではありません。力比べのように長い祈りを通じて、悟らせて導かれる方です。 「引っ張っていく」のではなく「導いていく」のです。  ですから、お祈りの回答がすぐに出なくても挫折したり失望したりしないでください。神は私たちの祈りの中で私たちのすべての願いを聞いておられるからです。 2.イスラエルとなったヤコブ、しかし…。 しかし、そういうわけで、問題も生じえます。それは神からの問題ではなく、人間からの問題です。神が祈りという力比べを通して少しずつ変えて行かれるため、人間が神の御心に気づくことが出来ず、自分の思い通りにしようとすることです。今日のヤコブがそうでした。「ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った…ヤコブは…カナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。」(17-20) 兄のことで心配していたヤコブは、神との格闘の後に兄と再会することになりました。創世記32章7節によると「使いの者はヤコブのところに帰って来て、兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございますと報告した。」と記されています。エサウがヤコブを「迎える」ために来ていたということです。ここで「迎える」という表現は「カラ」というヘブライ語で「軍事的遭遇」というニュアンスの意味も持っています。日本語では優しいニュアンスに見えるかもしれませんが、原語的にはその意味が曖昧なのです。しかし、神と夜通し格闘をしたヤコブは、最終的に兄と和解することで終わることが出来ました。それは、格闘のような祈りの結果だったのです。 ここまでは本当に良かったと思います。兄との再会という絶体絶命の危機の中で、神と闘ったヤコブが主にいただいた力と恵みで兄との関係を円満に解決したからです。ところで、これくらいになったら、神に感謝し、神の御心を聞き、従順に従うべきなのに、ヤコブは兄の招きを避けるために嘘をつき、またベテルで神に帰るという創世記28章の約束を破り、異邦人のシケム(当時異邦人の大きい町)へ行きました。神と祈りの力比べをして主の答えも受けたヤコブですが、問題が解決されるやいなや、再び自分勝手な生き方に戻ってしまったのです。今日の説教のタイトルは「イスラエルとなったヤコブ、しかし」です。それでは「しかし」の後に私は何を言いたかったでしょうか?「再びヤコブになってしまったヤコブ」なのです。信仰とはもともと波のようなものです。上がる時があれば、降りる時もあり、降りる時があれば、また上がる時もあるものです。ところで、上がるのは良いのですが、なぜまた降りてしまうのでしょうか?神が恵みを与えて引き上げて下さっても、また降りてしまう理由は、人間に罪の性質が残っているからです。使徒パウロは言いました。「自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(第一コリント9:27) 彼の言葉のように罪を制御しない限り、人は再び罪の中に飛び込んでしまうからです。 3.目的地はシケムではなく、ベテル。 皆さん、信仰が成長したと感じられる時が、一番つまづきやすいものです。ヤコブがイスラエルとなったからといって、すべてが終わったわけではありません。私たちがこの地上での人生を完全に終えて神に召される時まで、私たちの信仰はいつも現在進行中のさまです。私たちはいつも同じ罪によってつまづいたり弱くなったりするでしょう。私たちはイエス•キリストによって新約の新しいイスラエルとなりました。それは主イエスの恵みと救いによるものです。しかし、依然として私たちにはヤコブの性質が残っていることを忘れてはいけません。イエスによってキリスト者となり、主の義によって私たちも義と神に見なされた存在ですが、私たちに罪の性質があることを謙虚に受け入れ、どのように生きていくべきか、常に顧みて生きなければならないでしょう。神が信者から罪を完全に取り去られなかった理由は、神の力が弱いからではありません。その罪に気づき、自分の限界を見つけ、主だけに頼って生きさせられるためです。だから新約のイスラエル、つまりキリスト者となったからといって気を緩めてはなりません。常に自分自身を振り返り、自分の罪を悔い改め、主の御心を察して、正しい道に向かって生きていきましょう。イスラエルではなく、ヤコブの道を選んでしまったヤコブに、次の本文では大きな困難が近づいてきます。 そして、ヤコブには、主なる神とのまた違う力比べの格闘が近づいてきています。次の説教の内容をあらかじめお話しますが、ヤコブの娘ディナはシケムの首長の息子に強引に犯されました。怒ったヤコブの息子たちはシケムの人々を虐殺します。瞬く間にヤコブの家族は、その地方で危険な存在と目されてしまいます。ヤコブの人生は再び風前の灯火のようになります。そして彼はまた神の前に進むことになります。自分がパダン・アラムに向かった時、夢の中で神と出会った所、ベテルに立ち戻り、神の御前に悔い改めることになります。神は彼を再び祈りの場、神との力比べの場に呼び出してベテルへと導かれたのです。今の時代を生きていく私たちにとって、ベテルとはどういう意味を持つでしょうか。神の御心に従う人生を意味します。自分の欲望と思いをやめ、神の道に進む人生こそが、私たちにとってベテルに行く道であるのです。キリストにならって、その方と一緒に歩む人生こそが、まさにベテルに赴く人生なのです。しかし、私たちが自分の欲望と思いのため、神に従順に聞き従わない時、また罪の道に入ってしまう時、主なる神は再び、ご自分の民を力比べつまり祈りの場に呼び出されるでしょう。そのような霊的な訓練を通じて、主は民が気づくまで、民を導いていかれるでしょう。ベテルではなくシケムに向かう人生に神との格闘は続くでしょう。そして結局、民は厳しい格闘の末に悟り、正しい主の道に向かうことになるでしょう。 締め括り ヤコブはイスラエルとなりましたが、再びヤコブの人生に向かってしまいました。旧約聖書の偉大な先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブは、皆完璧な聖者ではなかったのです。実はキリスト以外に聖書に完全な人はいませんでした。皆が罪人だったからです。しかし、神は選ばれた民を決して御捨てられず、格闘の場、祈りの場に呼び出され、彼らを訓練させ、最後まで導いてくださいました。ドルト信仰基準という改革教会の教理には「聖徒の永遠堅持」という概念があります。それは、神が一度お選びになった、ご自分の民の信仰がいくら弱くても決して御捨てられず、救いに至るまで堅く守って導いていかれるという意味です。神は一度選ばれた民に罪と愚かさがあっても、絶対にあきらめられない方です。ヤコブのように祈りの格闘を通じて、正しい道に導かれつつ天国に入るまで、民を見守ってくださるのです。私たちはイスラエルよりヤコブに近い本性の存在であるかもしれません。しかし、今日も主なる神はキリストを通して、私たちを義と認めてくださり、祈りの力比べによって導いていかれます。この主を憶え、主の御心に適う人生になりますよう生きていきましょう。今週も主の祝福が豊かにありますように。

団体ではなく全体を。

  聖書朗読 民数記11章24-30節(旧232頁) マルコによる福音書9章38-50節(新80頁) 前置き 前回の説教の主題は、イエスの弟子たちの議論から始まりました。「誰がいちばん偉いか?」という極めて世俗的な議論でした。それで、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、主の民が取るべき生き方を教えてくださいました。この世のやり方は強い者によって左右されます。弱い者は無視され、疎外されます。しかし、イエスが追求する世界は、高い者が低い者に仕え、強い者が弱い者を助けるところです。イエスご自身がいちばん高くて偉い方でしたが、最も低いところの弱い者たちに仕えるためにこの世に来られ、十字架で死んでくださったからです。そういうわけで、主イエスの民において、誰かに仕えることは基本的な生き方なのです。主イエスの御心を承り、自分のことを低くし、他者を高めて仕えることが主イエスの民の生き方なのです。主はそのような者を真の「偉い者」とされ、必ず祝福してくださるでしょう。主の民の中で最も偉い者は低い所の弱い者に仕える人です。それがまさに主イエスの方式なのです。 1。イエスを信じる他の共同体を排除しようとしたヨハネ。 イエスが低いところの弱い者に仕える人こそが、真に「偉い者だ。」と言われるやいなや、弟子ヨハネが言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38) 先ほど、主が弱い人に仕えることこそが、キリスト者の在り方であると言われたにもかかわらず、ヨハネはすぐに他人に仕えるどころか排除するようなニュアンスで話し出したのです。このヨハネという人は、どんな者だったでしょうか。私たちはヨハネによる福音書、ヨハネの手紙、ヨハネが記した啓示録などを通じて「愛の使徒ヨハネ、敬虔な人ヨハネ、啓示の人ヨハネ」などで、彼を思い起しがちかもしれませんが、主の生前のヨハネはかなり偏向的な人だったようです。ルカによる福音書の9章には、このような出来事が記してあります。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。」(ルカ9:54) イエスが十字架を背負われるためにエルサレムに足を運ぼうとされた時、主は先に使いの者をサマリア人の村に送られました。当時、ユダヤ人とサマリア人はそんなに仲が良くない状態でした。ユダヤ人はサマリア人が異邦人との混血民族だからと嫌がり、サマリア人はユダヤ人に差別されていたので、好きになれなかったのです。そういうわけで、サマリア人はユダヤ人の団体だったイエスと弟子たちを受け入れなかったのです。 そこで、憤ったヨハネと彼の兄ヤコブは「私たちが天からの火で彼らを焼き滅ぼしましょうか?」と大胆な発言をしたのです。その時、主は彼らを厳しく戒められました。また、マルコによる福音書の3章17節によると、主はヨハネとヤコブに「雷の子ら」というあだ名を付けてくださいました。それだけにヨハネは非常にタフで、自分と異なる思いの人を排除しようとする性格の人だったのかもしれません。そんな彼がヨハネの手紙Ⅰでは、愛を唱えているので、主の恵みの偉大さがしみじみと感じられてきます。おそらく、ヨハネはイエスのかたわらで一緒にいる自分が偉い人間だと勘違いしていたでしょう。メシアである主イエスがイスラエルの王様になってご支配なさると、自分たちもその左と右とで権力者になるだろうと考え、うぬぼれていたかもしれません。つまり、ヨハネは、自分が正しい者だと思っていたということでしょう。イエスが正しい方だから、自分も正しいと根拠のない自信に満ちていたかもしれません。その結果、彼は自分と違う人を差別し、排除する人物になっていたのかもしれません。以前、他教会で、たくさんの祈りと聖書の学びによって、そうでない人を軽蔑し、差別し、排除しようとする人を目撃したことがありますが、彼は紛れもなく主の御言葉を完全に誤解していたでしょう。低くて弱い者に主のように仕えることこそが、真に正しいキリスト者の生き方であるという主の御言葉を忘れてはならないでしょう。 2.低い者に仕えるということ= 他人を排除しないということ。 そんなヨハネに主は言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(39-40) 偏見と排除のヨハネをなだめるかのように、主は主の御名で悪霊を追い出している者たちを許して良いと言われました。それを聞いてヨハネは恥ずかしかったかもしれません。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41)イエスは一人の存在、一つの団体だけのために来られた方ではありません。時々、キリスト者の中にも、知らず知らず、我が主、我が教会の主、我が教派の主、我が民族と国の主と勘違いをしつつ生きる人もいます。しかし、主はある存在に束縛される方ではありません。むしろ世の万物が主に属しており、誰も主を独り占めすることはできません。また、我が教会だけが真理にあずかっているわけでもありません。主なる神の御言葉を聞いて行うすべての教派が主の真理にあずかっているのです。しかし、あまりにも数多くの教会が自分たちだけが主の真理を持っているかのように振る舞い、他教派は排除しようとする場合があります。結局、同じ三位一体なる神を信じているにもかかわらず、互いに対立しあってしまうのです。   例えば、プロテスタント教会とカトリック教会は、互いに相手を警戒する傾向があります。宗教改革以来、プロテスタント教会とカトリック教会の間には、あまりにも多くの誤解と偏見が積もってきました。それゆえ、今でもカトリック教会に挨拶でもしようと行くと、神父さんが「この人なんで来たんだろう?」と訝しげに見つめます。考えてみれば、こっちからもカトリックの神父さんが来れば「ええ、なんで?」と怪しく思うかもしれません。しかし、教理は少し違っても、結局プロテスタントもカトリックもイエスを救い主として信じることはあまり違いありません。マリア崇拝や煉獄など、理解できない教理ももちろんあるでしょうが、深く掘り下げてみると、彼らなりの理由があるかもしれません。何よりも彼らが救われるかどうかは、私たちではなく、神がご判断なさるべき問題なのです。重要なのは、彼らも教理でイエスを認め、イエスの救いを最も重要視しているということです。(皆さん、誤解はしないでください。カトリック教会のために弁明しているわけではありませんので。)今日の本文の物語が、前回の本文につながっている理由は何でしょうか?ひょっとしたら、低くて弱い者に仕えるという意味は、貧しくて弱い人に仕えることだけでなく、自分と違う存在への配慮と尊重という意味でもあるのではないでしょうか?私たちは自分も知らないうちに、主の御心とは違う排除と偏見とを抱いて生きているかもしれません。しかし、主から私たちに許されたのは排除と偏見ではなく、ひたすら愛と奉仕であるだけなのです。 3. 団体ではなく全体を。 内村鑑三の朝鮮人の弟子に咸錫憲(ハム・ソクホン1901-1989)という神学者がいました。内村の弟子であるだけに、彼も「韓国的無教会主義」を唱えた人です。余談ですが、ここで「無教会主義」を誤解してはいけません。「教会なんていらない」という意味ではなく「信仰の唯一の根本は、教会とその仕来りではなく、聖書の御言葉からのみ」というのが無教会主義の本来の意味です。無教会主義についてはいつかもう一度話す機会があると思います。ところで、この咸という人は自身の著書で「全体と団体」ということについて語りました。「全体は宇宙の根本、すなわち神の意思そのままを反映することであり、団体は利己的な自分という存在たちの集まりに過ぎない。」つまり、彼の主張は「全体」というのは、「神の御心に従う完全な被造物としての共同体的な存在」を意味することであり、「団体」というのは「利己的な自分たちという存在の欲望によって造られた共同体的な存在」ということです。これはあくまでも、咸という人の思想であって、聖書の教えでないので、参考だけにしてください。彼は「全体」を大事に考えました。私たちは時々「全体主義」あるいは「ファシズム」等の表現により「全体」へのネガティブなニュアンスを感じがちだと思いますが、咸が言った「全体」はそれとは距離が遠く、神の御心が成し遂げられる共同体という意味です。 私は、今日の本文を通じて、神学者 咸が語った「全体」について考えてみました。彼の思想を借りて、果たして我が教会は「全体」を目指す共同体であるでしょうか?もし、教会のすべての人々が今日の本文のヨハネのように行動するならば、教会はただの「団体」に過ぎないでしょう。それは主に従う共同体ではなく、利己的な「自分」たちの集まりであるだけです。しかし、私たちが他者を排除せず、むしろ、彼らに仕え、主の御言葉に聞き従って生きていけば、我が教会は神の御心に従うという意味の「全体」としての教会になるでしょう。今日の本文で主は恐ろしい警告をされました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(42)また、主は地獄まで言及されます。(地獄を文字通りに仏教的な地獄として理解するより、主の厳しい裁きとして理解する必要がある。)自分と違う者を排除する者はすなわち他者をつまずかせる者であり、このような者たちは地獄の炎のような恐ろしい裁きを受けるという厳重なご警告をなさったわけです。43-50節が単純に悪い者たちの死後処分を意味するのではなく、前の言葉とつながった内容であるということを憶えておくべきです。私たちが、ただ利己的で、他者を排除し、偏見を持つ「団体」のような存在になってしまったら、主に地獄と表現されるほど恐ろしく叱られるでしょう。また、そうでなく、他者を尊重し、仕える時、私たちは世の塩のような者になるでしょう。 締め括り 最後に今日の旧約の本文に触れて終わりましょう。全部話すと長くなるので手短に触れてみましょう。本文を読めばすぐ理解できると思います。モーセの後継ぎであるヨシュアが、長老の集まりに出かけていないエルダドとメダドにも、神の霊がとどまって預言状態になったのを見て、文句を言うと、モーセは言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(29)ヨシュアは排除を望みましたが、主は皆に主の霊を許してくださったのです。主はすべての者の神です。そして、主に属している者同士は、互いに認めあい、理解しあい、受け入れつつ生きる必要があります。主の民が主の民を愛しあうことが出来なければ、いかにして教会の外の存在を愛することが出来るでしょうか。もちろん、私たちは我が教会、すなわち日本キリスト教会の伝統と教えを大切にしなければなりません。しかし、私たちのものをしっかり守るべきであるだけに、他者のものも尊重して生きていく必要があります。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」この言葉を憶え、他教会、そして、教会内でも兄弟、姉妹への理解と愛を持って生きるとき、真の平和があり、主もそれを喜ばれるでしょう。志免教会が団体ではなく、全体を追い求める教会として、教会内外で愛を成し遂げて生きること祈り願います。

聖霊を通して一緒におられる主。

詩編139章7-10節(旧979頁) ヨハネの手紙一4章13-16節(新445頁) 前置き 今日は聖霊なる神が、この地上に降りてこられたことを記念する聖霊降臨節です。ヨハネによる福音書14章16節によると、イエスは十字架で亡くなられる前夜、最後の晩餐後、ご自身が父のもとへ移られても「弁護者」というまた別の存在を遣わしてくださり、その方が主の民と永遠に一緒にいるようにすると約束されました。また、使徒言行録2章には、イエスの約束どおりに主の民のところに訪れてこられた、この「弁護者」の降臨について記されています。そして、私たちは、この「弁護者」という方が、御父、御子と共に三位一体であられる聖霊なる神であることを、聖書を通じて知り、信じています。「弁護者」聖霊は文字通りに、地上にいる主の民のために弁護してくださる、いわば助け主であります。私たちが感じられなくても、聖霊はいつも私たちと一緒におられ、私たちに信仰を与え、その信仰を守ってくださり、御父と御子を私たちとつなげてくださる方です。御父と御子はこの聖霊を通して、昨日も、今日も、明日も私たちと一緒におられ、私たちを神の恵みへと導いてくださいます。今日は聖霊降臨節を迎え、「弁護者」聖霊について分かち合いたいと思います。 1.なぜ、ペンテコステなのか。 先ほど、私は今日が「聖霊降臨節」だと言いました。しかし、日本の多くの教会では、おもにペンテコステという名称をよく使います。ところで、なぜ「聖霊降臨節」を「ペンテコステ」と言うのでしょうか?まず「ペンテコステ」とはギリシャ語で「50」を意味する表現です。旧約聖書申命記16章16節には「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。」と記録されています。ペンテコステを意味する「50」は、この除酵祭と七週際の間の日数と関係があります。説明が複雑かもしれませんので、週報の裏面に図を載せましたので、ご参照ください。除酵祭は過越祭の翌日から始まる(出エジプトの時の過越祭に神が施してくださった御救いを記念する)一週間の祭りであり、七週際はその除酵祭の初日から7週間目になる日の翌日であります。つまり、七週際は除酵祭の初日から50日になる日なのです。ですから、ペンテコステという言葉はイスラエルの「七週際」をギリシャ語式に表現したものです。そして、聖霊降臨の日が、まさにこの七週際、ペンテコステだったのです。このペンテコステ(七週際)は旧約のイスラエルの祭りで、当時ローマ帝国のあちこちに散らばって暮らしていた多くのユダヤ人たちが、旧約の律法の命令に従ってエルサレムの神殿に出て神の恵みを記念し、感謝する日でした。 使徒言行録2章によると、聖霊はこのペンテコステに降臨されました。そして天から強い炎のように聖霊が降臨され、イエスの弟子たちに臨まれた時、一同は「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と言われます。つまり、聖霊の力によって、自分もわからない、しかし、はっきりとした主イエスの福音を外国語で話すようになったということです。その時、七週際すなわちペンテコステを守るために外から帰ってきたユダヤ人たちは、彼らが話す主の福音を聞いて、自分の罪に気づき、悔い改めてイエスを信じるようになったのです。その時、イエスの弟子の一人であったペトロがほかの弟子たちと立ち上がり、主の御言葉を説教しました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒言行録2:17-18) この日エルサレムでは3000人ほどのユダヤ人たちが洗礼を受け、イエスの民になったと聖書は証言しています。したがって、私たちは便宜のために「ペンテコステ」とは呼びうるでしょうが、その日が聖霊なる神が、キリストによって本格的に主の民に臨まれた「聖霊降臨節」であることを忘れてはいけません。志免教会はなるべく、ペンテコステよりは聖霊降臨節で、この日を記憶し守りたいと思います。 2.聖霊とはだれなのか? ところで、聖霊降臨という呼び方のため、私たちはつい聖霊が新約時代になってから、はじめて地上に来られた方と誤解しやすいです。しかし、聖書はこの聖霊なる神が旧約時代にもおられたことを証ししています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:1-2) 神の霊すなわち聖霊は、創造の前にすでに存在しておられる方でした。「彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ」(出エジプト記35:31) 聖霊は出エジプト時代にも神の民と一緒におられ、知恵と英知と知識を与えてくださる方でした。「霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。」(エゼキエル書11:24) また、聖霊はイスラエルが滅びてしまい他国の捕囚となった時も、いつも一緒におられました。つまり、聖霊は創造の時から常におられる方であり、その民がどんな状況に置かれても、離れられず一緒におられる方だったのです。日本キリスト教会の大信仰問答は、聖霊についてこのように述べています。「聖霊は父と子から出るもの。いずれも本質を共にし、能力と栄光とにおいて等しく」だから、聖霊は全能な神ご自身でいらっしゃるのです。 時々「聖霊を注ぐ」という表現のため、聖霊を人格的な存在ではなく、勢いや力のような非人格的な存在と誤解する場合もありますが、聖霊は父なる神と御子イエスから出られ、この世のすべてを治められる存在であり、御父と御子より劣る存在ではなく、能力と栄光において父、子と同じ本質と権威を持っておられる、明らかな神なのです。聖霊は偉大な三位一体の一つの位格であり、私たちに礼拝と賛美を受けられるべき神なのです。こういうわけで、日本キリスト教会信仰の告白は、聖霊についてこう述べています。「父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊」したがって、私たちは、この聖霊を父なる神と御子イエスのように神として崇めるべきです。日本キリスト教会では「聖霊様」という表現をあまり使っていませんが、実は「聖霊様」という表現は、神学的に何の問題もなく、むしろ聖書の教えに忠実な表現でしょう。しかし、今まで日本キリスト教会が使ってきた表現であるので、「聖霊なる神」という表現をそのまま使って良いでしょう。「聖霊様」であれ、「聖霊なる神」であれ、いずれも良いのです。重要なことは、聖霊は創造の前にもおられ、終末の後にもおられる、無限な御父、御子のように私たちに礼拝と賛美を受けられる偉大な神であるということです。 3.聖霊を通して、私たちと永遠に一緒にいてくださる主。 ところで、今日を生きていく私たちにとって最も重要なことは、イエスがこの聖霊を私たちに「弁護者」として遣わしてくださったということです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ福音書14:16) イエスは人類の最も偉大で完全な救い主であり、先生であったのに、なぜ弁護者という別の存在を遣わそうとされるでしょうか? 主イエスはいつか世を去り、御父のところに帰らなければなりませんでした。イエスは造り主として、この世が始まる前からおられた真の神です。しかし、主はまた罪人たちを導き、その罪人たちの代表者になって御父と和解させるために肉となってこられた完全な人でもあります。ですから、主イエスは完全な神であると同時に完全な人でもある方なのです。ということは、肉体を持った人でもありますので、時空間を超越することはされないという意味です。それは主イエスが全能な方でないという意味でしょうか。いいえ、違います。完全な神であり、完全な人なので、自ら人としてのアイデンティティを守ろうとするという意味なのです。「できない。」わけではなく、「しない。」でしょう。そうしてこそ罪人を代表する肉体を持った人としてあり得るからでしょう。そのため、主は代わりに時空間を超越する霊的な存在を遣わしてくださったのですが、その方がまさに「弁護者」聖霊なのです。 つまり、聖霊は創造の前から常におられた方ですが、イエスの御救いと御導きをこの世で成し遂げるために象徴的に再び降臨されたのです。聖霊はいつもおられた方ですが、人類への主イエスの愛と救いの意志をあずかってもう一度降臨されたということです。旧約時代には多少厳しく感じられる方でもありましたが、今はキリストの御救いによって、主の民に信仰を与え、力を与え、救いを成し遂げ、愛を施してくださるために来られたのです。その一例として、旧約の聖霊は一度民に臨まれても、民の罪によって離れられる場合もありましたが、新約の聖霊は一度民に臨まれると永遠に離れられない方なのです。そして、ご自分の御業を通して父と子とのことを示してくださる方です。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(ヨハネの手紙一4:13) 主は「弁護者 聖霊」である聖霊を通して私たちの内にとどまられ、私たちも「弁護者 聖霊」を通じて主の内にとどまるのです。このように私たちは聖霊によって神と永遠に交わり、主が再び来られる日まで信仰を守りつつ生きることができるのです。聖霊はいつも私たちと一緒におられます。悲しい時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜び、主なる神との歩みが出来るように導いてくださるのです。 締め括り 「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:7-10) 旧約の偉大な人物であるダビデは神が聖霊を通して、いつどこでも一緒にいらっしゃるということを告白しました。新約の聖霊と比べて、旧約の聖霊の方はかなり異なる方式で働いておられたにもかかわらず、ダビデは聖霊の存在をこのように理解したわけです。まして、キリストの愛と救いを通じて、私たちと一緒におられる聖霊は、どれほど恵みと愛と真理とで私たちと一緒におられる方なのでしょうか。聖霊は私たちと常に一緒におられ、神への知識と主への信仰とキリスト者への生の指針を与えてくださる、生ける神なのです。その方によって、私たちは自分の罪に気づき、御言葉を学び、祈りの課題をいただき、主の民として生きていくのです。今日、聖霊降臨節をきっかけにし、この聖霊を憶えつつ生きていきましょう。父と子に比べて、ご自分を表さずにいつも謙遜に働かれる聖霊、その方はいつも私たちを父と子へと導いてくださいます。聖霊の御業を感謝して生きる志免教会になることを心より願います。